11月の史談会例会は第二週の土曜日11日という事で、何時もの第三土曜日からすると一週間早いわけは当たり前だが、何時ものスケジュール感がしみ込んでいるから、早い展開に私は大いにあせっている。
新聞社に案内の掲載をお願いする関係で、その原稿も作らなければならない。
11月例会の講演は私の担当になっていて、もう二週間あまりに迫っている。
秋の夜長の読書などと悠長なことは云ってはおられないぞと、資料を読み込みながらレジュメの制作に取り掛かった。
「熊本藩三代、忠利・光尚・綱利の治世と時代相」という題目にして、系図や年表、レジュメ等を準備しようと思っている。
Excelで年表を作り始めたが、最近あまり使わないので思うように作図が出来ない。
会の事務局長に電話を入れ作成方をお願いする。快諾していただいたが、ご迷惑を掛けないように早く原稿を仕上げて送らなければならない。
二枚も三枚も下書きで失敗を重ね、何とかこれで行こうというものが出来上がった。
各人の生没年やいろんな事件事柄の年号の確認など資料を引っ張り出して足元は散らばり放題になっている。
系図は随分以前に造ったものに手を加えようと思っていたら、PCの中にデータがない。
USBに落したのだろうと唯今一つ一つ確認中である。これはCADで作った代物で我ながらよくできたと思う代物だがこれとてチェックが必要だから早く見つけ出さなければならない。
問題はレジュメだ。10月例会でも10分ほどある古文資料の解説をしたが、久しぶりの事で上がってしまってろくな解説に成らなかった。
果たしてレジュメ通りに上手く話が進められるか大いに不安なので、少々脱線可能なアバウトなものにしておこうか等と怪しからぬことを考えている。
映像も二三ご紹介したいものもあるし、最近大発見のニュースもお話ししたい。どれをカットして無事に責任を全うできるかと頭は痛い。
講演はそろそろ最後にして、今後は人様のお話を楽しむ立場で皆勤したいという想いである。
細川重賢公天明五年十月廿六日龍口邸にて御逝去・享年66
公の俳句が認めてある用人竹原玄路筆の公のお姿
さて天明五年の秋の初めより、二豎に侵され給ひ、病勢漸く加はりて、甚だ疲労し給ひ、十月の中比は、はや頼み少く弱り給ひしに、ある日時雨の音凄まじきを聞召して、公病蓐の中にて、
しぐるゝかあかり障子に音はかり
と口吟し給ひぬ、さて此の俳句、如何にも寂寞の情を帯び、人をして凄然たらしむものあれば、諸士農商に至るまで、神明佛陀に立願し、公の快復を祈れども、其の験なく、日に益々重らせ給ひぬ、是より先き世子治年公は、熊本にましましゝが、公の病の重き由、急報ありければ、即日駕を命じて熊本を發し、江戸に詣り 九月十日發駕 十月十一日着駕 嘗薬に奉し給ひぬ、さて十月二十日頃よりは、公遂に起つべからざるを覺悟し給ひ、枕邊なる世子治年公を始め、諸老臣等に對して、諄々後事を委嘱し給ひ、且つ朝廷若しも事あらば、藩力を盡して奉公の義を致すべしと、特に遺言給ひぬ、(中略)かくて人々憂慮の内、同二十六日、六十六歳を一期として龍口邸に長逝し給ふ(中略)世子治年公を始め、家臣等の悲痛は固よりにて、領内の民、これを聞きて愁嘆痛哭せざるなし、所謂百姓考妣を喪するが如き情状なりき、かくて菩提寺品川東海寺内妙解院に埋め奉る、され霊感院羽林次將中丈夫越州太守徹巖宗印大居士と諡す、
宇野東風著「細川靈感公」より引用す