津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

自祝

2007-08-22 22:44:24 | 徒然
 気が付いたら我がサイト満4年を迎えていた。
津々堂さんご苦労さん・・・      KS
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧主を考える-1 佐久間信盛・信栄父子

2007-08-22 13:20:41 | 歴史
 細川家家臣久野家の初代・次郎左衛門はその先祖附から佐久間信盛の家臣であった事が分かる。佐久間家改易後、次郎左衛門の細川家への仕官は、信盛の子信栄が係わっていた事が一通の文書の登場で明らかになった。詳しい経緯は省略するが、次郎左衛門に係わる不干斉の文書がYahooオークションに登場した。ご子孫が手に入れられ、当方にもその写しを頂戴した。久野氏研究家の手によりその訓下がなされ、またその情報がもたらされた。 
 佐久間信盛、信栄親子は天正8年本願寺攻めについて譴責を受け、改易となった。寛政重修諸家附によると、明智光秀の讒言によるものらしい。天正10年(1582)信盛は無念の内に亡くなるが、その後信栄は織田信雄などに仕えている。信雄亡き後は、秀吉、家康にお伽衆として仕えた。茶人佐久間不干斉である。
 久野次郎左衛門の細川家仕官は、不干斉の手紙からすると細川忠利家督(元和七年・1621)の頃と思われるから、次郎左衛門の牢人生活も随分長かった事が分かる。貴重な不干斉の手紙をご紹介しておこう。

 (その一)
      尚以 不及申候へ共
      弥無油断御奉公
      専一ニ候 連々之儀ハ 如在申
      間敷候 以上
     御状到来 披見
     珍重ニ候 其後絶
     音問候処 御書中満
     足仕候 大阪御普請ニ
     御詰候由 御辛労奉
     察候 併無相違御奉
     公喜悦之至候 折々便
     を以 越中殿へ可申候
     条 可御心易候 折節
     持病発平臥候間 不
     能多筆候 恐々謹言
      五月二日    不干斉
                 (花押)
      久野二郎左衛門尉
              回答
 (その二)
      尚以 久絶音間候処
      来札本望ニ存候 
      以上
     去月廿四日之御状到
     来 披見珍重々々
     先以其地御無事
     尤満足申候 今度内記
     守殿へ御家徳(ママ)相済、小
     倉へ御移之儀 千万目
     出存候 我等之大慶可
     有御推量候 殊貴
     所内記殿へ御付候由
     尤本儀ニ候 連々之儀
     内記殿へ可申入候 大坂
     御普請之刻 御煩ニ
     付 為三齋老御気
     色悪候へ共 被対拙老  
     御様捨之由 於我等承
     候 御父子へ御礼可申候
     此度之書中ニも 我等
     三齋老へ奉願 貴所
     出し申候由 内記殿へ
     申入候間 可御心易候
     将又 従旧冬長々
     煩申候キ 近比得快
     気 御前へ罷出候
     甚九郎も無事候間
     可御心易候 猶期後
     音時候 恐々謹言
      七月廿七日   不干斉
                 (花押)
      久野次郎左衛門殿
              回答


 かっての家臣を思いやる旧主の暖かな心情が綴られている。
さすが名茶人と言われた人のものであると感銘深い。
この返事を導き出す、次郎左衛門の旧主に対する深い想いが有った事が行間に伺える。
仕官の後も、二人の間に音信が続けられたことは間違いなかろう。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菊地木庭城と木庭一族

2007-08-22 09:25:40 | 書籍・読書
 「熊本史談会」でご一緒する木庭實治様から、表記の御著をお贈りいただいた。第5回熊日マイブック出版賞を得られた、440ページに及ぶ大作である。「発刊に寄せて」を読むと資料集めから二十年を経過したとある。木庭家の繁栄はその枝葉の膨大な事に驚かされる。二十年の月日を要したことも当然であろし、またその枝葉に一つ一つに迫られたご努力にただただ驚かされる。菊地十八外城の一つ「木庭城」は菊地家憲にあるという「内段衆一統して菊池の郡に於て堅く畑を禁制し、山を尚して茂生の樹を増やし家門正法と共に龍華の暁に及ばん事を念願すべし」のごとく、豊かな木々に囲まれた要塞堅固な城であったらしい。一族の皆様のためにと上梓されたらしいが、これは熊本の歴史を知る上でも貴重なものである。お話によると、まだまだ沢山の資料をお持ちらしい。次作も頭にお有りの様で楽しみである。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三齋公墓所

