天皇と天下人 (天皇の歴史) | |
講談社 |
【織田信長と正親町天皇の虚々実々の駆け引き、豊臣秀吉と後陽成天皇、徳川家康・秀忠の強権に悲憤慷慨した後水尾天皇…。日記、宸翰の史料を駆使し、天下人と対峙した天皇の実像を克明に描く。】
細川家の歴史を勉強するとき、どうしても後陽成帝や後水尾帝のことを知っておかねばならないと、いろいろ本を探した結果これがよかろうと相成った。シリーズ物というのは全巻そろっていないと頭の毛がうずくのだが、今回はそうとも言っておられない。
天皇と天下人 (天皇の歴史) | |
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【織田信長と正親町天皇の虚々実々の駆け引き、豊臣秀吉と後陽成天皇、徳川家康・秀忠の強権に悲憤慷慨した後水尾天皇…。日記、宸翰の史料を駆使し、天下人と対峙した天皇の実像を克明に描く。】
細川家の歴史を勉強するとき、どうしても後陽成帝や後水尾帝のことを知っておかねばならないと、いろいろ本を探した結果これがよかろうと相成った。シリーズ物というのは全巻そろっていないと頭の毛がうずくのだが、今回はそうとも言っておられない。
【家臣・小崎氏のこと】
三齋公御用にて八代江老父参候刻小崎忠次か子供は越中か不便かるかと御意被成候へ共御請不埒に御座候に付いかにも我は新参者にて存まし 丹後籠城之時関東より御使に被遣候御書の持様関所/\の通様委細に被仰付候 無恙丹後江着仕候骨を折たる者と御意被成候由後に吟味候へば小崎次郎左衛門・小崎孫右衛門親之由小崎太郎右衛門は歩御使番相組にて熊本之御姫様に付新地百五拾石被下候 右之小崎子孫多く可有之候
【家臣・金津氏のこと】
三齋公豊前小倉に被成御座候時秀林院様御年回に御参拝被成候而御帰座以後に金津助次郎子供成人仕候哉と御尋被成候 兄十次郎十一歳・又十郎九ツと申上候へば即日兄弟共に貮百石宛被為拝領候 松井殿より兄弟に青貝之鞍鐙給候由老父三盛に又十郎咄被申候事覺申候 誠以舊功を被思召十一歳・九歳之子供に如此之儀は御家之侍何も同前に難有事と書置候
【家臣・魚住氏のこと】
三齋様御代豊後國石垣原の合戦之時御家より松井殿有吉殿大将にて黒田如水も人數被遣刻御家にて魚住右衛門兵衛働如水老之紙面之寫なり
一昨日御働手柄段松佐州有四郎右御物語に
候於我等満足不過之候今日爰元相澄候て明日
其地へ参面上以萬々可申入候恐々謹言
九月十五日 如水軒判
魚住右衛門兵衛殿
其後三齋公江如水老右衛門兵衛御所望にて小身にて被召仕候由拙者江被下候はヾ貮千石被下との事に候 時あの様成者は幾人にても願申候とて則貮千石御加増被下候由魚住又助祖父之由 先年御家中先祖附差出候時右之通いかにしてもかヽれぬとて又助致遠慮候とて澤伊左衛門縁者にて拙者江咄申候 理知儀過たる男とて笑申候 右之紙面寫置候 三齋公御代は外之御家にも跡式皆々へり不残は不被下候由忠利公肥後拝領被成以後御家中侍中之跡目十五以上無相違可被為拝領と被仰出候由八代にて三齋公御聞被成越中か大名に成たるとて右之通被仰出候 後々には奉公人之人柄あしく可成と御意被成候由遠坂関内殿咄申候
【家臣・長谷川仁左衛門のこと】
真源院様御國廻り被遊候時御馬に召被成御座候處御馬つまつき候而御轡おれ申候 長谷川仁左衛門は不断挟箱に替の轡入置被申候 折節御先乗の御供にて長谷川轡を差上被申候殊之外御感被成御帰座之上御馬被為拝領候 拙者幼少之時見申候老馬にて拝領と申事にてつなぎ置れたるかと存候 黒栗毛のひたいに星御座候と覺申候
【家臣・山名十左衛門のこと】
妙應院様御入國の年か御國廻り被成候同名是安も御供に参り申候 御國中宿わりは御中小姓にて御供被参候 御中小姓不残参候由山名十左衛門殿未前髪御座候時陣羽織之様成たてなる羽織にて馬にて櫻馬場御通を見申候 松野亀右衛門息小源太後源蔵牧野安右衛門同勘右衛門松野父子鉄炮能打候由にて被召候由御帰候刻大津より一里斗熊本之方廣き所にて御側物頭之馬自身乗り御覧被成候由上田新兵衛馬能御座候抔と沙汰承候 拙者十七歳にて御座候
【家臣・澤村大學のこと】
妙應院様御幼少之時澤村大學殿御具足被差上候時鰹ふし一ツ添て上ケ被申候由控の御座候哉山崎傳左衛門咄申候
延寶四年と覺申候 芝之御屋敷に被成御座候刻紀伊大納言様御家頼衆尋被申候由にて森雲仙を以大木織部殿へ申来候 御右筆山崎角右衛門相調申如斯申遣候
慶長五年七月廿七日八條殿より家老大西甚助を以扱之儀被下候得共幽齋同心無御座其後
徳善院勅命を奉り双方に和議を入被取扱又勅命にて中院殿・三條殿・烏丸殿并前田主膳正
等を田邊江被下種々取扱有之候勅詔及再三申に付幽齋難默和議を以被成出城候
此通之紙面之様覺申候 江戸御書所には控茂可有御座候や其時分迄も慥成申傳も不承候 近年色々
古き書付抔出申候と存候 田中又助祖父は中院殿相聟(1)之様に覺申候 右之書之内に加茂大宮司の
松の下と御座候は河方安左衛門(2)と覺申候 先年田中又助に此紙面咄申候へはいかにも/\承及
申候 此方の御家譜は誰が書たるかと尋被申候へども不存候 拙者先年在江戸の砌田中一庵に被仰
付候て御家譜調申由にて拙者へ引両の事尋申候 三引両と申間二ッ引両と申ても可然哉などヽ申たる
儀覺申候 右之書付之内飯川妙佐の妹と御座候飯川殿とて譯ある人飯川何果(ママ・某カ)とか老父
咄被申儀も覺申候 委細に知れたる書様にて候 誰の作と申事も後々吟味候はヽ知れ可申存候
(1) 田中又助の祖父は長束大蔵正家、中院殿とは文脈から通勝であると考えられる。
長束正家の奥方は本多忠勝・妹、中院通勝の奥方は細川幽齋・養女だとされているが、傳右衛門殿の勘違いか?
(2) 500石河方九平家の家祖は松下民部少輔述久
「或記に松下民部小輔述久、古今箱禁裏に持参仕候由、田辺御出城の刻も御忠節申上候と云々、何れもいふかし、右松下は
加茂の神主の弟也、述久は従五位下禁裏に勤居たり、蹴鞠の御伽として幽齋君御懇に有之、内々御和睦をも御取持仕候
段は先祖附にも段々書加来候」(綿考輯録・巻五」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
衆妙集之内に玄旨公吉田の草庵に松ノ下民部少輔数寄に呼侍るに遅く来けれは即座に此一首を讀て路次迄持せけり
庭をおりて遅くたちよる松の下すきの道にはのへ足もなし
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・水戸家の御末子松平大炊頭様は従公儀一萬石五十年以前に御拝領被成候 小石川の御屋敷之内に被成御座候て妙應院様御振舞に被成御座候て御供衆皆共御座敷に上り御料理被下候 御馳走人に田中文右衛門と申仁出候而咄被申候 私儀は熊本へ久々居申候田中又助甥にて御座候 先年京都へ御座候長岡與八郎殿・同半左衛門殿御両人肥後へ御呼下し被成候時又助を被遣候 其刻も又助致同道候而京都上下仕候由噺被申候 我等共幼少之時分與八郎殿半左衛門殿より乗馬を迎に兄の是安方へ被遣候事覺申候 甲佐近邊に御両人共千石宛被下候て御在宅にて候 川狩にて是安を御呼被成候かと覺申候
妙應院様御入國上にて貮千石宛御加増被遣御一門の格に被仰付候 其時分細川将監殿・細川修理殿・長岡與八郎殿・長岡半左衛門殿此四人にて候 右の田中文左衛門娘かと承候津田平助妻・田中又助妻・谷権右衛門姪にて権右衛門より津田・田中江遣被申と覺申候
この記事について傳右衛門は「東國太平記の抜書」としているが、当時この本は絶版になったとも書いている。綿考輯録にも見られない田邊城内での古今傳授の詳しい描写があるが、細川護貞様は御著「細川幽齋」で、同様の内容を「明徳親民記」から引用されている。
護貞様もお書きのように、諸資料によって小異がある。そういう意味でこの「東國太平記の抜書」も価値があるものと思われる。
一、東國太平記の抜書
幽齋玄旨公古今御傳授并御先祖之事
■ハ略 其頃公家ニモ古今集ノ傳授中絶シテ天子ニモ御傳アラセ玉ハサル所ニ細川藤孝入道玄旨法印カ身ニ有ケレハ若藤孝討死セハ日本ノ神道歌傳永ク絶ナント 忝モ後陽成院嘆キ思召テ時ノ傳奏三條大納言實條卿・烏丸大納言光廣卿ニ加茂ノ大宮司松ノ下ヲ相添テ田邊之戦場ヘソ遣サレケル 両軍相イトンテ戦半ナルニ勅使急キ輦ヨリ下サセ玉ヒテ両陳ニ仰セケルハ今度天子ノ勅使トシテ三條大納言・烏丸大納言遥是マテ来リタリ 両陳儘ニ承ハレ 今本朝ノ歌道ノ秘傳鳳闕ニハ絶タル如クニて武家ニ相傳セリ 抑古今ノ傳授ト云ハ中古濃州士東ノ下野守平常縁より紀州ノ種玉菴宗祗ニ傳へ宗祗ヨリ三條大納言逍遥院實隆卿ニ傳實隆ヨリ穪名院公保卿ニ傳へ公保ヨリ三光院實澄卿へ傳へ其ヨリ丹智院公國卿ニ傳フ 公國早世ノ折節其子香雲院實條七歳ナリシ故ニ細川兵部太輔藤孝入道玄旨ニ傳フ 藤孝ハ文武二道ニ達シ義勇ノ名将ニテ我カ師範タル丹智院ノ息實條卿ニ傳ン為ニ田邊ノ城へ迎へ取テ養育シ歌道神道盡ク傳授シタレトモ未幼弱ナレハ古今ノ傳ハカリ残サレケル 實條既ニ成長ニ及ハレシ故ニ帝都ニ返シ奉リケルニ天子ノ寵遇他ニ超テ聞サセ玉ニハ補佐ノ大臣トモ成ハント思ハレテ藤孝モ悦アエリ 古今ノ傳授テモ遂テ師恩ヲ報セハヤト思ハレシ處ニ高麗征伐ノ觸アルニ依テ則異國合戦ノ用意取紛レ實條卿ヲ呼迎エテ傳授セン隙ノアラサル武士ノ習イ何國ニテモ討死セン事ハカリカタク思ヒ若討死セン時ニ於テハ本朝ノ歌道ノ傳授永ク絶ナン事ヲ歎則古今ノ箱ヲ幽齋ノ孫烏丸大納言光廣ニ遣高麗陳ノ間其方ニ預奉■若討死致スナラハ此箱を實條卿へ渡シ玉ハント有テ一首ノ若ヲ送ラレケル幽齋
人ノ國ヒクヤ矢島モ治リテ二度カエセ和歌ノ浦波
藻シホ草カキアツメツヽ跡留テ昔ニカへセ和歌ノ浦波
古今ノ箱預リ玉フトテ返歌光廣
萬代ト誓ヒシ亀ノ鏡シレイカテカアケン浦島カ箱
斯ノ通リニテ高麗陳ノ時藤孝入道玄旨は筑紫名護屋ニ詰ラレケル 其息朝鮮ニテ軍功大ヒナルヲ以テ秀吉公御遺言ニテ豊後臼杵ノ城ヲ加恩ニ預ケラレケル 皈陳ノ後ニ光廣ヨリ箱ヲ返ストテ
明ケテ見ス甲斐モアリケリ玉手箱二度皈ル浦島カ波
御返シヲトテ
浦島ヤ光ヲ添テ玉手箱明テタニ見スカエス浪カナ
ト互ニ諷吟シテ傳授ノ箱ヲ贈リ返シ公家武家ニ悦カヘル折柄ニ圖スモ治部三成軍兵ヲ催シ諸卒ヲ遣シ玄旨カ在城ヲ取圍ミ大軍キヒシク攻戦ヒ落城近キニアリト奏聞アリケレハ驚カセ玉ヒ玄旨若討死スルニ於テハ本朝ノ神道歌傳永ク絶神國ノ掟モ空クナルへシ 古今ノ傳授ヲ再ヒ禁裡ニ残サレン為ニ勅使相向フナリ 此陣暫ク引退テ古今ノ傳授アラシメヨト宣旨委細ニ演玉ヘハ両陳畏テ則戈ヲ伏セ冑ヲ脱鳴テ静テ戦ヲ止スレハ勅使宣旨ノ通リヲ玄旨ニ仰ケルニ入道法印有カタキ勅命ナリト頓テ本丸ノ城ニ請シ焼香灑水シテ古今ノ箱ヲ取出シ三神五社ヲ掛奉リテ秘密ノ傳授一言半句モ残サスシテ三條大納言實條卿ニ傳授セラレケル 其上源氏物語ノ奥義二十一代集ノ口訣切紙和歌ノ三神人丸ノ正體八雲ノ大事二時ハカリ其間叮嚀ニ認テ神國秘密傳授ノ印信トテ一首ノ和歌ヲソ奉上ラレケル
古モ今モ替ラス世ノ中ニ心ノ種ヲ残ス言ノ葉
ト讀テ實條卿ニ對シテ古今ノ箱並ニ源氏物語廿一代集ノ箱共ニ渡シ奉ラル 斯テ烏丸光廣卿モ次テヲ以テ傳授シ玉フトカヤ 最目出度ヲ聞へケル玄旨法印ハ傳授此時ニ永ク絶モヤセント是ノミ苦シミ思ハレケル所ニ再ヒ禁闕ニ遣シ奉リ神國ノ光ヲ彌々雲ノ上ニ輝カスナリト千喜万悦更ニ喩ンカタモナク思ヒ奉レリ 偖傳授事畢テ後両人ノ勅使ハ大宮司松ノ下ヲ以テ寄手ノ大将共ニ勅命ノ趣宣サセ玉ヒケルハ今度勅使トシテ三條大納言烏丸大納言向下ツテ藤孝入道玄旨法印ニ天子古今ノ傳授マシマセハ玄旨ハ則天子ノ神道歌道ノ國師ナレハ此陳早ク引取ヘシト仰ラレケレハ牙ヲカミシ寄手ノ諸将モ勅命ナレハ謹テ領掌シ意義ナク圍ヲ解テ引去ケル 抑此藤孝ハ尊氏十二代ノ後胤義晴公ノ四男也 母ハ還翠院儀賢ノ息女ニテ飯川妙佐ノ妹ナリ 萬松院義晴公東山鹿ケ谷ニ移居シ玉ヒシ時寵セラレテ懐妊シ男子ヲ設ケサセ玉フ 是ヲ後ニ兵部太輔藤孝トハ名ツケタリ 義晴公ノ嫡男ハ義輝二男ハ北山鹿苑院周崇三男ハ南都一乗院門跡覺慶四男ハ藤孝也 後ニハ此妾ヲ三淵伊賀守ニ嫁セラレテ大和守トハ別種ノ兄弟ナリトカヤ 慈母ノ嫁スル時ニ藤孝モ倶ニ行テ三淵カ継子ト成テ育ケル處ニ其頃泉州岸ノ和田ノ城主細川右馬頭元常ニ子ナシ幸ニ三淵ト縁有シ故ニ兵部太輔藤孝ヲ養テ子トス 仍テ細川ト云 其子越中守忠興長岡ト名乗事ハ昔日藤孝京南勝龍寺ノ軍ニ戦功アリシ故ニ則其在所長岡ノ庄ヲ信長公ヨリ采邑ノ地ニ拝領セシニ仍リ長岡トハ名乗ラレケルトカヤ
右東國太平記ノ内ニアルヲ抜書スル由山鹿湯ノ町島屋長之允寫タルヲ見内々此書面ノ通ト聞
傳クルマテニテ如此委細ハ此書ニテ見幸ト寫置也 島屋ハ町人ニテ家業ナラネト國恩ノ重キ事
忘サル志感入候 此書ハ絶版ニナル由 島屋ハ父母ニ孝ナル由忠孝ハ車ノ両輪ト云事マコトナ
ルカナ
・細川御家譜 御家系ニハ
藤孝公實ハ三淵伊賀守晴賢入道宗薫子也
・御家傳ニハ三淵氏ハ室町幕府ノ落胤也ト穪ストアリ天文十八年三好カ亂ニ藤孝十六歳トアリ
今朝の熊本日々新聞に、八代松井家の松濱軒の菖蒲の情報が書かれていた。
役1,200株が見ごろを迎えている。7日頃までが見ごろだそうな。6月5日には茶道肥後古流・松華会のお茶会も催される。入園料・大人300円、小中学生150円
今日から6月、お茶会の頃までお天気が持てばいいですけどねー。