津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■側室がいなかったという御二方・・?

2022-01-24 08:15:24 | 歴史

 細川護貞さまの御著「魚雁集」を読むと、細川家歴代の中で幽齋(藤孝)と宗孝には側室がいなかったとされる。
最近では他家の史料から、幽齋女で日出藩主・木下右衛門太夫延俊室である加賀が伊丹氏・加藤重徳妹が生母であることが判ってきた。
この伊丹氏系図を見ると、やはり伊丹氏である郡主馬首宗保の女が忠興の側室・藤(松の丸殿)であることが判る。
郡宗保の妹が伯父・加藤重徳に嫁いでいる。
重徳の娘婿に黒田蔵人や薮内匠などの細川家重臣が居り、細川家と加藤(重篤)家とのかかわりの深さが見て取れる。

 一方、宗孝だが、こちらは若くして(32歳)江戸城中で不慮の事件で死去するが子女がなく、護貞さまは「側室はいない」とされている。
宗孝夫人は紀伊大納言宗直女である。
父・宜紀は綱利の養嗣子となる前に四人の子女をなし、宗家養子となってから十七人の子女をなした。藩財政の悪化の原因でもある。
宗孝に子女がなく、重賢が急養子となったが、こちらは三人の側室が三人の男子を設けた。父・宜紀を反面教師として慎み深いように思える。

 忠興は最晩年、二人の女子をなしているが、この生母は「側室」としての取り扱いはうけておらず、その女子はすぐさま里子に出している。
綿考輯録に紙面を割いて記載されているが、さすがに忠興も恥ずかしかったらしく、二人の処分は家臣に委ね、密かに行わしめた。

 随分以前「細川家には隠し子はいないのか」という質問を受けたことがあるが、この二人の他にはないように思う。
側室がいなかったのは、宗孝一人である。

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■自筆や否や

2022-01-23 07:57:55 | 先祖附

 私はヤフオク出品の品を含めいろんな書状のコピーから、細川家当主その他の筆跡を切り抜き収集している。
筆跡鑑定家でもあるまいにご苦労な話だ。
信長が残した書状は1,100を有に超えるそうだが、自筆と思われる書状は10数通だとされる。
その基準となっているのが、松永軍の片岡城攻めに於ける細川忠興・興元兄弟のの軍功を称賛する信長自筆の書状で、これは堀秀政の添え状が付されており、まごうことなき真筆である。
永青文庫が所蔵する所であり、国の重要文化財に指定されている。
              織田信長自筆書状〈十月二日/長岡与一郎宛〉

 このようにはっきりした基準をもったものは稀であろう。多くの書状をみくらべて最大公約数の中から「自筆であろう」とする。
ヤフオクなどで高額で落札されるのを見ていると、落札者の自己判断の上の事だから横から口をはさむ筋合いはないが、お気の毒にと思ってしまう。
もっとも自筆でなく祐筆の筆であっても、資料的価値に高いものもある。
また自筆と思われるものの中に、大いなる癖字を発見するとこの上ない喜びでもある。

                                                 

右から三行目、「可申候」の下に二人の人名がある。これは「云庵一木工」とある。槙島云庵と弟・一色杢である。
「一木工」が一色杢という人物であることに気づくと、上の二文字が兄・槙島昭光の号・云庵を導き出すことが出来た。
特に「庵」という字は三斎独特のものだと思われ、「くずし字用例辞典」などをみても出てこない。
このような文字が解読できるとうれしくてしょうがないのだが、残念ながらこの文書完読には至っていない。


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■お見舞い有難うございます

2022-01-22 08:30:51 | 徒然

 今般の日向灘地震につきましてお見舞いを頂戴し恐縮しております。
未明、突然のTVのアラーム音で起こされ1~2秒後に少々長い横揺れが来ました。震源地では震度5強でしたが熊本も震度4を記録しました。
熊本地震の折は、4クラスの地震は何度も/\経験しましたが、久しぶりに体験するとやはり身構えてしまいます。
台所にある棚の引き出しが二段2~30㎝飛び出しましたが、まさに震源地を真正面にするような位置にありますから、東西方向に引っ張られて飛び出したようです。
今のところ大分や宮崎でも大きな被害の報告はないようですが、当方からもお見舞いを申し上げます。


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■不運な姫君

2022-01-22 06:47:50 | 歴史

    細川綱利の正室本源院(正保元年生~延宝三年二月ニ十日没、年32)は、讃岐高松藩松平頼重(水戸頼房・嫡男)の養女である。
その実は水戸藩徳川頼房女であり、頼重・光圀の実妹である。水戸徳川家の継嗣問題は非常に複雑で、頼房の跡は三男光圀(二代)が継いだ。
光圀は兄・頼重の息綱方・綱条の二人を養子となし、綱条(三代)を継嗣子とした。実子頼常は頼重の養嗣子とした。
その本源院は五人の子をなしたがすべて女子であった。菊(松平豊後守頼路室)、光(酒井左衛門尉忠眞室)、松・(西園寺中将婚約中死去)、楊(松平志摩守直丘室)、吉(細川采女正利昌室)等が枝葉を広げた。
綱利という人は大変律儀な人であったようで、本源院がなくなる前には側室に子をなさしめていない。
以降三人の側室に二男三女をなしている。その内、仁田氏が二男一女をなした。長女は熊本生まれだが、嫡男・與一郎と次男・吉利ともに江戸で生まれている。そして江戸で亡くなっているから、本源院死去後は継室ともいうべき地位を占めていたものと思われる。

   さて昨日もふれた嫡男與一郎は、水戸家3代目・綱條の養女と婚約をしていたが、14歳で死去した。
3歳年下の二男吉利は14歳の時に婚約をしているが、兄の婚約者であった綱條の養女であったらしい。
結婚の運びの中で、吉利は疱瘡に罹患した。これが原因ではないと思われるがその一年後に18歳で亡くなった。宝永三年(1708)のことである。
父・綱利や祖母・清高院、生母の仁田氏の悲しみは如何ばかりであったろうかと推察される。
綱利が弟・細川利重の二男宣紀を継嗣と決断したのは宝永五年(1708)、隠居するのは正徳二年(1712)、そして正徳四年(1714)十一月十二日死去する。(72歳)

 一方不運なのは水戸の姫君である。
熊本藩年表稿では「方姫」と記しているが「万姫」だと思われる。ウイキペディアでは「益姫」と紹介されている。
其の後、水戸親藩の2万石常陸府中藩主・松平頼明に嫁がれた。

             讃岐高松藩・初代
             +---頼重---+--綱方
             |     |
             |     +--綱条
             |     |  二代  三代
             |     +===頼常---頼豊
             |     |
             |     +====本源院
             |                                ‖               
             |                         細川綱利ーーーー+ーーー*與一郎   
            水戸   |                                            |
            頼房---+--●光圀---+===綱方    +ーーー*吉利 
             |        |
             |          +--頼常
             |        |
             |        +===●綱条========*益
             |
             +--*本源院


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■仁田氏

2022-01-21 08:00:11 | 人物

 「吉利」・・誰? そう思われる方が多いと思うが、綱利の御二男である。嫡男與一郎14歳、二男吉利18歳、綱利公の悲嘆の程がうかがえる。
熊本市横手の妙解寺の御成り道に沿うように妙立寺というお寺がある。
私は以前、このお寺の古文書を読んだことがあるが、この吉利が参詣の為の小さな部屋を寄進していたことが記されたいて驚いたことであった。
そしてお寺の片隅に、生母・仁田氏の一族のものと思われるお墓がある事を知った。この生母は三歳年上の嫡男・與一郎も生んでいる。
二人とも江戸で生まれ、仁田氏は江戸で亡くなっているから、ずっと江戸住まいであったと思われる。
ところが、地元では、綱利が花畑邸から舟でお忍びで通ったという話がある。それも妙立寺ではないかという話なのだ。

先に、ここ妙立寺からクルスが刻まれた立派なお位牌が現れた。クルスは胡粉で隠すように固められていたという。
新聞紙でくるまれて秘するようにされていたといい、ご住職もその存在を御存知なかった。
このお位牌の主は誰なのかをお尋ね頂いたが、その法号や没年月日からすると、細川家関係者に該当する人物が浮かばない。
他にも忠利公そのたのお位牌があるようで、綱利・吉利がお参りに来たのであろうか。

    今年はお正月から、加賀山隼人とか小笠原玄也その他キリシタンがらみのことで毎日をすごしている。
そして妙立寺さまは現在山門の建て替えが行われている。落慶が真近である。

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■一日4㌔今年中に江戸迄たどりつこう

2022-01-20 10:15:21 | 徒然

 80歳2日目、9時すぎ朝散歩に出る。歩きながら参勤交代の事を考えていた。
参勤交代の一日の距離は8~10里(32~40㌔)だとされる。これをほぼ一里1時間で歩いたというが、小休みなどを考えるとはたしてどのくらいのスピードで歩いたのだろうか?
例えば「松井章之の江戸旅行記」(八代古文書の会叢書・第八集)を読むと、章之の天保12年の江戸参府に於いては、4月10日熊本を六つ時(6時)に出立して、内牧に夜五つ時(8時)に着いている。少々雨模様であったようで14時間の強行軍である。
いやはや、昔の人たちの体力には畏れ入る。
鶴崎路(豊後街道)に於ける熊本札辻から内牧までは「八里十六丁」とあるから約33㌔程だが、これは少々時間がかかりすぎている。
33㌔を8時間、小休みを入れて実質7時間で歩いたとして、4.7㌔/hということになる。
私は今朝5.2㌔を1時間で歩いたが、もう少しゆっくりしたスピードであるが、これで8時間歩くのかと思うと、ぞっとする。

 コロナのせいでここ1~2年中止されているようだが、夏休みの時期小学生の参勤交代の催しがある。熊本から大分まで歩くというイベントだ。
参加した子供たちは、数日間歩きとおして大いに得るものがあるようだ。コロナが終息してこのイベントがまた再開されることを望みたい。
爺様は精々一日4㌔を目標に歩きとおしたいと思っている。
「熊本~大津~阿蘇を経て、大分の久住~野津原~鶴崎港に達し、距離は約122㎞。鶴崎港からは瀬戸内海航路~東海道~江戸となり、約1,025㎞」
江戸は遠い・・・一日4㌔でも今年中にはたどり着くことが出来そうだ。

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■後藤又一郎宛、三斎の礼状

2022-01-20 06:54:12 | 史料

                                        

   昨日触れた、三斎の後藤又一郎の音信物に対する礼状である。以前ヤフオクで見かけたが、100,000円で落札されていた。
明らかに三斎の書いたものではない。三斎は目を悪くしていた時期がながく、祐筆の手によるものが多い。
それからもだいたいの時期が推測されるという。それゆえ花押が書かれていないのかと思ったが、それなら印(例えばローマ字印)があっても良かろうにと思った事だった。

よく似たものが早稲田大学にあった。よく確認もせず上の書状の「本物」かと思ったが、うっかり爺様の間違いでまったくの別物だった。
こちらは「宗立」とのみありローマ字印が押されている。どうやら違う人物(祐筆)の筆によるものらしい。
又一郎は父・後藤又兵衛が忠興に預け、田邉城で育てられたという。二人の深い交流がこういった音信で伺える。

ちなみに忠興が三斎宗立と号したのは、元和六年十二月の事だとされる。

             

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■自祝「さんじゅ」

2022-01-19 09:39:34 | 自分史

                                                えゝくろうて傘寿の朝のシャワーかな  津々

私は昭和17年1月19日に生まれました。本日傘寿と相成りましたが、昨日と今日何にも変わり有りません。
80年前の東京は随分寒かったそうですが、健康優良児で生まれ、東京市長(小石川區高田老松町生まれ)から表彰を受けました。
7歳年上の姉は「単なるでぶ」と憎まれ口で言いました。
その健康優良児は、生活習慣病以外は大した病気をするでもなく今日を迎えました。有難いことです。
86歳で亡くなった母を目標に頑張ろうと思っています。想いは昨年末の「年末雑感」で書いたとおりです。
昨晩の「ええくらい」は、70代最期の夜というセンチメンタルなものではありません。温かく寝ようとの「寝酒」です。
「酒飲んでええくろうてから風呂はダメですよ」というDRのご託宣通り、今朝起きがけのシャワーと相成りました。

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■後藤又兵衛の男・又一郎のこと

2022-01-19 08:04:55 | 歴史

 後藤又兵衛の奥方が加賀山隼人の妹だということを知ったのは、福田千鶴氏著「後藤又兵衛」によってである。
そして又兵衛の子・又一郎が隼人の娘・りゆを妻に迎えている。従兄妹同士である小笠原玄也とは相婿の関係となる。
又一郎は幼少の頃、父又兵衛の乞いにより忠興に預けられ、田邉城で成長したとされる。
この際、又一郎に関する資料をまとめてみた。


                      小笠原少斎-----+---備前・長基(6,000石) 室・忠興姪吉田二位女・たね
                      |
                      +---宮内・長良(600石) 室藤孝女・千
                      |
                      +---与三郎・玄也
                          ‖---------源八郎他八人
           +---加賀山隼人興良---+-----みや
           |          |
           |           +-----りゆ
           +--------         ‖  
                  ‖         ‖
              後藤又兵衛-----------又一郎 

 

【綿考輯録・巻十七】
 黒田の功臣後藤又兵衛筑前を立退候時ハ、忠興君を頼奉り小倉より上方江罷越候、忠興君御懇て村上八郎左衛門を大阪迄御添遺候、
 扨又兵衛二男又一郎九歳に成候を指上候処、又兵衛討死後公儀ニ被仰上被助置御知行五百石被下候
 同志茶話ニ、後藤又市郎は又兵衛四男と有誤也、其外又兵衛事ニ付異説区也(以下略)

■元和六年六月八日書状(大日本近世史料-細川家史料)
 後藤又一郎儀、五月中比より爰元はやり煩を煩申候、然共本復仕候處ニ、此四五日已前より気ちがひ申候而、むさと仕たる儀迄申候、
 大形にも御座候ハヽ、中津へ遣度御座候へ共、中/\道中今の分ニてハ成様子ニて無御座候、無是非儀共と奉存候、何とそ養生させ申、
 少よく御座候ハヽ、中津へ遣可申と奉存候事
■ 同年 八月七日書状
 後藤又一郎儀、成ほと此方二ても養生仕候、され共本復不仕候、ものをハ一段給候而、しヽなとも前よりハこへ申候、此中の薬ちとハ
 あひ申候哉、少しつかに成申候、被召置唐人之薬給させ度存候間、成ほとに御座候ハヽ、上せ申度存候へとも、中/\のり物も、又ハ
 とまりニても、戸かへもたまり不申候様ニ御座候つる故、何と仕候ても上せ可申様無御座候き、此比少しつかに成申候間、見合差上せ
 可申と奉存候事、委細又兵衛可申上候
■ 同年 九月二日書状 一部抜粋(魚住傳左衛門宛)
 又一郎ニ其元ノたうしん(唐人)薬をむりニもらひ候て、のませ申候へハ、少しつまり申候間、近々のほせ可申候間、又其元ニてたう
 しんニ被仰付候様ニ、可被申上候
■ 同年 九月五日書状
 後藤又市郎儀、此比少静ニ罷成候條、路地すからも■くるしかるましきと存、差上申、其元ニ居申候唐人之薬被仰付被遣候ハヽ、可奉
 忝存候事
■ 同年 閏十二月十六日
 仍後藤又一郎儀、少峯薬にて彌本復仕候、さ候ニ御座候へハ、母已下色々やしなひ申候者多御座候故、何とも身上つヽきかたく見え申
 候、御国役なとも調かね可申候、今少拙者知行之内をも遣不申候ハヽ、何ともなり申ましく候、いかヽ可仕哉、得御意候、次其元ニ被
 成御座候ハヽ、何(と)被成候とも御心つき可申候、何時なりとも拙者可参と奉存候て罷有候間、御一左右次第ニしかう可仕候、此等
 之趣、可然様ニ御披露處仰候
■元和七年九月二日
 後藤又市郎儀、去冬中津より江戸へ申上候キ、御病中ニて御座候故、御書ハ不参候間、重而得御意候、母も参候故、何とも身躰難成御
 座候而罷有候、後々迄も、いかようの儀御座候とも、はたし申間敷由、乃美主水(景嘉)を以御諚にて御座候キ、左様ニ思召候ものヽ
 儀、今之知行にてハ身躰何共不罷成候條、知行加増仕、無役にも可申付候哉、奉得御内意候、無役ニ成共、役申付候て成とも、御諚次
 第ニ知行遣度奉存候、但御心持も御座候哉と奉存候申上候事
〇元和七年九月三日(熊本県史料・近世史料編一 p307)
 後藤又一郎儀其方へ遣候時申候趣失念と相見へ候書中ニ者難申儀候間(加々山)主馬口上ニ申候事  (熊本県史料・近世史料編一 p307)
■ 同年 九月五日 魚住傳左衛門宛 忠利書状
 後藤又一郎儀被仰せ付け被下候時、知行五百石迄を遣、其後は主奉公次第ニ可仕由被下候由を、主馬ニ被仰越候、又一郎被下候時、御
 租は之者ともより状をそへ参候、五百石之知行の儀、何とも不申越候故、其儀不存、今度申上候 

 

熊本県阿蘇郡高森町にある永秀寺は、開山は了玄は後藤又兵衛基次の三男・永秀であり、開基は後藤又兵衛である。
もともとは熊本城下に在ったとされるが、万治元年の水害で流出し高森へ移転したとされる。
精しいことを承知していないが、大いに気になっている。

参考:■後藤又市郎音信に対する三斎の礼状


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■オルガスタン

2022-01-18 12:54:46 | 徒然

 マンション住まいしている友人が、「地上に降りたい」と言い出した。
熊本地震以来の話だが、大きな揺れが記憶に残り、田舎の広い土地でも求めて畑仕事でもして余生を送りたいという。
「80にもなって遅かろう」と言うと、「そこが問題たい」という。
どうも妄想の世界で終わりそうに思えるが、お付き合いと思って聞いてやった。
土地は1反(300坪)は欲しい、雑木の林があり、ここを程よく伐採して小さな家を建てる。時々はテントをはって野宿と洒落込み、星空を見上げながら一杯やるという。
そして、ここを「オルガスタン」と命名するという。
「なんだそれは?」と聞きながら、ああ成程と思った。
熊本弁で「俺が(俺の)」を「おるが」という。スタンは語尾に「スタン」をつけた幾つかの国々があるが、「□□族の国」という意味がある。
「オルガスタン」は、つまり「俺の国」ということになる。
「はいはい、どうぞご自由に・・・。ときどき加勢にきてやろうたい。」というと、「そるがたい・・・」と急に声が小さく成った。
「オルゲントがいやて言うとたい。」オルゲントは「俺の妻」という意である。
ああやはりと思ったが、「精々奥さんを説得せなんたい」と力づけると、「別居すると言われた」と・・・
80爺の悲しい妄想の話である。

 私はと言えば、友達とは反対に奥方が時折転居をいいだして戦々恐々としている。
本や資料の山を眺めていると、もう引越しの苦労は味わいたくない。

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■加賀山氏(伊丹氏)系図を修正する

2022-01-18 07:21:15 | 歴史

 高田重孝氏の「小笠原玄也と加賀山隼人の殉教」を読んでいる。さきに■接点は薮氏を書いたが系図に間違いがある事に気づいた。
実は高田重孝氏はWEBで「加賀山隼人正と小笠原玄也」という一文をUPしておられる。
これは上妻博之先生の一文を清書して公開されたものだが、昨日あらためてこちらに眼を通していたところ、伊丹親興については伊丹次郎親興と書かれている。
これは通常、伊丹城主としてWEBで紹介されている親興とは別人であり、加藤重徳関係の系図をみると伊丹親興の四男の次郎右衛門親興とあり、この人物であることが判る。
この事を特定された上妻先生は、奥田氏の御一族だとお聞きする。つまり加賀山隼人正の弟・源左衛門の四男・権左衛門正慶のご子孫である。
その故をもって豊前・肥後に於ける細川家キリシタンの研究を為されてきた訳であり、この人物特定は事実であろう。
2代・奥田権左衛門も転切支丹であり寛永十三年七月十三日 禅宗に罷成り(勤談跡覧-肥後藩之切支丹)」という記録が残る。
母方の姓をもって明治に至った。

    初代・加賀山源左衛門(殉教・加賀山隼人正・弟)
    2代・奥田権左衛門・正慶(四男)  
             (1)持筒頭 五百石 奥田(於豊前小倉御侍帳)・・加々山権左衛門
              ・原城にて武功被賞 御加増千石 (綿考輯録・巻五十)
             (2)御鉄炮頭衆 三千八百石 (真源院様御代御侍名附)  
             (3)三千八百石          (真源院様御代御侍免撫帳)
              ・真源院様代~明暦二年五月(病死)鉄炮五十挺頭

これらの事から「接点は薮氏」に掲げた系図を下記の如く修正した。
加藤重徳関係の系図を見ると、次郎親興に三男四女の名前が記されているが、長男の欄は「某」とされている。
この「某」こそが隼人興良の父朝良であろう。「隼人興良は伊丹親興の孫」とするいくつかのWEBの記載に合致する。

  播磨守(甲斐徳美藩初代藩主伊丹康勝とは別人)
+----伊丹康勝------------ 加藤重徳
|                   ‖---------------------------次女・あや
+----伊丹親興ーーー+ーーー次女・はる               ‖
         |                           ‖  
             |                        薮市正
                       |                                 ‖
             +ーーー次郎親興ーーー朝明ーーー+ーーー隼人興良    ‖
                      |         ‖
                       +------------ルイザ(ルイス)

伊丹氏と細川家のかかわりは深いものがある。
   幽齋の女加賀(木下右衛門延俊室)の生母が加藤重徳の妹
   忠興側室・藤(松井興長室・古保)が伊丹親興の三男・郡主馬首の長女 等々である。
その中に隼人興良も組み込まれていることが判る。

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■片山宗哲がやってきた

2022-01-17 15:34:03 | 先祖附

 お正月早々から細川興秋の「生存」に関する書籍の発刊などいろいろ書いてきた。
元和七年当時の内記(忠利)から与五郎(興秋)の書状が登場するに及んで、一気に天草に伝承された興秋が天草に渡海してここで一生を過ごしたことが現実味を帯びてきた。

 その書状については「細川興秋生存説」400年の真実でご紹介したが、その中に病の与五郎を治療する与安法印の名前が登場している。
この人物については随分以前当ブログでも取り上げている。徳川家康の御典医片山宗哲のことである。晩年の家康の病が「胃がん」であることを察していた与安(片山宗哲)は、薬研を使って自分で作る薬を服用する家康を諫めている。
これに激怒した家康は宗哲を配流処分とした。
興秋の書状が元和7年5月のことであり、そのころ父・忠興は眼病に苦しみ京都から槙島という眼科医を豊前に迎えて治療を受けたり、この片山宗哲から内科の薬の処方を受けたりしている。死に直面しており、これがきっかけで隠居を決断したといわれる。
忠興の許を訪れた与安法印を、ひそかに忠利が興秋の許へ遣わしたのであろう。当然のことながら興秋の名は伏せての事である。
しかし忠興は無事に回復して隠居を実行した安心感は、愛娘・烏丸の萬姫に届けられた書状からその状況がうかがえる。
宗哲の配流の時期は元和2~4年の事であり、赦免後の4年から没年の元和8年と時期的には全く符合する。
残念ながらこの時期の「奉行所日録」が見受けられないのが残念である。

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■まんぼうがやってくる

2022-01-17 09:05:17 | 徒然

 随分図書館にご無沙汰している。調べたいことがいろいろあるのだが、やはりコロナがブレーキをかけていた。
それでも一応開館しているから安心していたが、オミクロンとやらが猛威を振るい始め、熊本は感染者数の記録を毎日更新している。(昨日485人)
そこで熊本県はまんぼう発出の申請をするらしい。
そうなると、図書館・美術館・博物館などが閉館になる恐れがある。県立劇場やさくらまち熊本城ホール、熊本城なども対象になるだろう。
政府は一両日後検討に入るという。明日は図書館は閉館日、そのあと幾日開館しているかぎりぎりとなってきた。
今日は、調べ物のリストを作りもし閉館となるなら、滑り込まなければならない。

熊本市民会館が閉鎖になると「熊本史談会」の例会開催も危うくなってくる。なんとか回避したいところだが如何だろうか。

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■接点は薮氏

2022-01-16 08:28:48 | 人物

 細川家を勉強していると、鬱陶しくなるような黒歴史にで出会う。
細川藤孝の女婿・一色氏の誅伐、細川興秋の出奔に絡んでいると推測される飯川豊前・長岡肥後父子の誅伐、キリシタン棄教を拒んだ加賀山隼人や、女婿小笠原玄也一族16名の
誅伐事件などである。

そんな中で、加賀山隼人(興良)に関することで永く疑問に思っていたことが、高田重孝氏著「小笠原玄也と加賀山隼人の殉教」でその糸口が見えた。
加賀山氏は「伊丹氏」である。摂津国古曽部郡(現高槻市)の加賀山という地に隠退して、加賀山姓を名乗った。隼人(興良)の父は伊丹朝明である。
私は、ある方から伊丹一族である加藤重徳に関する「系図」(映写本)史料の提供を受けて所持している。
WEBなどでは加賀山隼人は伊丹親興の孫だとするものが多くみられるが、詳細に書かれたこの系図に伊丹朝明の名前は見受けられない。
隼人周辺の系図と伊丹家系図を見比べているうちに、唯一「接点」がみえた。
高田氏の著に「隼人正朝明には三人の男子と一人の女子がいた。」とある。長兄が隼人興良であり、一人の女子というのがルイザもしくはルイスと言い、細川忠興の家臣の
薮内匠
市正に嫁いでいた。
       薮市正
        中村式部少輔一氏に仕、江州日野の内二千九百石領地、後九千石
        同伯耆守代様子有之致仕 京都牢人頭 忠興豊前召寄壱万石、のち大隈知行二千石加増
        都合壱万二千石 元和五年八月五日歿・八十一歳 (肥後藩・主要系図)

        娘壻・長岡主膳信友
          慶長十六年・・・御家を被立退候(綿考輯録巻18-P459)
          信友ハ織田信雄の二男也、豊前ニ御呼被成、藪内匠か壻ニ被成、妙庵主御卒去後竜王城
          御預被置候処、今度御立退、無程公儀ニ被召出、織田出雲守(一ニ出羽守)高長と改、従
          四位下侍従ニ叙任、弐万石被下候(以下略)
          大和松山藩初代藩主・・四代目以降柏原藩主


ところが加藤家系図からすると、薮市正室は加藤重徳と伊丹親興女・はるとの次女・あやだとされる。

        伊丹氏
                 加藤重徳
                  ‖-------------------次女・あや
伊丹親興ーーー+ーーー次女・はる         ‖
                           ‖  
                         薮市正
                                             ‖
     +ーーー伊丹朝明ーーー+ーーー隼人興良    ‖
              |         ‖
               +--------------ルイザ(ルイス)

    隼人興良は伊丹城主親興の孫だとする記述がWEB上で見えるが(ーーー)、伊丹氏(加藤系)系図では確認できない。
そのことからすると、こういう略系図を作ってみると、伊丹城主・親興と伊丹朝明、加賀山隼人父子の関係は、薮市正を通しての婚姻関係でしか見えてこない。
今日は一日、伊丹系図を眺めながら謎解きで時間をつぶすことになる。
     

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■ご恵贈御礼「細川興秋と月圭山芳證寺」

2022-01-15 15:10:12 | 書籍・読書

                         

 表紙を御覧になって、「あれ、昨日朝の記事の本と一緒」と一瞬思われたかもしれない。
これは、細川興秋公のお墓がある天草の芳證寺様が制作された案内書ともいうべき冊子だが、36頁に及ぶ大変立派なものである。
昨日お昼過ぎ、興秋公のご子孫、天草の中村社綱さまに御目にかかる機会を得、いろいろお話する中ご恵贈給わったものである。
厚く御礼を申し上げる。興秋公は天草で寛永19年に亡くなられたとされる。身をひそめるために中村姓を名乗られた。
直系のご子孫は長岡姓を名乗られていたが昭和15年に絶えたとお聞きした。
中村様は初代興季に次男のご家系として現在に至り、本家のお墓を含めご先祖様をお守りになっておられる。

今回の興秋公の大坂陣以後生き延びてこられた事実が判明した今日でも、大変冷静に受け止められておられる。
それは、天草に伝えられてきた伝承を深く信じ、理解してこられた結果であろう。このような顕彰活動にも積極的に活動されておられることに感謝申し上げる。                   

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