2007-08-21 13:27:47 | 歴史
 大徳寺高桐院の三齋公の墓所は、利休遺愛の石燈篭である。秀吉の所望を逃れるためわざと蕨手が欠かれた。この石燈篭と、加藤清正から贈られた「袈裟形おり蹲」という蹲を、三齋は参勤の折には熊本から持ち運んだと言う。「鷺絵源三郎久重覚書」にも、この石燈篭が八代にあることを書き記している。さて三齋は正保ニ年十二月二日八代に於いて亡くなった。翌年一月廿四日遺骨が高桐院に分骨された。三齋の遺言であった。「松江(八代)城秘録」に次のような記録がある。
三齋様被仰候ハ御逝去被成候ハ御骨ハ大徳寺ニて高桐院へ指上御秘蔵之石燈爐御座候間それを御こツの上に被置候様ニと日比高桐院へ御約定ニ而御座候・・とある。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

只々空しい

2007-08-20 18:57:19 | 歴史
 今日の早暁一通のメールをいただいた。神風連の志士K氏のご子孫である。その内容は寡婦となられた19歳の奥様の生涯についてである。余りにも美化された彼等の「挙」の、その裏側にある真実の痛ましさに、近頃富に涙腺が弱くなった私は、思わず涙を禁じえなかった。武士の妻たらんと生きるこの女性の生き様は、深い説得力をもってこの挙の悲劇性を物語っている。メールにいみじくも引用された、池辺三山の「(事件の首謀者に)自ら説明せしめても、能く当世の人をして了解せしむるを得べきや否や、疑わしき事の極みなり」という言葉に、わが意を得たりという思いがする。亡き人に対する深い想いは人それぞれであろう。桜山神社における慰霊についても、異を唱えられる遺族を存じ上げている。隠れている真実がある。残されて辛酸の道を歩いた人たちがある。一つの真実を得て沈痛な思いが増すばかりである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下津権内と共に

2007-08-20 17:23:29 | 歴史
 淀城において岩成主税介を、下津権内と共に討ち果たしたのが、築山弥十郎俊方である。父は兵庫介貞俊、その妻は沼田上野介光兼と系図に見える。私が知る限りにおいて、肥後細川家家臣で一番古くから細川家に仕えた家である。弥十郎の五代前、築山保俊が「正平十年三月、細川頼之から松笠菱御紋付之御具足拝領子孫代々家之家紋ニ用候様仰出蒙る」と系図に書き込まれている。保俊の室はどうやら頼之の庶女福(高秋院)であることが、その子重俊の項の書き込みで知ることができる。岩成主税討ち果たしのことを含めて「築山家由緒」に詳しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シンポジウム「加藤家の謎に迫る」

2007-08-19 22:06:01 | 熊本
 私が敬愛してやまない、肥後金春流中村家の中村勝氏は現在、熊本城築城400年記念・肥後加藤家顕彰・特別講演とシンポジウム「加藤家の謎に迫る」の開催に向けて、全精力を傾注しておられる。ささやかなお手伝いとして、このシンポジウムの告知を我がサイトでアップした。沢山の皆様にご出席をいただきたいと切に願っている。その氏が今般HP「肥後金春流中村家」をアップされた。もう随分以前にアドレスを頂戴していて、何度か「yahoo」で検索したのだが立ち上がらない。「google」で検索してみたら見事立ち上がったので、リンクを貼り、お気に入りに登録、今後色々な情報がもたらされるものと期待している。来年熊本で開催される「藩校サミット」も、氏の深い想いがもたらしたものである。「加藤清正シンポジウム」が終わると、「藩校サミット」へ向けて新たな活動が始まる。その情熱にはただただ頭が下がる思いである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真実や如何に

2007-08-19 19:10:39 | 歴史
 先に、膨大な古記録を写し残した、幕末明治の人宮村典太という人を紹介した。昭和の上妻先生の写本はこの宮村典太の物を再写したものが多い。同じく上妻先生の著「肥後文献解題」を読んでいたら、宮村典太の祖は「岩成主税亮吉通という信長臣」の枝葉とある。わが細川家の家臣下津権内が、三好三人衆の一人「岩成主税頭友通」を、淀城で討ち取り信長の賞賛を得ている。さてと頭を抱えてしまった。全く別人なのか、上妻先生の誤記なのか・・・

 今日は「熊本史談会」の例会で、講師の下津先生(下津棒庵のご子孫)と権内のことでお話をしたばかりの事で、あまりの偶然に驚いている。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

のーうっだす暑さです

2007-08-18 16:48:50 | 熊本
 毎日お暑いことで、皆様如何お過ごしでしょうか。残暑お見舞い申し上げます。熊本は猛暑日が続き「のーうっだす暑さです」

 私は友人とのおふざけの会話くらいにしか使いませんが、この「のーうっだす」という言葉お分かりになりますか。多分「脳打ち出す」が変化したものでしょう、如何ですか。「脳さえも打ち出す(飛び出す)ような」という意味でしょう。
熊本弁は特徴的な接頭語や接尾語がたくさんあります。熊本国府高等学校PCクラブの「熊本弁」講座は、これら文法的なことから説明されていて大変面白いですよ。私にとっては死語になっている「とぜんなか」などは、意味も分からず漢字ふりも出来ずにいましたが「徒然無い(か)」だとは目から鱗でした。

 熊本弁はむつかしかですばい。たまがります。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島(正則)家OB等々

2007-08-17 15:06:10 | 歴史
 細川家家臣の旧主について、いろいろ書こうと思い調べ始めたら、これが中々厄介である。「福島家臣団」というサイトを見ると、結構多いことが分った。細川家資料ばかりでは書けないなーと思案状態に陥ってしまった。一番多いのは地元加藤家(清正)だが、ここに福島家を始めとしていろんな所からやって来ている。若狭の武田氏(逸見氏を含む)も相当数いる。豊後大友氏はその一族を含め五指に入る。細川家重臣は足利将軍家の家臣であった家が多い。明智も意外と多い、ガラシャ夫人の関係もあろう。津田を名乗る織田家一族も数家、こりゃー簡単にはいきませんよと自問自答である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法号

2007-08-17 09:49:13 | 歴史
    お問い合わせにご返事

 初代・ 細川藤孝  泰勝院徹宗玄旨
 二代・ 細川忠興  松向寺三齋宗立
 三代・ 細川忠利  妙解院羽林臺雲宗伍
 四代・ 細川光尚  眞源院回岩宗夢
 五代・ 細川綱利  妙應院雲嶽宗龍
 六代・ 細川宣紀  霊雲院桃谷義蟠
 七代・ 細川宗孝  隆徳院廓然義周
 八代・ 細川重賢  霊感院徹巌宗印
 九代・ 細川治年  大詢院禪月宗関
 十代・ 細川齊滋  諦了院學海義廣
 十一代・細川齊樹  諦観院春谷宗湛
 十二代・細川齊護  泰巌院仁岳宗寛
 十三代・細川韶邦    以下調べ中
 十四代・細川護久
 十五代・細川護立
 十六代・細川護貞
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧主を考える

2007-08-16 17:54:39 | 歴史
 細川家家臣は本当にあちこちから、豊前に入り又肥後に入られている。詳しく先祖附を読むと、細川家に仕官する前の「旧主」が書かれている物が多々ある。どのような経緯があってのことか、「旧主」をたどれば見えてくるものが有るのではないかと思い立った。
足利将軍家、豊臣秀吉・秀次、小早川秀秋、加藤清正、小西行長、黒田長政、大友宗麟、長曾我部盛親、福嶋正則、前田利家、佐久間信盛、中村一氏、宇喜田秀家、宮部善祥坊、田中吉政、京極高知、明智光秀、加藤嘉明、森長可、今川義元その他多士済済。
順不同で週一くらいのペースで追いかけてみようと思う。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お盆明けの午前

2007-08-16 12:57:02 | 徒然
 今日一番の仕事は、一時期メールを閉じておられた東京のS氏から「メール再開」の嬉しい便りに、喜びの返事メール。また楽しいお付き合いが再開し嬉しい限り。
 午前中、手紙を二通書いて切手が無い事に気付き、郵便局へ・・・熊本城築城400年記念切手などを買って投函。帰って後一つ大事な手紙を書かなければいけなかった事を思い出して、ばたばた書き上げて今度は近くのポストまで行き投函。気が付くと又メールが入っている。二つほど返事のメールを入れる。
ごみ出しをして、生業の「建築設計業」の仕事を30分ほど・・電話が二本ばかり入り10分ほど・・愛犬の容態を確認の為に外に出て、約5分・・・ 疲れた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御印之物 其の二

2007-08-15 14:46:00 | 歴史
 寛永十六年細川家は鉄炮百挺を調達すべく動きがある。

          覚
一、御鉄炮百丁堺ニて可申付旨被仰出事
一、右百丁之どうらん諸道具御国にて可申付旨被仰出事
一、御鉄砲之薬箱桐ニて弐拾箱造らせ御薬を入大阪へ上せ
  置可申旨被仰出事
一、御たて弐拾御留主中ニ申付御夫(天)守へ上ヶ置可申
  旨被仰出事
一、百目玉之かわ鉄炮下はりからかねニて弐拾丁可申付旨
  被仰出事 
 右之御道具御留守中ニ相調可申旨被仰出候、代銀相渡候
 様ニ可被成下御印、以上
     寛永拾六年二月廿二日 (忠利ローマ字印)
                奥田権左衛門尉(花押)
       奉行中

 これには異筆の書入れがある。
  「時分をはからい可申付候せと手前より可申付候以上」

丁度一年前の寛永十五年二月、島原の乱が鎮圧された。とはいえ、この後に於いても起りえるかも知れないと言う不安が窺がえる。寛永18年(1641)その忠利が亡くなる。四年後の正保2年(1645)には父三齋が亡くなり、又四年後・慶安二年(1649)には光尚が亡くなり、細川家は大きく変化していく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一枚の「御印之物」

2007-08-14 13:51:44 | 歴史
 寛永十八年頃のものと思われる「御印之物」に、次のような文書がある。

      わたしかたの事
   合一貫四百六拾弐匁ハ
     右ハ松之介様御たけ様やう様御ひとへ物御かたひら
     御はかま御帯の代被下候まヽさんようこまかに申こ
     につきワたし候まヽ此分殿様へ御申上候て銀子御わ
     たし被下候ハヽ少々こまかなることにつき御こほ様
     ニ同人ハめにかけ申候その■■
         以上
       巳ノ六月廿二日      つる・印
                     かも・印

宛先は西郡要人・浅山修理・堀江勘兵衛・椋梨半兵衛の四人宛てである。
決済印と思われる「fosocawarocu」と刻した、いわゆるローマ字印が押されている。「細川六」であり光尚の印であることが分かる。○に三段に記して有る。

さて上記の文書は、光尚の弟妹たちの着物代の支払いに当てる為に、請求されたものであろう。よくよく調べてみると「竹之介」は「細川尚房」、「たけ」は後に有吉頼母英長に嫁した「竹姫」である。「やう様」というのがはっきりしない。

文書を発した「つる」「かも」についても、その身分を類推する事ができる「御印之物」が残されている。寛永十八年九月廿一日付の「切米扶持方遣候者之覚」と言うものであるが、21名の女中(?)とはしため15名の名前と御扶持高が記されている。「つる」が上位から四人目(廿石四人扶持)、「かも」が五位(拾五石三人扶持)とある。上位七人を除いて「竹之助者」「たけもの」「やヽもの」と分けられている。奉行中とありローマ字が押されているところを見ると、光尚の指示書であろうか。三人に敬称が記されていないし間違いなかろう。
一枚の文書が発するメッセージは多様で奥深く面白い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする