津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

宣紀公・男子

2011-06-10 16:14:20 | 旦夕覺書

「宣紀公女婿」を数回にわたってご紹介したが、男子もご紹介しないと片手落ちだろうと考えてご紹介することにした。21人の子女を為されたが、第一子から九子までは夭折されている。第十子が宗孝公、十三子が重賢公、第十六子に紀休、廿子が興彭(刑部家相続)、廿一子が龍五郎でこれは夭折した。
宗孝公・重賢公はさておく。

第十六子紀休(のりやす)は享保八年江戸の生まれ、病がちで有ったらしく熊本へ帰り横手筒口の屋敷に入った。史料は「うつし心無く」と表現する。しかしながら「一病息災」とでもいうか六十一歳まで生きながらえている。称細川、伊三郎、紀豊、織部、清記、後改長岡姓。

廿子の興彭(おきはる)は享保十一年熊本生まれ、宝暦六年長岡圖書興行(刑部家・五代)の養嗣子仰出さる。(31歳) こちらも六十一歳で死去した。養父興行の男子典弥を養子とした。(七代・興貞) 兄・重賢とは六歳年下であるが、興彭とともに細川興里夫人・清源院、重臣長岡是福夫人・壽鏡院の三方となられ大変仲がよかったと伝えられる。
銀臺遣事に曰く
   ことにあはれなりし事は、天明三年君関東の御首途の程にや有りけむ 興彭主に向はせ
   給ひておことの許に茶屋しつらわれよ やがて帰り来てかならず住給ふ所をも見む 其折
   茶給らばやと宣ひしかば、興彭君難有御事にこそとてなヽめならず よろこび程なく茶屋い
   となませられ、おもふまヽに出来にけれども君のわたらせ給はむ時、はじめていれ奉らむ
   とて其身はかりにも立入られず、明暮御帰国の程を待たれけるに御所労ありて滞府まし 
   まし、同五年十月遂に関東の屋形に於て卒し給ひければ、其設もいたつらになりて興彭
   主のなげきいはむかたなし やがて其年の十二月にこれもみまかり給ひぬ 紀休主もう  
   つヽなき御心にてひたすら君の御別れをなげき給ふなど聞えしほどに、御痛もいやまし
   同七年九月むなしくなり給ひ、壽鏡院の御方は君に一とせ先たち給ふ 天明四年二月の
   頃なりき

一番末の子供である龍五郎は、家老木村半平豊持の養子となったが、わずか三歳でみまかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漱石俳句探偵帖

2011-06-10 14:27:12 | 書籍・読書
       漱石俳句探偵帖 (角川選書)
            半藤一利
            角川書店

      漱石が熊本にいたということもあるが、俳句も大変親しみを感じている。
      今は熊本の歓楽街のど真ん中という位置なのだが(光琳寺通りというのがある)

          涼しさや裏は鐘うつ光琳寺  などというお馴染みの句が楽しい。

      さきに(5/13)「漱石の長襦袢」でご紹介した、漱石夫人の孫にあたる半藤末利子さ
      んのご夫君一利氏も中々洒脱な方である。どのような内容なのか大変興味有る処で
      ある。角川書店での出版というのも所を得た感じがする。  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

治年男子・年和殿

2011-06-10 13:54:44 | 歴史

治年には側室に三男二女がある。長女壽姫は松平播磨守頼説に嫁いだが十七歳で亡くなっている。二男應五郎は六歳で死去、三男浄丸は即日亡くなった。末娘就姫は久我前内大臣通明に嫁いで六十一歳で亡くなった。
この項で取り上げる年和殿は治年公にとっては期待の嫡子であったが20歳の若さで亡くなっている。称長岡・雄次・寅次、天明元年十一月晦日熊本生、寛政十二年四月十三日熊本で卒。父・治年は天明七年に亡くなっているがそのとき年和は七歳、綱利の例に倣うならば年和の跡式相続もありえたと思うのだが、どうだったのだろうか。治年は室の弟・宇土藩主立禮を養子として跡目を継がせた。
あまり記録に現れない人である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「旦夕覺書」 花--20

2011-06-10 09:50:59 | 旦夕覺書

一、岐阜城責の時福島左衛門太夫正則軍使櫛田勘十郎塀の手へ上りける時しなへの差物上につかへ
  乗入難きに付差物を下人にもたせ城に乗入然處に櫛田か差物持たる下人鉄炮にて打立られ坂より
  下へ迯下る 岐阜落城の後櫛田が同役の使武士十九人正則に訴て曰櫛田勘十郎御差物を預なか
  ら卑しき下人に持せ置たるに依て坂下へ迯下る 他の備より是を見は當家の軍使迯たると申さん若
  明日にも某共御機嫌を背く事有りて他家の奉公を望んに彼岐阜の城責に迯たる者にやと疑れ可申
  事可有然は勘十郎に切腹御申付可給と申達る 正則も暫く無同心色になため扱申されけれとも承
  引仕依て是非なく勘十郎は切腹被申付由

