津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(106)寛永元年・万日帳(十月十三日~十五日)

2019-12-21 13:39:13 | 細川小倉藩

                        (寛永元年十月)十三日・十四日・十五日

         |              
              十三日 両人詰 雨 
         |                      (ママ)
談合       |一、式ア殿へ民ア殿・御奉行衆、利斎彼寄相候て談候事、
         |                      (幸長)(甚丞)     (元高)
薮政三ノ返上米  |一、同薮三左衛門返上之米之儀ニ付、中津へ先日野田・豊岡所ゟ、志水次兵衛所へ遣候目録を、中津
         |  御奉行衆へ遣候て、其返事次第ニ可仕之由にて、式ア殿・民ア殿ゟ書状相添、今日八つさかりニ
         |            (薮正成)(同政直)  
         |  飛脚被遣候、左候時ハ、図書・小吉知行之口明可申之由候事、
女敵討之詮索   |一、同所ニ而、田川助兵衛・四郎右衛門女房之出入之事、助兵衛ハ三ケ度糺明候へ共、少も口不替
         |  候、いかゝ可仕哉と被尋候ヘハ、四郎右衛門きずなおり次第、きうめい可被申付之由ニ候事、
         |            少左衛門ニ
盗人誅伐     |一、同所京都郡之者、竹原市蔵奉公仕候へ共、暇を遣候ニ、見廻ニ参候て、ぬすミを仕候とて、御郡
         |            〃〃
         |  奉行衆小倉へ指出候、于今籠者申付候、いかゝ可仕哉と被尋候ヘハ、誅伐可被申付之由ニ候事、
京吉田ニテ走リシ |一、同所にて、去年京吉田にて走り申候御小人、于今籠者申付置候、是ハ泰勝院御吊之時、籠ゟ可被
小人釈放     |        (真下)(横田)
         |  出ニ候へ共、七兵衛・権佐へ一通可相尋とて、于今籠ニ入置候、其後書状にて相尋候ヘハ、させ
         |  る罪にても無之候間、御免候へと申来候、左候ハヽ、籠ゟ被出候へとの儀ニ候事、
林弥五左困窮ニツ |一、同所、林弥五左衛門手前不罷成ニ付、知行上ケ可申之由候て、書物を上ケ申候、いかゝ可仕哉
キ知行返上願   |  と被尋候ヘハ、御留守ニ知行を上ケ候とても、各として請取儀ニあらす候間、江戸へ可被請
         |  御内証之由ニ相究、書物を被返候へとの儀ニ候事、
         |同所にて、           (首)                                         (首)
細川幽齋法事ノ布 |一、泰勝院御法事之時、圭主座弟子たくぞうす・全西堂弟子、其外四人ノ平僧布施之儀、此中圭主座
施ノ催促     |                              (雲崖靈圭)
         |  ゟ節々申来候、いかゝ可仕哉と被尋候、先例仕之由ニ候事、
筑前ヨリ唐人薬師 |一、筑前ゟたう人くすしおや子、上下五人はしり参候、女子御座候へ共、筑後へさり遣候を、おと子
父子走リ来ル   |  之子壱人ハ此方へ召連参候、当町ニ有付申度由申ニ付、御町奉行衆へ被渡候事
町奉行へ渡ス   |
         |                                 (下関、長門豊浦郡)
筑前ヨリ走来ル侍 |一、同所より侍壱人走り参候、爰元ニしる人も無之、壱人身ノ者ニて候間、下ノせきへおくり候へと
ヲ下関へ送ル   |  之儀ニ候事
         |(ママ)
         |一、

         |              
              十四日 両人詰 雨 
         | (久持か)
暇ヲ出サレシ陪臣 |一、宗持作丞と申歩之御小性、前かと道家次右衛門所ニ居申候へとも、暇を被出候ニ付、 殿様へ御
ノ召抱      |  抱可被成候事、
         |一、河喜多五郎右衛門煩なをり、登城被仕候事
         |
                  

         |              
              十五日 両人詰 曇 
         |            (大里、規矩郡)
大里之茶屋作事所 |一、林弥五左衛門登城、たい里ノ御ちや屋作事御座候、 殿様上洛前ニ被仰出候ヘハ、所ノ者共ニや
ノ者ニ手伝ハシム |                          (御脱)
         |  くを免候間、手伝之様成物事ハ、所ノ者ニ可申付由、 諚被成候間、其分ニ御郡代へ可被仰渡
         |             〃
         |                  (上田)
         |  候、弥五左衛門慥成承ニ而候間、則上忠左衛門へ被申渡候事、大工之入儀ハ弥五左衛門可申付之
         |  由、被申候事、
         |
吉田ニテ走リシ小 |一、御小人半介、去年吉田にて走り申候ヲ、籠者被申付候、当夏泰勝院御吊之時、籠ゟ被出筈ニ候へ
人赦免      |          (真下) (横田)
         |  共、七兵衛・権佐へ一通相尋候て、其上之儀ニ可仕と被延置候、右両人ゟも別条曲事無之候間、
         |  被免候へと申来ニ付、今日籠ゟ被出、不相替、似相ニ可被召遣由ニ候事、
         | 浜脇村、速見郡
天領ノ入牢者診察 |一、はまわきノ久三郎、籠ニ而煩候ニ付、明寰ヲ見せニ被遣、薬与候へと被申渡候事、
ヲ明寰へ命ズ   |
         |  (高月)           (前原、志摩郡現・糸島市
筑前ヨリ小者走来 |一、人留御番尾藤新介登城、筑前まへ原ゟ、喜七と申小者走参候、式ア殿へ召連可参由、被申渡候、
ル        |
         |追記
物書召抱     |「御物書本田加介、右之者召置候事、」
         |

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■御恵贈御礼「山形・恵良家ゆかりの人々の家族史」

2019-12-21 10:20:36 | 書籍・読書

                    

 相川良彦氏編著による、「山形・恵良家ゆかりの人々の家族史」である。230余頁に及ぶ明治以降の一族の歴史である。御恵贈に深く御礼申し上げる。
この著書はご厚誼頂いている荒尾史談会のS様に託されたものであり、S様からお届けいただいた。併せて深く御礼申し上げる。

 表題の如く山形家・恵良家に連なる諸家の事が、関係者の文章を多く集めて構成されている。
山形典次郎の孫・猪鹿狼とその夫人ナツ(恵良氏)を軸として、山形家に連なる秋山(玉山)家・相良家・相川家・中堀家・荒木家・横田家、また恵良家に連なる河喜多(治部左衛門)家・荻(昌国)家、矢島家等多岐にわたっている。
表題にある「家族史」には「ファミリーヒストリー」とルビしてあるが、まさにNHKの「ファミリーヒストリー」の如く、映像が浮かび上がってくるようである。
ご子孫へと受け継がれる素晴らしい一族史であり、編者の相川良彦氏のご努力に敬意を表する。

山形家については、この著の中にも一文を乗せておられる相良一夫氏(ナツ氏の孫)が、別途、家系研究協議会の「家系研究」に長く連載で「肥後(熊本藩士)の山形氏について」に紹介されている。

 

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■原文に触れる「阿部茶事談」(08)

2019-12-21 06:21:57 | 史料

              

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■街角風景‐楠木の再生

2019-12-20 10:54:24 | 熊本

            

 自衛隊の南側の道路(熊本市民病院前)の街路樹は高さ10メートルはあろうかという楠木の巨木が植えられている。
この写真はその切り株、地震の影響で根元から切断、見事に処置がなされていた。70~100㎝ほどの楕円をしているが、見事に右脇に再生の芽が育っている。
巨木を支えた巨大な根を張っている訳だから、大いに成長することだろう。どういう形に成長するのか、興味深い。

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■種まき爺

2019-12-20 10:43:11 | 徒然

                             

 昨日ご紹介した「師走の紅葉」の楓(トウカエデ)の種です。今日散歩の途中で楓の木に沢山種を着けているのを見つけて、少々お裾分けをいただきました。
下にあるよう種子に羽がついており、風に飛ばされて、運が良ければ根付いていきます。

 以前書いたと思いますが、私はいたずらが昂じて、人様のお宅に「菜の花の種」や「スミレの種」などをばらまいたことが有ります。
スミレの成果はあまり良くありませんでしたが、「菜の花」は大成功で、畠の主は大いに驚かれたことを確認しました。
今度は、この楓の種を「水無川」にでも撒いてみようかと思っています。こんな前例も見受けられますから・・・・               

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■細川小倉藩(105)寛永元年・万日帳(十月十日~十二日)

2019-12-20 06:54:06 | 細川小倉藩

                        (寛永元年十月)十日・十一日・十二日

         |              
              十日 両人詰 雨 
         |
匂ノ枕ノ調達   |一、においノ御まくらの儀、江戸ゟ被 仰越候ニ付、仕たる者を色々穿鑿候へ共、無之故、式ア殿へ
         |  被尋候ヘハ、主御所持候を弐つ御見せ候、此内御用ニ可立と思召候ハヽ、一つ上ケ可申之由御申
         |  候、談合候て同候ハヽ、御返事可申入之由、御返事被申候、
         |                     (津川辰珍)
無足之賄改善   |一、無足衆御番之時、賄ちとむさく有之様ニ、津四郎右殿なと御申候、則黒瀬九郎左衛門・林理右衛
         |  門ニ被申渡候事
         |          (宇佐郡)
小笠原長元知行潮 |一、小民ア殿知行之内、松崎塩入申候、又宇佐村風損御座候間、当春之土免之ことくニハ成申間敷
入風損ノ内検   |       (米田是門)(矢野)  
         |  旨申候ニ付、與右殿・利斎・民ア殿内助兵衛登城候て、内検不被仰付候而可然之由相談にて、冣
         |  前宇佐へ御内検ニ被参候財津之松岡市左衛門・次太右衛門ニ、民ア殿者一人相加被見届、其上に
         |  て免相彼定候へと、奉書被遣候事
         |                      13頁に写真    ( 木瓜 ) (菊)
灰吹銀ニ極印打ノ |一、與右殿灰吹ニこくい打候事談合、十匁ゟ上ハ平田判銀、其内ハもつかうきくとのこくいにて請
談合  平田判・ |  取渡可仕ニ究候、こくいちんハ拾匁ニ四リン宛ニ被定候、こくい無之銀子取遣仕間敷法度ニ候  
木瓜・菊極印賃  |  事
         |                                    (形)      (松本)
極印打ノ肴野菜代 |一、同人さかな・やさい代請取候事、請取人と又かい物うけ取人と御かい物使判刑ノ切手ニ、彦市
米        |  ・伝介加判ノ切手ニ而渡可申、談合ニ究候事、
         |     (堅)
落鴨持参     |一、京都郡かた嶋御惣庄屋四郎太夫処ゟ、田中ニ女鴨弐つ死居申候を、御百性ひろい申候間、持させ
         |  し越申候事
豊後横目ノ手形  |一、ふん後ふ内御横目衆ノ手かた、田辺平介方ゟ被差越候事、
         |

         |              
              十一日 晴天 両人詰  
         |
町人ノ下女走ル  |一、東小倉八町目、備前屋ノ九郎右衛門下女走り申候を、高月ノ人留とらへ被参候を、上田忠左衛門
高月ニテ捕へ郡奉 |  召連上ケ候、則式ア殿へ被申候へとの儀に候事、
行連来ル     |
         |  (三岳、規矩郡
犬喰ノ猪子    |一、ミつだけノ平二郎、主犬くい申候由にて、猪ノ子壱つ上ケ申候、則平二郎ニ遣候事、
         |                     
金山ノ見立    |一、加嶋久左衛門を国東ノゑびすへ、金山見立に参候へと被申付候、御鉄炮衆三人相添、明日参候へ
         |  と被申付候事
物書召抱     |一、御物書ニ山崎伝兵衛被召抱候事、
         |

         |              
              十二日 両人詰 曇 初雪少、 
         |
三斎上洛に水主船 |一、三斎様被成御上洛ニ付、御舟御加子・御船頭御やとい可被成とて、中津御奉行衆、式ア殿・民ア
頭ノ用意     |                              (鏡)
         |  殿へ書状幷ニ書立参候を、御奉行衆へ夜前見せニ参候事、則今朝善右衛門ニ被申渡候事、
         |                          〃
歩ノ小性召抱   |一、歩之御小性高橋久左衛門、新参ニ被召抱候事、
         |              深野加右衛門、
         |一、かい田半兵衛・野口五介・右同前ニ被召置候事、
         |一、国東へけん見ニ御遣候衆、佐分利兵大夫・千手新左衛門・西沢文左衛門・野瀬吉右衛門・百冨忠
国東郡検見帳ヲ知 |                     (加藤)
行方奉行へ渡ス  |  左衛門被罷帰、登城、御帳持参被申候ヲ、則新兵衛ニ被相渡候へと、被申渡候事、
玄猪ノ祝儀    |一、中津へ被成進上候御猪子ノ御祝儀、梅田藤右衛門ニ被申渡事
吹矢壱本長崎ニテ |一、長崎へ参候飛脚罷帰候、ふきや壱本持参申候事、           忠利の注文
調達       |
         |一、杉山藤兵衛ふん後ゟ罷帰候、相替儀無之由、被申候事
         |

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■季節の写真「師走の紅葉」

2019-12-19 11:10:02 | 徒然

                                                         

 師走も残り十余日となりましたが、随分暖かくて、散歩の跡は汗ばんでにシャワーをかからねばならないほどです。
自衛隊敷地内の見事に紅葉した銀杏の木も、この数日ですっかり葉を落とし、裸になってしまい、下は見事な黄色いじゅうたんです。
我家の10センチにもみたない楓(トウカエデ)は、まだ葉を落とすことなく師走の後半まで頑張っています。
3~4センチしかなかった実生の赤ちゃんが、ここまで大きくなって色づくと本当にうれしいものです。今は私の机の上に鎮座しています。
今日は少し動かして、写真を撮ってみました。


                                             紅葉のしかと残って 師走かな   津々


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■御侍帳・家紋から考える(17)

2019-12-19 08:41:16 | 家紋

「」                                            

渡辺三郎左衛門は「渡辺市門家(南東11-19)」の7代目・才次(三郎右衛門)三百石である。
 家紋は「丸に竜胆紋」「丸に隅立て井桁」
渡辺十内は「渡辺 蔀家 (南東11-17)」の7代・十郎右衛門(十内)二百石である。
 天保十年一月から弘化二年十月まで、飽田詫摩郡代、上・下益城郡代、野津原鶴崎郡代、阿蘇南郷郡代などを勤めた。
 家紋は「石持地抜き隅立て角」
渡部作平次は「渡辺半次家(南東11-16)」の6代目・百五十石である。
 家紋は「石持地抜き三角に三つ星」

■渡 作之丞は誤植だと思われ、渡部作之丞であろう。「渡辺七衛家(南東11-24)」の6代目である。
 上記半次家と同族であり家紋もおなじである。

渡部平右衛門は「渡辺平之助家(南東11-18)」の6代目である。
 家紋は「渡辺星紋」である。
渡辺理左衛門は「渡辺 續家(南東11-25)」の3代目・嘉藤次(理左衛門)であろうと思われる。2代目も同じ名前だが時代が遡るように思える。
 家紋は「渡辺星紋」である。

渡部善右衛門は「渡辺三郎家(南東11-15)」、4・5・6代目が同名で人物の特定ができない。5代目の可能性が高いが?
 家紋は「地紙に三つ星」「丸に地紙三つ星」である。
和田団四郎は丹後以来の「和田摠右衛門家(南東11-23)」の7代目・團四郎であり、和田厳足の父親である。
 家紋は「隅切り平角に」「」
和田左大夫は「和田権五郎家(南東11-21)」の5代目・武学(養子 左大夫・十兵衛・九兵衛)である。
 家紋は「隅切り平角に四つ矢筈」
■和田 登は「和田文八郎家(南東11-22)」の4代目である。
          和田子成 名は登、字は子成。藩に仕へ食禄百五拾石、時習館授讀となり、
               又近習目付を勤む。尚詩を善せり。
               文化九年正月没す。享年五十五。墓は北岡正立寺。
 家紋は「■■■■」不明、「丸に三つ銀杏」

■和久田庄右衛門は「和久田恒喜家(南東11-20)」の4代・八之助(庄右衛門)である。
 家紋は「隅切り平角に剣酢漿草」か
■脇山半兵衛は「脇山半兵衛家(南東63-99)」の当代(6代)多十郎(半兵衛)である。寛政三年八月御知行被召上候とある。
 家紋は「幸い菱」もしくは「大内菱」か?
■渡部一藤次は「渡辺八右衛門家(南東11-26)」の3代目である。
 家紋は「二重隅切り角に三つ星」
■渡部直右衛門は「渡辺遊水家(南東11-27)」の2代目である。
 家紋は「   」不明
■柏原新左衛門は「柏原新住家(南東18-1)」の6代目である。四千五百石、寛政九年から文政十三年まで、用人・御留守居大頭・備頭大頭などの要職を務めた。 
 家紋は「八つ丁子」「三っ扇」
■柏原弥七左衛門は分家筋・「柏原弥九郎家(南東18-2)」の5代目、御鉄炮三十挺頭 五百石
 家紋は「隅切り平角に八つ丁子」である。
■片山多門は「片山多膳家(南東19-1)」の7代目・敬八(多門)である。文化七年から安政四年にかけて、 留守居番頭・番頭・中小姓頭・小姓頭・用人・留守居大頭
 などの要職を務めた。
 家紋は「五つ瓜に唐花」?、「五つ骨扇」
■神鷹小野右衛門は「神鷹仙右衛門家(南東16-21)」の3代目か(1-3代共同名である)、非常に珍しい苗字で特に熊本に集中している。
 家紋は「隅立て平角に違い鷹の羽紋」である。              

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■「阿部茶事談」(07)釈文

2019-12-19 06:50:02 | 史料

07     如是将軍家ゟ甚以御懇意之上使迄有
      と云共御療養不被為叶定業限りて
      寛永十八年三月十七日忠利公御齢五              細川忠利(1586‐1641)
      十四歳相奈し於他邦も聞傳ふる輩も
      あ王れ明君成し物をと追悼しならむ
      ハなし 此御別悲歎の余り三齋公追悼
      の御詠吟有
        行も道行ぬも同し道なれと
         連て行ぬそ別連とハいふ
      古今茶話尓云忠利公ハ文武兼備の名将尓
      して射御書數の六藝尓御達しまし/\て
      剱術抔柳生中条二流尓奥旨を極め被遊             柳生(新陰)流 中条流
      ける 御馬ハ別て折々ハ曲馬をも遊ハせし也

      歌道は冷泉為綱卿の御弟子尓て御逝去             冷泉為綱(1664- 1722)
      被遊時も為綱卿追悼の和文尓一とせ筑紫              生没年から忠利がこの人物の弟子という事はあり得ない。

      尓こと阿りし尓忠利公の戦功を柳営是を              藤本千鶴子氏の「校本・阿部茶事談」でも同様であるが、この間違いについての指摘はない。     
      賞して関西の籏頭を給ふと有
        御葬禮之事幷御家人殉死之事
      斯て可有事ならねハ飽田郡春日寺の院内

      尓して火葬尓なし奉り御遺骨を護国
      山妙解寺尓納奉る 元来光尚公の御舎弟

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■疑義「横井小楠甥・左平太に関する史料」

2019-12-18 11:40:05 | オークション

   【極珍品】横井小楠の甥/米国密航/熊本藩士横井左平太/十一代藩主細川斉護公との関係を示す謎の文書/幕末/維新/戊辰/古文書/書状

                              

 横井小楠の甥の横井左平太(1845-1875)と、細川家当主・斉護(1808‐1860)との確執が存在するとも伺える書状であるとして出品されているこの書状。
誰が書いたのか、誰にあてたのか、単なる控えなのか良くわからない。
釈文が紹介されているが良く良く拝見すると、どこにもこれを裏付けるものが全く見えない。
出品者の説明に元づき、それぞれの生没年から見てみると、横井左平太は最大15歳という事になる。
全く無名の時代であり、藩主と確執があるとは到底考えられない。
越中守を斉護だと比定しているのは、左平太を横井氏と思い込んでの事であろう。

越中守との確執を、「肥後様に云々」とある所を見ると、越中守は忠利であり、肥後様は光尚であることが考えられる。
筑前殿は黒田氏であろうとも思える。そうなるとこの出品者の説明は全く頓珍漢なものになってしまう。
主馬とはだれか、忠利の時代の人物を考えると加々山主馬(可政)だろうか。斉護の時代に周辺に主馬を名乗る人は見受けられない。
そうだと考えると本文の主役左平太とは果たして誰なのか。大名・旗本クラスの人物で左平太(佐平太)を名乗る人はいないか?
興味は尽きないが、該当する人を見いだせないでいる。

私の推測が間違っていたら振り上げたこぶしの収めどころが無くなってしまう。
      
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■元の木阿弥

2019-12-18 09:25:58 | 徒然

 一日のうちに五・六冊位は本棚から本や資料を取り出す。目的の文章を読んで栞を挟んだり、付箋を張り付けたりして足元に置く。
これを夫々に行っていて、気がつくと足元は本の山になる。
又読むからと思い、次から次にニ三日分を積み上げたりしていると、さてどこから引っ張り出したのか判らなくなる。
そのまま足元に置いたり、空いている隙間に押し込んだりしていると正位置から外れてしまい、順序だててならべた筈のものが元の木阿弥状態である。
まあ、押し入れの中には帰ることはないから、キョロキョロすれば見つけ出すことは出来るが、薄っぺらな本などは大いに困る。
お正月が近くなり、奥方は大掃除をしようと張り切っている。蒸気の出る掃除機でフローリングを掃除して、ワックスを掛けるのである。
私の部屋も対象となるから、なんとか本の山を元に戻さなければならないが、同じキャパなのになぜか三四冊納まらない。
掃除機だけをかけて、「俺の部屋はワックス掛けはいいよ」という風に収めようと密かに考えている。

付足し:賢明なる諸兄は「元の木阿弥」の言葉の由来は既に御存知であろう。「元の木阿弥の意味
    筒井順慶は父親と2歳で死別しているから、父の死を伏せて影武者となったこの黙阿弥さんは、いつまでその役目を勤めたのだろうか? 
    黙阿弥さん、御役目とはいえご苦労さん・・・

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■細川小倉藩(104)寛永元年・万日帳(十月六日~九日)

2019-12-18 06:57:46 | 細川小倉藩

                        (寛永元年十月)六日・七日・八日・九日

         |              
              六日 両人詰 
         |
難破船ノ船頭詮索 |一、今度はそん仕候御舟御船頭ノ衆せんさく之儀、鏡善右衛門、御舟頭与頭三人ニ被申渡候ヘハ、今
         |              (樋口淡路)
         |  度之そこね申候御舟之儀ハ、あわち罷下候まてハ、御待被成候て可被下之由申候ニ付、其分ニさ
         |  しのへ被申候事、
豊後横目ヨリ音信 |一、符内御横目衆へゟ御音信之御返事、夜前九つ時分ニ参候事、
ノ返事      |

         |              
              七日 両人詰 晴天 
         |
問紹甫渡唐船ヲ借 |一、といノじやうほ、長崎ゟ昨日罷上り登城、たう渡ノ舟、色々さいかく仕、かり申候由申候事、
ル        |          (ママ)
         |一、一昨日五日ニ、式ア中津へ御茶上ケニ御越候事、
         |  (沼田延之)
         |一、長岡十五郎殿内留田加介、江戸ゟ罷下候ニ、御奉行衆へ 御書成下候、長介と申小性持参申候
         |  事
         |
              

              八日 両人詰 晴天
         |
         |一、乃美新四郎夜前九つ時ニ中津ゟ罷帰候、江戸ゟノ御書上り不申候故、御奉行衆ゟ状を取候而帰
三斎土井利勝ヨリ |  候、惣別土井大炊殿ゟ御用迄申上候へ、其外ゟノ儀ハ申上間敷旨、 三斎様被仰出候故、万事披
ノ用ノミヲ聞ク  |  露不成候、御書も上り不申、返書無之由候事、
万事披露ナラズ  |            (猪)
         |一、右之通ニ御座候故、貫井兵衛御鉄炮衆五人今日出船、江戸へ巻物共持参仕候様ニと、被申付候
         |  事、
         |          (寒)
寒田牧山之厩建設 |一、川田八右衛門、沢田馬城山へ馬屋作せニ参候へと被申渡、明後日十日ニ、御鉄炮衆拾人召連可参
         |  之由候事、
江戸へ巻物持参  |一、貫猪兵衛ニ御鉄炮衆五人相添、江戸へ差下申候御巻物持参申、今日出舟仕候事、
         |

              九日 両人詰 晴天 七つ下りヨリ雨、
         |                    (豊後玖珠郡)
日田ノ市     |一、須崎久左衛門所ゟ御奉行衆へ書状指越候、小田村ノ百性日田ノ市へ牛うりニ参、牛つなぎ候て置
         |     (忠總)豊後日田藩主
牛盗難ノ出入   |  候を、石川殿百性右之うしをうり候て、かいて牛引帰候を、牛主見合候て理を申候ヘハ、刀をぬ
         |               (か脱ヵ)
         |  き、けんくわニ仕候を、刀をつミおとし、此方へ取申候、牛ハ石川殿惣庄やニ預ケ置申之由候、
         |  下ニ而済可申之由、申通ニ久左衛門申越候、下毛御郡奉行を可遣とて、小崎太郎左衛門呼ニ被遣
         |  候事、
         |                  (高月) (西村)
筑前ヨリノ走者ノ |一、筑前ゟ十七八ノ小者壱人走り来候を、人留ノ善兵衛召連参候、式ア殿へ連参候へと、被申渡候
処置       |  事
         |      (紹甫)
問紹甫唐船ノ仕立 |一、といノ沼浦登城、こくい唐船ノ仕立不罷成、様子書物ニ而申候、則江戸へ指上ケ可申ノ由候事、
ナラズ      |
女敵討ノ詮索   |一、田川ノ四郎右衛門昨夕召寄、今日瀬崎猪右衛門・町市丞奉行ニ而穿鑿仕候処ニ、助兵衛女房中々
水責       |  ぬすミ不申由書物仕候、水せめハ冣前なたニ而切り申候処ニ、于今なおり不申候間、まつ相待可
         |  申ノ由申候事
         |

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■「ひ」と「し」、井上教授の憤慨

2019-12-17 16:52:08 | 徒然

 京都市嵯峨ご出身の井上章一氏の「京都ぎらい」は、京都=洛中を痛烈に批判していて、非常に面白い。
洛中人にはなりえない嵯峨の出身である氏の出自に、一種の無念さが見えている。
最後の方で氏は「七条」を「しちじょう」と云う今の読み方に、強い違和感をしめして憤慨しておられる。あれは「ひちじょう」であるべきだと・・・。

 私も今でこそ「七」は「しち」と発音し、特段の違和感も持っていないが、氏が言われるように確かに「ひち」と発音していた。
これに気づいたのはそう古い話ではない。ブログを書き始めて気が付いたのである。
ちょっと見つけ出せないでいるが、どこかにそのことを書いた覚えがある。
熊本にも「七軒町」という地名があり、「ひちけんちょう」と読んでいたはずだが、そのよみで検索しても「七軒町」は出てこない。
京都には「四条=しじょう」があり、「七条」が「しちじょう」では、お年寄りなどは聞き間違えてしまうとご立腹である。
氏の著書の出版社からは、「七=ひち禁止令」が出たという。
東京の出版社のせいだと憤慨されるが、多勢に無勢敗北に至ったようだが、憤懣やるかたないという風情である。

私より13歳若い氏が、出版社の「禁止令」により、此のことに気づかれたのは40台に入ってからの事だとされる。
私のブログが16年ほどになるから60代に入っての頃になるが、13歳の年齢差からすると少々気づくには遅きに失している。

 そもそも何故「ひ」が「し」になったのだろうか。日本の大方が「し」と発音していたという事なのだろうか。
熊本の言葉は古語が定着しているものが多いとされるが、発音に於いても「七=ひち」が定着していたように思われる。
熊本ではあまり気にする人もいないのだろうが、京都の人たちは、発音にまでお国の力が及ぶことに憤慨されている。
「京都ぎらい」の教授も、このことに於いては京都擁護派の先鋒であられる。

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■原文に触れる「阿部茶事談」(07)

2019-12-17 13:18:09 | 史料

                                    

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■ニトロの処方

2019-12-17 11:02:05 | 徒然

 月一の病院行、今日は心電図とレントゲン撮影、心電図には異常はなかったがレントゲンで心臓肥大が見受けられる。
ちょうど一年前の写真と比べると肥大が明らかに大きくなっていることが素人目にもわかる。
先月「逆流性食道炎」だといわれた時折差し込む痛さは、心臓由来のものかもしれない。ニトロの投薬を受ける。
いわゆる生活習慣病のオンパレードの私だが、来年一月には78歳になる。また来年もこんな体と付き合いながら頑張らねばと思っている。

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