津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

吉村文右衛門上書 - 3

2009-07-24 07:40:13 | 歴史
              あらかき 質部屋

         手永/\の惣庄やのもとに阿ら加き質部屋と申もの
         御座候 御年貢とゝこふり申候節取立申候ためあらかき質部屋ニ
         御百姓や其妻や子を入申候由其様子を承り申候へハ誠に
         情ケなき事ニ奉存候 寒気の時分ニ只単物一ッ着せ入申候 左候へハ
         寒風ニ吹連雨雪にもすぐにあひ申候由或ハ水なと志かけ水の中に
         立せ置申候様成候仕方も御座候由尤所により替り申とも承り
         申候 右之様ニ仕候而二三日ニも及申候へハ皆人心地なく成り申候而
         口こをりものも申得不申飲食も仕得不申半死半生の  
         躰二成り申候由或ハまた外ニ柱を立ならへ手足もはたからぬ

         やうに志ハり付五日も六日も御年貢立申迄ハさらし置申候由
         其親子兄弟の心の内ハいか程か悲しく可有御座哉推計ら連
         不便(憫)至極成ル事ニ奉得候 ケ様ニ不仕候共其外二取立様何とそ可有御座二
         情なき仕方ニ奉存候 孔子の御詞ニ初而俑を作るものハ後なからん
         かとその人々象りて作るか故ニ不仁の事をいたミてケ様ニ仰ら連候
         聖人の御心にハ俑だにいたましく思召候にケ様ニ百姓を苦しめ
         申候 其不仁のほと何とか思召上させられ候哉彼等目前ニ
         父子兄弟の苦ミを見るに忍ひ得不申あらかき質部屋を
         出して苦しミをまぬか連志ためか家屋敷田畠をうり
         なと仕候而御年貢を立申候へハ其時ゆるして帰し申候由、ケ様ニ
         せめら連申所より不慮ニ御百姓をたをし申候も多ク御座候と

         承り申候 此質部屋あらかきを相止申様ニ有御座度奉存候 桜
         田新蔵と申候御代官ハ右之質部屋あらかきを用不申
         御百姓をいたはり申候由左様ニ仕候へハ御百姓共いつ連もケ様ニ
         慈悲ある御代官にひけをとらせ申なと申候而御年貢を急キ
         立申候故脇ニよりも一番に御年貢相済申候と承り申候
         御勝手向後極々被遊御差支、御國不安困窮仕候ハ、御百姓無力
         仕候故ニ御座候と奉存候 御百姓無力仕候へハ御郡方諸役人不正
         御百姓出方多ク相成申候故と相聞申候 前々御百姓も多御座候而
         御百姓今程ニ難儀不仕時節ハ
         上之御差支も今程ニ無御座只今御百姓極々難儀仕候へハ
         君もまた極々御勝手向被遊御差支候 百姓たゝすんハ

         君誰と共ニかたゝんと申候事的然たる事に奉存候 誠ニ君と民と
         本一骸(ママ 體カ)ニ而民を犯すハ君を肥の理、形影のことくに御座候民ハ
         惟邦の本 本固け連ハ邦寧しと申候に今の諸役人ハ
         自分ニ利益御座候へハ御百姓をそこなひ申候事をも省ミ不申
         邦の本を弱ク仕候故 御國ケ様に不安ニ奉存候 耕作の道ハ
         初之手入第一と承り申候後の出来不出ハ皆手入ニより申候
         由御座候 只今の御百姓無力仕候故手入をよく仕得不申候 

             夫遣

         惣躰御百姓夫につかハれ申事多ク相成申候由是又年々不作
         仕本ニ御座候 今の民を使申候へハ甚志けく御座候と承り申候
         農人に承り申候へハ耕作の道一日の遅速ニ而殊之外善悪

         御座候由 そ連に数日のまをく連に成申候而ハ不作仕る筈の事に
         御座候 今夫につかはれ申候事必しも大切之時節迄ニ多クつかはれ
         申候故不仕候而ハ不叶事と申候而歎き申候 尤至極ニ奉存候
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頓写会

