津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■江戸の人も読み間違えの俳句かな

2023-10-17 08:04:39 | 徒然

 嵐山光三郎著「悪党芭蕉」に面白い話を見つけた。
字を読み間違えたまま、版木を彫ったというのである。これは私が見ても迂闊この上ない事だと思う。
読みが違うから五・七・五が成り立っていない。字足らずとか字余りとか言う話ではない。
                            このきど  じょう
「猿蓑」を編纂している最中に、其角から送られてきた句に「此木戸や鎖のさされて冬の月」という句だが、「此木戸」を「柴戸」としてしまったというのだ。「此木・・柴」筆をとってつづけ字で書いてみると、大いに間違えやすい字ではある。
「此の木戸や・・」はすんなり収まるが、「柴戸や・・」では大いに違和感がある。
俳諧の大家が居並ぶなか、こんなことが起りえるのか・・、光三郎先生「話を盛ったな」とさえ思ったことだった。
私も随分以前天草島原の乱の古文書で、大いに悩んだことがあったのを思い出した。
江戸時代の人もこのような間違いを起こしている。だからお許しくださいと言い訳するわけではないが・・・

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■細川・黒田の不仲

2023-10-17 07:02:07 | 徒然

 先の「ブラタモリ」では、北九州の話が二度にわたり採り上げられた。
北九州の五つの地区の大合併が、豊前・筑前の境を越えて行われたというのは、歴史的背景からすると奇跡的ともいえる。タモリ氏が奇しくも「細川と黒田は仲が悪いからね~」と発言されたとおりである。
そもそもの発端は、慶長五年の黒田家、細川家の移封が原因している。
黒田家が豊前から筑前に移り、その跡に細川家が豊前に入った。その折、黒田長政は残しおくべき先納分の米数11万を持ち去った。
つい先ごろの西の関ケ原と言われる「石垣原の戦い」では、松井・有吉が守る城を大友勢に攻められ、黒田如水の助勢によりこれを下した。
そのような恩義があるが、忠興の怒りは収まらない。黒田の船便の上下をとめようと小倉沖に大船を出したりした。
片桐勝元・山内一豊が斡旋に入り六月に至り9万石が返還された。残り2万石は片桐・山内氏への斡旋料となったとされる。
筑前52万石(見栄による粉飾によると云われる)、豊前30万石と格下に想われた細川家も、加藤家没落後にともない大国肥後に移封、54万石の太守となった。この軋轢は長い間続いたが、細川宗孝の代元文元年までに至った。
ブラタモリでは、北九州における筑前・豊前の旧藩時代の後遺症が微妙に残されていることを伺わせていた。

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