一、関ヶ原御陳前黒田如水の歩士山中市内と云者如水の使として息甲斐守長政に書状持参る 長政如
  水の状拝見せらる 石田治部少輔三成佐和山出て大坂へ下り逆意を企る聞へ有に依て軍勢を揃へ
  三成に組する敵地へ責入軍功を顕す覺悟也貴殿も志を堅して内府の下知に可任との趣也 長政彼市
  内を呼彼申付は先日より度々如水公より此書来ると云へ共此度汝か持参せし委細なる御文言終な
  し此状を関東へ差下し内府の御目に可懸汝乍若身此状を持参せよと被申遣れは山中違背して曰
  筑後より遥々参たるを又関東へ馳下るへしとの仰近頃無御情御事也別人に被仰付と云 長政以の外
  気色を替て如水も我も己がために主人不成や彌違背するにおいては座を立せしと怒られける 其時
  山中申けるは筑紫より遥々参り候事申立るには更に苦身をいとはす候如水公既に御出陳之御沙汰
  有之半なれ共主命成に依て此表へ馳来候 然るに近日此邊に於て御合戦可有風聞有関東に下れ
  と被仰は無御情と申物也但如水公於筑紫の戦をも見たるにもあらす亦人數ならぬ某か関東へ下り
  たれはとて何の御為に成可申哉依之愚意を廻らすに御身近き輩には御ひいき有て如水公へ御奉公
  申某なとは御不便も薄き故此御意を承るにやと申立けれは長政忽気色を直し誠に汝か申所至極せ
  り汝を関東へ下すへしと云しは我の誤り也とて山中か訴訟を叶へ其後如水の状二三通井伊兵部少
  輔所へ遣し直政返書を送らる
      従如水公此中貴様へ被差越候御状共數通被下拝見仕候
      内府披見に入可申候 今度於御國元別而御情被入殊に御
      人數多く御抱被成内府次第何方へ成共御行候半由に候
      此節に御座候間何分にも被入御情を御手に可入所は何
      程も御手に被入候得と可被遣候 何事も面止可申上候
      恐々謹言
        八月廿五日           井伊兵部少輔直政
                黒甲州様
  彼山中市内長政の前を退て黒田三左衛門一成後号美作逢て某に鎧一領御借有りて給れと云
  三左衛門返答に我等も必替の具足なし家来の鎧を抜せて御邊に與んもいあかヽ也 所詮金子を一
  両與る程に是に用意せられよとて遣しける 山中悦て清洲の町中走廻り右具足一両求出し合渡の合
  戦に先を争ひ働ける 石田三成か家人松井又右衛門と云者に突伏られて果たり まつい山中か首を
  取りけるに笠印の緒に文字書付たる是を取揃て三成實検に備ふ其詞に
      今日之闘に可極功名若不然者討死し義を可守者也
         月日         黒田如水内山中市内
      うたるヽも討もよろしき武士の道より外は行方そなき
石田三成山中か頭を見て彼は志の者ならんとて松井又右衛門に恩賞を厚く與へたると也

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「旦夕覺書」 花--19

2011-06-09 08:01:52 | 旦夕覺書

一、古侍に四坂鑓之助と云者あり 數度の武功の勇士或時戦場にて能敵を鑓つけ討取らんとする所に
  味方の内に村井玄蕃と云者彼も武功ある者なれ共此陳に未敵を不討鑓之助鑓付たる敵を某未敵を
  不討此敵我にとらせよと所望しけれは鑓之助何とも答へす突捨て不知體にて其場を立退程に玄蕃
  走り寄て首をとる 其後玄蕃も能敵を討首を取首帳に付る時玄蕃か曰此一つの首は四坂鑓之助鑓付
  たる首也某もらひたる也我は不討と云 鑓之助脇にて是を聞て云様は玄蕃は何を云るヽか左様の能
  敵を討取人に取らるヽうつけにてはなしうろんなる事を被申物哉と云てしかりけれは玄蕃か曰鑓之助
  はさすか武道を能知る物そ數度用に立たるか道理也侍たる者は誰もケ様にあり度物也と感心する
  と也

     血走兜     忠興公
  此駒の血筋の血をはとヽめ置て乗てあからん雲の上迄
     右三篇唱
  右之方なれは右之指をまけ
  左之方なれは左之指をまけ

  高麗陳の時敵に手負有之を味方の中より討取へきとする 加藤清正之曰敵之手負は不討取物也
  子細は敵に手負働不成者は其所に其儘置は看病して引懸退とする 依之敵の人數ひけ味方の弱み
  となる物なり