2009-07-23 16:36:45 | 熊本
 今日七月二十三日は加藤清正公の命日である。お墓がある本妙寺では夕方から頓写会(とんしゃえ)というお祭りが行われ、毎年七・八万人の参詣客で賑わいを見せる。
清正公の三回忌に、山内の僧侶が一夜にして法華経(69,384文字)を写経したことにより、頓(すみやか)に法華経を写経した法会ということに由来して、「頓写会」とよばれている。

    http://www.honmyouji.jp/tonsyae.html

    ja.wikipedia.org/wiki/本妙寺_(熊本市)
    www.honmyouji.jp

清正公は地元では「せいしょこさん」と親しく呼ばれている。清正公様という二重敬称で尊敬されるが、司馬遼太郎をして農業土木の神様と言わしめた。まさしくそのとおりで、色々な遺構が現在も現役で残っている。細川忠利は肥後入国に際し、熊本城に入ると一番に本妙寺の方向を拝して深く頭を垂れたという。細川家は代々加藤清正を厚くおまつりしている。
かって私は本妙寺の近くに二十年ほど住まいした。頓写会の夜は知人友人があつまり、ドンちゃん騒ぎがきまりであった。わが散歩道として親しんだ参道や「胸つき雁木」は、善男善女で満ち溢れ一夜限りの大賑わいを見せる。来年は清正公歿後400年を迎える。
    
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吉村文右衛門上書 - 2

2009-07-23 06:49:31 | 歴史
          御國難儀の大概
       
       御國難儀の大概御侍は大小身共ニ困難儀と申んから大身ハ
       大身たけにも可有御座歟たゝ無役の御侍至極難儀と相聞申候
       御侍以下軽輩之面々なを/\難儀仕ル由ニ御座候 皆ゝ飢寒の
       患にも及申と相聞申候 只々御役人とたに申候へハ大かた内福ニ御座候而
       難儀不仕由ニ御座候 又御百姓の有様ハ言語同断之事ニ而御座候 前ハ
       家の三十軒も御座候ゐし村 漸十五軒になり十軒ハ五軒ニ
       減し皆々御百姓を仕兼候ゐて家をうり屋敷を拂 高を上ゲ
       父子兄弟夫婦の者奉公に出或ハ年期の奉公にゆき或ハ
       永代に身をはめ或ハ髪を剃里てはつちを比らき或ハ乞
       食に出兄弟妻子おもひ/\に離散候故村々の御百姓

       次第/\に少く相成申候由ニ御座候 去年より今年に至り申候而は
       少々残りとゝまり申候 御百姓も飢寒に及申候故こらへ兼
       申候而手々に椀をさけ皆々乞食ニ出申し是を憐ミおもへる町人
       寺なと施行をひき申候へ者 とこの施行に弐千人 こゝの施行に
       五千人六千人御座候ゐしと日々承り申候ゐしか麦作出来仕候而
       大かた在所/\に帰り申候由麦作も仕置申さぬ者共ハ帰申而も
       益無御座候故是等ハ所々の屏下或ハ寺々の門や木かけなとに
       臥して夜を明し昼ハ終日乞食仕候よし左様ニ仕候而も飢を
       志のき得不申歟こゝかしこに倒れ臥して餓死仕候者日々
       多御座候由承り申候 御侍御百姓右之通ニ御座候へハ工商の二民
       も不宣と相聞申候 工人ハ器を作り出し申候候而も買用るもの

       少く商人も買人も少く御座候へハ利を得る事少く寺社瞖山伏之
       類迄得物乏ク日雇取ハ雇ハれ不申皆々難儀仕在之末々二至迄
       御役人のミ日々内福ニ成申候由御座候 右之通ニ御座候得ハ諸人
       打寄/\西も東も差支之事迄申候而歎き申さぬものハ無御座候
       何方ニ参候而も気のつまり申咄迄ニ御座候 ケ様ニ御座候処より
       前ニも申上候通りニ
       上之御事を茂諸人口々ニ奉誹謗候 ケ様迄ニ御座候而ハ気毒
       千萬成る儀ニ奉存候 兎角 御仕法も替り不申候而ハ成申間敷と
       乍恐奉存候 御國の難儀一年増にさしつまり参り申候
       五ケ年以前よりハ二三年前ハさしつかへ三年前よりハ
       去年ハまたさしつかへ去年よりハ今年ニ至り申候而ハ又々

       つまり参り申候 此つもりハ何と成り可申哉気の毒に奉存候
       ケ様ニ御座候得ハ御侍中も十ニ八九ハ義理を忘連申候と相見申候
       媚遍つらひを旨と仕り利録立身を心懸申候 昔ハ御郡代
       奉行なとハ諸人きらひ申候事と承り申候二當時ハ御郡奉行ニ
       成申儀を諸人殊之外ニ望申候と承り申候 如何様御郡奉行ニ
       成申候へハ俄ニ内福ニも成申と承り申し定而御郡におゐて
       利益も御座候哉と奉存候 御留守居組なとにも入申候儀を昔ハ
       口惜き事ニ奉存候由唯今ハ御留守居組ニ入申候而も御役ニ付
       申候へハ悦ひ申候由承り申候 ケ様に不義の富を求メ義を失ひ
       利欲第一の心になり果申候者共御役人ニ相成申候而ハ御為ハ次キ二
       仕り私欲を先キと可仕と奉存候 諸役人ハ私欲不仕義正し

       かるへき人ニ被仰付候様ニ有御座度乍恐奉存候
       
    
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「細川ガラシャの娘・お長」

2009-07-22 22:28:39 | 書籍・読書
 7月15日のブログ「見つからぬ本・・そして雑感」で、渋谷美枝子著「細川ガラシャの娘・お長」について書いた。takaさんや、光千代さんからコメントを戴いたが、夫々苦労をされてお読みになっておられるようだ。私はといえば思いがけない事に、日頃いろんな事でご教示を戴いているPさんからご連絡いただき、お持ちになっている同書をお送りいただく旨のお申し出をいただいた。昨日手元に届き感激を新にしている。「日本の古本屋」でチェックしても手に入らない本が沢山ある。いつも気を着けて検索しているのだが、同書などはどうやら今後とも顔を出すようには思えない。こういう形で同書にお目に掛かれたことを大変嬉しく思っている。只々感謝である。
コメント (3)
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吉村文右衛門上書 - 1

2009-07-22 21:25:46 | 歴史
 吉村文右衛門が、延享三年六月廿一日に上げた上書を、4~5回に分けてご紹介する。
時の藩主は宗孝、父・紀宣の死により遺領を相続した享保十七年は14歳であったが、この年に
享保の大飢饉が発生6,000余人の死者が出た。享保十九年(1734)には、大雨・洪水等による
被害三十六万石 、寛保二年(1742)には関東諸川改修手伝いを命ぜられている。
(支出127,230両 ) 延享三年(1746)には九州巡見使が熊本にも入ったが、文右衛門の上書
はこの年に上げられた。しかし宗孝は翌年、延享四年(1747)江戸城中にて板倉氏と誤認せら
れて刃傷に及ばれ、不幸な最後を迎えるのである(30歳)

 そして、細川重賢の登場となるのだが、堀平太左衛門をして「宝暦の改革」に当るのである。
吉村文右衛門上書にも目が通されたことは当然のことであろう。
文右衛門の上書の最後には「誠惶誠恐 頓首頓首 死罪死罪」とある。
死を覚悟しての上書であったのだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
        吉村文右衛門上書    上妻文庫所収


     君憂るときハ臣労し君辱しめ能るゝ時ハ臣死スと
     申候へハ私式にハ御座候得共
     御国不安ニ付寸志を記し   御下國を奉待候 御勝手
     向次第ニ被御遊御差支候處より御國中四民共ニ困窮ニ及申候
     就中農民のいたミと申候ハ不怪事ニ御座候 如是ニ御座候得共
     上之御事を茂御國中之諸人色々誹謗し奉り或ハ愚痴
     無知之輩ニ至り申候而ハ御情なきと奉怨とも相聞申候 旅人も
     多く御國を出入仕事ニ御座候へハ是一國之唱宣し加らさる迄ニ
     無御座 他國之聞へも不宣と奉損候へハ不省恐多事愚意を申上候
     然るに世間に申候ヲ承り申候へハ ケ様の時節忠義たて申出候ハ 
     甚タ愚なる事ニ御座候由 其故ハ迚も用らるゝ事ニ而も無御座

     道の行ハ連さるニ當つて忠言を申候ハ譬ハ大廈の倒
     連と仕候を一木を以て支へんと仕るに等としく是ミつから
     身の禍を招クのミ更ニ益なき事に御座候 昔上表して
     憲宗の怒りに遭ひ或ハ懐王を諌めて子蘭か讒を受し
     たくひ皆自招自取所の禍ひなりと申候由尤に相聞申候
     然共民凍餒の苦しミ御座候而
     君まさに他邦の嘲を受たまふへきを見ても口をつくみて
     志らしめ奉らさるハ臣の道と可申哉古来金言耳に逆ふ
     習ひに御座候得共
     御機嫌を損シ申儀可有御座哉と奉存候得共ケ様に申上候
     うへハ本より身を省ミ申所ハ少しも無御座候只々

     御國の不安と他國の申さん所と千万気之毒ニ奉存候故 私式
     不似合申上候事御座候得共左ニ相記シ乍恐奉言上候

           奉言上條々目録
     一、御國難儀の大概
     一、あらかき質部屋
     一、夫遣
     一、聚斂
     一、御百姓の害
     一、軽キ御役儀
     一、片落万遍
     一、人才
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元若狭衆-魚住市正

2009-07-22 12:42:15 | 歴史

■ 魚住市正(昌永)  
   若州逸見一族にて、家老相勤候、逸見駿河守没落已後、於青龍寺被召出、御知行
   百石被下候、其砌丹後御拝領、国人御取鎮之御人数不足之御様子ニ付、逸見の家
   来残居候者共相催し、罷越相勤候処、御懇之御意被成下候、高麗陳其外所々御陳
   之御供仕、相働、追々御加増三百石被下、御鉄砲十五挺御弓十五張の頭被仰付候、
   豊後木付ニ被差越、於彼地働申候、豊前御拝領之節、木付并数度戦功之為御褒美、
   御知行千七百石御加増、都合二千石ニ而御郡代、御留守支配相勤、病死
                (綿考輯録・巻五 魚住加助【田辺城籠城】項)

● 魚住嘉助(市正嫡男 正重) 【田辺城籠城】
      (1)七百石 馬廻組(三渕)  (於豊前小倉御侍帳)
      (2)御馬廻衆・添頭 七百石 (肥後御入国宿割帳)
   加助は市正嫡男也、幽齋君御側ニ被召仕十七歳の時傍輩に意趣有之、伏見京橋ニ
   出合討果、直に若狭江立退候、当時丹波國に身を隠し居候処、田辺御籠城之段きヽ
   付、白昼に敵陳を凌き、御城に籠り走廻り働候段、篠山五左衛門申上、咎被成御免、
   御知行七百石、御使番ふれなかしの触元被仰付、并七本はれん御指物拝領、小倉
   にて病死、其子孫四郎(後改加助)幼年ニ付、先御知行三百石被下、十五歳ニ成候
   節、七百石被下候、有馬御陳之節、弟孫四郎と一同ニ御供、御帰陳之上果候、御軍
   法を背候間、跡式不被仰付候、弟孫四郎江三百石被為拝領候処、様子御座候て、御
   暇被下候、        (綿考輯録・巻五 魚住加助【田辺城籠城】項)
     
     消息:寛永元年八月二日「日帳」 (福岡県史近世史料編・細川小倉藩第一 p2)
         沢村大学殿登城ニ手、魚住加助相果申ニ付、書をき仕、御奉行衆へあて
         申候を、大学殿持参被成候事、加助申置候様子、段々御奉行衆へ物語ニ
         候事、殿様へ上ケ申道具、七匁玉鉄炮壱丁・くら壱口上ケ可申由ニ候事
     嫡子*加助等消息:寛永十五年四月廿五日付「覚」 
                       (熊本縣史料近世編第二 p408)
         四月廿五日ニ病死
            七百石         魚住加助 
               同人子歳三ツ     久八
               同人弟歳拾九     孫四郎
               同人歳廿        妹壱人
                             後家
         御書入 おとヽニ別ニ知行遣候ニ加介事不奉公者にて候つれとも
           おや・おうしニたいし遣候つる跡はたて申ましく候
     
