随分以前■お安く読む・中公新書「武士と世間」を書いた。
細川家家臣・加賀山主馬は転び切支丹として知られるが、その父・源左衛門政房を著者・山本博文氏は
「加賀山主馬の父源左衛門は、摂津高槻城主・高山右近の三男で・・・・・」と書いておられるのが、ずっと解決しないままできた。
先に入江太門太家の史料を入手し、先祖附を詳細に飛んでいると初代三之允は「浪人ニ而伯父加賀山主馬方江罷越居申候處・・・」とあった。
「義伯父」だと思われるが、入江三之允の伯母婿と理解できよう。又女系による繋がりを一つ発見した。
この入江太門太家の先祖附では、初代三之允以前の先祖については全く触れられていないが、別途系図が残されていた。
これによると三之允の父親は景秀であり、淡路守を名乗り、晋門とも称している。
この景秀の弟が、入江平内(景光)であることが判明したが、私はこの平内が田邊城に籠城した人物だと思い込んでいた。細川家史料によると平内を淡路としているが、これは兄景秀と混同しているかもしれない。または真齊とも名乗っているが、真齊については「新・肥後細川藩侍帳」で紹介しているように、入江平内入道真斎として「淡路弟、二百石、若狭の逸見に仕へ牢人して御家ニ参候、芸能多く形儀のぬるき者なり、能登守教経の矢の根・大脇差・乗鞍忠興君へ差上申候、平内果候節、忠興君御追悼の御詠歌被下候
立のほる煙の末はなきものを つきせす落るわかなみた哉
忠利君より被為拝領御書于今本家に持伝候、真斎子孫有之哉、不分明」(綿考輯録・巻14 P260) とあり、これが入江傳十郎家の初代・平内(景光)なのか?
一方、忠利君よりの御書に、於田辺長々籠城苦労有之由、尤心中察申候、手柄なる儀共満足申候と被遊候御自筆なり(下記)
豊前にて三百石被下候、妻ハ毛利家士乃美某女なりしか、城下引払候とき、一揆を防ぎ男子に勝る働有しと也、父は左近将監光秀と云、摂州高槻の城主にて、信長の為に殺され、一族郎従ともに此時分散せしと也、淡路其比は権之允と申候て、幽斎君青龍寺城御在城の時より御出入仕候、乱舞好奇にて、又してハ円斎か所によりて小鼓を打し也、五郎次か鼓に似たりしといふ、豊前にて御万殿に御附被成候、忠興君・忠利君御自筆之御書数通頂戴、後剃髪して普門と云、慶長十九年六月病死(綿考輯録・巻五)
又、入江淡路田辺籠城功労之事ニ付、慶長六年被下候御書 (綿考輯録・巻二十八)
折紙拝見候、誠其後久敷不申承候、書中之ことく去年一乱之砌、於田辺二長々苦労有之由、尤心中察申候、手柄成儀共満足申候、爰許長々之義迷惑推量之外ニ候、仕合之儀ハ無残所候間、機遺有間敷候、奥御陳儀も爾今不相極候、大略ハあつかいと申候条、可為其分と存事ニ候、恐々謹言
五月三日 内記忠辰(忠利)御判
入江淡路殿 まいる
上記「妻ハ毛利家士乃美某女なり」という記述からすると、ここに書かれている淡路とは入江景秀ということになる。というのは系図にある太門太家初代の三之允正勝の母が乃美兵部少輔とあることによる。
現在私は少々頭が錯乱していて頭が整理できないでいるが、我が「新・肥後細川藩侍帳」に大いなる誤解を以てご紹介していたことになる。
図書館に出かけ早々に「傳十郎家」の先祖附を取り寄せて、再確認をしなければならない事態となった。改めてご報告をしたい。