津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「直す」という言葉

2007-08-13 12:33:20 | 歴史
 最近言葉に興味がある。熊本弁に関するサイトも沢山あるが、知らないし使えない言葉もいろいろ紹介している。「直す」という言葉で、都市圏へ出た人たちが苦労しているらしい。同業で東京で修行して、熊本へ帰ってきた若い人の話だが、東京へ出たてのころ図面を取り出して打ち合わせが行われ、会議が終了したので図面を片付けようと「これ直していいですか」と言うと、出席者全員が振り向いたというのである。(別に訂正は無いぞ、と言う訳である)熊本では、「片付ける=直す」で常用する。東京では「直す=修復する」として使われているのだろう。「説明に汗をかきました」とは彼の弁、さて「直すは熊本弁だろうか」ということになる。国語辞典をひも解くと、「正しいと思う状態に戻す」とあって、例えば「病気をなおす」とか「誤りをなおす」というふうに記されている。一方「元に戻す」ともあり「然るべき位置にすえる」等とも有る。

「直す=片付ける」でいいでないか。国語辞典を持ち出して、堂々と説明すればいい・・ま、面倒くさいか・・長いものには巻かれろとも云うしな・・・

今朝、出しっぱなしのテーブルの上のものをみて妻に一言、「ちゃんと直しとけよ」と。そう言って考えた。「立派な標準語だよなー・・・違うのかなー・・・方言かい?」
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歯痛とペルセウス座流星群

2007-08-12 23:14:52 | 徒然
 私の歯は全て自前である。歯医者からは、80位までは自分の歯で食事できますよと、たいこ判を押されている。が実は二三本冠をかぶせているのだが、左上奥歯の冠が知らぬ間にとれてしまった。全く自覚が無い。飲み込んだのだろうか。いろいろ物が詰まるようになり気持ちが悪いので、日に何度も歯を磨く内に、神経を刺激したのか痛みを感じるようになった。日が変わって一時ごろ床についたが、痛くて寝むれない。我慢できなくて起き上がり「正露丸」を詰めてみようと思い立った。薬箱を開けてみると、有るには有ったがカラカラ状態だ。それでも詰め込んで強くかんでみると、正露丸のあの特有な匂いが口いっぱいに広がる。しばらくそのままソファーにひっくり返っていたら、「そうだ今日は流れ星が見えるのではないか」と思い立って外に出てみた。四五分も経たない内に天頂から弱い光の流れ星が短い光跡を描いて消えた。十分ほど空を眺めていたがそれっきりだった。なんだか口の中が痺れている。歯の痛みも薄れていた。気が付くと「正露丸」が無い。・・・又飲み込んでしまったらしい・・・今日も今しばらく寝るのを我慢して流れ星を見ようと思っている。
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再々・神風連

2007-08-12 19:04:25 | 歴史
 どうしても読みたいものがあったので、今日も図書館通い。「真実を探る・神風連の変『その時警察は』」という、わりと最近に発行された非買の本である。無念の結末であったろうが目を背けたくなるような現実があった。自刃をして果てた人々は幸せだったのかもしれない。遺体はすぐ遺族の元に返されている。自刃したが身元が判明しない者は、熊本城内の漆畑に集められたが、遺体は腐敗しはじめ異臭を放ったという。ましてや死ぬ事が出来ず捕らえられた人たちの死刑の有様などはとても表現できない。一方では事件の真実を知らしめる為に、生きる事を選択し捕縛された人たちがいる。死ぬも地獄、生きるも地獄である。
 遺族の著作や、荒木氏の精力的な努力によつてもたらされた数々の著作、又最近の渡辺京二氏の著作にしろ、その視点は「神風連」にのみ向けられて、彼等によって死傷した多くの人々のことに触れられていない。しかしながら表記の著作は、非常に冷静に対極にあった人たちの立場から編集がなされている。それは多くの地図や写真をつかい両陣の行動や、死後の慰霊の有様をしるしている。私はどちらを贔屓するというものではないが、事件の真実を知る上でよい勉強をしたと思っている。
 そろそろ「神風連」から足が洗えるかもしれない。
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図書館行き

2007-08-11 20:24:14 | 徒然
 「ご苦労なこと」と妻に言われながら、午後炎天下自転車をこいで図書館行き。今日の目的は三つ
1、我が家にある「ある文書」を図書館に納めていただくご相談
1、懸案のK家、H家のルーツ捜し・・・・苦労した甲斐あって発見、帰ってメール
  で報告 (後一軒は名前は確認できるが、詳細資料が見つからない・・・)
1、神風連に関する資料調べ
   *警察関係の資料が非常に充実していて面白い。
    荒木先生が全然触れておられないようなものが多々ある。
   *県政資料の「神風党(ママ)」を見たいと思いお願いしたら膨大な量に呆
    然・・・数十冊がカートに乗って運ばれてきた。そしてみんな毛筆
    草書の走り書き、緊迫感がにじんでいる。これはちょっと読めないぜ

いろいろコピーをしてかえろうと思ったら、今日は土曜日5時15分閉館、明日又出直す事にして帰る。風が強くて自転車が進まない。恥ずかしながら坂道は押して上がってようやく帰宅。充実した半日。
     
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再び神風連

2007-08-11 10:51:00 | 歴史
 神風連K氏のご子孫から、つい最近ご連絡をいただいた。石原醜雄氏・荒木精之氏や渡辺京二氏の著作位しか読んでいないが、あわてて該当項を追いかけて読んでいる。(石原氏著作は手元には無い)K氏は神風連首領太田黒伴雄の参謀格であったらしい。いわゆる「敬神党」の一員としての行動であろう。いろいろ読んでいると、神風連の行動を共にした人は、何も桜山神社に祀られた人ばかりではないことを知ることになる。中には強要され強引に引き込まれて事に係わった人が居る。まだ資料の読みようが足りない。神風連に陶酔されている荒木先生の著作ばかりでは、真実は見えてこない。渡辺京二氏は荒木精之氏著作は二次資料だとされる。木村弦雄、石原醜雄等もまたしかりと。熊本県の県政資料(公文類纂)に「神風連」がある。複製が完成しているらしいので、ちょっと覗いて見ようと思う。
   
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むごう暑かですなー 続編

2007-08-10 18:22:01 | 熊本
 「むごう」とは「無期う」である。古語辞典には登場する言葉で、際限の無い事の意である。「際限なく暑い=ものすごく暑い」という事になる。熊本のお年寄りが良く使う「わあ・いさぎ」とか「わ・いさーぎ」とか言う言葉は、「潔し」から来ている。頭に「わあ」がついた。古語辞典によると「 1、清浄である 2、心がきれいである 3、勇ましい、小気味いい 4、悪びれない」 等とあるが、ニュアンスはお分かりいただけるであろう。熊本に係わらず、言葉の発信地・京を中心とする遠隔地には、このような古い言葉が沢山見受けられる。京に近いところは、言葉も新陳代謝するが、遠隔地では古い言葉が留まって定着した。発音に於いても、「学校」を「ぐぁっこう」と発音したり、「先生」を「せんしぇい」と発音するお年寄りを結構見かける。「とんでもない事」を「とつけみにゃーこつ」と言ったりするが、これはわりと近世の言葉で「とっけもない=取っ付けもない」が変化して定着した。古語辞典は「途方も無い」意だと説明する。なんとも不思議な熊本弁も、古語辞典をひも解くと、その出所は由緒正しい古の言葉につながっている。

 熊本藩士の出自をたどると、実に様々なところの人が熊本に集まっている。藩の草創期は「言葉のるつぼ」であったことだろう。熊本の言葉が、どのように交じり合って醸成されて今日のような言葉になったのか、大変興味を持っているのだが、口語で記された文書が無いため一向に分からない。研究者が現れないかと願っているのだが・・・・
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姉妹都市福井

