津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■割を食うのはいつの時代も下の者

2023-10-24 19:30:14 | 人物

 綱利の初入国は寛文元年(1661)四月廿八日だが、江戸を出立するときから、行列の見事さが江戸っ子の話題に挙がったという。
そのきらびやかさで肥後入国を果たしたが、財政が悪化の一途をたどる中で大いなる非難を浴びた。
その結果江戸御奉行・堀江勘兵衛(2,000石)が知行召し上げとなった。
正史では見受けられないように思うが、堀内傳右衛門の「旦夕覚書」は、沢村大学の養嗣子・沢村宇右衛門の指図であったと指摘している。

 一、初て御入國は拙者十七の時にて未致御目見候 皆とも立田に大勢罷出見物仕申覺申候 後に承候へは
   江戸にても道中にても珍敷結構成る御供行列と申たる由其時の江戸御奉行堀江勘兵衛は先御代より
   千石被下御奉行一人の埒明と申候 江戸御立の御用意に大分御銀入申候 澤村宇右衛門殿差圖の由に
   て熊本の御家老中事の外立腹にて堀江勘兵衛は知行千石被召上四十人扶持被下宇土邊に引籠致病死
   候 堀江は唯今の伊藤又右衛門ゟ母方の伯父かと覺申候 惣躰角力御數寄男すき被成候儀も皆宇右衛
   門殿召れたる様に後々迄十左衛門殿舎人殿なと御咄承候事

 この綱利初入国に際し、筆頭家老・松井興長は病をおして八代から出府している。
そして、綱利の将来を案じながら六月廿八日に死去することになる。前年興長は綱利に対し厳しい諫言を行ったばかりである。
そんな中でのこのような華美な行列への非難は当然であり、当事者への非難は集中したであろう。
しかし、沢村宇右衛門には何の処分もなかったとみられ、堀江勘兵衛が割を食った。
沢村宇右衛門は松井康之の姉の孫・松井二平次の息に当たり、沢村大学の養嗣子となった。
興長からすると従兄弟の子にあたる大事な一族でもあり、家老衆の忖度もあったであろう。
この処分は綱利の江戸への参勤前の事であるから、大事な側近の処分におおいに震え上がった事であったろう。
似たような話で新聞をにぎわす事件はいつの時代にもある。


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■秋の夜長は・・準備の三冊

2023-10-24 16:10:26 | 書籍・読書

秋の夜長の為に本棚から二作品三冊の文庫本を取り出した。

             

(1)勝田龍夫著「重臣たちの昭和史(上)(下)」
  こちらは1984年(昭和59年)7月の第一刷、こんな時期私は昭和史に興味を持っていたようだ。
  著者の妻・美智子は西園寺公望の秘書を務めたクォターの原田熊雄(勲三等・男爵)であり、私はその名前を、細川護貞著の
  「情報天皇に達せず」(細川日記)で知ったからこの本を購入したように記憶している。この本の解説に「この書物は今後な
  がく現代史を理解するための基本資料となるだろう」と書かれているが、昭和の人間としてはどうしても読んでおくべき著書
  だと思って居て、冥途の土産に最後の読書にしたいと思っている。

(2)大宅壮一編「日本のいちばん長い日 運命の八月十五日」
  初版は昭和48年、私が所持しているのは16版で昭和55年発行のものである。
  以前書いた記憶があるが、この本を持ったまま仕事の関係で夜の巷に出て倶楽部かどこかで飲んだときここに忘れて帰った。
  そこで改めて買い直したのが現在私が所蔵するこの本である。今ではこの本は著者は半藤一利氏だとして発刊されている。
  半藤氏が大宅氏の名を借りて「編」という形で発刊したものを、遺族に版権を返してもらい今では半藤氏の著書となっている。
  終戦の日の一日に焦点を当て約300頁にわたり、逐一詳しく書かれているが、編集の手法は半藤一利氏の著作だといわれると
  なるほどと思わせる。

 

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■堀内傳右衛門の話は嘘か本当かという疑問

2023-10-24 06:31:56 | 歴史

 熊本藩年表稿の頁をめくっていて、寛永17年7月19日「白川より川尻へ船通水道、開通工事予定あり」という「奉書」からの引用として紹介されている。
はたしてこの船通水道は開通したのだろうかという疑問が残っている。
実は堀内傳右衛門の「旦夕覚書」には、忠利の発案について米田監物が異議を唱え、忠利もその意見を取り入れ沙汰止みとなった旨の詳しい記述があるから、私もそう思ってきたがどうもそうでもないらしい。

      ■忠利公の土木事業「坪井川川底さらえと白川~加勢川(河尻)間水運計画」

 平成29年11月に行われた「第33回・熊本大学付属図書館貴重資料展」の「近世熊本城の被災と修復」の解説目録に「25・白川から河尻への運河完成と高瀬舟」という解説が為されている。
寛永17年12月14日の奉書として、白川から川尻までの運河が翌年二月末に出来るとの普請奉行からの報告を受けて、「忠利は、川舟を一艘二月二十日頃には完成するように命じ(中略)阿部弥一右衛門を通じて奉行衆に命じた」とある。
堀内傳右衛門の話は何処に行った・・・???熊本藩年表稿には開通した旨の記事が見当たらない。
尤、忠利は18年の1月18日、八代の父・三齊の元を訪ね、その帰途足のしびれや、言語不通となった。
一時回復したが、3月17日にはついに還らぬ人となった。そんな一大事が起り記録するなどの話ではなかったのかもしれない。しかし奉行所の記録に乗せないという事はあるまい。

 処が思いがけない史料が現れた。熊本大地震で南区の近見方面で地盤の液状化が起り、その対策のために技術検討委員会が設置され、その説明資料というものが作成されている。
川尻に在る大慈禅寺の文書の中に「大渡橋」を作るに当たっての建治二年(1276)の「義尹大渡橋勧縁疏」に、かっては白川と河尻を結ぶ河道があったことを示す記述が有り、その河道と思われる帯状の一帯が、近見地区の液状化と重なると解説している。
地盤調査の結果は、まさに河道であったことを示している。むかし白川と川尻の緑川がつながっていた可能性を示唆している。

更にこの報告書には「近世熊本城の被災と修復」の記事と同じものが引用されており、寛永17~18年の拡幅工事が完成した事は既成事実となっている。(但し完成したという確実な記事は無い)
その河道の跡とおもわれる井手が(巾一間、深さ一~二尺)であるから、高瀬舟が通る様に拡張したいというのが忠利の願いであった。
完成まじかと聞いて忠利はここを通るための高瀬舟の新造を指示している。
運河は完成したのだろう。いまでも河尻旧道にそって狭い水路が伺える。これがそうなのだろうか、とても幅を広げたとは思えないが・・・?

 堀内傳右衛門の話は説得力ある話ととらえていたが、こうなるとその真偽のほどが怪しくなる。
永青文庫から確定的な文書の公開が待たれる。

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