一、同時諸将参會して小早川隆景に一戦之仕様被尋處に曰其家の古老の者と談合仕可申と云て手立
  を云す 其坐を立私宅にかへり自身分別して書付を以曰第一後の山に道を作る第二合戦可有とな
  らは味方の兵粮を引たもつへし左あらは合戦早くあるへしと云第三は密にして不云之三ケ條ともに
  用之後の山に道作るを見て日本より加勢の人數来ると云て敵引取と也
一、大坂御陳の時矢尾の土居に城中より人數出し引入んとす 去れ共藤堂和泉守内渡邊勘兵衛・遠藤傳
  右衛門喰留付入へき様に成故引取事ならす 依之敵差物を土居に立置土居かけより人數引入るヽに
  遠藤傳右衛門敵之差物いこかさるに目を付高き處より見立其處より乗取なり
一、宇土郡小西行長城加藤清正攻給ふ 清正之侍庄林隼人と行長か城代南條玄宅と戦て組けるか双
  方共精兵にて上に成下にころひ廻り互に押て首をかヽんとすれとも脇差の寸長く不抜両人脇差の鞘
  小口さけたり 後に南條と庄林傍輩と成て此事を語り出しけると也 庄林刀は一尺八寸南條刀は一尺
  六寸にて有しか切先二三寸つヽ掛て不抜となり

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の「歴史秘話ヒストリア」

2011-06-08 21:44:38 | 徒然

                     大祝・鶴姫のものと伝えられる胴具足

                   http://www.nhk.or.jp/historia/schedule/index.html

今日の「歴史秘話ヒストリア」は、強く!激しく!美しく!~戦国を生きた女たち~ ガラシャ夫人も登場です。(感想は後ほど・・・)

【巨大な敵に水軍を率いて戦った“瀬戸内のジャンヌ・ダルク”や、女だらけの鉄砲隊、敵の武将を一騎打ちで華麗に倒した女戦士の伝説。関ヶ原前夜、大名の妻・細川ガラシャを襲った「人質」の悲劇。誇りをかけて選んだ道は? 過酷な戦場体験を語り残した少女が明かす、知られざる恐怖の化粧とは? 伝説とロマンを探す旅から、究極の戦場サバイバルまで。激動の運命にりんと立ち向かった、戦国の女の激しくも美しい生き方に迫る。】

  ■大三島・大山祗神社 大祝氏女・鶴姫
       http://www2.harimaya.com/sengoku/html/iyo_syuk.html   
       ja.wikipedia.org/wiki/鶴姫_(大三島)

  ■冨田信高妻       
       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%AB%98       
       宇喜多忠家(ただいえ)の娘。坂崎出羽守(でわのかみ)の妹。慶長5年(1600)関ケ原の戦
       いの際,東軍に属し伊勢(いせ)(三重県)安濃津城をまもる夫が毛利秀元らの攻撃に城外で
       苦戦しているとき,城から打ってでて多数の敵をたおし,夫を城内退却させた。

  ■沼田真田信之室・小松 (本多忠勝女)
       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E4%B9%8B

  ■池田恒興女
       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%81%92%E8%88%88

  ■成田氏・女 甲斐姫・・・・・・・・「のぼうの城」に登場する姫様
       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E5%A7%AB

  ■木曽義仲室・巴御前
       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B4%E5%BE%A1%E5%89%8D

  ■細川忠興室・ガラシャ夫人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A3

  ■おあむ・・・・・・・おあむ物語
       http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg430.html  
      《「おあん」は尼の敬称江戸前期見聞記。1冊。享保初年(1716)ごろまでに成立か。
       石田三成の家臣山田去暦の娘が、美濃大垣城で見聞した関ヶ原の戦いのようすを、尼になっ
       てから子供たちに語った追憶談の筆録。
      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「旦夕覺書」 花--18

2011-06-08 08:17:03 | 旦夕覺書

一、東照宮の御詞に乱世に武を嗜は不珍 縦は鼠の人に被捕を苦んて人に喰付か如し 治る世に武道
   を嗜は信の武道を好む人と可謂 司馬法に國大成といへ共戦いを忘るヽ時は危しといへり 太平の時
   も戦を不忘か武道を知る人と仰られると
一、同武士は常に忠義の勤肝要也 心懸能武士は人に負さるものそ 人間生して其様貌四民替る事なし 
   然て共家職の務めに依て其事業替事也 子細は先和歌の道公家脳知るもの 仙法の事を談するは出
   家能知るもの 武儀の道理を知る事は武士に及者なし縦は軍陳において對する人數を以て合戦して
   勝負を決時一方は武士千の人數にて合戦する時は武士必可勝そ 此其家に生れ出るより家職なれば
   武道の勤有故也 扨こそ武士の常に武儀を能勤る者は又武士に勝事必定也 此故に家職能勤る事肝
   要也
一、同世の中に狐つきと云事有 是をかちする事世に多し 唯世の人に人の付と云事あり 是を能禁へき
   事也 倭肝邪欲ある者を寵愛し其人を用る是人に人の付といふ物也 國亡敗る物也
一、同我家に武道不案内なるは大小上下共に不用之凡武道不咾の者は耻を不知耻は虚言多し 虚言
   多き者は必臆病なり 臆病なる者は騙安し 騙安き者はめり安し 如是侍は見方と成て多くは逆心をな
   す 敵と成りては恐るヽに足らず又曰大将は文武一致を知りて軍法の二字に本つき政道を立各家職を
   勤る者を用ゆへき也
一、同大将は人を能見知る事専一也 古今の各将人を能知れり 賢愚倭肝勇臆を見る事其品有といへ
   共先言と行と合と不合との二つにて大形知らるヽ物也
一、同関ヶ原にて九月十五日の朝霧かヽり敵の様子四五間の先も見へす 依之家康公被仰は物見に誰
   か可被遣井伊兵衛・本多中務は先へ参る内藤四郎左衛門は江戸留守に被召置扨は横須賀者に渥
   美源五郎を召て先の様子見せに被遣候處に源五郎二三町程行先の様子見れ共見られさるに付即
  刻立かへり御合戦は御勝利無疑候御旗本を被詰可然と申上る 依之即刻御旗本を御詰被成御合戦
  に勝利得らるヽ也 其後源五郎に間敵の様子を見へさるに何として御合戦御勝とは申そと 間源五郎
  曰関東よるはる/\是迄御出馬有て御合戦ならすして御引取被成場にてなし是非共に御一戦なくて
  は不叶場也 御勝利なれはよし御負の時は家康公も御討死我等も死する程に見そこなひは不入と云
  是心眼を以て見る者也

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
家康公伏見御城下へ御屋敷御座候時五奉行方より逆心可有と風聞之時黒田如水を召此屋敷無用心にても三千人數有之は自然の時三河へ可退との仰也 如水曰敵上の小幡やまより鉄炮二三百挺にて打懸其上火矢を射かけ申さは此所に御座有事難成奉存候向島へ御移可然と申上る 依て向島へ御移り被成則細川忠興・福島正則・加藤左馬之助・森右近此四人を召し宣ふは敵火を懸たらは各は何として馳参るへきやと被仰忠興の曰火懸を見て可参と申さる家康公宣ふは先各々家に火を可被懸子細は小西攝津守初其外奉行中之屋敷各家々の間に入りましり有之上は鍛冶にて驚き妻子を退る仕配にて此方へ之働延引すへきそ其間に向島へ御移り被成其後は東寺へ御引取あるへし 東寺は要害能しまり有る所にて三千の人數にて御籠何の御気遣もなき能地形との御諚也

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「旦夕覺書」 花--17

2011-06-07 08:34:25 | 旦夕覺書

           リンク   http://www.youtube.com/watch?v=89xgfjIM_tE

               元和元年五月七日申の刻大坂落城に付三齋公より
                忠利公江御注進之御書寫
 急度申遣候
一、昨日大坂より飯守之下大和口江人數六萬斗も出候故藤堂手にて合戦候て首數多討捕候 井伊掃部手・本多美濃手にて合戦候て首數多上り申候 大坂にて物頭果候故木村長門・後藤又兵衛・鈴木田隼人にて候事
一、今日七日之牛の下刻大坂江少々御寄せ被成候處に茶臼山より岡山迄取つヽけ七八萬も可有之候 此方之人數立是よりひた物無利に合戦のかけ候處に及一戦數刻相ざらへ半分は此方へ半分は大坂勝申候つれ共此方之御人數数多に付御勝に成申候 不残打果し被成候 度々之せり合中々推量之外にて候 本多雲州討死小笠原兵部殿も手負候 是にて推量可有候 我々事先書に申越候哉鉄炮頭三人小姓斗にて大坂へ参り合戦に逢申候
一、鑓つき候面々 一番七助 二番縫殿助 佐藤傳右衛門 甲つけ 薮三左衛門 甲つけ 佐方與左衛門 吉住半四郎 續少助右之鑓寄衆之ものくつれに成候處に七助・縫殿両人馬を入かせき候事
一、又其後大崩に成候處右近一人取て返し候處に酒井左衛門尉殿も披見候 酒井左衛門小姓右近と返し中程に迯又右近側へ返し候間はつを取申候則右近は甲共に首を取申候
一、七助鑓は先を突まけ申候 傳右衛門も鑓二本先をつき曲申候
一、首亀之助 主水 首かヽ山半兵衛 首朽木與五郎 首主水内之者取候事
一、何も事之外手柄仕候事
一、大坂御城天守も申ノ下刻火掛申候 不残御果被成候 一時之内に天下泰平に成申候事
一、此状之内披見候而くたひれさる飛脚之早き者に持せ豊前江可被差下候 取紛書状書兼申候
                                              恐々謹言
    又申候我ら小姓共迄物に逢候事申上候へは大御所さま御前江被召出候 是にて仕合可有推量候
    以上
     五月七日        越中忠興
         内記殿
         内匠殿
         隼人殿
         蔵人殿
         志主水殿
         式部殿
         中務殿
         内膳殿
         左馬殿
         番かしら
         馬之助殿
    此状披見之後壽斎に渡しまんへも讀聞せ候へと可被申候
         宗入老
         小民殿
         六兵殿
         周防殿
         小谷殿      本書は沼田小兵衛殿より清田源左衛門方へ被遣被候由也
         かけゆ殿 

    宗り九軒へ刑部いり殿太郎左方へも可申遣候
    以上
    又申候丹後討死ふびんさ中々申はかりも候はす候
    以上
    又申候七太夫は御本陣へ付置候故手にはつれ候
    以上

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

細川與五郎様は大坂落城已後同年六月六日稲荷にて御切腹松井右近御介錯仕候由其後右近は子はもたぬかとの御意御座候由右近も三年の内悪病煩果候由主君の罰蒙りたるとの沙汰之旨老父咄申候 右近儀は高麗陣にも如形働右之通大坂陳にも勝れたる働と御書見へ申候 然は一命を惜み申候而御介錯仕たるには有べからずと存候 就中ヶ様之處にて武士之高下に知れ申候 平生心懸武道吟味可仕事に存候
         君命有所不恐  軍陳無禮法
         と古語に見へ申候  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

光尚公殉死之衆江保鹿良益和歌詠する
    小車の道ある人は雲井まて君にひかれて名をも上ける
       長岡筑後殿歌の由
    言の葉は中々たへて誠より語につきてつく者はなし
    世間好事惟忠孝   臣報君恩子報親
    丹鳳来儀宇宙春   中天雨路四時新

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

職五郎殿

2011-06-06 14:37:14 | 歴史

                       

 現在県立図書館「細川コレクション永青文庫展示室」で開催されている、「細川コレクションの知られざる名品展」に出品されている細川茲詮所用の胴丸具足である。

美しいいかにも若武者の具足であることが伺えるが、文政元年(1818)茲詮は23歳で亡くなっている。細川齊茲の三男・職五郎(のりごろう)のことである。寛政八年(1796)の生まれだが、享和二年(1802-7歳)と文化元年五月(1804-9歳)の二度にわたり、父・齊茲の実家宇土細川家の和泉守(齊茲弟・立之)の急養子になっている。
立之は兄立禮(齊茲)が本家相続をした際、宇土細川家を継ぐことになるがわずか四歳であった。嫡男・與松が生まれるのが文化元年九月である。職五郎の二度の急養子というのは立之が病気にでもなったことが伺える。
齊茲の嫡子・齊樹は文政九年に亡くなるのだが、職五郎が健在であれば跡目相続も有り得たかも知れない。
文政元年、宇土支藩藩主立之も死去、立之の子・與松は十五歳で宇土支藩を相続する。そして文政九年には宗家の齊樹の危篤に伴い急養子となり宗家を相続(齊護)することとなった。

きらびやかな具足を見ていると、職五郎殿の無念の息づかいが聞こえてくるような気がする。

そして、宗家・支藩を無事に次代に相続せしめるための、見事な連携が見て取れるのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「旦夕覺書」 花--16

2011-06-06 08:13:10 | 旦夕覺書

一、三齋公忠利公光尚公御三人於江戸御咄之節光尚公へ三齋公被仰候は何を稽古被致候哉と御尋被成候へば御請に小畑勘兵衛に軍法を被聞召候由御意被成候へば三齋公終に軍法御聞不被成候軍法は常々家頼能召仕候へば何事之時にても軍配能候 唯侍を能召仕其程々に能召仕候へば何時も軍法能と被成御意候と也

一、忠利公肥後御入國二年目に唯今之出町小笠原備前屋敷之木戸より外に町被仰付候由 其後御後悔被成清正は半國之時に城石垣等調申し候 一國之力にても中々難及思召候 當分之御城荒不申候様にと思召候 御城下廣く成候はヾ荒可申と思召此後は御廣め被成ましきととの御意の由御座候 委細は八代に居申候白江元咄承候御城付三百石山名殿懇意之人

一、忠利公御在江戸之時被得上意候て御下國之上にて白川筋浅き処を御掘せ被成可成事あらば川尻江着仕候船を熊本長六橋邊に船付候様に被成候はば熊本賑やかに可成と思召候てそろ/\と御掘せ被成候由古監物殿へ誰か出入の侍衆咄申候へば夜中にて御聞被成候て扨々夫は曾て不聞事とて其儘御花畑へ御出候て可得御意儀御座候て夜中にても罷出候旨被申候へば其儘被為召何事ぞと御意之時唯今初て承申候白川筋御ほらせ長六橋邊船着に被成旨私存候ば唯今之如く其儘にて川尻船着能奉存候 子細は熊本之町中に駄賃馬持居候長六橋邊に船着候ては駄賃少く成可申候 左候ては小身なる侍とも俄に馬を求申儀成兼可申候 何卒馬を澤山に持申様に仕度私は存候旨御申上候は扨々尤至極に思召候 今度御在江戸之刻御願被成候間先少々掘候て其後ならぬとて制止可被成と御意之旨于今其堀懸申跡御座候由御郡奉行金津助十郎勤申時承申候 海船も昔は澤山に町人共持居申候 浦番とて御侍衆両人づヽ熊本にて代々在宅者致逗留相勤申候 拙者心安く咄申候津崎庄九郎百石にて御留守居組 追腹仕候津崎五助か跡かと覺申候 定て島原御陣の刻大分御船入たると存候 四十五七年此方御國中の船持とも次第/\に少く成申と承覺申候 他刻船定て運賃下直成故と存候

一、寛文元年丑辛正月十五日巳之刻禁裏炎上餘煙及民家仙洞様は修學寺江渡女院様は岩倉江渡御炎上之内鳳祥院様岩倉江伺御機嫌被成御座候節御菓子御用意其外洛中洛外之餅鼻紙草履迄不残御調させ御持参被遊候由尤女院様御機嫌洛中洛外迄其節は是のみ沙汰仕候由鳳祥院様は三齋公御姫様御幼少之時はおまん様と申候て三齋様別而御寵愛にて烏丸大納言殿御簾中也

  参考:http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/symposium/No05/F021-028.pdf

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「松井章之の江戸旅日記」から

2011-06-05 09:19:41 | 歴史

 家老・松井家は将軍家からも知行をいただいている。為に将軍家の代替わりのときなどには御禮が義務付けられている。天保12年(1841)当主・章之が江戸に上っているが、これは家督相続による御目見の為である。このときの旅の様子を章之自身が日記に書きとめている。その内容は「熊本藩家老・八代之殿様 松井章之の江戸旅日記」として、「八代古文書の会」が刊行された。(2008/10)

章之一行は4月7日八代を発ち、28日伏見に着いた。29日には先代藩主・治年女就姫の嫁ぎ先久我家を訪れている。就姫は天明七年(1787)の生まれであるから、このときは55歳である。(生まれた数ヵ月後父・治年は亡くなった)そしてこの時期には養子・久我建通(一条忠良男子)の代と成っている。就姫の実子・志通は文化7年(1810)10歳で亡くなっている。解題に「中納言とあるのは彼女の子供で、虎丸というのは孫にあたる人のことと思われる」とある。実際は「中納言=養子・一条忠良男子・建通」であり、就姫の子・志通の跡を継いだことになっている。建通の生母は細川齊茲女・邰姫である。(細川家史料では見受けられないが、一条家では富子と名乗っていたらしい)就姫からすると姪の子を養子として迎えたことに成る。女系(細川家系)を頼んでの相続であることがわかる。

建通はこの年27歳、通久なる人物が久我家を継いでいるが、久我家史料によると「天保12年生まれ-長男」と紹介されている。松井章之が久我家を訪れた年の生まれである。ならば章之の接待に当ったという虎丸なる人物ではない。「解題」がいう「孫に当る?」虎丸とはいったい誰なのか・・・?

この謎解きに相当の時間を費やしたが、そろそろギブアップという処か・・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「旦夕覺書」 花--15

2011-06-05 08:47:51 | 旦夕覺書

一、正保四年六月長崎え黒船渡海七月朔日之朝松平右衛門佐様長崎江御着被成候由此方よりは長岡勘ケ由殿御人數召連七月二日長崎へ着之由其前黒田殿・鍋島殿家老共承かけに鷹之場より直に参り申者も有之候由此方より御人數を連勘ケ由殿七月二日に被参候事一番と長崎の町人共も申由一騎かけに参り候而は御用に立申間敷候 定而公儀之御吟味にて町人共迄申たるにて可有之候 此一巻之覺書を一冊寫置候故略す

 参考: http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/3c2689655d2949415c6eb3da50027969

一、右之時分は光尚公御在江戸にて熊本より御飛脚不参候に御城には度々御注進有之 或時光尚公御登城被遊候刻井伊掃部様被仰候は今度長崎にて御家来之監物黒船之儀に付愚意を申上候儀委細達上聞候 定而年寄可申と思召候 随分御不便を被加尤江戸表之御供抔も御免被成緩々と居申候様に御心可被候 天下之御用に立申候由掃部頭様御咄被成候而一両日仕候て熊本よりも委細申成候由松平阿波守様御家老稲田九郎兵衛も此方之監物殿におとらぬ者之よし上月八右衛門度々咄承申候 稲田父子稲田宗心七十餘大坂冬陳に三人共に家康公・秀忠公より御感状并御腰物金子拝領仕候者共にて候

一、妙應院様御幼少之刻は御目附衆御両人づヽ熊本へ御越被成御逗留候 阿蘇大宮司より此二三日鳥井にくちなわ大小澤山に出申候不思議なるよし申来候 其刻熊本御家老中寄合にて御目附衆御通之日阿蘇御田植御祭禮にて人馬差支申候夫御祭禮可被差延候哉と御讃談の砌に右之通申来候 就夫神事は格別にて候間御目附衆江申遣可然と熊本にて御讃談相済申事其日之辰之刻にて御座候に阿蘇鳥井くちなわ一ツも見へ不申候由熊本へ申来候て御家老中も何れも神慮明らか成事被成候由其刻松村太兵衛は阿曾御郡奉行勤被申候哉息松村久右衛門拙者相組にて度々咄被申候 ケ様之事は昔より不珍事に候得共末になり候 両人の心信少かたとへは御國中之神佛共に殿様之御蔭にて社の修理御祭禮も調申なとヽ諸役人も悪敷心得社木等も御用と申せば切用申上に御存知被成ぬ事ながら神罰はのかるヽ處なきと申傳候 能々ケ様之事をも各々若く候間御了簡候て其役にて無之候ても忠義之信御座候はヾ何卒申立の成間敷事とは不存候 十人九人は笑止成事などヽ咄たる迄にて候 我子などの煩申時は神に祈念願立申候 其心をもつて主君と奉存候はヾ萬事道に叶ひ可申候 堀内権之助は十四之時能首取被申候へども人に奪れ被申候由父母被申候は武士は就中神を敬信し申者にて武の冥加に叶ものにて候 随分心掛被申候様にと教られ如形信被申候由拙者共祖母妙庵皆共にも咄聞被申候 老父も左様に被申候 又心得違にて神之精進或は我家の内に神を納候て信じ申者多く候 必々神之精進又屋敷之内は不及申候 左様にはせぬ者と被申候皆共幼少之刻あ羅太成薬師御座候いか様何とぞ心にかヽる事御座候哉薬師坊へ預申とて遣申候事覺申候 能々察し申候へば尤成事社は昔より地を吟味仕る事と見へ申候 神職さへも真意に叶ひ申様には成兼可申候 俗人として猶以成申間敷候 或は乱心に成申候か其家に災難有之物と老父被申候 尤なる事と奉存候 能々工夫めされ随分/\神を敬可被候 若き時より拙者は如形敬申候
     心たに誠の道に叶ひなはいのらずとても時は守らん

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信長が見た戦国京~城塞に囲まれた異貌の都

2011-06-04 16:00:44 | 書籍・読書
  信長が見た戦国京都 ~城塞に囲まれた異貌の都 (歴史新書y)
 
                  洋泉社

         

          本漁りをしています。ちょっと目線が変わって面白そうだなーという直感です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊臣期大坂図屏風

2011-06-04 15:47:09 | 書籍・読書
    新発見 豊臣期大坂図屏風
 
         清文堂出版

         以下 清文堂サイトからの引用

本書の構成

■豊臣期の大坂 ■大坂城 ■淀川・八軒家 ■船場・上町
■天王寺・住吉・堺 ■京坂間の寺社と名所 ■人びとの暮らし
  オーストリアでの「豊臣期大坂図屏風」
  「豊臣期大坂図屏風」について
  オランダ東インド会社と日本金図屏風
  海外に渡った日本の屏風


オーストリアの古城から姿を現した豊臣時代の大坂
大阪城天守閣研究副主幹 北川 央
 豊臣秀吉の築いた大坂城の絵が、まさかヨーロッパの古城に眠っていようとは、いったい誰が予想できたであろうか。
 オーストリア第二の都市グラーツ郊外のエッゲンベルク城の壁面に大坂城を描いた屏風絵がはめこまれているとの衝撃的な情報は、二〇〇六年秋にドイツ・ケルン大学のフランチィスカ・エームケ教授によって関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センターにもたらされた。同大学の藪田貫教授からすぐに私にも連絡が入り、翌日にはエームケ教授が大阪城天守閣に私を訪ねて来られ、写真を拝見させていただいた。そこに描かれていたのはまさしく豊臣時代の大坂城で、以前私が小論で言及し、慶長元年(一五九六)~同五年のわずかな期間しか存在しなかった廊下橋様式の華麗な極楽橋も、これまでのどの史料より詳細に描かれていた。
 屏風絵は豊臣時代の大坂城と城下町大坂の繁栄ぶりを描いたまことに稀有な絵画史料で、「豊臣期大坂図屏風」と名づけられ、早速なにわ・大阪文化遺産学研究センターの高橋隆博センター長、藪田教授のお二人を牽引役に、本格的な研究が始まった。本書で解説を執筆された内田吉哉氏は、高橋センター長の指導のもと、その研究で中心的な役割を担った新進気鋭の若手研究者である。二〇〇七年には、エッゲンベルク城を所管するシュタイアーマルク州立博物館ヨアネウム、そして我々大阪城天守閣との間で、同センターとの三年間の共同研究協定も締結された。
 本書はそうした成果も踏まえて刊行されるもので、屏風絵のさまざまな部分が鮮明な拡大図版で掲載されており、当時の上町・船場の街並みや人々の暮らし、さまざまな職業、芸能・祭礼の様子などがまざまざと甦ってくる。ただ眺めているだけでもずいぶん楽しい書であるが、それぞれの図版には適切な解説が付けられ、読者の理解を助けてくれる。簡潔で平易な文章には、共同研究の成果などが要領よくまとめられている。
 ところで、「豊臣期大坂図屏風」に描かれた大坂城には注目すべき内容がいくつもあり、我々を大いに驚かせてくれた。これまでの通説に強く再考を迫るもので、この屏風絵の発見が、大坂城の長い研究史の上でも、たいへん重要な画期となることは疑いない。本書の刊行によって、「豊臣期大坂図屏風」の詳細が学界の共有財産となり、未解明な部分が多い豊臣大坂城の構造や城下町に関する研究が大きく進展することを期待したい。
 また、「豊臣期大坂図屏風」自体にも、いろいろと謎が多い。いつ、誰が何の目的で作り、どういう経緯で、どのような経路を通ってオーストリアにまでたどりついたのか――本書ではイサベル・田中・ファン・ダーレン氏がひとつの可能性を示唆されているが、本書を手にする方々には、ぜひそちらの謎解きにも、ご参加いただきたいと思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有吉家文書「年中行事抜粋」(三十三)會議之式

2011-06-04 06:53:10 | 有吉家文書

   御在国          御在府
    六日            八日
    十七日 付札會議寄合之定日書附ハ席
    廿六日 中限巡覧 尤右定日之書附大
          御目附・大御奉行・御用人ニハ一通
          宛相渡
一、例刻直ニ政府江出席尤御用番一人ハ
  御殿江罷出供を待置例之通奉伺
  御機嫌其節御用人を以御用有無を
  奉伺詰間江控居候得者御用不披為在
  段御用人より申達候 左候得ハ政府江致
  出席候
一、御留守年ハ御用番直ニ政府江出仕
  勿論ニ候且又會議相済候上退出ハ例
  刻ニて候事
一、但同席中以前ハ一旦皆御殿江罷出候
  処近年奉伺本行之通極候尤毎
  御着座後初而会議之節前日ニ
  当年ハ本行之通相心得可申段御用人
  を以申上候事
  右之通ニ候処御時分次第ニハ御用
  有無急ニ伺出来兼候儀茂有之候間
  以来者前以御様子窺ニ相成候居御用
  番伺御機嫌ニ罷出候説御用有
  無を御用人より直ニ申達ニ相成候方
  可然と申談郡九郎太郎江申達置
  候之処文化十三年六月十七日より其達
  相成候事
一、会議相始り候前ニハ御中老・大御奉行之
  座を繰上大御目附も同席近十四ノ人之
  坐と方也
繰上り冬ハ入口二枚襖建居候を迦サセ
  御間宜き段坊主を以当番之御奉行江
  申入候得者各口之間江相揃候事
    但會議之席ニハ御奉行中御用人
    一人御目附二人佐貮役二人差支之節ハ機密間
    根取出席之事
一、會議中皆帯劒ニて佐弐役より書付
  読始候得者御奉行始皆手を上候尤
  伺前之御奉行ハ始末手を突居候
  且又佐弐役は両人共脱劒ニて始末手を
  突居候事
一、願書申立之書付先祖帳等佐弐役より
  読上会議の趣ハ伺前之御奉行より大
  御奉行江相伺御奉行と論究之上
  大御奉行より御用番江相窺夫より
  席中及相談存寄無之候ハヽ伺前之
  御奉行江可為会議之通旨御用番
  より致差図左候得者伺前御奉行
  決議之趣一稜々々別帳ニ執筆目六ニ
  点を懸相成候佐弐役執筆之分ハ
  佐弐役より是又別帳ニ相認候事
    但右之通ニて候処下調帳有之事ニ付
    決議之趣即席ニ執筆ニ相成候而ハ
    二重之手数ニ相成候間近年ハ其儀
    相止下調帳ニ而相済せ會議相替候
    分書入等有之候事
一、同席中も会議之内は茶煙草等は
  遠慮致候事
一、會議之趣しらへ出来次第ニ下書之
  帳惣而佐弐役之執筆復議定日迄ニ御奉行より
  御用番江差出候得者入念遂巡覧
  存寄有之候ハヽ致加筆御奉行江
  返し候夫より會議帳聖書ニ相成候事
一、内會議と申候而會議前御在國ハ五日・十五日・廿五日
  御在府ハ四日御奉行中分職外共佐弐役
  政府同席詰間ニおゐて諸書付取調
  しらへ候尤同席ハ不致出席御目附茂
  出席無之候処文化十年一二月より出席被
  仰付候事
一、會議御着座相止之儀ハ四月之末
  五月初江戸御発駕六月上旬被遊
  御着座候節ハ三月八日限ニ相止
  御着座前五月中旬以後臨時有之
  候之事
一、御在國年ハ六月初被遊御着座候得ハ
  同月十七日より相始候事
一、御在府ハ十二月八日ニ終翌年正月ハ
  十五日後十七日・十八日之内ニ相始候尤夫より
  延候儀も追々有之候事

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする