津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

お叱り

2008-08-12 09:18:17 | 歴史
 ガラシャ夫人の生害にあたり、屋敷に火を放ちながら見事の殉死を遂げた金津助十郎は、小笠原少斎・河喜多石見と共に後世に名を止めた。
『少斎(小笠原)と共に駆廻り御死骸のあたりへ猶燃草を投込、所々に火を散らし、台所にはしこを掛け、屋根の上にて大肌抜きつゝ立、われらハ金津助十郎と云もの也、越中守奥方生害にて少斎、石見(河喜多)も殉死を遂け畢ぬ、士の腹切て焔の中に飛入りしとなり、言上の表にはのせす候へとも、諸人の耳目を驚し勇猛の振舞なり』(綿考輯録・巻十三)
 助十郎には二人の男子が残された。助次郎・十二才、又十郎・七歳である。ガラシャ夫人の七回忌にあたり、夫々に弐百石が扶持された。

 寛永六年七月十七日、「於秀林院、今朝御法事御座候事」と日帳は記す。金津又十郎は、「栗野伝助を以被申候ハ、今朝之御法事ニ参候ハて不叶儀と存、三日かけニ参候へ共、煩然々無御座ニ付而、今朝御寺へも不罷出候、明日ハ早々可罷帰と存候、少よく御座候ハヽ、別府之湯ニ入申度存候由候、可然候由申候事」と、法事を欠席している。

 又、日付の分からぬ「御印物」に、「金津助太郎秀林院様焼香被成御免御詫言之事」として次のようなものがある。「三齋より御しかり候間我々所へ三齋より状も不参使も不参候間中つをよく仕候へと可被候仰候」

 法事の主役たるべき金津氏の欠席に、三齋はご機嫌を損じている。状も使いも無いけれど、中津(三齋居城)に詫び言でも入れるようにとの忠利の仰せなのだろう。
ガラシャ夫人の法事であると共に、夫人に殉じた勇士に対する祈りの場で有るだけに、金津又十郎・助太郎の「法事不参」は、軽率に過ぎるといわざるを得ない。
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Congratulations 内柴

2008-08-10 21:19:00 | 歴史
 オリンピック金メダル第一号の柔道の内柴正人は熊本の出身、嬉しさも又一入である。武道熊本の名をまた高らしめてくれた。県民こぞって「おめでとう」を申上げなければならない。まだ研究が及んでいないが、細川家家臣内柴氏との係わりがあるように思える。これを機会に、詳しく調べねばなるまい。まずはビールで乾杯と参ろう。
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素人療法・・・・の元

2008-08-10 16:35:38 | 歴史
 史料を読むと武士の素人療法や、薬草の処方などが窺がえる。お灸はともかく、鍼(はり)なども見よう見真似でやっていたらしい。次の記述などは、何とも非惨で話にならない。

 「丹後以来」の磯貝家の太左衛門は、御鉄炮三拾挺頭 三百石(於豊前小倉御侍帳)、 御添頭衆 三百石(肥後御入国宿割帳)等を勤めたが、中々の愛妻家であったようだ。
寛永五年七月廿八日・日帳に「磯貝太左衛門被申候ハ、女房衆のと(咽喉)ニ四月よりはれ物出来申候ヲ、此比はりをたて申候へハ、たてそこない、よの所ニたて、其上ふかくたて申候ゆへ、血とまり不申、相果申ニきわまり申候つる、就夫、せかれもめしつれ不罷出候、跡にて相果相果可申も不存候由、被申候事」とある。(福岡県史・近世史料編--細川小倉藩二p69)

 家禄が減じられる事も無かったようだが、素人療法がとんだ結果を招いた。
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入札

2008-08-10 15:17:56 | 歴史
 早鞆浦と呼ばれた関門海峡の門司の地の、本州側に一番近いといわれる処に「和布刈神社」がある。かっては「早鞆明神社」と呼ばれていた。
         members.jcom.home.ne.jp/eirakuan2/mo-mekari.htm

小倉藩細川家は寛永五年六月この神社の改修を行っている。六月六日の「日帳」に、「隼友(早鞆社)廻廊被成 御建候御奉行ニ、神西金右衛門尉・荒木権右衛門尉差遣候事」とある。六月廿日入札が行われた。
「隼友明神廻廊・廊下・橋懸り・ひさし・塀・同こしかけ・井かき・鳥居ノ立直・御料理間之たな、此分請切ニ申付、入札之覚
     一、米九十九石六斗  二左衛門
                    孫四郎
     一、同九十八石五斗  又兵衛
                    六左衛門
     一、同九十七石六斗  作右衛門
                    喜右衛門
     一、同九十七石     彦左衛門
                    次右衛門

 これが落札に至っていない。談合かと思われるような「札」で、上下弐石六斗の差しかない。「米の高」で入札という事も初めて知って驚いた。
 藩庁は「JV四社」に対して、「高八十石」に負けろとネゴにでる。後には「七十ニ石」まで引き下げられている。昔も今もやる事は同じだ。

 右之分ニ書上申候内を、高八十石ニまけ候へと申付内候へハ、作右衛門・喜右衛門ハ御まけ可仕と申候、内四十石只今御米、残分ハ銭を可渡と申候へにても可被下申候、又此方より申候ハ、七十石ニまけ候へと候ハヽ、御米斗可渡と申候、左様ニハいや申候、(林)弥五右衛門・(河田)八右衛門まけ候へと被申候へハ、七十二石ニ御まけ可申候間、御米斗可被下由、申候ニ付、七十二石ニ定申候、内三十五石ハたヽ今、残分ハ新米出来次第可渡と、堅約束相究候事」

 処が翌六月廿一日上記決定は覆った。
「昨日ハ大工作右衛門・喜右衛門七十二石ニ請申候へ共、彦左衛門・次右衛門と申す大工、七十一石ニせり申ニ付、七十一石ニうけさせ申由、弥五右衛門・八左衛門より被申越候、以上」
現代にも通ずる変な入札ではある。
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浴衣姿

2008-08-09 12:31:55 | 熊本
 夜所用で外出。熊本城内で花火大会があったらしく、沢山の若い男性・女性の浴衣姿が目に付く。
メディアの報道によると、今年の夏は浴衣がブームらしい。結構な事ではあるが、着付がなっておらず、なんともはや・・・。北京の「鳥かご」ならぬ、「鳥の巣」のような頭の女の子が、花火見物の為のゴザを小脇にしているのをみてギョッとした。まるで現代版「夜鷹」の風体ではないか・・男どもはといえば、角帯の結び方も知らず、帯がずり上がって前がはだけ・・不恰好この上ない。なんとも悪い物をみてしまった。(五人十人の話ではない)

 「火之国祭り」の初日のイベントだが、今日は二日目「おてもやん総踊り」が催される。今日もまたへんてこりんな浴衣娘が街を闊歩するのだろう。浴衣のブーム、喜ぶべきか悲しむべきか・・嗚呼
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御目見

2008-08-08 11:32:29 | 歴史
 「御目見は幾つ」という決まりは無かった様で、寛永七年九月七日の「日帳」がそれを表している。八歳から廿一歳までと様々であるが、御目見がなされておらずに絶家となる家が多いことを考えると、不思議な感じがする。

 御目見へ仕度と申上子供ノ覚 (奥村少兵衛)
 歳九つ 田辺つちの助  該当する名前なし
  十一 寺井藤蔵     寺井家系図に藤蔵の名前が見えるが時代が下っている。該当年代に於いては不明
  十五 金津十二郎    ガラシャ夫人に殉じた助次郎正直の孫・十次郎守政か
  十六 沢村権十郎    田邊籠城衆中村甚左衛門子・弥一の三男権十郎か
  十九 金子久四郎    該当する名前なし
  十三 ふわ大介     該当する名前なし
  廿一 早川久大夫    該当する名前なし
  廿  左兵衛子 加藤少大夫 該当する名前なし 
  十二  同   加藤権介  原城武功により被賞・新知百石
  十六 山田市ノ介    該当する名前なし
  八つ 甚右衛門子 平野甚九郎 該当する名前なし
  十一 吉兵衛子 岡伝蔵 於豊前小倉御侍帳に「御扶持方取・五人」とある
         右之分、書付上候也 

      該当する名前が確認できないのは、改名若しくは二三男であろうか。
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久しぶりの図書館浴

2008-08-07 18:23:05 | 徒然
 今日は少し風があって陽もそう強くない。とっくに返却日を過ぎている本を、催促を受けない内に返さねばと、チャリンコを駆って図書館に出かける。汗をかかないようにゆっくりゆっくりペダルをこぐ。木々が風を受けて、木漏れ日が揺れている。百日紅や夾竹桃、ノウゼンカズラなど、人様のお庭の花々を観賞しながら走る。プランターに見事にしたてられたパンジーが洋装店の店先を飾って美しい。水無川のわずかな水面にトンボが高く低く飛び交っている。久しぶりにゆったりとした気分になる。

  ・・涼風に揺らぐ木漏れ日 秋立つ日・・ など、ひねってみる。(汗)

 今日の図書館は返却が目的で、コピーもなし、調べ物もせずのんびり図書館浴、三冊ほどの本を借りる。外に出ると風が強い。おまけに向かい風になって、ペダルを懸命に踏まないと前に進まない。加えて上り勾配が多く、すっかり汗まみれになってしまった。シャワーを浴びてすっきりすると、肩や腕がこわっている。風がこたえた。

     ■日本人養成講座 三島由紀夫
     ■日本の名随筆・19 秋・歳時記 山本健吉
     ■21世紀の日本人へ 長井荷風

  「日本人」を意識したわけではない。偶然の所産である。
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「宝暦の改革の功罪」

2008-08-07 10:59:32 | 徒然
 「トピックスで読む熊本の歴史」という本がある。その中に「宝暦の改革の功罪」という項があって、「この宝暦の改革は、倹約と増税に苦しむ庶民には不評であり、家臣団の批判もきびしかった」として、次の四点を挙げている。
 1、宝暦二年、目付松野七蔵の上書
 2、安永三年、益田弥一右衛門の上書
 3、家老長岡主水との論争による、奉行井口庄左衛門の切腹
 4、家老有吉大膳家臣の藩主及び堀平太左衛門の呪詛

(1)は藩主・重賢の堀平太左衛門を大奉行に任用する人事に関する一件である。
その諫言は三度に及んだというが、重賢は七蔵が指摘する「平太左衛門の悪行(欠点)三ヶ条」を「承知の上での任用である。自分は平太左衛門の欠点をそれ以上承知している」と答えている。
(2)は安永三年の事であり、「宝暦の改革」に対する批判もある。
弥一右衛門は、「洩候而ハ御為相成不申儀と奉存候」といささか不穏当な言いようでこの上書を書き始めている。その指摘は18条に及んでいる。例えば画期的な刑法の改めなどについて異を唱えたりしている。政策論を異にするものであり、重賢はこれを握りつぶすことなく、堀平太左衛門に手渡している。平太左衛門はこれに答え、弥一右衛門に届けられた。
(3)かなり過激な論争が行われたのであろう。長岡主水は大いに機嫌を損ねたらしく、重賢に庄左衛門の下げ渡しを請うている。庄左衛門の切腹は、重賢の気持ちを慮っての事である。有能な士が失われた。
(4)これを「家臣団の批判」とするのは如何なものであろうか。論外な話ではある。
武士にもあるまじき、「呪詛」という卑怯な手段である。私は有吉大膳に関しての処分に付いては、大変甘いものであったと観ずる。

 最近「宝暦の改革」に関して、批判めいた論調が多く見える。
例えば田添源次郎の「地引合」等についても、「僅かの隠田は民間の余沢だ」とする識者がある。一つのルールによって藩政が動かされている以上、それはおかしい話だろう。

 総じて上記四点の指摘は、ご尤もとうならせるものではない。
 山本博文氏の「男の嫉妬」ではないが、政権外にある人の嫉妬心も窺がえて、正当な「批判」とも思えない。

 
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阿蘇南郷谷

2008-08-06 13:22:57 | 熊本
 いやはや暑い。三日ほど続いた34℃台が昨日は36、4℃、今日は37℃の予想が出ている。気温に係わる予想というものは、どうして導き出されるのか知らないが、これが良くあたる。今日はなんとか外れて欲しいものだ。

 昨日所用で阿蘇南郷谷・久木野(現南阿蘇村)に出かけた。かっては、九十九曲がりの俵山越えするルートで出かけていたが、南阿蘇道路が開通してからはすばらしいドライブコースである。気温も3℃位は低いようだ。涼しい風が心地よい。日が落ちてからの帰り道は、眼下の家々の明かりが美しく連なっていてすばらしい景色になっている。数年懸かりで5,000本の桜の植樹が計画されている南阿蘇だが、そのときは又一段と魅力ある地域になることだろう。ヒートアイランドの街中でうんざりするよりも、このすばらしい自然の中に身をゆだねて、余生を過ごしてみたいものだ。私よりも10歳ばかり歳下の同行のドライバーは、将来どうやら本気で南阿蘇に住む事を考えているらしい。私にとって街中にすむメリットは、唯一図書館が近いことだけである。ふと自動車で45分の道のりを、自転車で走ったらどのくらいかかるのだろうかと考えた。
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信実は闇「島崎騒動一件」

2008-08-06 12:12:18 | 歴史
 上妻博之先生の「肥後文献解題」をみると、「島崎騒動一件」「就御穿鑿仕上口書」という文書が存在する事が分かる。天保六年、いわゆる時習館訓導・河部仙吾を殺害せんと企て、事前発覚し一味徒党は捕らえられて、首謀者は刎首梟首(天保八年八月)されたという事件である。
 この事件についてはその詳細がよく分からない。どうも裏の理由があるようだが憶測での発言は慎まなければならない。

 同事件に関する「大塚仙之助・伊藤石之助列口書頭書」「同一件判決書」に於いても、裏の理由に立ち入る様な記述はない。
   ■大塚五郎右衛門嫡子・大塚仙之助
      苗字双刀御取上 刎首 さヽ札三日長六橋
   ■伊藤楯之助弟・伊藤石之助
      苗字双刀御取上 刎首 梟首三日同(長六橋)
   ■横山藤左衛門嫡子・横山清十郎
      苗字双刀御取上 刎首
   ■堀内七郎右衛門嫡子・堀内彦右衛門
      苗字双刀御取上 刎首
    この四人は「高麗門囲内」で処刑された。

その他
   苗字双刀御取上・囲入
      三井三郎兵衛(三井直右衛門嫡子)
      水野熊太郎(水野清左衛門嫡子)
   苗字双刀御取上・禁足
      鎌田新三郎(鎌田甚吉嫡子)
      鈴木 央(鈴木甚兵衛嫡子)
      佐々布準助(佐々布蔵次郎二男)----参考欄参照
      荻 豊熊(荻吉九郎二男)
   士席指放・禁足
      岩間小左衛門(岩間此面嫡子)
      仁保平太郎(仁保吉右衛門嫡子)
      内山為彦(内山小右衛門嫡子)
 これらの処分は、嘉永四年十一月に至りようやく「御免」となった。
 以下「不被召仕」「逼塞」等々の処分がなされている。

 ここで気づくのは嫡男が多い事である。戸々の処分についての資料は「父兄・親戚等へ御沙汰之儀ハ機密間記録ニ相成候」とあり定かでない。お取潰しになったり、家禄没収になったりという事は、侍帳の記述からは伺えない。「熊本県政資料」に「機密日記」というものがあるが、数十冊に及ぶ資料でいささか腰が引けている。いつか探し出したいと思っている。

 【参考】 
 佐々布篁石 南画家。名は直方、通称準助、後才三郎改む。篁石は画名なり。
       文化十四年七月七日生まれ、明治十三年十一月廿九日死去。
       佐々布蔵次郎子。天保六年の某事件の主犯四名(八年八月死刑)
       と党せしを以って、終身仕官することを得ず。


 
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細川家家臣・小栗氏

2008-08-05 08:33:29 | 歴史
 昨年6月9日・10日に渉りブログに書いた「肥後藩士小栗氏」のことである。重複する部分があるが、「預り人シリーズ」の最終回として再登場である。

 「越後騒動」事件は、越後国高田藩で起こった御家騒動。 藩政を執っていた首席家老小栗美作と、これに敵対するお為方を称する一族重臣とが争い、将軍徳川綱吉の裁定で両派に厳しい処分が下され、高田藩は改易となった事件である。(ja.wikipedia.org/wiki/越後騒動) この事件に連座した美作弟・小栗兵庫(家老職1,000石)の幼い子供四人が細川家に預けられ(延宝九年-1681-七月)、四十年の長きに渉り囲い屋に止められた。解放(享保五年-1720-九月)後、細川家家臣として召し出されたが、何とも気が重くなる事件である。長男岡之助、三男六十郎は四十年振りに囲い屋を出るが、二男・四男は囲い屋をでることなく亡くなっている。

 六十郎は後に改名、九十郎を名乗る【小栗半十郎家】の初代である。
岡之助についてのその後の消息は分からない。
                              切腹       切腹
 大六重国---備後守重勝---吉六正重---+--美作守正矩---大六長治
                           |
                           |  流罪・八丈島(死去)
                           +--兵庫---+--●
                                   |
                                   +--● 男子三名・松平陸奥守御預(二名死去)
                                   |
                                   +--●
                                   |
                                   +--○ 姉・京都在住
                                   |
                                   +--岡之助(当時八歳)
                                   |
                                   +--八之助(当時六歳)元禄七年五月病死
                                   |
                                   +--六十郎(当時四歳)
                                   |
                                   +--小三郎(当時二歳)正徳三年四月病死

 小栗氏出自については、ウィキペディア「ja.wikipedia.org/wiki/常陸小栗氏」を参照されたい。
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細川家家臣・細田氏(荒木氏)

2008-08-04 13:31:20 | 歴史
 織田信長に抗し妻子や家臣等の多くを虐殺されながらも生き続け、後に利休十哲(七哲は間違い)の一人とされた荒木村重(道薫)の遺児の子孫である。
            ja.wikipedia.org/wiki/荒木村重
 遺児についてはその幾人かが、家臣や乳母などの手により命を永らえている。
著名な人としては、岩佐又兵衛(江戸初期の絵師)などもその一人とされる。
            ja.wikipedia.org/wiki/岩佐又兵衛

 ■荒木十次郎という村重の息が在ったらしい。その子が荒木七蔵(左馬助)である。自分の意に反して不幸な事件に遭遇し不遇の人生を送った。綿孝輯録は次のように紹介する。
 
 荒木左馬助ハ攝津守村重の孫ニて、父ハ新五郎と申候、左馬助幼少にて親ニ離れ、浅野但馬守殿江罷在候へ共、御直参を願ニ而京都に居住、烏丸光広卿前廉村重と御入魂の訳を以江戸に被召連、光尚君へ被仰談候、則忠利君より被仰立、公儀江被召出候、其比御城女中あらきと申人子無之ゆへ左馬助を養子可仕旨上意有之、親類ニ而も無之候へとも上意ゆへ親子のむすひいたし候、然処右之女中故有て今度流罪被仰付候間、左馬助も其儘被差置かたく御預ニ成、後熊本ニて果候

  (寛永廿一年)五月十日御老中より之奉書)
 一筆申入候、荒木左馬助事、母不届有之付、其方へ被成御預候間、其国可被指置候、扶持方等之儀委細留守居之者迄可相達候、恐々謹言
     五月十日               阿部対馬守
                          阿部豊後守
   細川肥後守殿              松平伊豆守
                     (綿考輯録・巻六十一)

 その子孫が細田氏を名乗り細川家に仕えた。
初代は細田政之允、御使番 堀次郎左衛門組 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
                 細川綱利公御書出(元禄四年)二百石
また雑撰録-巻3に、「細田系図」「荒木略記同系図」等が残されている。

 【参考】細川家家臣・荒木善兵衛も荒木攝津守村重の子である。「天正七年、村重有岡城没落之砌、幼稚ニ有之候を密に忠興君に被預置候由、成長の上無役の御知行三百石被下、中島備中と両人高守城御城代被仰付候処、備中は御光様御供ニ而当春江戸二被差越、善兵衛一人にて相勤居候を、今度幽斎君御下知を以高守を引払ひ、田辺二罷越候豊前にては門司の城ニ被差置、於彼地病死」(綿考輯録・巻五)
   留守居組 筑城上毛郡奉行 丹後 島組弐百石 (於豊前小倉御侍帳)とある。


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細川家家臣・楯岡氏

2008-08-03 18:09:26 | 歴史
 私の知る限りで、細川家にお預けになった人で、本人若しくは子息などが細川家に召し抱えられた家が三家ある(楯岡氏・細田氏・小栗氏)。その内の一人楯岡孫市郎の父・最上甲斐守光直は、いわゆる「最上騒動」に連座し小倉細川家にお預けとなる。
    (ウィキペディア--最上騒動) ja.wikipedia.org/wiki/最上騒動
    (武家家伝--最上氏) www2.harimaya.com/sengoku/html/mogami_k_dj.html
    
【最上は家久敷代々出羽の領主ニ而山形ニ在城、元和三年家親卒去、嫡子源五郎義俊幼年之処、家臣不和にして論争いたし、幼主を可守立志ニ不至領地被召上、家中の歴々ハ西国の大名衆に御預、楯岡も今度小倉ニ被差下候・・】と綿孝輯録は紹介する。

 元和八年十一月二日、最上義俊の一門家老楯岡甲斐守光直、忠利君御預之事ニ付而御国江之御書民部(小笠原民部)者急差下候、最上浪人楯岡甲斐と申仁我等ニ被成御預候間、跡より可差下候、甲斐守下着次第、百人扶持相渡可申候、宿ハ何レニても寺を可申付候、下国之上家ハ可申付候、当分之兵粮塩噌以下見計可申付候、謹言。
直々、甲斐守大阪よりも船中廿日分為賄百人扶持相渡候へと申付候、又甲斐守人数上下百弐三十人も有之由ニ候、可有其心得候、以上。
    十一月二日                      内 忠利   (綿考輯録・巻二十九)

  11代         12代
  最上義守---+--義光---+--義康
          |       |  13代  14代
          |       +--家親---義俊
          |       |
          |       +--義親
          |       |
          |       +--(山野辺)義忠
          |
          +--光直---+--孫一郎・定直---→(楯岡小文吾家)
                  |
                  +--蔵之助--------→(楯岡三郎兵衛家)

 
 甲斐守光直(哲斉)は、最上義俊一門家老、一万三千石・楯岡城主、父は山形最上氏11代当主の最上出羽守義守であり、姉は伊達政宗の生母である。

その光直や家族についての消息がある。
          
 寛永十九年八月五日付 「松平伊豆守・阿部豊後守宛--細川光尚書付」抜粋
最上源五郎(義俊)家来楯岡甲斐守(義久)、元和九年亥之正月ニ越中守(忠利)ニ被成御預ケ候、寛永六年巳之五月ニ於豊後國小倉歳六十ニ而病死候、其子孫一郎歳廿二、弟蔵之助歳十五、孫一郎姉歳四拾四、家中村井内蔵助と申者ニ女房ニ遣シ、于今熊本ニ罷有候事 
       (大日本近世史料・細川家史料十五 p162)

 嫡子孫市郎が正式に召し出された時期ははきとしない。 
孫市郎・定直 
    (1)御扶持取方 百人 此子孫代々席上 (於豊前小倉御侍帳)
    (2)百人扶持  (肥後御入国宿割帳)
   *肥後入国後御知行千石被下、座配御左之着座二被仰付、慶安の比よりハ
    松野・木下・津川・楯岡と次第いたし四番座ニ相成・・・・・(綿考輯録・巻二十九)
    (3)人持衆、番頭并組外衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
    (4)千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
    (5)有吉頼母允組 千石 (寛文四年六月・御侍帳)
    室・尾藤家初代金左衛門女(尾藤家系図)
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跡式

2008-08-02 15:58:19 | 歴史
 「於豊前小倉御侍帳」に「内藤喜兵衛 江戸江相詰衆 百石」という記載がある。その後の侍帳には一切その名前が見えない。

 「福岡県史・近世資料編--細川小倉藩(一)」の、寛永四年二月の「日帳」に喜兵衛に関する幾つかの記述が見える。

■二月廿六日:内藤喜兵衛今月十七日ニ病死被仕候由、福田権兵衛登城ニ而、被申候事 
■二月廿七日:式部(松井興長)殿より、山本源大夫御使ニ被遣候様子ハ、内藤喜兵衛儀病死仕候、就夫、喜兵衛女房ノおいを養子ニ仕置候通、古傍輩衆ニ当書物仕置候、かのものヽ儀、式部殿も終ニ不被成御覧候、勿論御目見えも不仕由候、左候ハヽ跡式ノ儀如何可可有御座候哉と候て福田権兵衛右ノ書物を被持来候ニ付、源大夫を付被遣候、式部殿思召候ハ、直子さへ、御目見えを仕候ハねハ如何ニ候処ニ、其上養■子、殊ニ女房ノおいニ而候間、中々 殿様へ申上儀ニて有之間敷と被思召候、併、か様ノ衆も立 御耳、御ふち方等成共被遣たる儀も候ハヽ、其分ニ御さた尤ニ候、無左候ハヽ、早々不成候由、権兵衛ニ可被仰聞候、重而式部殿へ不及御尋候、又麦作等大分知行所ニ仕置由候、是ハ被遣ニ而可有之候哉、是も被召上ニ而候ハん哉、とニもかくニも、か様ノ埒を明申様ニと候、此方より申候ハ、只今(浅山)修理めしたべニ参候間、登城被仕次第、談合仕、権兵衛方へ可申渡候由申候、又知行所ノ儀ハ時分柄ノ儀ニ候間、御代官衆へ可引渡由、御使ニ候事、何も得其意申由、御返事申候事

右ノ喜兵衛知行ノ儀ニ候間、可被請取由、粟(栗)野伝助ニ申渡候、又作付候麦ハ妻子ニ遣可申ニ、伝助なと談合相究申候、又養子ノ事ハ直子ニても、今迄御礼不被申上衆ハ、申上候儀不相成候間、可被得其意由、福田権兵衛ニ申渡候、又喜兵衛小倉ノ家ハ上ヶ可被申候、在郷ニ被立候家ハ、女房ニ被遣ニ而可有之ニ、相談究申候事

 その後この件に関する記述は見えない。跡式は認められず、屋敷は取り上げられ在郷に引っ込む事になる。「御目見」がなされていたら、少しは状況が変わっていたのかもしれない。「江戸江相詰衆」であった喜兵衛は、忠利の覚えも目出度き人で有ったのではないか。それでも「定」は現実的で冷酷である。
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細川家家臣・横井氏 & 平野氏

2008-08-01 10:30:33 | 歴史
 「三つ鱗紋」は北条家の家紋だが、細川家家臣に中にもこの家紋を使う二流の家がある。横井氏と平野氏である。共に遠祖を北条時行とする横井氏の流れでまさしく同根である。細川家召出しの事情ははっきりしないが、横井家祖・時次が寛永九年(1632)細川忠利肥後入国に随伴した事による。平野氏については、九郎右衛門・長之が「父と共に大阪に籠城し、後洛外に居住、元和八年豊前召寄せられ、知行五百石組外に差し置き。忠利代元和八年八月、三百石加増、小姓頭。其の後大目付。寛永元年八月、百五十石加増。島原乱の時光尚に近侍、武功吟味役。」とされる。推測の域を出ないが、長之の祖父・大炊助長治が清原業賢子(宣賢孫=幽齋従兄弟)である事によるのではないか。

                                      雅楽助  牛右衛門
 北条時行---行氏---+--時任---時利---時長---時勝---時延---時春(肥後横井家)
              |
              |                              甚左衛門 九郎右衛門
              |                            +--長景---長之
              |                            |      (肥後平野家)
              |                 万久  大炊頭   |
              +--行宗---宗長---宗房---賢長===長治---+--長泰(旗本平野家)
                                       ↑
                      清原宣賢---+--業賢---長治
                              |
                              +--女
                                 |---細川藤孝
                               三渕晴員

■横井牛右衛門(弥二右衛門・時春)  
   原城にて武功之面々御褒美被下候--黄金一枚(綿考輯録・巻四十九)
       (1)供之者・御扈従与也 三百石 (於豊前小倉御侍帳)
       (2)御小姓組 三百五十石
       (3)御鉄炮頭衆 七百石 (真源院様御代御侍名附)
       (4)七百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
   嫡家・然平家、平四郎家、覚家の三家が明治に至った。
   横井平四郎こそ幕末の偉人横井小楠である。

■平野九郎右衛門・長之  
       (1)供之者・御扈従与也五番  千石 (於豊前小倉御侍帳)  
       (2)御小姓組衆・頭 千石 (肥後御入国宿割帳)
       (3)人持衆并組外衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
       (4)千石   (真源院様御代御侍免撫帳)
     正保頃~万治三年(病死)小姓頭
     御小姓頭の折、側用人神谷矢柄の専権に対し、新参者の頤使するを慊からずとして職を辞す
    嫡家・九郎太郎家、七角家、弥平家、甚兵衛家の四家が明治に至った。

 (ちなみに、サイト・芙蓉家系研究所の「異聞歴史館」中に、秀逸な「横井一族の系譜」が紹介されている)
      www.kakeiken.com/index.html・・・リポート欄

  平野長泰  ja.wikipedia.org/wiki/平野長泰(ウィキペディア)
          www2.harimaya.com/sengoku/html/hirano_k.html (武家家伝)
 尚、寛永三年十一月十六日・日帳に、「大坂ニ而川御座一艘并荷舟一艘、平野遠江(長泰)様御かり被成旨、(略)」とある。懇意な付き合いを伺わせる記述である。

コメント (2)
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