ガラシャ夫人の生害にあたり、屋敷に火を放ちながら見事の殉死を遂げた金津助十郎は、小笠原少斎・河喜多石見と共に後世に名を止めた。
『少斎(小笠原)と共に駆廻り御死骸のあたりへ猶燃草を投込、所々に火を散らし、台所にはしこを掛け、屋根の上にて大肌抜きつゝ立、われらハ金津助十郎と云もの也、越中守奥方生害にて少斎、石見(河喜多)も殉死を遂け畢ぬ、士の腹切て焔の中に飛入りしとなり、言上の表にはのせす候へとも、諸人の耳目を驚し勇猛の振舞なり』(綿考輯録・巻十三)
助十郎には二人の男子が残された。助次郎・十二才、又十郎・七歳である。ガラシャ夫人の七回忌にあたり、夫々に弐百石が扶持された。
寛永六年七月十七日、「於秀林院、今朝御法事御座候事」と日帳は記す。金津又十郎は、「栗野伝助を以被申候ハ、今朝之御法事ニ参候ハて不叶儀と存、三日かけニ参候へ共、煩然々無御座ニ付而、今朝御寺へも不罷出候、明日ハ早々可罷帰と存候、少よく御座候ハヽ、別府之湯ニ入申度存候由候、可然候由申候事」と、法事を欠席している。
又、日付の分からぬ「御印物」に、「金津助太郎秀林院様焼香被成御免御詫言之事」として次のようなものがある。「三齋より御しかり候間我々所へ三齋より状も不参使も不参候間中つをよく仕候へと可被候仰候」
法事の主役たるべき金津氏の欠席に、三齋はご機嫌を損じている。状も使いも無いけれど、中津(三齋居城)に詫び言でも入れるようにとの忠利の仰せなのだろう。
ガラシャ夫人の法事であると共に、夫人に殉じた勇士に対する祈りの場で有るだけに、金津又十郎・助太郎の「法事不参」は、軽率に過ぎるといわざるを得ない。
『少斎(小笠原)と共に駆廻り御死骸のあたりへ猶燃草を投込、所々に火を散らし、台所にはしこを掛け、屋根の上にて大肌抜きつゝ立、われらハ金津助十郎と云もの也、越中守奥方生害にて少斎、石見(河喜多)も殉死を遂け畢ぬ、士の腹切て焔の中に飛入りしとなり、言上の表にはのせす候へとも、諸人の耳目を驚し勇猛の振舞なり』(綿考輯録・巻十三)
助十郎には二人の男子が残された。助次郎・十二才、又十郎・七歳である。ガラシャ夫人の七回忌にあたり、夫々に弐百石が扶持された。
寛永六年七月十七日、「於秀林院、今朝御法事御座候事」と日帳は記す。金津又十郎は、「栗野伝助を以被申候ハ、今朝之御法事ニ参候ハて不叶儀と存、三日かけニ参候へ共、煩然々無御座ニ付而、今朝御寺へも不罷出候、明日ハ早々可罷帰と存候、少よく御座候ハヽ、別府之湯ニ入申度存候由候、可然候由申候事」と、法事を欠席している。
又、日付の分からぬ「御印物」に、「金津助太郎秀林院様焼香被成御免御詫言之事」として次のようなものがある。「三齋より御しかり候間我々所へ三齋より状も不参使も不参候間中つをよく仕候へと可被候仰候」
法事の主役たるべき金津氏の欠席に、三齋はご機嫌を損じている。状も使いも無いけれど、中津(三齋居城)に詫び言でも入れるようにとの忠利の仰せなのだろう。
ガラシャ夫人の法事であると共に、夫人に殉じた勇士に対する祈りの場で有るだけに、金津又十郎・助太郎の「法事不参」は、軽率に過ぎるといわざるを得ない。