津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■冬至と不定時法の時刻

2022-12-23 07:14:24 | 徒然

 天気予報では熊本も平野部で5㎝の積雪が予想されていたが、我が家の周辺では屋根に少しばかり白味があるといった程度である。
寝ていてあまり強い寒気が感じられず「降ってないな」と思ったが、案の定だった。

さて昨日の朝、奥方がカボチャの煮崩したものをジャム状にしてトーストに乗せて食べ始めた。
冬至ということに気が付いていなかったらしく、教えてやると、「あら偶然、気が付かなかった」と声を上げた。
24節季の冬至、一年でもっとも昼が短く、夜が長い頃とされる。
熊本では日の出は7:16、日の入りは17:16、昼の時間が10時間・夜の時間が14時間となる。
不定時法の時代は、昼は1時間40分、夜は一刻が2時間20分となる。おおかたこの時期に年が改まる。
お百姓さんは明け六つには働き始めるし、商家は店の戸を開けたとされる。江戸では町々の木戸が明き大名も七つ立ちして日本橋の大木戸が明くのを待つ。
季節の移ろいと共に昼の時間・夜の時間が変わっていくのだが、一刻ごとに時の鐘が鳴らされた。時刻の呼び方、九つから四つはこの鐘の数による。
また一方では12支が振り当てられた。子之刻と午之刻はそれぞれ11時~01時と正刻(12時)をまたがっている。お昼の12時を正午という所以である。
また、一刻は四つ割されて例えば「お八つ」は現在では3時頃とするが言葉の上では1~3時という事になる。
古文書に時折登場するこれらの江戸時代の時刻、なかなか詳細に覚えることが出来ずプリントアウトした時刻板を取り出して確認する有様である。

                               

      

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■芳しくありません

2022-12-22 12:00:23 | 徒然

 薬をもらいに病院行き、診察の前に看護婦さんがやってきて血圧測定、何と170もある。再度計るもあまり変わらない。
診察室に入ると聴診器をあててDr曰く少々心臓に負担がかかっているとのご託宣、これも糖尿が遠因とのこと。
血液検査を受け、レントゲン撮影と心電図をとる。HbAc1び値は相変わらずだが、心臓の方には特段の異常はなくて一安心。
処が、糖尿については赤信号で先月に続いて入院を勧められた。今年も残り少なく、年末年始は家で過ごしたいから保留していただいた。
一月後の検査で改善の兆しがなければ入院することも考えなければならない。
食事については、随分気を使い、ご飯を食べるのを控えオートミル食にした。
野菜サラダを腹を満たす程食べたり、朝のトーストも1枚もしくは1/2枚に減したりと涙ぐましい努力をしているが、0.2しか改善していなかった。
食後には血糖値スパイク状態で眠たくなることが度々で、食後血統が上がっている。
つまり、まだ努力が足らないという事だ。帰宅後奥方に病状を報告、パンと御飯(ほとんど食べてはいないが)は一切取らないことを宣言した。
お正月のおせち料理はどうなのかと心配したりするが・・・
今日は天気が良いので「ニトロ」と薬の作用による低血糖対策に「飴」をポケットに入れて散歩しようと思っている。

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■在宅

2022-12-22 07:05:53 | 歴史

 ある方から「在宅って何ですか」とおたずねがあった。
当然藩政期についての事だから、現在の「在宅しております(家に居ります)」というニュアンスとは全く違う。

おたずねの「在宅」は「在(村)に居宅する」という意味である。
当然のことながら侍は城下(府中)に屋敷を給わってここに暮らすのが原則である。しかし、米の不作などが続くと給知の手取りが少なく成ったり、幕府下命の作事などがあるとその負担金が科せられるなどして、生活が立ち行かなくなる。
そこで藩は、500石取り以下の者に限定し、在に住むことを許可した。
つまり村で作物を作ったりして、生活の立て直しを促したのである。
一定の時期をへて府中へ帰らせることを「引き出し」という。

お尋ねの有った方は、「手元不如意で参勤のご指名があったのを断っている」「在宅を願い出た」ことに、何となく生活が立ちいかなくなっていることを残された資料の行間に感じられていたようだ。
これは何処にでもある話で、例えば500石取り以上の家では家臣(陪臣)に給料(知行・扶持)が払えず、膨大な借金をして藩の融通を受けたりしていることを見ても、家政は上下に係わらず大変であったことが判る。

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■年賀状つくり

2022-12-21 19:52:49 | 徒然

 今日は一日がかりで年賀状のデザインで過ごした。
私の友人は、昨年の年賀状に「傘寿を迎えたので来年からは年賀状は失礼します」と宣言した。
先日電話で話をしたが、相手からきたらどうすると聞いたら、しばらくしてから寒中見舞いを出して念を押すという。
そして私は「お前には年賀状は出さない」と伝えておいた。
「処でお前はどうする」と聞くから、「俺のは生きてる連絡だ」と答えたが、サイトを通して知り合った方も多く、まだやめるわけには行かない。
もっとも、今はあて名書きをすることもないし、70枚に足らない程の数だからプリントアウトも1~2時間もあればすむ。
まずは郵便局へ年賀はがきを買いに行かなければならない。
明日は雨も上がりそう、病院にもいかなければならないからその足で購入することにしよう。
25日迄には余裕で投函できそうで一安心である。

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■「過去のヤフオク、柴垣隆宛宗像志功書簡二件」の続き一件

2022-12-21 06:55:00 | 先祖附

 よく調べていたら棟方志功の柴垣隆宛書簡があと一つあった。昭和廿玖(29)年四月十八日の日付で、「不動明王□板畫像」の制作方の依頼文もしくは御礼の書簡だと思われる。
保田與重郎の紹介だと思われる。?
全文をつぶさに読むことのできないもどかしさがある。
又、棟方の不動明王の板画(版画ではない)は幾つも存在しているから、作品を特定することが出来ない。

この書簡も前回の二件と同時期にオークションにかけられ、86人が応札し82,000円で落札されている。

◆ 棟方志功 ◆直筆肉筆 真筆 毛筆書簡◆柴垣隆 宛◆落款多種多数押印◆日本の三筆 中国孫文の親友◆不動明王板画像◆保田與重郎 終夜亭 の落札情報

       

  下段右から左へ「壹」「貮」「参」とあり、上段右から「四」「五」「六」「七」と頁数が打たれいる。
  下の写真は左が最終頁「七」、右が最初の頁で「壹」とある。それぞれの頁に印章が押されるなど独特の感がある。 

  

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■「奥田権左衛門家由來記」を読むー4

2022-12-20 11:43:29 | 史料

                   

                           一元祖権左家門月宮院後妻石田源助と系図に有之候得共
              右源助御侍中にも聞傳無之候付津崎江承候處浪人ニ而其前
              以来源左衛門と心安入国之節も定而一同ニ源助も参遣■
          哉と別権左衛門開所之上益城郡鯰手永木崎村ニ致居住至而の

          冨家にて有之候由然とも後ニ子共なく致断絶候故今
          石田何某と申儀存知候者も無之候
         一二代目権左衛門正雲院戒名之事智雄院の石塔同姓中の
          系図ニハ正雲院と有之候處手前の先祖代々之位牌并
          宋岳寺の過去帳ニハ圖妙院と有之事不審後ニ圖妙院と
          改り候哉夫ゆへ此度の系図ニハ両戒名を記ス
         一同人妻之事津崎咄ニ而慥ニ相分候夫故歟前々よりの

          系図ニ妻ト斗記何某娘妹を不記有之候付此度改候系図
          ニハ妾と記子共の所ニハ妾腹と記候事
         一三代目権左衛門傳宗院死去ハ至而急症之由岩越惣右衛門宅ニ而
          魚毒ニ中り即死程之由按田咄有之候
         一同人妻蓮池院元文ニ丁巳年三月十二日六十二歳ニ而疱瘡

          煩死去の由寺ハ高麗門外長国寺ニ葬送有之遣候由其節
          按田も野邊ニ出候由噂ニ付長国寺江罷越墓等致吟味候処
          無相違石塔有之紋ハ朱三と四ツ目結の紋弐ッ付有之

                 註: この蓮池院は下津棒家の出だとされ、三卿家老有吉大蔵貞之の養女となり奥田権左衛門正方に嫁いだとされる。
                これは、下津家系図にあり嫁いだ娘の名は「茂」だとされ、権左衛門はまだ権三郎と称していたらしい。
                これらの関係を教えていただいたのは、下津家の分家である荒尾在住の下津さまである。
                有吉家のご当主とも懇意にされているので大いに驚かれてご連絡いただいた。
                墓石に刻まれた朱三の紋は先にもご紹介したが、四つ目結紋はまさしく有吉家の家紋である。          

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■過去のヤフオク、柴垣隆宛宗像志功書簡二件

2022-12-20 07:38:23 | オークション

 先に「柴垣隆邸跡」を書いた。柴垣隆については先にも書いたように「不思議な人物」と思うばかりで詳しいことを知らない。
私が所蔵する本では唯一、井上智重氏著の「遺風者伝」に項をたてて紹介されている。
その中に交流があった人の名前が数人書かれているが、その中に画家の中川一政・堅山南風・棟方志功などの名前があった。
インターネットでググってみると、ヤフーオークションの記録が残されていて、棟方志功が柴垣に送った書簡が見つかった。
この棟方志功の手紙は昭和35年のものらしい。ここでは二点をご紹介するが他にも29年の書簡も存在する。
並々ならぬ交流があったことが伺える。
全文を読み下すことはできないが、怪物・柴垣のために「怪物」の姿を書き送っている。
文中に佐喜本陽太郎の名前が見えるが、この人は秘書を務めた人物で甥にあたる。
柴垣が力を盡した地元TV局・テレビ熊本の専務となった。
社長は熊本政界のドンと呼ばれ、全国町村会の会長を長く務めた小国町長の河津寅雄であった。
怪物柴垣はテレビ局の開局を待たずして昭和43年に死去した。

棟方志功 ◆直筆肉筆 真作 『怪物』 毛筆画 書簡◆柴垣隆 宛◆魂にヨリをかけて“怪物”を描きます◆怪物出現前の混沌とした世界◆妖怪画の1番目の画像

棟方志功 ◆直筆肉筆 真作 『怪物』 毛筆画 書簡◆柴垣隆 宛◆魂にヨリをかけて“怪物”を描きます◆怪物出現前の混沌とした世界◆妖怪画 の落札情報

       落札価格:106,000円  入札件数:86件  入札日:2018年7月24日 22時44分
棟方志功 ◆直筆肉筆 真筆 毛筆書簡◆柴垣隆 宛◆落款多種押印◆日本の三筆 中国孫文の親友◆凡聖一如不動明王尊像◆保田與重郎 終夜亭の1番目の画像

棟方志功 ◆直筆肉筆 真筆 毛筆書簡◆柴垣隆 宛◆落款多種押印◆日本の三筆 中国孫文の親友◆凡聖一如不動明王尊像◆保田與重郎 終夜亭 の落札情報

          落札価格:62,000円  入札件数:72件  入札日:2018年8月23日 16時41分
 
 
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■寝落ち

2022-12-19 19:45:45 | 徒然

 昨日の晩はヤフオクで狙っていた古文書があったのだが、入札時10時すぎ寝落ちしてしまい参加も出来なかった。
別にサッカーの優勝戦をTV観戦したわけではないのだが、時間を待ちながらYoutube等見ている内にウトウトことりと眠り込んだ。
目が覚めた時はすでに終了。これは仕方がない。最近熊本に特化しての古文書にはなかなか行き当たらない。
そこでテーマを決めて全国的なものを手に入れて勉強しようという魂胆である。
とにかく最近は夕食を取るとすぐ眠くなる。これは糖尿病の原因の糖質過多からくるものらしい。
オートミルや大豆ヌードルなどで随分食生活を改善したつもりだが、こむら返りはちょっ中だしまだまだ初めの一歩といった処。
ヤフオクの古文書関係の入札時間が、ほとんど10時過ぎに設定されているから、眠気と戦いながら頑張らなければならない。

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■熊本藩最後の無礼討ち

2022-12-19 07:00:41 | 歴史

 熊本藩最後の敵討ちは、明治4年(1871)の4月16日玉名市石貫のうつろぎ谷で、討手は、肥後藩士下田平八の妻・田鶴と一子恒平、弟の島崎真八、同じく中津喜平の妻・寿乃である。
討たれたのは、同じく肥後藩士の入佐唯右衛門、事件は文久6年(1861)4月6日、江戸細川藩の辰の口藩邸で起こった。
入江が下田平八・中津喜平に二人を殺して逃走した。

それから10年が経過して入江は京都でとらわれている。
そして国許へ護送される中、二人の遺族はこの地で入江を駕籠から出してくれるよう懇願してこれが認められて、敵討ちがなされたという。

その時、独断で便宜を図った役人こそが、後に神風連に参加した石原運四郎である。

 全く知られていないのが、最後の無礼討ちであろう。全く知られていないことを何故私が承知をしているかと言うと、私の身内だからである。
30年以上起居を共にした母方の祖母の義伯父だと思われる。祖母が亡くなる前に詳しく聞いておけば良かったと思うが、誠に残念である。
場所は浄行寺近くのあった「石屋さん」の前あたりだと聞いた。どういう経緯かはよく判らないが、何者かを無礼討ちにしたのだという。
すでに無礼討ちが禁止されていた時期らしく、捕らえられる前に切腹したらしい。
祖母が眠るT家のお墓にも埋葬されていない。以前10歳年上の従兄妹頭にその話をしたことがあるが、磧台小学校近くのお寺に埋葬されていると聞いた。
よく覚えていないが「源〇寺」と言うお寺だという。地図で確認すると「源空寺」というお寺がある。ここではなかろうか。
T家は母の長兄の孫の時代になっているから、この人物のことも多分知らないだろう、もう忘却の彼方の人となられた。
当時新聞に掲載されたというからいろいろ調べてみたが、いつの頃の事か判らず不発のままに終っている。
また、熊本県立図書館のフイルムを検索して探してみようかと思っている。

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■雁木坂

2022-12-18 09:17:15 | 熊本史談会

             
                                             左手が京町、右下が京町からのいろんな坂が下りてくる通り
                   日本地理院地図から(縦横比3:1)   

 熊本史談会終了後、会場である熊本市民会館内のレストランで5~6人の人で食事をするのが通例になっている。
ざっくばらんな話が出て面白い。
今回はある人が、「京町の雁木坂に至る道の中程に友人がコーヒーラウンジを開店した」から、機会が合ったら寄ってほしいと仰る。
地元京陵中学出身者が、「雁木坂?知らない」と仰る。「味噌屋さんの脇の道だ」と仰るから漠然とその道は理解できる。
「梯子坂」ではないのかと思ったのだが、よく判らないまま終わってしまった。
帰宅するバスの中で、スマートホンで検索してみると「鴈木坂」がある。私が「梯子坂」と認識していた坂だ。
これは私の認識違いで、「雁木坂」が本当で「梯子坂」は別名らしい。
いずれにしろ凄い高低差を一気に解消するため(190mあたりから)の石階段だ。

 本妙寺の浄池廟前の石階段を「胸突き雁木」というが、言葉に厳しでご紹介したように、「雁木」について重賢公は私たちの認識とは真反対な事を仰っている。
上の会話をしたときに出てきたことだが、東北では雪除けの為に作られた通行の供する軒下をそう呼んでいる。
重賢公の認識とは異なり言葉の多様性も色々である。

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追記 19日07:40
 京町にお住いのブログ「徒然なか話」の主催者様が、わざわざ現地に足を運んでいただいたようで、19日のブログに雁木坂を詳しくご紹介下さった。
この坂を下るとアパートの敷地内ではないかと思わせる道が県道・熊本ー田原坂線にでる。
そしてこれを突切ると本妙寺へ至る一本道でである。
加藤清正公をお祀りする本妙寺は、かっては参詣者でいつも賑わっていたというから、すごい急阪ながら鴈木坂のの有るこの通りも参詣の為のメインストリートであった。
私が「梯子坂」と承知していたこの坂は、まさしく梯子に例えられるような急阪である。
京町から県道へとつながるこの道、果たして現代では幾人の人が通られるのだろうか。
ずいぶん昔、西方寺坂を下り県道へ抜けたことがあるが、この坂を眺めて「恐ろしく急な坂だな」としばし足を止めたことを懐かしく思い出した。もう3~40年も前の事である。

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■侍の家と年越しそば

2022-12-18 06:51:36 | 徒然

 何の本に書いてあったか思い出せないでいるが、大晦日明治の小説家・幸田露伴の許に、ある人が「のし餅」を届けたという。
その人はふと気が付いて「年越しそば」をお届けしましょうかと申し出たという。
処が露伴はそれを断っているが、その理由は「あれは町人が食べるもの」と言ったというのである。
断られたご当人はそれをある友人に話したところ、それを聞いた友人達は後に「今年の大みそかには、あいつも蕎麦を食べないぞ」といって笑いあった。
大方そんな話だが奇妙に記憶している。終活で処分した本にあったように思うが、確かめようがない。

 露伴の論法からすると、「侍は年越しそばは食べないものだ」というのだろう。
果たしてそうなのか?いろいろ調べてみたがそんな話には出くわさない。
しかしそれを聞いた人たちが否定もしていないようだから、その時代の侍の末の東京人たちには「そうだ」とする共通認識があったのだろう。


 我が家では、私が幼い頃は同居していた母方の祖母が、うどんにしろ年越しそばにしろ、自分で打っていた。
長さ二尺ばかりの延べ棒があって、打ち粉をしながら伸ばしているのを幼心に覚えている。
我が家のいろんなものの味付けは母に言わせると「細川流」だという。高田老松町の細川邸内の職員住宅で過ごしたことによる。
昭和19年熊本に帰ってきたが、7歳年上の姉は熊本は餅が丸餅であることに驚いたと言っていた。お江戸はどうやら「のし餅」だったようだ。

最近の我が家では、おせち料理を11月中頃には注文しているが、年越しそばがついてくるお店に頼んでいるから、奥方は特別そのための買い出しに出かけることもない。

 ふと、細川護貞さまの御著、「怡園随筆‐茶・花・史」に何か書かれていないかと思って眺めてみたら、護熙様・忠煇様・明子様の兄弟妹お三人が熊本旅行に出かけられ、大晦日に帰ってこられるのを迎えに出かけられた。
そして、ご家族で年越しそばを戴いたと記されている。
侍といえどもお国ぶりがあるということであろう。

 

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■柴垣隆邸跡

2022-12-17 20:30:13 | 熊本

 柴垣隆という人物についてよくは知らない。かってその広大な邸宅(大凡荘)があったのが、現在の九品寺一丁目のある「井手の口公園」の前にあるNコーポマンションの場所である。
12月熊本史談会例会で、すぐ近所に住んでおられる会員のN氏がその邸宅の事や、出入りされた高名な日本の右翼のお歴々について紹介された。
ここに「大凡荘」に終結したそんな人たちの集合写真がある。

      

      

 柴垣隆は大きな水盤の後ろのあご髭を蓄えた背が高い和装の人物がそうである。
凄い人たちが並んでいるのがお分かりいただけるだろう。これらの方々の足跡を追うと、この時代の一つの背景を見る感じがする。
興味深い話をお聞きした。このさい柴垣隆氏の著大凡荘夜話」を古本屋で探してみようかと思ったりしている。

 

 

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■「奥田権左衛門家由來記」を読むー3

2022-12-17 06:42:52 | 先祖附

                    

       一権左衛門方代々坪井宗岳寺旦那にて有之内二代目
        権左衛門正受院一代ハ高麗門外智雄院旦那に成候
        訳知レ兼候ニ付津崎仁左衛門江承候處咄之趣ハ元祖権左衛門
        月宮院と智雄院其比之住持と入魂に有之候ニ付
        何とそ自分寺之の旦那に成候様ニと勧有之候得共
        宗岳寺の旦那に成候訳を智雄院住持に申聞候は
        豊前以来宗岳寺住持と入魂にて御入国之節も
        一同ニ参り則宗岳寺の寺地も権左衛門肝煎にて
        只今之所に相極寺建立相調候程の訳有ての旦那
        の事故今又其元之寺旦那に成候儀も難成候間

        其代り忰を旦那に可致と約束にて二代目権左衛門
        正雲院は智雄院旦那になり候由ニ而正雲院墓は
        智雄院に有之子共兄弟之内も右寺ニ有之候由
        承候ニ付同年八月同姓少右衛門致同道智雄院二罷越
        役僧に致對面過去帳に有之分の戒名書付もらい
        印塔に参り夫々引合見候處無相違石塔も有之候
        乍然至而早世の分は墓知兼候もも有之候三代目

        権左衛門傳宗院よりハ又々元之通宗岳寺旦那に成
        四代目権左衛門舜惶院迄墓等宗岳寺に有之候
           

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■佐方さんと志方さん

2022-12-16 14:34:43 | 徒然

 どうも最近ボケがひどい。
細川家家臣・佐方家の事でちょっと調べ事をしようと思ったら、一生懸命志方家の史料を引っ張り出して調べていた。
流石に途中でおかしいと気が付き、思わず笑いが込み上げてきた。
佐方氏も志方も細川家の肥後入国に当たっては、三斎に随伴して八代に入った。

佐方氏は元諏訪部氏で、幽齋公の田邊城籠城の際には、三刀屋際監物孝扶が一族を引き連れての援軍と共に、総勢500人の軍勢で三成の15,000人を引き付けた。
佐方与左衛門も一族の者として三刀屋氏と行動を共にした。

禁裏の周旋により幽齋は田邊城を開城し、忠興の関ケ原に於ける勲功や幽齋の働きを含めて、忠興は豊前・29万石の太守となる。
豊前に於いては三刀屋氏もそれなりに遇されたが、大名としての立身を夢見た身として、ついには細川家を退去することになる。
一族の佐方氏は細川家に残った。与左衛門は三斎について八代に入り1,000石、嫡男は後宇土細川家に仕えて家老職を勤めた。
本藩にのこったのは二男・長左衛門である。300石取りで8代にわたり明治に至った。
ご子孫で郵政政務次官を歴任、その後ふじ自動車工業の副社長を勤められた、佐方信博氏は一族の記録「つづら文から」という自家版の著書を発行されている。


志方氏は赤松則祐五代孫・志方城主志方右衛門尉・繁広が天正六年織田信忠に攻められ落城・戦死した。
初代六助・之吉は2歳であったが、乳母に守られ脱出、縁者である丹波の赤井悪右衛門方に連越し、後丹後国長生院という寺で育ち17歳の時細川忠興に仕え、高麗陣にもお供し深手を負った。
関ケ原・大坂の陣にも出陣、その後は忠興と共に豊前入り、細川家の肥後入国に伴い三斎に随伴して八代に入った。

その嫡男が半兵衛元政(之政)、父に伴われて大坂陣に出陣首ニの高名をあげた。
八代にて1,000石、天草島原の乱に於いては、細川立允に従い出陣、当時京都にあった三斎に対し戦況を報告し続けた。
志方半兵衛言上之覚」である。三斎死去後、光尚に仕えた。
半兵衛二男を初代とする分家(志方軸人家)があり、2代目半兵衛之経は寺尾藤次の子で「二天流」師範となつた。代々二天流に関わった。

佐方氏も志方氏も、細川忠興(三斎)と深い関わり合いをもった。三斎の「八代藩」構想はその死により潰えたが、家老村上氏と共に三斎を盛り立てた。

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■正室はどのような経緯で決められたのかという疑問?

2022-12-16 07:29:59 | 徒然

なんでこのような一覧を作成したかというと、正室との婚姻の事情を何とか知りたいと願ってきたが、2代光尚や7代治年くらいしか判らない。
その経緯を知りたいと思っている。
そして、正室の錚々たる方々の出自が見えるが、残念ながらその血が受け継がれていないことが判る。これが大名の実態だという事が判る。

 歴代藩主と正室及び生母(幽齋・三齋は除外する)

   1、忠利 正室・徳川秀忠養女・千代姫‐法号・保壽院(実・小笠原秀政女)
        生母・明智光秀女・玉姫(ガラシャ夫人)

   2、光尚 正室・烏丸権大納言光賢女・彌々姫(生母・細川忠興女萬姫)
        生母・忠利正室

   3、綱利 正室・松平讃岐守頼重養女・久姫(実・水戸中納言頼房息女・水戸光圀実妹)
        生母・光尚側室・京都浪人志水道是女・吉 法号清高院

   4、宜紀 正室・なし
        生母・細川利重(新田藩主)側室 築山氏女・辨

   5、宗孝 正室・紀伊大納言宗直女・友姫
        生母・細川宜紀側室 鳥井八郎兵衛女・喜和

   6、重賢 正室・久我大納言通兄女・由婦姫
        生母・細川宜紀側室 岩瀬氏女・理加        

   7、治年 正室・(宇土細川家)細川中務少輔興文女・埴姫
        生母・金澤氏女・此井

   8、齊茲 正室・岩城左京亮隆泰女・八千姫
        生母・細川中務少輔興文側室薗氏女・久

   9、齊樹 正室・一橋大納言治済(11代将軍徳川家斉の実父)女・紀姫
        生母・齊茲側室・芳澤氏女・織衛

   10、齊護 正室・浅野安芸守齊賢女・益姫‐法号・顕光院
        生母・(宇土細川家)細川和泉守立之の正室・土井大炊頭利厚女・福
 
   11、韶邦 正室・一條左大臣忠香養女・峯姫(実・三條大納言實萬女) 昭憲皇太后義妹
        生母・齊護側室・比企氏女・美衛

   12、護久 正室・鍋島肥前守齊正女・宏子
        生母・韶邦側室・加藤氏養女・田鶴(実・深水氏女)

 

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