 
● 魚住傳左衛門(二男)   
   於豊前三百石拝領、追々御加増千五百石、有馬御陳之節は中風相煩候へとも、切
   支丹三人御預被成候、三斎様御附中津二相詰候衆 丹後 千七百石壱斗四升五合
                             (於豊前小倉御侍帳)
  *万五郎   
   忠利君御側ニ被召仕、三百石被下、有馬にも御供仕候、忠興君御成節、御機嫌を
   損し、伝左衛門跡式不被仰付候
         (1)御詰衆 三百石 (真源院様御代御侍名附) 
         (2)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
         (3)御使番衆 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
            室・尾藤家初代金左衛門女 (尾藤家系図)
  *傳之進 万五郎跡式拝領
           御詰衆・松野亀右衛門組組脇 野津原御郡奉行 三百石


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日食観察

2009-07-22 11:53:49 | 徒然
 夜半の熊本は凄い雷雨未明には雨も上がったが、空は一面厚い雲に覆われて絶望的状況。処が8時前一瞬太陽が顔を出し、多少の期待を窺わせた。熊本の食の開始は9時37分、最大の食(92.8%)は10時57分なのだが、10時ころからうっすらと太陽が顔を出し、少し食が進んだ太陽を確認。それから奇跡的に雲が切れて期待が深まったが、最大の食は確認できずに残念・・・。しかし老いの身をわすれさせるワクワクの時間だった。
 前回(1963)の日食の際は、木漏れ日の影がすべて食が進んだ太陽の形であることを見て、鳥肌が立ったことを思い出した。次ぎは20数年後・・・これは一寸難しい。

    お昼からは嘘のような良い天気になりました・・・残念
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元・若狭衆--沢村大学

2009-07-21 18:19:58 | 歴史
1、大学・吉里(初・才八)     
    (武辺咄聞書-31) 
     高浜町郷土資料館(沢村大学肖像画や旧主逸見家系図等所蔵)

        (1)三千石 頭衆 丹後 若州 (於豊前小倉御侍帳)
        (2)三千石 大学助  (肥後御入国宿割帳)
        (3)           (真源院様御代御侍名附)
        (4)五千石       (真源院様御代御侍免撫帳)
  生国若狭国高濱、逸見駿河守昌経()に仕、天正十年八月細川忠興臣西川与助足軽
  数度合戦に武功、豊前三千石、備頭 大阪陣後千石加増 寛永二年御暇
  寛永三年九月帰参三百人扶持 肥後入国後五千石 光尚傳 城代
  慶安三年九月十七日歿・九十一歳   (肥後藩・主要系図) 
  墓所・成道寺

  桃井の族ニて若州之産也、若年之時逸見駿河守に仕へ候ニ、駿河守病死之時継嗣な
  き由、旗頭丹羽長秀より被申達、断絶ニおよひ候、実ハ源太丸とて(才八か絵像の賛
  ニハ虎清とあり)七歳之男子有しかとも、長秀とかくニさゝへて信長ニ不達、才八是を歎
  き、源太丸をいさなひ安土ニ至、直訴両度ニ及けれハ、信長あはれミ給ひ、逸見跡式下
  し給ハるへき旨成しに、不慮ニ弑逆ニ逢たまひ、剰同し比源太丸も早世しける故、無力
  丹後ニ越、八月上旬御鉄炮之者二被召出、はや此度手柄をあらはし、追々武功ニより
  て天正十八年奥州より御帰陳後知行百石被下、朝鮮御帰朝後百石御加増、慶長六年
  七月千石、同十月弐千石、又寛永九年五百石被下候、同十年当御国ニ而被改五千石
  被下、御城代被仰付候        (綿考輯録・巻九)

寛永二年御暇の原因・・帰参
  寛永元年四月に至津村(大学知行地カ)で百姓訴訟があり、三齋が機嫌を損じたという。
  大学には係わり合いのない事のようだが、「今年か明ル寛永二年かに御家を立退、松平
  宮内少輔殿江参居候・・云々」と解説して有る。
  沢村大学牢人被仰付置候内道家左近右衛門方迄之状壱包(永青文庫)

  寛永二年八月十八日 忠利書状
  沢村大学事松平宮内殿御詫言ニ付召返候、左候は松井宇右衛門ニ遣候家大学ニ
  可渡候(以下略)                 (綿孝輯録・巻三十)

  寛永二年九月四日  沢村大学帰参被仰付被差下候ニ付而  忠利書状
  沢村大学其方へ差下候扶持方百人扶持、参着より可遣候
                           (綿孝輯録・巻三十)
忠利の御見舞
  寛永十二年六月廿三日 沢村大学へ被下候御書之内
  其方事毎日城廻、其上雨風之時も見廻候由聞届候、年寄候而ハ万事違物にて候
  間、左様之心遣仕間敷候、煩不申様ニ心得可申候、謹言
  尚々、其方いきて居候得ハ奉公にて候間、其心得可申候、以上
                           (綿孝輯録・巻三十六)
原城にて武功
  光利君に近侍して老功を示し益多き事を被感、片山自庵を以御褒詞有、其後忠利
  君より御指料名誉国俊の御刀を被下、倅宇右衛門儀も今度手筈ニ合申候、自然
  の時手ニ合候ハゝ一廉御取立御先手をも可被仰付と内々被思召候処、今度御意
  を不受御先ニ参候ハ不届之仕形ニ被思召候、乍去先ッ一倍の御加増三千石被下
  候、後々ハ今の分にてハ被召置ましき由御意被成候、光利君よりハ朝倉ぎんだり
  と云脇差を被下候、是ハ越前国朝倉義景の重物にて、茶臼を斬破しよりぎんたり
  と名付候となり                  (綿考集録・巻五十)
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史談会・七月例会

2009-07-20 11:25:34 | 歴史
 テーマは「肥後藩浦賀警備日記」および「若狭武田氏と肥後武田氏」

「肥後藩浦賀警備日記」は、肥後藩士中村恕斎の息・嘉一郎が認めたものである。父・恕斎は弘化二年(1845)から明治三年(1870)までの二十六年間にわたり、きわめて詳細な日記を残している。幕末・維新期の熊本藩のありさまを知る上での一級史料である。現在嘉永三年までの日記が弐巻発行されている。息・嘉一郎の日記は父親の緻密さには及ぶべくもないが、若者らしい行動が隠すことなく書かれていて、下津講師の解説に笑い声が上がる次第である。いよいよ役目を終えて帰途につく嘉一郎だが、次回くらいでこのテーマも終わりというところだろうか。

 「若狭武田氏と肥後武田氏」は本会会員であると共に、地名研究会会員でも有る、F氏・K氏の研究の途中経過の報告である。若狭武田家は元明の代にいたり絶家となるが、細川幽齋の姉・宮川が嫁いだ武田信高の養子となった、甥・元実(七代・義統弟)が肥後に下り阿蘇高森に居住したというものである(武田大和守)
茶道肥後古流(古市流)家元・武田氏や、NHKアナウンサー武田信一氏がその末裔だとされる。先のブログでも書いたが、細川家には宮川の子・英甫永雄(京都建仁寺長老)の斡旋により、たくさんの人が仕官し細川家の根本家臣となっている。しかし是とは全く別の独自の行動で熊本に至っている。両氏の研究は道半ばで、福井の地に足を運ばれて研究の詰めをなさるらしいが、大いに期待をしていることである。

  五代
  武田元光---+--元度
          | 六代      七代   八代(絶)
          +--信豊---+--義統---元明
          |       |
          |       +--元実
          |           ↓
          |         大和守  山城守
          +--信高---+==元実---信秋   墓所:高森含蔵寺
                  |
                  +--英甫英雄(京都建仁寺長老)
                     母・細川幽齋姉・宮川殿

     NHK 武田アナ http://cgi4.nhk.or.jp/a-room/aroom.cgi?i=298
    含蔵寺     flower-k.at.webry.info/200710/article_25.html
              flower-k.at.webry.info/200702/article_52.html
コメント (4)
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忠興長女・長の壻殿前野氏と細川家家臣小坂氏

2009-07-19 14:54:04 | 歴史
 忠興の長女・長が嫁いだ前野景定の家に伝わる文書を元に、後世偏されたのが「武功夜話」である。偽書とする説もあるが、それはなかろうと私は考えている。「不確実な内容があるからと、偽書と決め付けるのは如何か」というスタンスである。
その中にある前野氏系図に「雄吉五男半之助、この人肥後細川越中守忠興様に召し出され奉公仕る、半之助の連枝の者肥後細川様家中にあり、肥後小坂氏」とある。
これが、細川家家臣・小坂氏の祖とされるが、半之助と半之丞と微妙に名前が違うのが気に成るところだ。

 小坂次郎左衛門・・…吉俊---+--正氏
                   |
                   | 陣中死    名跡相続
                   +--正吉・・・・・・・雄吉---+--吉長(旗本)
                   |               |
                   |               +--半之助  (細川家家臣・小坂氏)
                   |               |
                   |               +--雄長(旗本)
                   |           ↑
                   +--●    +--雄吉
                      ∥    |
                   前野長康---+--長康---景定
                                    ∥
                                +---
                                |
                        細川忠興---+--忠利

 小坂氏は正吉が陣中で病没、信長により妹婿の前野長康の子・雄吉をもって名跡が認められた。この雄吉の子・雄然が書き残した資料をもとに、後のその子孫が表したのが「武功夜話」である。
 前野長康・景定父子は豊臣秀次の事件で、連座の罪に問われ切腹させられた。景定の室・長についても死の危機がせまったが、実父・忠興の努力により剃髪して死を逃れた。

 長の夫・前の景定と、小坂半之助とは従兄弟の間柄である。小坂氏の召出しには、そのような姻戚関係が考えられるのは当然のことであろう。千石の給知は替わることなく明治までつづいた。


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「神楽坂の親分猫」

2009-07-17 18:11:26 | 書籍・読書

神楽坂の親分猫

著者: 黒川鍾信
定価(税込):1,365円


 動物好きには、犬派・猫派とあるようだが、私はといえば長く犬を飼っていたから、まあ犬派ということになろう。だが猫はどうかというと、別ニ嫌いではない。友人にすごい猫好きがいる。猫に関する本を随分読んでいるらしいが、この本がひどくおきに召したらしい。貸すから読めといいながら、本が一時的にでも手元から離れるのが気に成るらしい。「買うからいいよ」と言うと満面の笑み、ということでネットで注文。感想を聞かれることは間違いないから、しばらく顔を合わせないようにしなければ成らない。
          
【本の内容】
名物旅館の親分猫メメが語る、神楽坂裏話!
神楽坂「和可菜」は、山田洋次監督、野坂昭如、竹山洋など錚々たる作家が喜んで
カンヅメになる名物旅館。彼らが愛した家猫メメが作家の逸話や神楽坂裏話を語る!

【目次】
第1章 ようこそ神楽坂へ(ボクは旅館のネコです
    恋の季節になってオスと分かった先代「花子」 ほか)
第2章 路地の奥で出会ったヒトたち(漫画の中にネコやイヌを描く滝田ゆうさん
   「猫生」は天がきめること ほか)
第3章 催し物がいっぱいの神楽坂の四季
   (「ぽちぶくろ」によってボクは名実ともに親分ネコになりました
     ボクをモデルにした黒ネコ図柄のバッジが町内にあふれる ほか)
第4章 これでいいのか!ボクの神楽坂(ブラック・イズ・ビューティフル!
    三毛ネコのメスでも飼い主には家宝 ほか)
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一尾伊織について

2009-07-17 13:15:36 | 歴史
 2006年01月08日、新「新・肥後細川藩侍帳」というブログを書いた。この古いブログにコメントを頂戴した。
一尾伊織についてである。三齋の茶道の後継者であり後には徳川直臣となったが、一時期細川家の禄をはんだ。細川家侍帳には次のようにある。
   一尾伊織  物奉行 五百石 (於豊前小倉御侍帳)
            御物奉行 五百石 (肥後御入国宿割帳)

全く偶然だが一昨日から「若狭衆」についていろいろ書いたが、此処でようやく納得がいく略系図を書くことが出来、一尾伊織の華麗な縁戚関係を理解することが出来た。


    大友宗麟---+---義統----------●
            |             ∥      
            +---●         ∥
                ∥         ∥
    久我晴通-------三休----- 一尾通春---- 伊織
     室・武田元光女
 
  一尾通尚(伊織)
      寛永十一年正月家光に目見、父通春の遺跡の内千石を賜う。
      その後勘気を被り、同十五年十月宥さる。同十七年小笠原貞信美濃国高須城主と
      なるに当たり同年十月城引渡しのため同地に赴く。貞享元年七月致仕。
      元禄二年三月三日没。年九十一。
            大日本近世史料・細川家史料--人名索引(東大史料編纂所)より引用
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若狭武田家の枝葉(足利・近衛・久我・大友・三渕・細川)

2009-07-16 18:02:04 | 歴史
          清原宣賢---●----藤孝(幽齋)
                  ∥
               足利義晴---+--義輝---→義辰(尾池道鑑)・・・→細川家家臣・西山氏         
                  ∥    |
           +------ ●    +--義昭
           |           |
           |           +--●(武田義統・室)
           |          
   近衛尚通---+---久我晴通---+--通堅---+敦通 
                  ∥    |       |
                  ∥    |       +--祖秀(下津棒庵)・・・→細川家家臣・下津氏
                  ∥    |
                  ∥    +---久我三休--- 一尾通春--- 一尾伊織
                  ∥          ∥      ∥    細川家家臣→幕臣(一尾流茶道創始者)
          大友宗麟-------------+---●   +--● 
                  ∥       |       |        
                  ∥       +--義統---+--右京・・・・・→細川家家臣・松野主殿家
                  ∥       |
                  ∥       +--道孝・・・・・・・・・・・→細川家家臣松野亀右衛門家 
                  ∥       |                        同 善右衛門家
                  ∥       |
               +---●       +--半斎・・・・・・・・・・・→細川家家臣松野八郎右衛門家
              |      
 武田元親---元光---+--信豊---義統---元明(生母・足利義晴・女)
              |             ∥
              +--信実       京極竜子(松の丸)
              |                    ∥
              +--信高             豊臣秀吉
                  ∥----英甫英雄
      三渕晴員---+--宮川
              |
              +--藤孝(幽齋)
                   ↓
                細川藤孝---忠興---忠利
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歯医者? あっしには係わり無いことでござんす

2009-07-16 09:59:43 | 徒然
 四五年前虫歯の治療をしたが、八十くらいまで自前の歯で食事が出来ますよと、太鼓判を押された。処が一年半ほど前、奥歯に被せた冠がとれてしまった。四五年前の治療の時、無理やり口を広げさせられ、一時期口を開く度に顎がカクン/\と音を立てるようになった。それが恐くて、以来爪楊枝を必需品として治療にも行かず放ってきた。

 昨日その虫歯が折れた。2×3×3㎜ほどのかけらがポロリと出てきた。別段痛みもないから放っておくことに成るだろうが、治療の際に口を開く為に、あの器具をくわえさせられる苦痛を考えると、爪楊枝のほうがよっぽど良い。「八十まで自前の歯」が危くなってきた。
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珍事

2009-07-15 21:12:06 | 熊本
 お昼過ぎ突然の大雨そして大風、五分ばかりで前の道は冠水してしまった。あわてて窓を閉めまわし、ほっとしていると物凄い音、何事かと走り出すと家具が一つ転倒している。後ろに小さなマド(50センチ角ほど)があり、これを閉め忘れていた。しばし呆然、そうこうしているうちに風は収まり雨もやみ、お日様さえ顔を出す変な天候。ほんの十分ばかりの出来事である。

 熊本城内の藤崎台球場では夏の甲子園出場をかけて、予選の真っ最中。TV報道によると、ここで竜巻が起こり仕合が中断したと報じている。我が家の家具転倒事件とまったく同じ時間だ。
      (1時間後気温が8.3℃下がったと熊本地方気象台が発表している)7/16追記

 今年の梅雨は、例年とは様子が異なり、いやに風が吹く。風速10~15メートルの風が吹き荒れることが、七・八回はあったろう。それにしても家具を吹き倒すエネルギーに吃驚してしまった。梅雨明けもそろそろだろうが、あと二ヶ月熊本特有のむし暑い夏が続く・・・たまらん。
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