細川家家臣久野家の初代・次郎左衛門はその先祖附から佐久間信盛の家臣であった事が分かる。佐久間家改易後、次郎左衛門の細川家への仕官は、信盛の子信栄が係わっていた事が一通の文書の登場で明らかになった。詳しい経緯は省略するが、次郎左衛門に係わる不干斉の文書がYahooオークションに登場した。ご子孫が手に入れられ、当方にもその写しを頂戴した。久野氏研究家の手によりその訓下がなされ、またその情報がもたらされた。
佐久間信盛、信栄親子は天正8年本願寺攻めについて譴責を受け、改易となった。寛政重修諸家附によると、明智光秀の讒言によるものらしい。天正10年(1582)信盛は無念の内に亡くなるが、その後信栄は織田信雄などに仕えている。信雄亡き後は、秀吉、家康にお伽衆として仕えた。茶人佐久間不干斉である。
久野次郎左衛門の細川家仕官は、不干斉の手紙からすると細川忠利家督(元和七年・1621)の頃と思われるから、次郎左衛門の牢人生活も随分長かった事が分かる。貴重な不干斉の手紙をご紹介しておこう。
(その一)
尚以 不及申候へ共
弥無油断御奉公
専一ニ候 連々之儀ハ 如在申
間敷候 以上
御状到来 披見
珍重ニ候 其後絶
音問候処 御書中満
足仕候 大阪御普請ニ
御詰候由 御辛労奉
察候 併無相違御奉
公喜悦之至候 折々便
を以 越中殿へ可申候
条 可御心易候 折節
持病発平臥候間 不
能多筆候 恐々謹言
五月二日 不干斉
(花押)
久野二郎左衛門尉
回答
(その二)
尚以 久絶音間候処
来札本望ニ存候
以上
去月廿四日之御状到
来 披見珍重々々
先以其地御無事
尤満足申候 今度内記
守殿へ御家徳(ママ)相済、小
倉へ御移之儀 千万目
出存候 我等之大慶可
有御推量候 殊貴
所内記殿へ御付候由
尤本儀ニ候 連々之儀
内記殿へ可申入候 大坂
御普請之刻 御煩ニ
付 為三齋老御気
色悪候へ共 被対拙老
御様捨之由 於我等承
候 御父子へ御礼可申候
此度之書中ニも 我等
三齋老へ奉願 貴所
出し申候由 内記殿へ
申入候間 可御心易候
将又 従旧冬長々
煩申候キ 近比得快
気 御前へ罷出候
甚九郎も無事候間
可御心易候 猶期後
音時候 恐々謹言
七月廿七日 不干斉
(花押)
久野次郎左衛門殿
回答
かっての家臣を思いやる旧主の暖かな心情が綴られている。
さすが名茶人と言われた人のものであると感銘深い。
この返事を導き出す、次郎左衛門の旧主に対する深い想いが有った事が行間に伺える。
仕官の後も、二人の間に音信が続けられたことは間違いなかろう。