2007-08-10 11:41:01 | 徒然
 熊本市と福井市との姉妹都市の締結は、平成6年11月の事である。その経緯は、肥後藩主細川斉護女勇姫が、越前福井藩主・松平春嶽に嫁いでいる事や、熊本藩士横井小楠が春嶽に重用されたという歴史的縁によるものだと言われる。この姉妹都市福井とのお付き合いを通じて熊本市(或いは県)に学習してもらいたいのは、福井県立文書館とその素晴らしい活動振りである。肥後熊本藩の歴史を考える時、福井との関りが、高々勇姫や小楠の時代に留まるものではない事を知らねばならない。福井県文書館のデジタル歴史情報は「福井県史・通史編」や「図説福井県史」など素晴らしい情報を発信している。熊本には「文書館」なるものが無い。日本に冠たる膨大な細川家の史料の研究は、遅々として前進しない。文化後進県(市)と言わざるを得ない。

(付け足し)
 1978年靖国神社新任宮司の松平永芳なる人は、わずか数ヶ月でA級戦犯合祀という暴挙をやってのけた。春嶽公の孫に当たる人だが、春嶽公の思いや如何に・・・。勇姫様の血が流れているのかしら(別に確認しようとも思わないが)
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清源院様湯治の旅

2007-08-09 18:22:28 | 歴史
 清源院とは細川宣紀の第九女(幾姫・軌姫)で、宇土細川家五代藩主興里に嫁いだ。延享二年正月の事だが、その年の十月興里は亡くなっている(22歳)。わずか十ヶ月にも満たない結婚生活である。その清源院が天明二年肥後国日奈久温泉(現八代市)に湯治のため熊本にやってきている(58歳)。歳の変わらぬ義弟興文(六代藩主・当時は隠居し月翁)が、大津(熊本市の東・現大津町)まで出迎えている。その旅の行き返りの様子を記した紀行文「海辺秋色」「山路の青葉」が残されている。ぜひ読んでみようと思っている。

 処で宗家の細川治年(九代当主)室は、宇土の興文女「埴姫」である。男子は各々夭折したため後継ぎ問題が起る。「埴姫」の弟、即ち興文の子立禮(宇土家七代当主)に白羽の矢が立つが、なぜか新田藩を慮って容易に受けなかったらしい。六代宣紀が新田藩から宗家に入り、宗孝・・重賢・・治年はその血脈の中にある。しぶる立禮を応援したのが清源院であった。立禮は宗家に入り十代斎滋となる。天明十七年十一月のことであった。

 清源院は寛政六年七十歳で江戸で没している。夫君の分まで長生きした。
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むごう暑かですなー

2007-08-09 12:44:51 | 熊本
 どうも二人は知りあいらしい。スーパーで買い物を終えたらしい老人に、声をかけている人がある。(後に知ったが、この日の気温は36.4度だったそうだ)

○「むごう暑かナー」
●「ほんにいナー。こぎゃん暑か時にゃー、しっか(り)水ばとらにゃーいかんげにゃばいた」
そう言いながら老人は自販機から買ったらしいお茶を飲んでいる。
○「そぎゃんたい。そしてああたは帽子は持たんとかいた。帽子ばかぶらんといかんばいた、暑かて。・・・傘ば持つとんなら、差せばよかろうて」
買い物袋とともに手にしている傘は、しっかりと閉じられたままである。
●「こないだンごつ、とつけむにゃー夕立どん来っといかんと思うて、持って来たばってん・・・・杖替わりたい・・・今日は降らんごたるなー」

○「足のいかんかいた?」
●「いかんなー、日赤(病院)にも行った、電気治療院にも行った。何でんしたばいた。何ちゅうたっちゃ歳だけんナ、骨やつがスカスカたい。しょんなかったい」

○「爺ちゃんナいくつになんなはったかいた」
●「はっじゅうさん(83)になったばいた」
○「そうかいた。ばってん元気で良かなー」
●「膝の痛となかなら最高ばってんなー。ばってん、膝ン悪かちゅーて、命うしなうこっあー無かろう、九十位まじゃー生きるかもしれんばいた」
○「何ば言いよんなはるかいた。百まっでんがんばらじゃー」
●「そぎゃん生きらんちゃーよか」

○「爺ちゃん、こん手ぬぐいば頭ん上に乗せち行きなっせ」
●「わあーよかかいた、すまんなー。後でわきゃーもんにもって行かするけん」
○「なんば、返さんちゃよか・・・。足元に気ぃ付けて行きなっせヨ」
●「ありがとな、ごめん、ごめん」

ゆっくり歩き出した老人を見送ったその人は、何度か振り返りながらスーパーの店内に消えていった。頭に手ぬぐいを乗せて、ゆるやかなスロープになっている駐車場を横切って行く老人の足どりは、百歳を保証するように思えた。
 (立ち聞きしてすみません。熊本弁の解説はあえてしない事にします)
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ひい爺様のお仕事

2007-08-08 18:03:48 | 歴史
 文久二年(1862)十二月十九日江戸留守居役・吉田平之助の別宅(お玉が池桧物町)において、松平春嶽に上京を命ぜられた横井小楠の為に友人三人が集まり酒宴を設けた。ここを暴漢が襲い吉田は死亡するわけだが、横井は逃げ出した。藩邸に刀を取りに帰ったという言い訳をしているが、これが事件以降横井の行動を制限させた、いわゆる「士道忘却事件」と呼ばれるものである。(士籍剥奪されて三年間不遇の刻を過ごす)吉田の子・巳久馬(傳太)は若党と二人仇討ちの旅に出るわけだが、慶應四年二月(1868)仇敵が松山に居る事を知り、藩領豊後鶴崎に連れ帰りこの地で仇討ちの本懐を遂げている。五年余にわたる刻を費やした。当時穿鑿役であった曽祖父が残した「吉田傳太復仇一件聞取書」に詳しい。(横井もまた暴漢に襲われて亡くなることになる)

ひい爺様ご苦労さん。(身内の話でごめんなさい)
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栄冠は君に輝く・・ぞ

2007-08-08 08:37:08 | 徒然
 この時期になると、ふと口ずさんでしまうこの歌だが、詩は公募により選ばれたものだ。将に甲子園の情景が瞼の裏に浮かんでくるし、古関祐而の曲も相まって、永遠に歌い継がれるであろう名曲である。サイレンが高々と鳴り響くと、さあフイールドとスタンドが一体となって、熱い熱い夏の祭典が繰り広げられる。熊本代表は久しぶりの出場八代東高校、気後れせず頑張ってほしい。

    雲は湧き光あふれて
    天高く純白の球今日ぞ飛ぶ
    若人よいざ
    まなじりは歓呼に答え
    いさぎよしほヽえむ希望
    あヽ栄冠は君に輝く      名曲だよなー

 そんな今日は立秋だそうな 「残暑お見舞い申し上げます」
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昼下がり

2007-08-07 20:24:32 | 徒然
 所用で出かけた帰り道、小川にかかる橋の上から川面を覗き込んでいると、小学生の男の子が声をかけてきた。
「おじちゃん、なんしよっと?」
「うん、メダカがおらんかなーと思うて見よっとたい」
「ふーん」と言いながら、その子も石の欄干に手をかけながら覗き込む。
「おじちゃん、おらんごたるよ」
「・・・・」
「おったらどぎゃん(どう)すっと(するの)」
「うん、捕まえて水槽に入れて飼ってみようと思うてね」
「俺ン爺ちゃんちの側の井手にはおるばってんね」
「君の爺ちゃんは何処に住んどらすと?」
「・・・・爺ちゃんな俺が幼稚園の時死なした・・・・」
「・・・・」

「ここは水の汚かけんおらんよ」
そう言い残してその子は川沿いの道に入っていった。
三年か四年生といったところだろうか。そうすると死んだお爺ちゃんという人は、私とそう替わらない年齢の人だろう。幼稚園の頃彼とお爺ちゃんは、二人して水遊びでも楽しんだのだろう。井上陽水の「少年時代」のメロディが頭をよぎった。そして無性に孫に会いたい衝動にかられた。
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美作国津山藩における「肥後経済録」

2007-08-07 16:34:51 | 歴史
 肥後熊本藩士大村源内の弟荘助は「好学徳実の聞えあるにより、作州津山侯より、熊本侯(細川重賢)にもとめ、世子の保佐となし玉ひ、熊本侯の賢才、国政のことを尋ね」肥後経済録という著作を上梓している。「依之津山の大夫士、此書を秘し、絶えて世にもらさず・・・」と奥書にあるように、世に多いに流通していないらしく、明治42年宇野東風は「余いまだ其の書を見ざれども」と云い、「古城貞吉氏より報じ越された」とその箸「細川霊感公」で紹介している。細川重賢(霊感公)については「銀臺遺事」という文書が存在するが、「その行文雅駿にて、銀臺遺事と伯仲の間にある・・・」と記している。さてこの大村氏やその著作とは如何なるものであろうか。「肥後文献解題」にもその書名を索引目次で発見する事が出来ない。何とか観てみたいものだ。

津山藩松平家は「小栗氏御預人一巻」でご紹介した、越前騒動のあの松平家だが、松平秀康(徳川家康二男)・・忠直(乱行改易)・・光長(越前騒動)と続く、「越前松平家」である。
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代々三家老家・有吉家家督相続の不思議

2007-08-06 18:07:56 | 歴史
 宝暦十二年有吉家九代当主大膳(立邑)の時、寵臣某が大奉行堀平太左衛門を呪詛するという事件が勃発した。宝暦の改革は平太左衛門とその閣僚により進められており、三家老は蚊帳の外である。そのような状況の中鬱々たる主人大膳の有様を見て、寵臣某が某寺で祈祷呪詛したというものだが、実は「藩主重賢をも」という企てであったらしい。事は露見し寵臣某や祈祷を行った僧は死罪となった。関係者は国払い、所払いの処分を受けたが、大膳に対しての処分は「永蟄居」である。「先祖の武功家柄に対せられ・・・」ての配慮があった。跡式は弟四郎右衛門が「無相違本知被下置」かれて相続した。さて有吉家の系図を見ると不思議な家督の相続が続く事に気付く。四郎右衛門(立喜)の跡は大膳の嫡子立直が継ぎ、立直の跡は四郎右衛門の嫡子・立憲が継いでいる。その後四代に渡り同様のやり方で、家督が継がれている。執政の間でも「軽くても減知、まづは滅亡にて可有之」という空気があったらしいことが「隋聞録」から伺える。大膳の内室は細川内膳家忠雄女であり、父・祖父とその夫人は細川刑部家から入っている。「先祖の訳」が多分に働いている。大膳の処分は宝暦12年(1762)33歳、その死は寛政12年(1800)71歳であるが、その処分にはいささか首を傾げざるを得ない。余計な事だが・・・・
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神風連を考える

2007-08-06 14:21:02 | 徒然
 神風連のことについてより深く理解したいと思い、荒木精之氏の著作を再読してみた。神風連諸士の顕彰は、氏一人にして行われたといっても良かろう。その精神は敬神党の流れの中にあるのだろう。神風連に関する著作の素晴らしさに、何ら異を唱える事はなく、その偉業には只々敬意を表するものである。熊本の文化界の巨魁であり、善きにつけ悪しきにつけての影響力は今日まで及んでいる。声を大にして異を唱える事が憚られるような空気があるし、私の思考は氏とは対極にある。佐久間象山を殺害した河上彦斎の行為を、当然のこととされる考えには同調できない。彦斎を「凶暴な人斬り」と断じた勝海舟などにいたっては、「勝安房のあはれはおのれの怖けくてあしざまにいふ誠のひとを」と手厳しい。神風連諸士のお墓を独力(に等しい)で探し出された事など、恐れ入った行動だが其の時期は戦争の危機にある真っ只中であった。其の頃の発言は皇国史観に満ち溢れたもので、戦争に対する些か危うい発言も見える。それらの行動や発言はそうした時期の、氏の高揚した気持ちがそうさせたのかもしれない。しかしながら氏の発言を以って、神風連諸士の高潔な行動を何ら否定するものではないし、又氏の行動や発言を以って神風連を知りえた事に感謝しなければならない。
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