熊本城下に於いて西南の役の火ぶたが切られたのは、2月19日のことである。
前日三発の号砲を放ち住民に退避を即した爲、城下の混乱は極限に達した。
「射界の清掃」という、『障礙ノ家屋ヲ毀チ以テ展望ヲ便ニス』るために、城下の町は焼き払われた。
そんな中、難を逃れるため細川護久の三人の姫は北岡邸を発して立田邸(泰勝寺)に向かわれた。以降2ヶ月余に及ぶ県下一円に及ぶ逃避行が行われた。
このことは三澤純氏の論考「お姫様たちの西南戦争 : 史料の解題と紹介」に詳しい。
その後原因不明の火を発して、熊本城は焼け落ちるのである。石光真清の「城下の人」や、五野保萬の「明治十年丁丑日記(五野保萬日記)」等でもその有様が記録されている。
ここでは吉田如雪正固遺稿‐西南の役見聞録から当日の様子をご紹介する。
二月十九日 晴
朝飯後四時過(10時過ぎ)京町浜田屋ノ湯ニ行ク。然
共戸ヲ閉テ寂然タリ。亭主云 湯ハ有り入浴
セヨ ト、則湯ニ浴ス、直ニ亭主云火事アリ急ニ
出テ見ヨ、餘裸体之侭三階ニ上リ見之ニ辰
巳之方向ニ当リテ黒煙沖天、亭主云山崎
ナルカ、予云然ニス下ノ通丁方角ナルヘシト
然メ寒風猛烈裸躰ニ堪ヘス、又入浴ス
既ニ〆亭主大声予ヲ呼テ云 火事ハ
御城ト云之 予狼狽楼ニ上ツテ見ルト
雖確定ヲ見ヘズ、則出テ加藤社ニ到ル
城中東南ノ隅本丸ナリ天守際ニテ
火焔天ヲ突ク、今日風烈敷飛火草場
丁水道丁邊ニ吹落シテ所ニ火ヲ発又其
勢ヒ惨然トシテ消防ノ人ナク只火勢ニ任ス
遂ニ九時頃(12時)ヨリ天守ニ火懸リ八時(2時)二至リ
只天守臺ヲ見ルノミ、加藤清正公造築
以来連綿トシテ西國ノ名城ト称スル城今日
一炬ノ火ヲ以テ灰燼ニ属ス、加藤社ノ
神慮如何ソや、本丸一宇モ残サス独リ宇土櫓
ノミ祝融(火災)ヲ免ル、今日鹿児島征討ノ勅旨
鎮台ニ下ル