津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■明治十年二月十九日

2022-09-07 06:48:52 | 歴史

   熊本城下に於いて西南の役の火ぶたが切られたのは、2月19日のことである。
前日三発の号砲を放ち住民に退避を即した爲、城下の混乱は極限に達した。
「射界の清掃」という、『障礙ノ家屋ヲ毀チ以テ展望ヲ便ニス』るために、城下の町は焼き払われた。
そんな中、難を逃れるため細川護久の三人の姫は北岡邸を発して立田邸(泰勝寺)に向かわれた。以降2ヶ月余に及ぶ県下一円に及ぶ逃避行が行われた。
このことは三澤純氏の論考「お姫様たちの西南戦争 : 史料の解題と紹介」に詳しい。
その後原因不明の火を発して、熊本城は焼け落ちるのである。石光真清の「城下の人」や、五野保萬の「明治十年丁丑日記(五野保萬日記)」等でもその有様が記録されている。
ここでは吉田如雪正固遺稿‐西南の役見聞録から当日の様子をご紹介する。

                 
                                     

                    二月十九日 晴 
                  朝飯後四時過(10時過ぎ)京町浜田屋ノ湯ニ行ク。然
                  共戸ヲ閉テ寂然タリ。亭主云 湯ハ有り入浴
                  セヨ ト、則湯ニ浴ス、直ニ亭主云火事アリ急ニ
                  出テ見ヨ、餘裸体之侭三階ニ上リ見之ニ辰
                  巳之方向ニ当リテ黒煙沖天、亭主云山崎
                  ナルカ、予云然ニス下ノ通丁方角ナルヘシト
                  然メ寒風猛烈裸躰ニ堪ヘス、又入浴ス
                  既ニ〆亭主大声予ヲ呼テ云 火事ハ
                  御城ト云之 予狼狽楼ニ上ツテ見ルト
                  雖確定ヲ見ヘズ、則出テ加藤社ニ到ル
                  城中東南ノ隅本丸ナリ天守際ニテ
                  火焔天ヲ突ク、今日風烈敷飛火草場
                  丁水道丁邊ニ吹落シテ所ニ火ヲ発又其
                  勢ヒ惨然トシテ消防ノ人ナク只火勢ニ任ス
                  遂ニ九時頃(12時)ヨリ天守ニ火懸リ八時(2時)二至リ
                  只天守臺ヲ見ルノミ、加藤清正公造築
                  以来連綿トシテ西國ノ名城ト称スル城今日
                  一炬ノ火ヲ以テ灰燼ニ属ス、加藤社ノ
                  神慮如何ソや、本丸一宇モ残サス独リ宇土櫓
                  ノミ祝融(火災)ヲ免ル、今日鹿児島征討ノ勅旨
                  鎮台ニ下ル

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御侍帳・家紋から考える(41)

2022-09-06 14:13:23 | 家紋

                                     
              新・肥後細川藩侍帳【や】の部

安場右八は、【丹後以来】【田邊城籠城】 (南東34-6)安場一平家の8代目である。3代目一平は、「赤穂義士首領・大石内蔵助切腹二当リ介錯」して有名である。家紋は「三つ矢筈紋」

安井左源次は、(南東34-21)安井喜平次家の7代目・左源次(喜平次)。家紋は「隅立井桁紋」「丸に下り藤紋」  

安井清左衛門は、(南東34-9)安井一二家の7代目・小太郎(清左衛門)。家紋は「丸に陰地紙紋」

矢野吉蔵は、(南東65-115 *)矢野三郎兵衛家の7代目。家紋は「丸に四つ石紋」  

柳井七兵衛は、(南東34-11)柳井 廉家の6代目。家紋は「隅立鉄炮角に六曜紋」  

梁瀬八左衛門は、(南東34-20)簗瀬土熊家の6代目、簗瀬徳翁、名は知房、騏兵衛と称し、後騏平次と改む。又徳翁と号す。
        学を好み傍ら算術に通ず。食禄二百五十石。時習館訓導より助教となる。家紋は「右片手藤紋」

矢住久三郎は、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。

矢嶋小一郎は、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。

弥富安之允は、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。

山田善平は、御鷹匠 (南東59-8 茶・鷹・馬)山田十郎家の3代目。家紋は「五つ木瓜紋」

              肥後細川藩侍帳【ま】の

松崎八左衛門は、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。

松山源蔵は、松山弥右衛門家の3代目、家紋不明

松井直記は、家老松井家の分家・古城家(南東38-1)松井直記i家の5代直記・誠之(養子 実・長岡主水営之三男 亘)。
       家紋は本家同様「竹輪に九枚笹紋」   

松野外記は、大友義統の三男・右京進を祖とする、(南東36-1)松野孫三郎家の7代目・新太郎(外記)御留守居大頭 千八百石外二百石御足
                安永二年二月(上着座)~天明元年八月 番頭
                安永四年十月~安永五年十月 鶴崎番頭
                天明元年八月~寛政元年三月 御留守居大頭
                寛政元年三月~寛政五年二月 大御目付
                寛政五年二月~文化五年七月 中老
                文化五年七月~文化八年十月 備頭大頭 

     家紋は「算木」と大友家の紋「杏葉紋」  
松野 斉は、大友宗麟の三男・半齊を祖とする(南東36-3)松野八郎家の9代目・冨直(斎)千七百石。
     家紋は「算木」と大友家の紋「杏葉紋」  

松野亀右衛門は、大友宗麟の二男・道孝の嫡男・織部親英を祖とする(南東36-2)松野亀治家の10代目小源太(亀右衛門)か?
     家紋は「子持ち輪紋」  
松野善右衛門は、同上織部親英の二男・善右衛門を祖とする(南東36-5)松野一葉家。5代か6代か不明。
     家紋は「子持ち輪紋」  

松野武左衛門は、(南東36-4)松野七門家の6代目。家紋は「隅切り平角に松文字紋」「丸に柏紋」  
松野加右衛門は、(南東36-6)松野維格家の5代目・嘉右衛門。家紋は同上  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■熊本城下の西南戦争

2022-09-06 06:46:18 | 歴史

 西南戦争は、明治10年(1877)1月29日に始まり、9月24日に終結したとされる。
9月24日とは、西郷が故郷城山で自決した日である。その日がくれば145年となる。
熊本城下に於いては、2月19日の熊本城炎上につづく薩摩軍の包囲と籠城戦が、4月14日の薩摩軍の撤退に伴う熊本城解放によって一応の決着がみられた。
それから薩摩軍の転戦と敗走は5ヶ月に及ぶことになる。政府軍の軍費は、当時の政府の歳入額に匹敵したと言われる。
西郷の蜂起から自らが命を絶つまでの約8か月間の九州各地での戦いは、町や村は焼かれ田地田畑は荒らされ、多くの民間人も死んだ。無為の戦いであったと言わざるを得ないが、一方では士族不満分子の蜂起を阻止した。
明治維新を成し遂げた薩摩の巨魁の死が、明治新政府の磐根を確かなものとしたことは皮肉と言わざるを得ない。

 私は、「西南の役関係文献目録」というものを所持している。
これは編者の山江村歴史民族資料館の菖蒲和弘氏からご恵贈給わったものだが、105頁におよぶこの冊子は氏が長年にわたり調査研究されてまとめられたものだが、小さな文字で平成29年8月現在知りうる「西南の役関係文献」がすべからく紹介されている。驚くべき史料である。
このように膨大な資料が存在するというのに、勉強不足の私は、熊本城下として特化した戦いの有様さえ知らずに来た。

 そんな中、デジタル展示「熊本籠城戦」.indd というデジタルサイトがあることを知った。
熊本人の目で見た京町台あたりから見た熊本城炎上の図「熊本城天守并民家焼亡細見之圖」(p2)などは誠にリアルで、まさに吉田如雪の遺稿「西南の役見聞記」の描写を髣髴とさせるものがある。
この資料については、熊本博物館学芸員の木山貴満氏の「資料紹介 吉田如雪の明治十年日記について」で詳しく解説されている。
 上記デジタルサイトが示す資料をみながら、私は大いなる勉強不足を痛感している。
数日このサイトとニラメッコすることになりそうだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■お宅の「歴史秘話ヒストリー」作成の為に

2022-09-05 09:08:41 | 史料
 
 よくわが家の歴史を調べる方法はどうしたらよいかというお尋ねを受ける。
先祖附の読み下しをどうすればよいかとか、関連する資料の取得方法はないかとかである。
「除籍謄本」を取得したり、菩提寺で過去帳を調べられたり、また関連する土地を尋ねられたり、まずは、ご自分で頑張られなければならない。
先年惜しくも亡くなられたが、熊本史談会の畏友S氏は10年がかりで大変な調査を成し遂げられて見事な冊子に仕立て上げられた。
どれだけ情熱を持ち続けるかに尽きるような気がする。

 ご先祖探しの参考までに、大変手前みそだが、我が家の遠祖周辺のことに就いて述べておきたい。
我が家の初代以前のことに就いては次のような記載がある。

一私先祖礒部越前守浄雲と申者 織田信長公旗下ニ而周防国くた松ニ而三尾と申小城之主ニ而数代持来候処毛利元就公御働
 之時分元就公ニ随ひ旗下ニ罷成申候子供三人御座候 嫡子礒部淡路・二男礒部九郎左衛門・三男礒部市左衛門と申候 然処
 淡路江御知行千石被下九郎左衛門・市左衛門江五百石宛被下 元就公御家来ニ罷成申候 市左衛門儀存旨御座候而御断申上
 浪人ニ而くた松ニ居住 市左衛門子供両人御座候 嫡子礒部長五郎・二男礒部庄左衛門と申候 右庄左衛門儀私先祖ニ而御
 座候
一三齋様豊前より江戸御上下被遊候時分ハくた松ニ御船繋被成候 右市左衛門居宅浜辺ニ有之候を 御船被遊御覧御尋被成候
 ニ就而者 礒部浄雲と申者之忰居宅之由清田石見殿槙島雲庵方より被達御耳候処 兼而被為聞召及候由ニ而 市左衛門宅へ
 も両度被為懸御腰御膳等被召上候 御供之衆ニハ浜辺ニ假屋を申付 料理等差出申候由 其節市左衛門親子三人共ニ御前へ
 被召出御懇之御意共御座候 於豊前右石見殿・雲庵方両人ゟ申参り御意之由ニ而 市左衛門子供両人豊前へ被召寄御児小姓
 ニ被召出 長五郎儀執前髪候上御毒味役被仰付 久野与左衛門相役ニ而相勤申候 右長五郎儀女子壱人御座候 幼名熊と申候

これだけの文章を徹底的に調べると、或る程度の成果が浮かび上がってくる。これだけでも10年ほどは経過していると思う。
          召出しの時期
          豊後竹田達←→周防下松      
          介錯人の末裔
          壱人扶持三石
          先祖召出しの恩人
          ■同根平川氏史料
          ■驚愕の事実・・長五郎の娘・くま

それでもまだ判らない部分や調べが及んでいないものが沢山ある。この後明治まで8代続いているから、調べることは膨大な量になる。
めげずに、一言一句を余すところなく徹底的に調べ上げると、見事な「我が家の歴史秘話ヒストリー」が出来ますよと申しあげたいのである。
大きな口を叩いているが、「我が家の歴史秘話ヒストリー」は未完である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御侍帳・家紋から考える(40)

2022-09-04 15:35:23 | 家紋

         

           新・肥後細川藩侍帳や】の部

山川久左衛門は、(南東35-19)山川一太郎家の 5代目・兵五郎(久左衛門)。家紋は「丸に三つ星紋」  

山戸嘉右衛門は、(南東34-28)山戸嘉平次家の8代目・嘉衛門か。家紋は「七宝に左巴紋」  
山戸太郎彦は、分家(南東34-8)山戸仙蔵家の3代目で「極めて剛強の人なり。藩に仕へ郡代を勤む。」とある。
        家紋は同上。  

山田嘉左衛門は、(南東35-7)山田少九郎家の8代目・嘉左衛門(茂平)。家紋は「隅立角に引両紋」  

山田伝次郎は、(南東35-8)山田傳次郎家。人物の特定が出来ない。この家は600石医師・竺印元恕法橋を祖とする。
        家紋は「子持ち亀甲に水の字紋」である。  

山縣加平太は、(南東60-6 一代御中小姓)山縣庄次郎家の8代目助右衛門(嘉平太)。家紋は「型紙紋」である。  

山下角左衛門は、(南東34-27)山下松作家の7代目・庄大夫(角衛門)か。
        家紋は「子持ち隅切り立角紋」「子持ち隅切り立角に三つ引紋」  

山移八右衛門は、(南東34-31)山移重太家。何代目であるか不詳。家紋は「蛇の目紋」である。  

山口猪助は、(南東34-1)山口五三家の3代目・猪助(清左衛門)か。家紋は「   」  

山室意三は、御医師(南東56-19 医)山室宗意家の3代目・意三(宗恩)。家紋は「五瓜に■■」    

八木十大夫は、(南東34-17)八木太門家の5代目・瀧之助(養子 新左衛門・十大夫)御使番 六百石である。
        家紋は「三つ盛り木瓜紋」  

八木左学は、(南東34-19)八木多学家の8代・左学(多学)である。家紋は「丸に橘紋」である。  

八木田和伝は、【青龍寺以来】(南東34-13)八木田新五家の9代目である。
        家紋は「隅立角に蛇の目紋」「井桁に三つ丸紋」である。  
八木田十郎助は、【青龍寺以来】(南東34-18)八木田 小家の7代目。

        八木田桃水 名は政名、幼名亥之助。十郎助と称し晩年桃水と号せり。藩に仕へ食禄二百五十石、  
        八代城付組脇及び鉄砲頭を勤む。弱冠志を興し数十年の効を積み、新撰事蹟通考三拾余巻を編纂す。
       (肥後文献叢書・第三巻)
        両家は新十郎(入道宗圓)を祖とする一族、こちらが分家筋である。
        但し、家紋は異なり「蛇の目紋」である。  

安田小膳は、(南東34-22)安田平吉家の 5代目、名は達玄、武技を好み、最も槍法に長ず。後学を励み、時習館授讀となる。家紋は・・・「  」

矢田群平は、(南東34-32)矢田仁左衛門家の3代目。家紋は「隅切り立角に三つ星」  

安富孫左衛門は、(南東34-4)安富重九郎家の6代目・勇(孫左衛門)か?家紋は「揚羽蝶紋」  

安野形助は、(南東34-29)安野形馬家の6代目・安野南岳 名は眞郷、一名粛、字は公雍、形助と称し、南岳と号す。藩に仕へ禄二百石、
      時習館訓導たり。後目付役、奉行職に転じ、尚館生の教導を為せり。
      家紋は「六つ丁子紋」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ゾツキ本

2022-09-04 06:26:29 | 書籍・読書

 どうしても手に入れたい本は、清水寺などとは言わな毛までも、少々高いところから飛び降りる気持ちで高い新刊本を購入することもある。
これは、「ヤフーオークション」や「Amazon」や「日本の古本屋」を探して見つからなければの話である。 

 最近ある本を「日本の古本屋」を通じて購入した。ほとんど新品状態で値段も安い、いわゆる「ゾッキ本」である。
よくよく見ると本の地の部分に赤い直径3ミリほどの印が押されてあった。
店頭で売れ残り発行元に返され、古本市場に流されたものであろうか。
どうしても座右に起きたいと考え随分探していたのだが、発行元に連絡しても絶版で在庫が無いという返事だった。
ところがこういう形で、まさに新品状態で古本市場に登場してくる。「ゾッキ本」専門の市場というものは無いのだろうか。
 もっともこれは「大当たり」で、どうしても欲しい本を手に入れて、落書きだらけてがっくり来ることもあるが、史料として座右においておく分にはこれで我慢も必要だと思っている。
「日本の古本屋」を週一ほどでチェックを入れているが、なかなか見出せない本が幾つもある。
何度も整理した本棚が又あふれ出して来たし、それより怖いのは奥方の目の方である。
それ故、処分する本を段ボールに入れてこれ見よがしに置いて、これは処分しますョと、目くらましにしようという傘寿爺である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■神足勘十郎の死と本妙寺の焼亡

2022-09-03 06:35:34 | 人物

 ご厚誼をいただいているNさまから、西南の役の折「段山の地」で戦死した「神足勘十郎」の事でご報告をいただいた。
ご報告を受けたサイトには、熊本出身の別働第三旅団(警視隊)の神足 勘十郎(カミアシカンジュウロウ)とある。
身分は大警部とあり、明治10年3月13日に死去したことになっている。
「カミアシ」は完全なる間違いで、「こうたり」と読む。
ご先祖様は、細川藤孝の居城「勝龍寺城」のすぐ近くにあった、その由緒を記紀時代に遡る「神足神社」の神官の一族である。
神足氏は天武天皇の皇子長親王の後裔とされる。
分家とも三家あり、共に「勝龍寺以来」の細川家根本家臣という古い家柄である。

勘十郎(細川藩当時・200石)も維新後、東京で身を立てんと警察に奉職したのだろう。
西南戦争が勃発するに及んで、明治新政府は警部巡査600余名を汽船で派遣、熊本の地の利に詳しい神足を派遣したものとおもわれる。

ある史料には「2月11日横濱を発し、17日長崎に入り、神足の率いる一行(300名か)は即日滊船(神奈川丸)に乗じ肥後に向ひ、(中略)茂木口を警備せんとするとき内務卿の命あり、更に急に熊本に向はしむ、乃ち滊船(蒼隼丸)の至るを待ち19日長崎を発し、夜肥後盗島に達し直ちに上陸し、是日午後12時曩の神足の部下(風涛の為めに百貫港の上陸遅延せり)と共に悉く入城せり」とある。

 吉田如雪正固遺稿「西南の役見聞記」によると、4月20日の項に「神足勘十郎本妙寺本堂焼亡の日戰死す」と書き残している。
如雪日記によると、3月13日は雨だったという。「一昨日より村に鎮撫兵を熊本隊より置き池上柿原村等は20名西浦流藻・安野某・大矢野仙之助等巨擘なり。十二ヶ村より金穀を出して之を養う、池上村に宿す。(中略)段山新八幡に薩の陣所あり、二丸邸と相向つて此度攻城第一の要害とす。砲戦始終此の台場にあり、此の日台兵ひそかに来つて薩兵の怠りを伺い急に襲うて之を奪う。薩も川塘を伝い援け来り、台兵と相唐突し川を隔て、戦う薩敗れて祇山に走る。(中略)薩兵段山を退いて牧崎村辺放火あり、台兵(鎮台兵)村の米穀を奪はんことを恐れ鎮撫兵夜柿原・池上両村の民を率いて米を取入る。(以下略)」

そして、本妙寺が焼亡したのは3月15日とある。「3月13日に死去」とは食い違いがある。
本妙寺が焼亡した記事は次のようなものである。
「払暁本妙寺方大中教院庫裏消失竝に内膳どの沼田どの焼くと唱うれども詳ならず、是台兵の焼所なり。(以下略)」

無念勘十郎は父祖の地熊本でなくなり、本妙寺の本堂も鎮台兵の放火により灰燼に帰したことになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■生きとったかいTEL

2022-09-02 11:25:33 | 徒然

 薬をもらうために朝から病院行き、診察と簡単な検査を受けて処方薬局にまわり、短い散歩コースを回り帰宅。
帰ると携帯に電話が入っている。悪友からだ。
「何か用だったか?」と尋ねると「生きとったかいTELたい」という。
「今日はまだブログのあがっとらんけん、うっ倒れちゃおらんどかと思うてかけたったい」
「朝から病院に行って今帰ったばっかりたい」
「そうかい・・、blogは前ん日に準備して朝方にゃUPせんと、心配するバイ」
そのご、つまらぬ話をして台風の進路を心配し、お互いの健康をねがって電話を切った。
考えてみれば有難い話だが、blogもネタ切れ状態である。

昨日の熊日新聞掲載の「加藤清正書状」の読み下しをしようとチャレンジしたが如何しても読めない処がある。
ああ、これが俺の実力かと少々落ち込んでいる。
こないだ落札した宇土細川家の1,000両借金の長い文書も読めない字があって頓挫している。
本気でコロナの時期史料不足で離れていた「古文書」にまた親しみ、ご紹介していきたいと思っている。

悪友の「生きとったかい電話」に思わずほろりと来た。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ビッグニュース熊本城

2022-09-01 09:48:59 | 新聞
熊本日日新聞
熊本城完成は1607年より前? 築城にまつわる清正の書状見つかる 東京大史料編纂所が調査    配信
                                       
                                 
                           加藤清正が熊本城築城の進捗状況を喜ぶ様子がうかがえる1603年5月21日付の加藤清正の書状(東京大学史料編纂所撮影)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■古い書状 薩州様とあるので島津家の薩摩藩関係?

2022-09-01 08:15:05 | オークション

    古い書状 薩州様とあるので島津家の薩摩藩関係? 古文書 江戸時代 嘉永年間 消息 詳細不明 参勤交代関係かもです。 

                   

 全く偶然に見つけた文書、江嶋傳左衛門や江上安太などの名前から熊本に関係ある文書だと直感、拡大するも文字が判然とせず苦労したが、下記のようなもので間違いないと思う。

                     覚

                一銭五拾壹分
                     但役付御家人以下拾七人分
                     壹人前三分完
               右者當九月薩摩様御参府ニ付内田手永
               木葉町上木葉村ニ而役付御家人以下程入目
               右之通ニ而御座候間例之通御郡中割分出方
               被仰付候様奉願候

                嘉永三年十一月    光永四兵衛
                        御横目 江上安太

                 江嶋傳左衛門殿
                 玉名
                 御惣庄屋中

 年号が記されており大変興味深い。薩州様とはこの時期の当主は島津斉興である。
丁度一年ほど前から、薩摩は後継をめぐり死者がでるいわゆるお由羅騒動で大いにもめた。
この参府後斉興は、老中・阿部正弘の調停により隠居し、幕末の英傑・斉彬が家督を継ぐ事になる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ある記念誌とメモ

2022-09-01 06:39:54 | 徒然

                                             

 押し入れの段ボール棚を整理していると、一番端っこに薄っぺらな冊子(全14頁)がへばりついている。
引っ張り出してみると、「祝 開店50周年 翔べよ火の鳥限りなく (記念文集抄)」とあり、下に「火の鳥会発行 平成15年(2003)2月22日」とある。
「なんでこんなものを」と一瞬思ったが、ページをめくっていて本庄敏夫氏(熊本市消防局長)の文章が出るに及んで一気に氷解した。
本庄敏夫氏は細川家家臣本庄家のご当主であり、お会いしたことはないが文通を交わした間柄である。
その本庄氏から頂戴したものだろう。
城見町にあったこのお店、私もニ三度行ったことがあるが、いかにも文化人という人たちが溜りそうな素朴な店だった。
鈴木喬氏(熊本市文化課長)・末藤栄氏(熊本市医師会長)・吉村滋氏(元熊本日日新聞社論説委員)そして本庄敏夫氏の文章が並んでいる。
代表世話人は荒木精之氏だが文章はない。50周年を迎えた居酒屋「火の鳥」を、こういう方々から愛された女将・上村カチ子さんは幸せ者だとうらやましく思う。

 この冊子の中から一枚の紙切れが出てきた。どう考えてもこのメモの内容が思い出せない。
そしてこれが、なぜこの冊子から出てきたのかもよく判らない。たまたま紛れ込んだか・・・

          いくたり
   「そこ元は御子は幾人じゃ」
          よったり
   「お恥しい話だが四人じゃ」
   「おゝこれは子福なこと・・・」

たったこれだけのことだが・・・思い出せない。
私が何か書きたいと思ってこのフレーズを書き留めたのではないかと想像している。
「幾人」「四人」「子福」などの言葉と読みにこだわっている気がする。

この冊子に荒木精之氏と鈴木喬先生の面白い話が載っている。後日に改める。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする