41 申候 寺沢殿ハ原之城へ之寄衆ニ御出之由申候
さつまの三原左衛門助年内ゟ嶋原 上使衆ニ付居
申候間様子共尋重而言上可仕候 御人数ハ元日ニ
よひに遣シ候へ共未尼草へ着不仕由左門使私ニ申候事
一板倉内膳殿御打死之儀ニ百々左門殿と御
御縁者之由ニて左門殿ひいき分ニ大坂ニ河口
よ里先へ状を御下シニ而被仰候ハ城をかまへ居申
とても百性之儀ニ御座候ニもミたてせめ候ハヽ
輙落可申儀をゆる/\と日を被送候儀油
断之様ニ存候 伊豆殿我等下りニて落去仕候ハヽ
内膳殿手前如何ニて間もニ落被申候へと大
晦日之あさ其状着仕候ニ付俄ニ思召し元日ニ
御懸候へ共乗もきかせす御打死と申候 内膳殿
打死之注進ニ筑後之榎津と申所ニて
左門殿御聞候て一日之御逗留之船中道
中ニてハ原之城下へ直に御着之はすニ候へ共
城ゟ五里わきへ舟を御付様子を聞合原ノ
城へ御出候て様子御覧候て御きもつぶし候由ニ候事
(寛永五年正三月)廿五~廿七日
|
| 廿五日
|
忠利清田乗栄邸ニ |一、清田七介所へ、今朝被成 御成候事、
臨ム |
乗栄越前綿ヲ進上 |一、右七介ゟ被成 御成忝奉存由ニ而、越前綿五十把被上候事、
ス |
| (衛友)
谷衛友使者 |一、谷右兵衛殿ゟ、為御使鉄炮之衆弐人参由にて、御文箱二つ、谷忠兵衛持参被仕候、又江戸御やし
| (松野親英)(町)
| きの織ア・三右衛門ゟ言上之文箱之由ニ而、飯田才右兵衛ニ宛申文箱参由ニ而、右同前ニ被差上候
| 間、右何も才兵衛ニ渡可被申由、申候事、
| (宇治屋)
宇治屋茶介病ニ明 |一、茶介煩未然々共無御座候、此中明寰薬を被下候へ共、検も無御座候、冣前 殿様ゟ被下候丸薬事
寰ノ薬ヲ与ウ | 今
忠利ノ丸薬を乞ウ | 外能御座候と覚申候、慮外千万ニ而御座候へ共、其御薬を一度拝領仕被下度奉存候、又むしのお
鍼立ヲ乞ウ | こりさめ御座候間、はりたても一人被 仰付被下候へかしと申ニ付、其段熊谷九郎兵衛を以申
| 上候処ニ、則右之御丸薬一包被下候、又はりたての儀ハ、へたの針たてなとハ中/\成間敷旨、
| 御意之通、九郎兵衛被申候事、
| (延俊) (恵重)
木下延俊飛脚 |一、木下右衛門様ゟ御飛脚参候、御文箱志水新丞を以上申候事、右ノ 御返書、則出申ニ付而、上林
| 甚介与池内勘介ニ、新屋與左衛門所へ持せ遣、
| (立成)
浅野長晟飛脚へ壱 |一、浅野但馬様ゟ御飛脚参候、御文箱道家左近右衛門を以上申候事、右之御飛脚ニ壱歩判弐つ被遣、
| (友好)
歩判二給与 | 息御返書出申候ヲ、松井宇右衛門持被参候事、
惣銀米奉行帰着 |一、中神與兵衛、今晩中津ゟ被罷帰候事、
三斎へ返弁済ノ米 |一、三斎様ゟ去年被成御借用候御米銀御返弁相済御借状、中神與兵衛取かへし被参候を、飯田才兵衛
銀ノ借状ヲ上グ | ニ渡、 御前へ可被上通、申渡候事、
山本宗覚喜例ノ茶 |一、山本宗覚如毎年、御茶上被申候ニ付而、如御喜例、銀子壱枚被遣候事、
ヲ上グ |
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| 廿六日
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稲葉一通へ書状 |一、稲葉民ア様へ、 御書被進之、御鉄炮衆壱人ニ持せ遣候事、
中川久盛へ書状 |一、中川内膳様へ、 御書被進之、御鉄炮衆壱人ニ持せ遣候事、
木下延俊老臣ヘノ |一、木下右衛門様御内恒川将監・中沢市丞所へ被成 御書、次飛脚ニて持せ遣候事、
書状 |
正源院ノ数寄 |一、今日ハ終日泰勝院へ被成ござそうろう、朝ハ正源院ノ御数寄ニ而候事、
忠利終日泰勝院ニ |
アリ |
|
| 廿七日
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奥村少兵衛脚気 |一、奥村少兵衛事、脚気さし出申由ニて、養生仕候事、
|一、岸川茂介今月廿四日ニ病死仕候由、野口久五郎・西田羽右衛門・上林二郎右衛門三人ニ而被申候、
| 後家書物持参候事、
忠利松井興長邸ニ |一、今日ハ終日敷ア殿へ被成 御成候事、
終日遊ブ |
|一、式ア殿被仰候ハ、今日ハ 殿様御気色能、ゆるりと被成御座、忝奉存由被仰候事、
|
小倉藩葡萄酒研究会の小川研次氏には、過去「小倉藩葡萄酒事情」「秀林院の謎」などの御著を頂戴した。
また「「阿部一族」の一考察」「秘史・阿部一族」等、また最近では「阿部弥一右衛門」などの論考もお送りいただき、ご了解のもと当サイトでもご紹介してきた。
それぞれ細川家の木倉藩時代の姿を彷彿とさせている。
今回の「田川キリシタン少史」は50,000文字をゆうに超える大作である。3~4回に分けてご紹介する。
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『田川キリシタン小史』 小倉藩葡萄酒研究会 小川研次
プロローグ
二〇一八年七月、世界遺産として登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は記憶に新しい。
それは禁教令下に信仰を命がけで守っていったキリシタンの生き様にある。
江戸幕府は慶長十七年(1612)三月二十一日に禁教令を直轄地や各大名家へ発令し、翌年十八年(1613)十二月二十三日(陽暦一六一四年二月一日)
には全国へ拡大した。
キリシタンは処刑される者や国外追放になる者もいたが、信仰を固守する為に故意に仏教徒に転宗する者もいた。
長崎や天草の多くのキリシタンは農業や漁業に従事し、その地に定住していった。そして潜伏キリシタンとなった。
慶長五年(1600)、豊前国に入った細川忠興は妻ガラシャの御霊救済のためにキリスト教の公布を許した。
慶長十年(1610)のイエズス会の記録によれば、小倉の町の人口六千数百人に対し三分の一の二千人以上のキリシタンがいたとされる。
「豊前の城小倉には、十人のイエズス会員がいた。長岡(細川忠興)もその子内記殿(忠利)も、いたく同情を寄せていた。
そこには、二千人の受洗があった。」(『日本切支丹宗門史』レオン・パジェス)
しかし、慶長十九年(1614)の禁教令による小倉の町の棄教・転宗者は四分の一の五三四人だけである。
藩領全体では二〇四七人であるが、(『大分県史近世篇II』)その四倍の八千人近くの信者がいたと考えるのが妥当であろう。
小倉藩領(規矩郡、田川郡、京都郡、仲津郡、築城郡、上毛郡、下毛郡、宇佐郡、豊後速見郡、豊後国東郡)の内三桁の転宗者がいたのは規矩郡(小倉含)
五六一人、田川郡百二十人、下毛郡百二十六人、豊後速見郡九三四人である。
さて、豊前小倉藩ではこれだけ多くのキリシタンがいたが、長崎と違いその痕跡は皆無に等しいのである。
原因は藩特有のキリシタン政策にあった。
金山(かなやま)
慶長三年(1598)、徳川家康はスペイン船で来日したフランシスコ会の宣教師ジェロニモ・デ・ジェズスに銀鉱採掘の技術を要請している。
『切支丹迫害史中の人物事跡』姉崎正治)
灰吹法よりも効率のよい水銀を使用したアマルガム法の導入を考えたのだ。
また、慶長十四年(1609)に、スペインのフィリピン総督に「銀精錬に堪能な鉱夫五十人を招聘したい」と要請した。(『奥羽切支丹史』菅野義之助)
天下人となった家康は鉱山開発を国の最重要産業とし、鉱山政策の要である山法を全国に流布した。
それは「山例五十三条」(さんれいごじゅうさんじょう)からなる。その中から数条を紹介する。(『友子の一考察(二)』武田久義)
第二条 山師金堀師を野武士と号すべし鉱山従事者に武士の階級を与えている。
第三条 山師金堀師山法師の儀は国々関所見石一と通りして可相通事
鉱山従事者は決められた鉱石の見本を見せることにより全国の関所を通ることができる。このことにより山から山へ移動することができた。
・第十二条 山金紫金川金何方に有之候とも勝手次第堀採儀不苦事金脈のあるところは、どこででも行って採掘ができる。
・第十七条 山師金堀師人を殺し山内に駆け込みとも留置仔細を改め何事も山師金堀師の筋明白立候はば留置相働かせ可申事
但し主人親殺しの科人は一切隠置申間敷其の科後日顕れ隠れ難く候は場早速縄をかけ差出可申事
つまり主人や親を殺す以外の殺人も筋が通っていれば不問にするということ。
・第十九条 一山は一国たるべし他の指揮に及ばず一山一国の治外法権を認める。
・第三十八条 山師金堀師行暮候はば其の所にて一宿致させべき事
生き暮れた鉱山従事者には一宿一飯を与える。
この様な緩和政策を取った江戸幕府の意図は鉱山開発での人材確保のためである。
禁教令後に多くのキリシタンが鉱山へ流れ込んだ。特に奥羽地方である。
「秋田藩内の諸鉱山は山法を理由に公政不入の地として、そのアジールを主張し、一旦鉱山に入ったものは親殺し、主殺し以外は刑事訴追を拒否する
特権を主張し、藩も鉱山政策上その主張を認めていたから、鉱山は切支丹にとっては最も安全な隠れ場所となった。」(『奥羽切支丹史』)
伊達政宗の仙台藩領の下嵐江(おろせ)銀山(岩手県奥州市胆沢区)では六十人のキリシタンがイエズス会のポルトガル宣教師ディエゴ・デ・カルバリョ
(日本名長崎五郎右衛門)と共に潜伏していた。(『日本切支丹宗門史』)
ガルバリョは「鉱業に知識があり、鉱山の実質的効果的な作業に関し、労働者を指導していた」(『蝦夷切支丹史』ゲルハルド・フーベル)
「元和二年(1616)の頃、採鉱を
開始した金山で、その産出の豊富なことからたちまち鉱夫が集まり、元和六年(1620)、カルバリョ神父の往訪した際は、その数八万に上るといわれた。
鉱山は松前の城下から一日ほどの距離にあるが(中略)鉱夫のなかには相当多数の切支丹信者があり」(『奥羽切支丹史』)とあり、蝦夷の千軒岳金山を指している。
最北の地で多くのキリシタンが働いていたが、幕府の穿鑿が厳しくなり、遂に寛永十六年(1639)に松前藩は百六人の信徒を斬首したのである。
「十六世紀の末葉には日本の中部及び北部に多くの鉱山が発見され、多数の鉱夫たちが入りこんだが、そのなかに切支丹たちもあり、彼らは自分達だ
けで組を拵えていた」(『蝦夷切支丹史』)
このように「金山」にはコンフラリア(信徒組織)が組織されていて他国間でも情報交換がなされていた。特に弾圧が厳しいなか、宣教師を鉱山から鉱山
へ移動させる際に渡り鉱夫のグループを編成して、鉱夫に扮した宣教師(カルバリョ)を一員として安全に移動させている。(『徳川時代の金堀友子に関する考察』村串仁三郎)
元和九年(1624)、カルバリョらは仙台の廣瀬川で殉教するのだが、その一人に「野口二右衛門 豊前ノ者」とある。
また、盛岡藩領で「豊前ノ者 野口三右衛門が斬首され」とあり、二人は兄弟のようである。(『日本切支丹宗門史』)
正に遠く北国まで信仰を捨てずに生きていた流浪のキリシタン鉱夫の姿である。
呼野金山(よぶのかなやま)
初代小倉藩主細川忠興は金山開発に乗り出した。そして、この治外法権的な山法を利用した。
まず最初に着手したのは呼野金山(北九州市小倉南区大字呼野)である。
しかし、忠興の藩主時代である慶長・元和年間(1600~20)の鉱山開発に関する記録が細川家資料には少ないのである。
『企救郡誌』に伝承なる記録
を見ることができる。
[呼野金山]
「呼野村にあり。細川家の時、この處より金を出せり。是を呼野金と云う」
『綿考輯録』巻九に忠興は「豊前の呼野金」とし伊達政宗に「金具などに使われよ」と贈ったとあり、ここからの引用だろう。
[黄金山]
「後陽成天皇御宇慶長年中細川越中守忠興朝臣、この山を堀穿(せんくつ)し、黄金を鋳出し給いしとて、今に黄金穴数多處にもあり」
[古海家系図] 現代語訳
「輿三右衛門利久 善右衛門の二男慶長二丁酉八月十六日夜、木船(貴船)大明神が夢に現れて、豊前国の呼野というところに行って住むべし。
そうすれば必ず栄えると告げられた。それで、同年十一月、呼野に行き、住むことにしたが、十二月下旬、異人が来て、この地は黄金が出てくると言う。
そして、その人と一緒に山野を巡見しているうちに、横ずりというところに着き、これこそ最上の地と言う。見てみると黄金が泉の如く出てきた。
この時の藩主細川三斎(忠興)公に申し上げた。金山奉行厚木金太夫(春木?)と他の役人ら多くが入山し、金山はついに繁盛した。
輿右衛門には数町の田地を拝領され原という苗字をいただき、百姓頭となった。
明暦元年(1655)八月十二日に没する。享年八十三歳。戒名月桂宗心信士小倉小姓町の寳典寺に眠る」
興味深い話であるが、後年、創作された感もぬぐえない。
しかし、重要なキーワードが入っている。「異人」は鉱山技術を持つ外国人である。つまり鉱山技術を知る宣教師の可能性はある。
「呼野に金鉱脈有るを聞くやこの道の練達家を使いて、その実否を探らしめ、大いに見る所あるを覚り、直に開鉱し、呼野付近の小森、市丸、木下の
各を鉱業区域と予定し、盛大に採掘を溜めしるに、果たして好結果を得て日ごとに採取の金量少なからず。すなわち呼野金の名、近国に聞ゆ」
(「小倉藩政時状記」内山圓治 『福岡県史資料第五輯』より)
時代はずっと下り、安政五年(1858)、小笠原家が呼野金山に着手する。
その時の状況を記録している今井貞吉の『歴島記』(『企救郡史』)の中に「安政六年四月四日晴 (中略)呼野という驛(宿場)あり。
驛西路傍ら左に金抗あり。右に銅抗あり。金抗は唐人三家と云う」、「呼野には地名として当時、唐人の居宅であった「唐人小屋址」が残る」とあり、
外国人がいたとある。
町割には上町、下町、横町、裏町、魚町、寺町、遊所町があったという。
イエズス会『一六一四年度日本年報』によると、幕府による禁教令発令の折、江戸にいた忠興は国の家老らにキリシタンの棄教、転宗を成すように書
簡を送っている。
多くの信徒が先述のように転んだが、「屈しなかった者に関しては、さしあたって知らぬふりがなされた。」とある。
これがレオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』には「抵抗した人々の事は秘密にされた。」となり、隠蔽工作を思わせる。
忠興が藩内キリシタンを呼野金山に送り込んだならば、この時しかない。
忠利(ただとし)
元和七年(1621)正月七日に家督相続した細川忠利は六月二十三日に小倉城へ入る。
忠興から継承した金山開発事業を最優先した。元和九年(1623)からの『御用覚書之帳』(『福岡県史』)や寛永元年(一六二四)からの細川家『日帳』(『福岡県史』)に
「金山」に関する記録が多く見られる。
元和九年(1623)五月二日「呼野へ遣たき炭之事、」と金山用の炭の手配を指示している。(『御覚書之帳』) 製錬には多くの炭を要する。
また、三日には「かなつきしよゑん、与州くわ、つるのはし、ゆり鉢」などの金堀道具を渡したとある。
灰吹には牡蠣の灰も使用したようで「かきはい一斗、呼野へ遣候、」(十三日)とある。
また、採石を持ち上げり引いたりする「万力」の購入を家臣に命じているが、「いかにも隠し候」と秘密裡に進めている。(四月九日)(『永青文庫研究創刊号』)
幕府に金山開発を知られることを避けたのか。
また、翌年の寛永元年(1623)八月十五日に大阪より万力の事を依頼している。(『日帳』)
特筆すべきは元和九年(1623)五月十五日に「田川郡にて、石炭四百荷余堀出し候間、」とあり、既に石炭採掘を行なっていたのだ。
しかし、翌年の寛永元年(1624)には採鉱量が減少しており、他国の銀山の好況を知った堀子衆(鉱夫)は出国願いを依願している。
また「他国の山悪時は、何時も御国へ」と他国で思わしくなかった時の帰国許可まで与えている。(八月二十日『日帳』)
さらに十月二十一日は「御金山共何も御かね出不申候故、堀子なともちり申候、取分採銅所の御金山少も出不申候につき、」このままでは堀子らは
離散してしまうと報告している。
そして翌日には忠利は「仕様無之候」であるから、離散する者らには「知らざるふりに」と言い渡している。
堀子らには寛容だったが、忠利は「山法」に従ったのである。
多くのキリシタン鉱夫が他国へ移動したと考えられる。
御金山(呼野)を越えて「採銅所の御金山」に言及している。
この呼野金山と採銅所を繋ぐ要所が金辺峠(きべとうげ)である。秋月街道の難所の一つである。
茶屋跡の隣に古めかしい石段があり、その不規則な段を注意深く登って行くと、小さな観音堂がある。
祀られているのは金辺観音と呼ばれ、細川時代に採掘した金で作ったという伝承がある。
寛永九年(1632)、細川家熊本へ転封の時、金辺観音も移動することなった。
「この観音様が夜な夜な忠利の枕元に立って金辺に帰りたいと訴える。一方、金辺峠の茶屋佐七の夢にも出てきて熊本へ迎いに来てくれという。
ここで忠利は金製観音を返すわけにはいかず、木製観音像を作り、入魂して金辺に送り、その守りを佐七に託したという」(『郷土史誌かわら第二集』)
「金」が「木」となったということだが、寛永五年(1628)の『細川日帳』に「木部とうけ」と見られることや彦山入峰経路図には木部宿と表記されて
いたことから、(『秋月街道』福岡県教育委員会)おそらく「金辺」は後年の当字だろう。
推考だが、「金」は「キリスト教」で「木」は仏教の意で、かつて金山キリシタンが祈りを捧げていた「マリア」観音だったかも知れない。
寛永四年(1627)の『幕府隠密探索書』(『百舌原金山の持つ秘密性の考察』岡崎悠多楼著 「郷土史誌かわら第二集」)によれば、「この(呼野)金山はここ六年前の春より
出来申す候由、盛りに取れ申す候時には、人の五、六千人も居た」が、現在は殆どいないとの報告をしている。
また「採銅所と申す金山も」あり、「南採銅所と申す町は、この金山より半里程南」へ、「家は七、八十軒程」見え、堀子は「三百程居る」となっている。
「伊方」「五徳」「鏡山」の金山を掘ってはいるが、かつては少なく、今では少しも出ないので堀子は全くいないとある。
これらの報告は隠密によるが、どの程度信憑性があるだろうか。細川家から忖度されている可能性は十分にある。言わんや江戸時代である。
確かに一旦は減少したが、寛永五年(1628)五月二十二日の『日帳』には「御金山より、金之くさり(鉱石)にほりあたり候て、」とあり、継続していたのだ。
|
| 廿三日
|
| (米田是季)(小笠原長元)(沼田延之)(志水元五)
大坂城普請奉行四 |一、監物殿・備前殿・勘解由殿・伯耆殿へ之 御書箱弐つ、
人ヘノ状 | 我々ゟ(結 添)
|一、佐藤少三郎・小野九右衛門所へ之文箱壱つ、内ニ 御書有、寺嶋所へ之状ゆひそへ遣、
大坂城普請奉行四 |一、式ア殿ゟ、御普請ニ御上候頭衆四人へ之状壱包、又式ア殿内衆へ之状壱通、
人ヘノ状 |
|一、寺嶋主水所へ、式ア殿ゟノ状壱つ、
| 右之分御船頭井上十右衛門ニ相渡、上せ申候、
| (久盛) ゟ
中川久盛口入ニヨ |一、上毛郡犬か岩屋村三郎左衛門儀、中川内膳様御理非仰進之ニ付、被成御助候、就夫、豊後へ御礼
| (坂崎成政) (松井友好)
リ助命ノ百姓ヲ礼 | ニ参上可仕旨、被 仰出、則清左衛門・宇右衛門ゟ、中川加賀守処へ状之写そへ、遣被申候事、
ニ行カシム | 右之旨ニ候間、可被得其意由、沢少兵衛・塩木又丞方へ、我々ゟも状相添、遣候事、
走リ百姓耳鼻を削 |一、下毛郡池永村孫作儀ハ、耳・はなをそぎ、御国を走申間敷との能請人を立させ可申旨、被 仰出
ギ請人ヲ立タシム | ( マ マ )
郡奉行へ渡ス | ニ付、御鉄炮衆平塚喜左衛門 両人幷樹下作右衛門者三人ニ引せ、小崎太郎右衛門・
| 木村九郎兵衛所へ状をそへ、遣候事、
江戸詰交替 |一、正源寺少九郎かわりニ、堀平左衛門被遣候間、少九郎ハかわり候て、御国へ可罷下旨、被 仰出
| 候、江戸へ之状ニ、無失念書可遣候、
|一、荒木兵四郎もの小介ニ、来月二日ニ兵四郎江戸へ被遣候間、可被出との状渡遣候事、
| (道原村、規矩郡)
忠利珍シキ草木ノ |一、草木の花のめつらしきを取ニ、方々へ被遣候処ニ、宮部権三郎らんの花さきたるを、だうはるの
花ヲ採集セシム | おくにて見付申由にて、とり被来候処ニ、白蘭の由にて、殊外 御意ニ入候、日本ニめつらしき
白蘭ノ花 日本ニ | 物にて候処ニ、きとくニ見出参由にて、有所 御前へ被召出、被成御尋候、今三かふ四かふも跡
珍シキモノ | ニ有之由、被申上ニ付而、石寺加兵衛御奉行ニ而、ほりニ被遣候事、
|一、佐方少左衛門今日被罷出候事、
| (正慶)
花畠ニ移植セシム |一、今日権三郎ほりて被参候らんハ、則加々山権左衛門ニ被 仰付、御花畠ニ御うへさせ被成候事、
|
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| 廿四日
| 弐百人
鉄炮足軽二百人召 |一、御知行被下、新参ニ被召置候御鉄炮衆、当月ハ田地請取申ハ、追々ニ抱申候付、五日宛ノ御役目
抱へ 五日宛ノ | 可被申付通、余田三右衛門・沢田吉右衛門方へ、切かミ遣候事、
役目 |
|
40 出シ石ニて被打可申と斗申候由申候 是も
権兵衛語申候事
一上使衆伊豆殿・左門殿・十蔵殿ハ今度之
大将分ニて御座候 其外之衆ハ御寄衆をわ
け請取御横目ニ御付候 肥後様ヘハばゝ三郎右衛門との
なべしま殿ヘハ榊原飛騨殿 黒田右衛門佐殿
寺沢兵庫殿御両人ヘハ林丹波殿 立花殿
玄蕃殿・松倉殿三人ヘハ牧野傳蔵殿御付候
松平甚三郎殿ハ手を御おいしニ付何方へも
無御座候事
一昨日之御請ニ石谷十蔵殿御働ゟさき
1 由の間違いか
伊藤十丞城へ懸申せ申上候 左様にてハ無御
座候 十丞ゟ先に石谷十蔵殿手勢百斗
2
しまつさきニ立御懸候而御手負候由申候 御
手もうす手ニて御座候由申候 中/\御はた
らき見事ニ御座候由申候 松山権兵衛其ばニ
居申ニ付語申候 十丞も殊外見事ニ御座候由候事
一薩广殿御人数ハ天草を請取山をかり申也
以下の写真は、小倉葡萄酒研究会の小川研次氏からお送りいただいたものである。
宇佐郡大字山の貴船神社(現・宇佐市大字山376番地)にあるという、阿部弥一右衛門関係の墳墓群である。
弥一右衛門の墓碑(右)の横にやや小さい墓碑があるが、これは同じく細川忠利に殉死した右田因幡の墓碑であるという。
細川家が肥後54万石の太守となり、豊前を離れたのは寛永9年の暮れである。
そして、天草島原の乱という大危機を乗り越えた忠利であったが、寛永18年2月病に倒れ幽冥を異にした。
阿部一族の非業な最期は、熊本に於いてはその墓地さえ定かではない。(御船の東禅寺のお墓は最近否定されている)
熊本に在る事9年余、阿部氏にとって父祖の地豊前にこのように一族とともに祀られて安住の場所を得たということであろう。
右田因幡については、弥一右衛門との関係は伺い知れないが、隣同士に配されている所を見ると、なにかしら近しい関係も考えられる。
このたび小川氏のご厚意により墓碑の存在を知った処だが、このような写真の提供を給わりここに改めて御礼申し上げる。
右・ 阿部弥一右衛門の墓碑
左・ 右田因幡統安のものと伝わる墓碑「
阿部弥一右衛門墓碑銘 阿部氏関係墓群
(寛永五年正三月)廿ニ日
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| 廿二日
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| (栗)
|一、中西善介、相番粟野二右衛門当分相煩申候ニ付、めしかわり無之、何共めいわく仕由被申ニ付、
| 二右衛門快気仕迄、中川四左衛門申付候事、
鮒鮨大坂ゟ下ル |一、大坂ゟ、鮒之鮨三桶下候、御台所へ相渡、切手取、御船頭宇高久右衛門ニ相渡候事、但、此中下
| 申ふなノすし也、
|大坂を十三日ニ出船申候、
大坂ヨリノ積荷 |一、御船頭宮崎孫左衛門、大坂ゟ積下候物数
物数 | 一、御銀子二箱下申候、
| (延俊)
| 一、木下右衛門様ゟ之 御状一つ、
| (秀成)
| 一、菊野伊織・生嶋平三郎所へ、生嶋玄蕃ゟ之状一つ、
| (長岡孝之)
| 一、休斎様へ、山田将監ゟ之状一つ、杉本左介持参被仕候、
奥ノ納戸役人 | 一、奥ノ御納戸衆へ、京ノ三人ゟノ状一つ、
口ノ納戸役人 | 一、口ノ御納戸衆へ、右三人ゟノ状壱つ、
| 一、坂崎左・永良兵へ、京ノ三人ゟノ状一つ、
| 一、続平右・熊九郎兵へ、右ノ三人ゟノ状壱つ、
| (小野) (佐藤秀成)
| 一、大塚長庵へ、九右衛門・少三郎ゟノ状壱つ、
| 一、式ア殿内井上弥二右衛門所へ、山田将監ゟノ状壱つ、
| 一、言上状壱つ、寺尾左介・牧丞大夫ノ壱つ被上候事、
| 右、何もそれ/\へ渡申候事、
釜風呂鋳造ノ奉行 |一、高並昨左衛門、かまぶろ被成御鋳せ奉行申付候事、
松屋九郎兵衛 |一、松や九郎兵衛京ノ宿ゟ、九郎兵衛ニちいさき箱壱つ、むしろつゝミニして下在之を、式ア殿御覧
| 候つる、然所、式ア殿ゟ忠兵衛と申仁を使ニ而、被仰聞候ハ、さきほとの九郎兵衛所へ参候箱、
| 此方ゟ届可申候間、忠兵衛ニ可相渡由ニ付、渡遣申候事、
|
(寛永五年正三月)廿一日
|
| 廿一日
| (堀口)
国東ノ六地蔵之笠 |一、国東郡ゟ、被成御取寄候六地蔵之かさ、式ア少輔被為拝領由にて、少五郎を使にて、取ニ被下
ヲ松井興長拝領ス | 候、御路地之衆ニ相渡候へと、申付候事、
| かなやま
金山へ鉄鎖運搬 |一、御金山にて、鉄くさりをつけさせ申ためニ、御小荷駄壱疋、今日金山へ遣候事、
|
通行人ナキ門番ニ |一、御門口ニ人之出入無之所ハ、竹釘けづり申候、然所、坂井勘兵衛預り之御門、魚屋ノ者出入有之
ハ竹釘ヲ割ラシム | 由候ニ付、御門明候而有之哉、左候ハヽ、人之改無之而ハ不成儀ニ候間、釘けつり候事ハ成間敷
人ノ出入アリ | 候間、其段神西長五郎・竹内八兵衛両人ニ相改候へと申渡候処ニ、人之出入有之由候、いかか
| い、又他国ゟも、魚町へ肴売ニ参候由候間、然上ハ、勘兵衛けつり候釘ハ、けつらせ申間敷ニ相
| 究候事、
忠利三斎ヨリ壱万 |一、中津御奉行衆へ、当年御借用之御米壱万石ノ御借状を、歩之御小性三輪権内ニ持せ候而、中神所
| (政時)(元高)
石借米ノ状当所誤 | 迄遣候て、右御奉行衆へ上ヶ候へと申遣候処ニ、長舟十右衛門・貴田権内・志水次兵衛三人ニ当
リ書直シ | り、蒲田久左衛門ニあたり不申候間、 御借状を請取申儀成不申候間、御書替候而被進之様ニと
| 被申由候而、中津ゟ権内ニ持せ、差上被申候を、 御前へ上ヶ御調直シ被下候様ニと、飯田才兵
| 衛ニ申候事
| (寛永四年)
由布院横灘物成帳 |一、宇野七右衛門ゟ、由布院・横灘夘ノ御物成帳を、次飛脚を以被差越候、加藤新兵衛・栗野伝介
速見郡奉行ヨリ来 | (広門)
ル 筑紫広門 | 方ニ相渡候而、筑紫殿御知行割可仕通、申渡候事
へ知行割 |
中津ノ油屋自害ス |一、三輪権内被帰候便宜ニ、中津御奉行衆ゟ被申越候ハ、中津町人油屋徳右衛門と申者じかい仕候、
死跡闕所 | 彼者不届儀ニ付、跡御闕所従 三斎様被仰付由候而、彼者油ノ第かけ置候帳面、下村傳蔵・尾崎
油ノ代懸銀ノ帳 | 善太夫判形之帳ニ、十右衛門・権内・次兵衛・久左衛門加判御帳被差越候間、急度御帳面上納
取上上納ノ触 | 可仕通、可申触旨候、其内ニ理有之衆ハ、早々可申上旨候事、
大台所ノ番士ノ加 |一、大台所ノ番衆煩申ニ付、其替ニ松ノ御丸之御番仕衆ノ内当分遣置候処ニ、快気仕候間、当分加
番 | 候御番衆ノ内、一人もとし可申由ヲ、北村平右衛門被申来候間、鬮取ニ而、一人もとり候へと可
| 申渡旨、申渡候事、
油屋闕所銀米取立 |一、中津御油や徳右衛門御闕所銀米取立帳を、遠藤五郎左衛門・野上市太夫ニ渡、書付之衆之判形取
帳 | 候へと、申渡候事、
三斎より借用ノ壱 |一、三斎様ゟ、当年被成御借用御米壱万石ノ御借状、冣前被成御調候を、歩之御小性三輪権内ニ持
万石ノ借状 | せ、中津へ遣候へ共、当所不足ニ付、戻申候を申上、御調かへ被成、又歩之御小性黒木三太夫ニ
| 持せ、中神與兵衛中湯ニ被居候ニ付、遣候也、又中津御奉行衆へ、中津油や徳右衛門御闕所ニ
油屋小倉貸付改帳 | 付、当地かし付御改之御帳請取申由、書状同人ニ持せ遣候事、
妻子死去ノ渡辺某 |一、生源寺市兵衛被申候ハ、渡辺五左衛門儀、妻子相果申ニ付而、爰元へも罷下候ハて不叶と被存候
ノ処遇 | ハヽ、得 御諚、替をのほせ可被下通、冣前被仰聞候ニ付而、爰元へも罷下候ハて不叶と被存候
| 五左衛門申越候ハ、忝 御意之通、中/\可申上様も無御座候、爰元へ罷下候とても、別ニ妻子
大坂城普請ノ横目 | のたりニ成申儀も無御座候、其上今度大坂御普請御横目被 仰付候間、此度は随分相詰、御奉公
| 可仕候間、此段申上候而くれ候へと、申越由被申候間、又便宜も候ハヽ、一段きとく成被申分之
| 由、申渡候事、
鹿狩供侍ノ宿奉行 |一、原久助・瀬生又兵衛・井田小兵衛、此三人御鹿狩之御供衆宿奉行ニ遣候事間、内々可被得其意
| 由、申渡候事、
同薪奉行 |一、薪奉行ニハ、遠藤五郎左衛門・林千右衛門申付遣候事、
同人足奉行 |一、人足奉行ニハ、樋田少三郎・早田十郎兵衛申付置候事、
同泊所ノ夜番 |一、御泊ノ夜番十人、内壱人ハ御音信方帳付替、
|
昨年の6月17日「■一瞬の奇跡」を書いた。玄関ドアのドアスコープを通して朝の太陽光が壁に虹色の像を結ぶ。
今日は天気が良くて見事な像を作り出した。朝6時過ぎ太陽が随分低いことが判る。
写真にとるとそうでもないが七色の虹が大変美しい。
昨日は「夏至」で「日蝕」だったが、わが家では今の時期の早朝、数日間こんな現象にお目にかかることになる。
残念ながら熊本では西空は雲に覆われ日蝕は見られませんでした。それでも望遠で撮影をしてみました。
中央に雲越しに15㎜ほどのぼんやり光っているのがそうですが、逆光だしさすがに欠げた部分は確認できません。
フイルターもなしでしばらく眺めていましたから、現在眼がシパ/\して、なんとも不愉快な状況です。馬鹿ですね~・・・
袈裟の散歩で見つけた「ねじ花」の群れ、去年はこんなところに群生はしていなかったように思う。
自然の造形力の不思議さを感じるが、何で花が螺旋状になるのだろうか?
もう十数年前、義父から二三本植え込まれた鉢物を貰った。それまでは全く知らない植物であったが、芝が貼ってあるような処に自生するらしい。
数年枯れないように管理したつもりだったが、ある年、真夏の水のやり方がまずかったようで枯れてしまった。
今日いつものルートを少し離れた場所でこんなに群生しているのを発見、明日にでも二三本頂戴しようと考えている。
(寛永五年正三月)十九・廿日
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| 十九日
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数寄道具 |一、渡辺真斎・唐沢長介、此両人田川へ御すき道具見せニ被遣候事、
三斎ヨリ一万石借 |一、当年 三斎様ノへ壱万石被成御借用、御借状■■三輪権内ニ持せ、中神與兵衛中津へ参被居ニ付
米借状 | 〃
| 而、中津御奉行衆へ被相渡候へと申、右ノ御借状遣候也、
| (東大寺)(多賀社) (興相)
北ノ丸ニ数寄ヲ催 |一、今晩は北之御丸にて御すき被成候、御客人ハ正源院・たか少将・松屋九郎兵衛・牧左馬允・加々
ス | (可政)
| 山主馬也、
百姓町籠入牢 |一、上毛郡犬ヶ岩屋村之百生三郎左衛門と申科人、町籠ニ遣、入置候事、
| (規矩郡)
上ゲシ桂花忠利ノ |一、𠮷岡執兵衛・藤井宇左衛門、上城野内宮ニ、かつら花在之とて、取て参、上ヶ候ヘハ、 御意ニ
意ニ叶ウ | 入申候、則明後日ほりよせ科申旨、九郎兵衛を以被 仰出候事、
| (石原町村、規矩郡)
草花移植 |一、原久助、石原町之わきニて、草花見出由ニ而、上ヶ被申候ヘハ、 御意ニ入申候、則明後日取よ
| せ可申旨候事、
鹿狩ニ付音信物ノ |一、今度御鹿狩ニ参候御音信之御帳付、壱人ニてハめしかわり無之候間、今一人増科申由、加々山主
帳付 | 馬被申事
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| 廿日
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規矩郡奉行へ鹿百 |一、しか百抱とらせ可申由、浦上瀬兵衛被申候、則平井五郎兵衛・小崎與次兵衛ニ申渡候也、
抱ヲ獲ルヲ命ズ |
赤キ実ノナル花木 |一、湯浅角兵衛与西村久七、昨日花見ニ参候処、高月ニて、赤キミノなり候花木取来、上ヶ申候へ
忠利秋ニ移植ヲ命 | ハ、秋御庭ニ御うへさせ可被成由、熊谷九郎兵衛奉ニ而被 仰出候、則久七ニ具申渡候、惣庄や
ズ | 高月孫右衛門ニ能被預置候へと、申渡候事、
国東郡前代官ノ算 |一、後藤定林・恵良半右衛門手前御算用、高田角左衛門・下村五兵衛被聞候ニ、筆入申由被申越ニ付
用ニ筆ノ用 | 而、古筆を三対相渡候事、
|
安国寺村頭百姓後 | 後藤定林老妻子預申事
藤定院林妻子預状 | 一人ハ女 定林女房
写 | 男女合七九人うち、一人男子 正気 女房有、女子弐人、内一人ハ五つ、一人ハ弐つ、
| 〃 一人ハ男子 長八 九つ、
| 一人女子 しよろ 六つ、
| 一人男子 長吉 三つ、 (下毛郡)
| 一人女子 かめ 廿一、是ハ糸原村十三郎女房、
| 一人女子 高田清兵衛よめ、則清兵衛預状、別帋在之、
| (豊後国東郡)
| 安国寺村頭百生
預り人 | 寛永五三月十八日 忠右衛門
| 又右衛門
国東郡小庄屋判 | 小原太郎右衛門判 預り人 甚右衛門
| 與兵衛
| (蒲田次左衛門)
国東郡奉行宛 | 右之本書、蒲次左被取置候、
|
惣庄屋高田太郎右 | 恵良半右衛門妻子預状
恵良半左衛門妻子 | 合四人内 壱人女房 廿七
預状写 | 一人女子 ミや 十五、先腹、
| 一人息子 牛右衛門、十一 同、
| 一人女子 たね 三つ、今腹、
預人ナキ故番ヲ付 | 右ハ預人無之二付、番を堅申付置候、若走候ハヽ、私可存との、御惣庄や高田右衛門判形
ク | 在之也、
| 寛五三月十八日 高田太郎右衛門
| (半右衛門)
国東郡奉行宛 | 小林
| 蒲田
| 此本書、蒲次左被取置候、
| (皆川)
|一、御横目玄佐女房、今日治ア方へ、古庄次左衛門被申候事、
多賀社使僧へ給与 |一、多嘉之使僧少将ニ、御小袖弐つ、又御初尾銀弐枚被遣候事、
三密状態を避けるためにこんな状態ですが、後ろの方も満席でした。
熊本は昨日までは洪水注意報が発令されるほどの激しい降りがあったが、今日は良い天気になった。
4・5月例会を取りやめたため会員の方とは三か月ぶりの再会、そして一般入場者も多くあっての盛会となった。
今回は佐々成政研究会の会員で熊本佐々家(干城系)の佐々瑞雄氏をお招きして、「肥後国主佐々成政が遺したもの‐越中の覇者・肥後の失政」をお聞きした。
佐々成政の熊本の治世はわずか一年余である。成政の入国により検地が行われ、これに対して在地の国衆が蜂起して戦いとなった。
巷間伝えられるいろいろな資料の信ぴょう性が疑われているが、肥後に於ける国衆の一揆の勃発が、秀吉をして成政の命を奪う口実となった。
国主として高い教養と見識をもった成政が、熊本に於いては本当の実力が発揮されないままの無念の死であった。
この一揆をきっかけとして秀吉の九州征伐の為の大軍をして、九州が一気に平定したことは大変皮肉な事ではある。
熊本人として、成政の人となりを勉強する良い機会となった。
水戸家家臣・佐々助三郎や、明治の三兄弟(干城・友房・正之)の活躍など、お聞きしたい話は沢山あるが、又の機会にお聞きすることにして閉会した。