こちらもYouTubeから、井上教授のユーモアにあふれた講演を御覧ください。
一時間弱ですがうける事間違いなしです。
講演:ゆがめられた関西像
筑摩書房から出版された「明智光秀と細川ガラシャー戦国を生きた父娘の虚像と実像」は、私も精読した。
著者は次の四名である。
井上 章一(イノウエ ショウイチ) 国際日本文化研究センター教授・所長
呉座 勇一(ゴザ ユウイチ) 同上 助教
クレインス,フレデリック(Cryns,Frederik) 同上 教授
郭 南燕(カク ナンエン) 東京大学特任教授
処が、この本が大変好評であったことから、長岡京市ではシンポジウムが開かれたと聞いた。
なにせ九州という所にすんでいると、このような有意義なシンポジウムであっても出席しがたく、まことに残念の極みである。
この度あるかたから、これがYouTubeで見ることができるとご教示いただいた。
有難い世の中だ。早速今日はこのシンポジウムを拝見することにしたが、誠に意義深い物であった。
立場を異にするお四方が、口ぶりは穏やかながら全く意見を異にしているところが誠に興味深い。
シンポジウム「明智光秀と細川ガラシャ」・1部‐講演会
シンポジウム「明智光秀と細川ガラシャ」・2部‐座談会
このこととは別に、私は井上章一教授の信奉者を自任している。
それは氏が京都大学の建築学科を卒業された建築史家であり、建築に関する著作にもふれたが、また稀有なユーモアにあふれた多岐にわたる著作のフアンでもある。
教授の著作をすべて読んでみたいという悲願が在る。
21日夕方、雅子皇后は皇居・半蔵門の養蚕所に向かわれ蚕に桑の葉を与えられた。
明治以降、皇室の伝統行事となり、これは歴代皇后が担ってこられ、美智子上皇后から雅子皇后が受け継がれた。
養蚕とは蚕(かいこ)を飼い、その繭から生糸を作る作業だが、この生糸が絹糸となり見事な絹織物を生み出し、一時期日本の品質の高さが世界中の耳目を集め絹産業が隆盛をきわめた。
欠かせないのが餌となる桑(葉)を栽培することである。
私が幼いころには、水前寺駅から三菱の工場跡(現自衛隊)をつなぐ引き込み線沿いに桑畑があり、畑に忍び込んでは「桑の実」を頂戴したり、チャンバラごっこのために真っ直ぐの桑の木を頂戴したりしたものだ。
熊本の養蚕の歴史は随分古い物らしいが、肥後国誌によると推古天皇の時代に遡るという。
ただし、これを織物とする技術が入るのは、江戸時代中期の事である。志賀半左衛門なる熊本藩士の隠居後の努力の賜物である。
豊後竹田の城主であった志賀氏は大友一族であり、大友没落後は細川家の家臣となった。
その5代目半右衛門がわずか35歳で隠居し、努力した成果として、技術が未熟であった熊本の絹織物の改善がもたらせられた。
時の大奉行堀平左衛門の慧眼により、半左衛門を上京修行をさせ帰国後熊本養蚕・織絹の技術を指導けん引した。
木綿などの機織物をしていた奥方のチャレンジと努力が伴っての事である。
藩士の屋敷内なども桑の木の栽培が推進されたという。
5、半右衛門(養子 実・富島猪兵衛二男 後・島已兮)
志賀已兮 通称半右衛門、親氏と云ひ、致仕して島己兮と改む。又間睡堂修眞、
藤下斎雲洞等の別号あり。藩に仕へ食禄二百五十石、番士たり。
養蚕織機等の事を誘掖し命により上京して斯業を研究せり。
寛政八年十二月二日没す。享年七十五。
宝暦六年十月退隠(35歳)、采地玉名郡米野村に移住。
宝暦十一年堀勝名に請われて織絹を差出、領内に教諭致す様仰付。
我流故の由申上たる処、上京伝習するべく参宮の願差上、十二月出
立、十二年六月帰国、同七月養蚕並に織絹方根に仰付。
五人扶持銀五枚。(細川霊感公より)
早すぎた梅雨の入りであったが、昨日・今日・明日当りは梅雨の谷間とみえ、今日などはドピーカン、30度程になると予報されている。
散歩に出て歩き出すと、すぐに長そでの服を着ていたことに後悔する。
今日は少々コースを替えてみようと思い、自衛隊の北側道路を直進して坂を上り切り、そこから左折してみた。
しばらく歩くと右手に見事に広い麦畑があり、まさに麦秋の景観である。
こんなところに歳時記の世界があるとは驚いてしまった。
やや進んで左折すると今度は広大な畑、多分水田だろうと思われるがそろそろ水を張って代掻きが行われるのだろう。
奥の方に一人畔の草刈りをしている人がおられた。
勝手知ったる道ではないが、遠くの見なれたマンションの姿を目当てに歩き続けて、地図のお世話になることもなく帰還。
随分歩いたと思ったが、いつものAコース並みの距離であったが、坂道が多く良い運動になった。
歩きながら「麦秋や 江戸へ江戸へと象をひき」という句を思い出しながら、フッと声が出てしまった。
これは長崎から江戸ヘむかう象の道中を題材にしているが、都合8回あったというから、この時期の象はいつの頃の道中なのであろうか・・・
私はと言えば、随分以前に「麦の秋 袈裟に伸びゆく機影かな」という駄句をものにしたことがある。(お粗末?)
今日の青空、刷毛で刷いたような雲が一筋、まさにジェット機の機影が似合うのになと思ったことである。
これは昨日の散歩の途中の話・・
わが家をでて路地を抜け、自衛隊の西北角に出る坂道で、上から自転車で下りてくるご婦人がいた。
驚いたのは、数羽のカラスがまさに襲わんばかりに追いかけてきた。
もっとも私の目の前で急上昇したから、ご婦人に被害はなかったのだが・・・
それにしてもガアガアとやたらに鳴き声がする。自衛隊前に来ると、構内の30メートルはあろうかと思われる松の木にカラスが群れていて、何に興奮したのか数百匹はいると思われるカラスがやたらと飛び回っている。
昔、ヒッチコックの映画に「鳥」というすごいインパクトのある作品があったが、これだけの数のカラスをみると少々恐怖めいたものが有る。
とっさにデジカメを取り出して連写で取った中の一枚だが、こんな数のものではなかった。
自衛隊さんが、カラスが嫌がる超音波でも発したのではないかと、いらぬ想像をするほどの状態だった。
それが今日は誠に静かである。自衛隊の構内には自然に任せた巨木がたくさんあって、鳥たちには格好の住処になっているが・・・
最近知った二つの事実、周辺の史料にはあるのかもしれないが勉強不足で承知していなかった。
■沼田家の熊川城退去の事
現在武田元明の家臣であったというM家の先祖附を読んでいる。祖の玄蕃丞というひとは、若州小浜からほど近い瓜生の
膳部山の城主であったという。
その嫡子・右馬允は天徳寺の城主で、瓜生・井ノ口・天徳寺の三ケ村1,770石を治めていた。
いずれも若狭街道沿いの村々だが、そのすぐ先に細川幽齋夫人・麝香の実家沼田家の熊川城があった。
鯖街道熊川宿
M氏についていろいろ調べていく中で、この二人の時代に沼田氏の居城熊川城はM家の手により落ちたらしい。
これにより沼田氏は細川家を頼って客将となった。
そしてM氏親子は柴田勝家の賤ケ岳攻撃(天正11年4月)に加わり戦死している。
先祖附には武田家の没落に伴うその後のご子孫の苦労と、種々の活躍の模様が記されているが、沼田氏の熊川城退去の
詳細を知るきっかけとなった。感謝。
■有吉平吉の細川家仕官の事
これは前回の史談会の折、会員のKさんから教えていただいた、大坂城天守閣蔵の史料の中の、有吉平吉にかかわる光秀書
状の影写史料である。
細川家三卿家老の一つとなる有吉家の3代目が平吉(四郎右衛門立言)である。
この史料は、光秀の細川家に対する影響力を示す資料として受け止められているらしい。
有吉平吉身上の事、此の間各御馳走の由承り及び候、若輩に候と雖も、
御用にも相立てらる由承り及び候条、尤の儀に候、 弥別儀においては、
帰参の事藤孝へ御断り申し度く候、御入魂においては祝着たるべく候、
委曲御返事に示し給ふべく候、恐々謹言
十二月廿四日 日向守 光秀(花押)
岡本主馬助殿
岡本慎三郎殿
岡本甚介殿
岡本孫次郎殿
御宿人々
意訳 若輩者ながらお役に立つ男だとのこと、特別に帰参の事について藤孝を説得したいと思う、これからも面倒を
見てくだされば有難い。
いろいろ調べて居たら、次のような論考を見付けた。「明智光秀の丹波支配と国衆」
帰参という言葉が在ることからすると、有吉平吉は一度藤孝の元をはなれ、この時期国衆の岡本一族の元にあることがわかり、
それをまた藤孝の元へ返すことに尽力しようというものであり、光秀の国衆支配と細川家への影響力を知ることができる。感謝。
わが高祖父又太郎の岳父・上田久兵衛は、木下韡村(真太郎)におおいに私淑していた。
年譜によると、天保9年(1838)九歳で時習館に入塾、「韡村先生の薫陶を受くること深し」とある。(韡村・34歳)
韡村は文化2年(1805)8月生まれ、久兵衛は天保元年(1830)2月生まれだから、年齢差が25歳ある。
久兵衛が時習館で居寮生まで進みえたのは、韡村の影響が多分にあると思われる。
長く尊敬の気持を以て厚誼は長く続き、木下家文書の中には、久兵衛に宛てた書簡が三通残されている。
韡村は慶応3年(1867)5月6日に死去しているから、久兵衛37歳までの頃までの書簡であることが判る。
或る時、久兵衛は真太郎(韡村)を訪ねる約束をしていたが、真太郎の家族が「殊之外寒気」の折「風邪病人相増」「小児ニ手入申候而」の状況であるからと、真太郎は久兵衛に対し断りの書状を送っている。
韡村が真太郎と名乗ったのは嘉永五年(1852)の二月というから、47歳と随分遅い時期である。この時期久兵衛(当時忠左衛門)は22歳である。久兵衛の名乗りは安政三年(1856)の家督(27歳‐韡村52歳)の時であろうとは、鈴木喬先生のご教示である。
ふと、韡村の子で初代京大総長を務めた木下広次こそがこの風邪をひいた「小児」ではなかろうかと考えた。
ウィキペディアによると生年は嘉永4年(1851)2月とある。安政三年には5歳、可能性はある。
弟で最高裁判事を勤めた哲三郎氏は翌年の嘉永5年の生まれである。その下に二人の女子が在る。
元治にはいると、久兵衛は京都留守居役となり国事に奔走することになる。
それ以前の間のものではなかろうかと推察されるが、年号がないのが何とも悔やまれる。
現在我が家のベランダの水盤にあの不思議な形の葉を見せてくれている「沢潟」の球根である。
2009年の暮れ押し詰まったころ、東京のTY様からお送りいただいたものである。
それは家紋の「沢潟」のデザインが大好きで、なんとか沢潟の球根を手に入れたいと思っていた処、わざわざお送りいただいたものである。
12年半が経過したが、いまでもこの時期になると芽を出し、しばらくすると誠に可愛い小さな白い花を見せてくれる。
花が咲かない時期が在ったが、「めざし」を一匹「埋め込んでください」とご指導いただいた。
さて家紋の沢潟紋は、日本の十大家紋の一つであるそうな。戦国末期には葉の形が矢じりに似ているため武家の間で好まれるようになったといわれている。
細川藩内においては、800石の田中家、150石の竹田津家、牧尉大夫を祖とする牧家二家くらいと意外に少ない。
牧・本家(1,000石)のご当主は熊本史談会の会員でご厚誼いただいているが、こちらはもともとは細川家からの拝領の差物になっていた「銀の中くり」を家紋にされていた。ところがこの差物は徳川秀忠に乞われて忠興から献上されたという。
牧家のお墓を訪ねた時、家紋が「沢潟」になっていることに気づきお尋ねしたが、いつ変更されたのかはわからないという。
つまり牧・本家も現在は「沢潟紋」をお使いになっている。本来一族が使われていたという事であろう。
《細川綱利書状》肥後国熊本藩主・江戸時代大名・領知宛行目録・花押・手紙・古文書・武将・武家文書
細川藩では知行宛行状のことを「御書き出し」と言いますが、これは平野太郎左衛門を祖とする6家の内、平野大家の
2代目の太郎左衛門の御書き出しです。
2、太郎左衛門
御鉄炮頭衆 二百石 (真源院様御代御侍名附)
有吉頼母允組 三十挺(頭)五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
特に珍しいものではありませんが、数人の方が興味を示され競り合いになりつつあります。
欲しいと思う方がおられるから当然でしょうが、相変わらず御商売と思われる方が多いようですね。
本当に欲しい人、つまり御子孫や研究者などにはなかなか手に入らなくなりつつあります。仕方がないことですが・・・
あと一日10,000円越は確実です。
このドイツ語のような言葉、ご推察の通り難解熊本弁の一つである。
近所に「おるげんと」という名の居酒屋チェーンが在る。前を通ってなかなかネーミングとしても面白いなと思った。
この言葉は熊本人でなければ理解できないかもしれない。
熊本弁を開設しているサイトをみてみると、「我が家」とするものが多くあるが、これは正解ではない。
使用例などの文章を乗せているものがあるが、すごく変・・・
正解は「我が家の」と意味であるが、「俺の家の」がより正しい。
「おる(俺)げ(家)んと」である。
これを見事に解説してあるサイトがあった。 きゃにゅー、すぴーく、熊本弁?
こちらのサイトはなかなかアカデミックで、次の様に解説している。
この「おるげんと」、
品詞分解すると、「おる・げ・ん・と」とです。
“おる”は主格を表す「俺」、
“げ”は名詞で「家」、
“ん”は所有を表す連体修飾格「の」が音便化したもの、
“と”は「もの」を表す熊本弁の「と」ということになりますね。
もう完璧ですね。熊本出身だけど、熊本在住でない方の「熊本弁解説」は、少々的外れなものが有りますよ。
ちなみに「オルガツ」という言葉もある。これは「俺のもの」の意だが、対語として「アタガツ」(あなたのもの)がある。
それぞれ現役で使われているが、さていつまで生き残れるだろうか。
以前住んで居た処では、少々庭があってこの片喰があちこちに顔をだすと、堀り起こしていたものだ。
さやがはじけ、無数の種をとばして繁茂するから、子孫繁栄を願い家紋に使うようになったとされるが、歴史に興味を持ち始めてからは些か見る目も変わってきた。
日本で一番多いのがこの紋だと言われる。
片喰紋のデザインはハート型の三つの花弁で誠にシンプルだが、これがいろいろアレンジされて多様である。
母の実家の家紋は「二重六角に剣片喰」で、本来のデザインからすると大いに堅苦しいもので、祖母は「女紋には合わないね」と言っていたことを思い出す。
昔は鏡を磨いていたから、「鏡草」とも呼ばれるそうだが、銅鏡の事だろうか?。
細川家家臣の家紋帳をながめても、その多様さゆえに選び出すには少々骨が折れる。
「肥陽諸士鑑」で見てみると・・・・結構多い。
・入江十之丞 150石 ・一宮吉右衛門 150石 ・岩男助之允 150石 ・石川寿元 200石
・石川内右衛門 200石 ・橋本勘左衛門 150石 ・早川十郎兵衛 150石 ・岡田八郎左衛門 300石
・楯岡源左衛門 1,000石(最上氏) ・楯岡五郎左衛門 300石(同左) ・谷小左衛門 200石
・田屋尉左衛門 150石 ・村上七右衛門 100石 ・野口兵助 100石 ・野々村藤太夫 300石
・町 喜内 300石(長曾我部氏)・松岡久左衛門 300石 ・深野九郎左衛門 300石 ・船瀬孫三郎 100石
・佐分利平右衛門 300石 ・沢 少兵衛 300石 ・坂 新平 200石 ・下村源五左衛門 300石
・守田弥五右衛門 100石 ・末松孫右衛門 400石 ・杉形右衛門 300石
大いなるご繁栄を祈り上げます。
何とも様にならぬもの・・短冊のきれた風鈴
今日は未明から雨が降って居り、一時大雨が降ったが今日一ぱいこんな感じだろう。
風も強く雨の合間に散歩ともいかぬ降りようである。
それにしては、風鈴の音が聞こえないナと思い、外を眺めてみると、強い風でひもが切れ短冊が行方不明になっている。
短冊がない風鈴は何とも様にならない。
趣味というわけでもないが、風鈴とかウインドチャイム風風鈴?とか、土鈴とかを集めたことが在った。
外国旅行では多分スイスだと思うがカウベル風風鈴?を買って帰った。
国内旅行は土鈴が定番、先の大地震でほとんど割れたが、雄雛・雌雛が奇跡的に一対でのこされて、一年中TVの横に鎮座している。
M住まいをするようになった時、風鈴を吊るしたら、奥方が近所迷惑にならないかと心配する。
風鈴の音くらいで文句を言う人も無かろうとベランダに吊しているが、特に問題はない。
ウインドホーンは、風次第で見事な旋律を作り耳を楽しませてくれるが、これは結構音が響くからご遠慮申上げている。
カウベルなんぞは論外ではないかと思うが、処分するには気が引けて錆にまみれている。
風鈴をしばし取り込んで、紐をかえ短冊をつける間だけカウベル風鈴を下げてみた。雨と風の音にかきけされて文句も出まい。
しばし音を楽しもうという趣向である。処が台風でもこないと鳴りそうには思えない。
これは玄関のドアなどにつけるベルであることに気づいた。トホホな落ちがついてしまったが、取り付けるドアも見当たらず又物入行きの運命である。
現在チャレンジしているM家の先祖附に「拝殿押」という言葉が出てきた。
何かの間違いだろうと思ったが、再び登場するに及んで、間違いないことを確認した。
瑶臺院様被遊 御社参候節拝殿押相勤・・・
瑶臺院とは細川治年夫人で治年没後帰国して二本木御屋敷に居住している。
前述のごとく文言の登場は二度にわたっているが、最初のものは天明六年何処への社参かは記されていない。
二回目は天明十年藤崎宮・六所(宮)・山崎天満宮・祇園社の四か所が記されている。
まさか後ろから押して差し上げる役でもあるまい。いろいろググってみるが確答は見いだせない。
ふと「押領使」という言葉を思い出した。「兵員を統率して戦地に向かうことを職掌とする令外官、地方の治安の維持」とある。
処が、「押領」になると、「1 他人の物、所領などを力ずくで奪い取ること。(=横領)。2 兵を監督・統率すること。」とあり、なんとなく「押=警備」というニュアンスが見えてくる。
大漢和辞典を眺めるに及んで、「おす。おさえつける。取り締まる。圧する。」とあった。
どうやら、警備役と解してよいのではなかろうか。
こういう文言が登場して、古文書解読は難儀なものであり、また楽しいものでもある。
どうにか解説が出来そうではあるが、賢明なる諸兄のさらなるご教示を乞うところである。
今日は昼食後に散歩に出たが太陽がほとんど真上から照り付けるから、ふらふらになり足元がおぼつかなくなった。
自衛隊の南側の県道沿いにある分離帯の植え込みに、可憐な「昼顔」が花をつけていた。
花言葉は「絆」なかなか今風で良いではないかと思ったら、西洋ではまったく受け止め方が違って「情事」と艶っぽくなっている。
花からはそんな感じは受けないが・・・
日が変わるころから明日一ぱい、また大荒れの雨の予想、今日は梅雨の谷間となりました。
ひるがおや 明日大雨の予想あり 津々
以前■新発見「水鳥之御間」を書いた。この折「新発見」としたのは、復元されたすばらしい本丸御殿がどのように使われたたのかという素朴な疑問からであり、この絵図を見出したことでよく理解することができた。
一方、花畑館はどのように使われていたのだろうか?
随分以前に史談会で勉強をした「有吉家文書」には、種々の御規式にかんする城中・花畑館・奉行所・時習館での作法が事細かに記されている。
大寄せの時には、当然ながら座班の決まりにより座る場所が決まっているが、これはお次の御小姓たちの指示があったらしい。
花畑館のそれぞれの部屋はどのように使われていたのか、大変興味深いが、これはいろいろな資料の行間をたどらざるを得ない。
絵図が遺されているものの一つに、「御謡初め」の座班の図が遺されている。
これを見ると、中柱の間・佐野の間・鷹の間が使われており、藩主の御上段は「歌仙の間」にしつられられている。
当時の武家屋敷の使い方は、臨機応変で、歌仙の間と中柱の間との間にある名前が付けられていない30帖ほどの部屋などは、藩主や重役たちが通路として通り抜けていたのではないかと思われる。建築用語でいうユーティリティー(多目的室)の感がある。
この絵図でみると、歌仙の間に上段がしつられられ、この30帖の部屋は空き空間として使われていない。
中柱の間に此の時の主役である中村庄右衛門が、大夫や笛・太鼓・大鼓・小鼓の人達を従えて控えている。
中柱の間と佐野の間との間の名称がない細長い部屋にも能の関係者が控えている。
拝見の為に臨席する人たちは、上段の左手(廊下?)にお次衆が10人弱ひかえ、上座を右手に見て御一門や家老・備頭・大頭などは廊下に座している。着座以下は佐野の間、御物頭以下は鷹の間である。
この絵図は、まさにヒエラルキーを嚴然とかんじさせる、大変興味深い資料である。