津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「丁丑戦争日報」ー(5)

2023-02-20 07:29:04 | 史料

     坂本寓居保田窪
     宮近邊松本武市郎宅
     
      晴
      二月廿五日
       旧一月十三日
    ・今日浅井鼎泉内田
     敬次郎西京へ出立 立田

    ・昨日三丁目採蠟所
     焼失  立田
    ・北丘構拊ノ辺ニ薩
     人ゟ臺場ヲ築スル
     由 立田
    ・鎮台ヨリ京町
     津屋ノ米ヲ採ル銃
     兵ヲシテ出町口瀬戸
     坂辺ニ戦ハシメ虚
     ニ乗シテ米ヲ取
     タル由
     午後一時比城西兵


     營焼失ト見ゆる
     熊本■士ハ出町往
     生院へ屯集也
    ・此日
     日向佐土原大勢来テ        行政主導による参陣「西南戦争時における日向国民衆」
     薩兵ニ附従ス
    ・休焉殿大津苦竹          細川忠顕 

     之■古閑原村相馬         古閑原村=内膳家旧領地?
     宅宿居
    ・今日立田邸ニ一宿
     流民救恤ノ議アリ區
     長中路新之ト同宿

      晴
      二月廿六日
       旧正月十四日
     田中靖人六ヶ庄島
     渡ア■■宅
     河崎彦人傳吉ト
     云者ニ六根月遣ス
     舩廻之雇入我
          

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■熊本城マラソンと「熊本城炎上から146年」

2023-02-19 09:36:40 | 先祖附

 今朝の熊本はあいにくの雨模様である。そんな中、コロナのブランクを埋める様に、今日は熊本城マラソンが3年ぶりに開催され、待ち望んでいたランナーたちが熊本城下を駆け抜ける。
奇しくも146年前のこの日は熊本城が炎上した日である。
多くのランナーたちがスタートしていくさまをTVでみていると、さぞかし146年前も形こそ違え、「射界の清掃」のために城下は火の海となり、人々は逃げ惑ったことを思うと、複雑な思いがする。数万のランナーはこの事を御存じだろうか?

 平和の象徴のような「マラソン大会」、一方は「戦時の喧騒」とシーンの様相はまったく違えど二つの時代の喧騒がダブって見える。
 朝早く御姫様三人が避難のために北岡の細川邸を脱出されて立田邸に逃れられる。
官軍から事前通告があったと思われ、その後城下に火が放たれる。「射界の清掃」である。
そして、谷干城將軍は専任従卒の村上軍曹に命じて密かに大天守と小天守の地下に積み上げさせておいた薪などに火をつけさせたのである。
この事実を姉が務める学校を訪れた際、偶然に用務員の話を聞き取ったのが、隈本商業学校の教諭で、二天一流・第8代師範の青木規矩男氏(1969・2・11死去)であった。
(宮本武蔵(藤原玄信)→寺尾求馬助信行→寺尾郷右衛門勝行→吉田如雪正弘→山東彦右衛門清秀→山東半兵衛清明→山東新十郎清武→青木規矩男→米原亀生)
この時はすでに谷干城は亡く、自分が死んだら熊本城の焼失の原因は闇の中になるからと、用務員を務めていたかっての谷将軍付きの従卒村上軍曹(当時55歳)が語っている。明治40年代の話である。そしてこの事は50年は秘すように言われたという。
熊本日日新聞が「近代肥後異風伝」(井上智重氏編)にこの事実が取り上げられたのは、青木の死去から34年後の2002年5月21日のことである。

 昨日は熊本史談会の講演会で、勇 知之先生の講演を拝聴したが、熊本城の焼失についての先生のご見解は誠に明快で、谷将軍の指示に基づく上記「自焼説」である。
我が意を得たりという思いでお聞きした。
会員の他多くのビジターの参加を見て盛会であったが、市民の皆さんの大方の方は納得されたのではなかろうか。



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■本能寺からお玉が池へ ~その⑩~

2023-02-19 06:56:00 | 先祖附

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2022:2:22日発行 第66号
     本能寺からお玉が池へ ~その⑩        医師・西岡  曉


    春立つを よろこぶ人に似る霰
            少し落とせる 正月の空  (与謝野晶子)

「じんだい}読者の皆様、あけましておめでとうございます。
「本能寺の変」440周年の年の幕開けです。この年が、読者の皆々様にとって素晴らしい飛躍の年になりますように !

 [12] 和泉橋(2)
 「正月の空」も早や三度、それでも「本能寺からお玉ヶ池へ」の道行はまだ続きます。
ではありますが、その前に「お玉ヶ池種痘所」再建の功労者について今一度振り返っておきましょう。
 作ねん秋に、大正・昭和時代の法律家&医史学者・山崎佐が講演で「お玉ヶ池種痘所が後に・・・ 東京帝大医学部となって・・・ これ等は実に三宅艮斎、濱口吉兵衛の功績であること」と語った話をしました。「本能寺」から・・・ の流れを「お玉ヶ池」に流れ着かせたのは「三宅艮斎、濱口吉兵衛の功績」(「浜口吉兵衛」は山崎佐の誤記で、本当は「浜口儀兵衛」。ヤマサ醤油7代目の濱口梧陵のことです。)だというのです。「本能寺」から「お玉ヶ池」へ流れ着くにあたって、明智光秀の末裔である三宅艮斎に「力をあはせて・・・ 種痘所を再營・・・」(「種痘喩文=うえほうそうさとしぶみ)」Byお玉ヶ池種痘所)いた江戸の蘭方医たちの中に織田信長の末裔である坪井信道(二代目とその親族)がしっかりと加わっていたことは、山崎の言う「三宅艮斎、濱口吉兵衛の功績」には坪井信道の力添えがあったことを現しています。即ち「本能寺からお玉が池へ」の流れは、光秀から艮斎減の明智家の流れと信長から信道への織田家の流れの合流でもあったのです。
 そしてその流れの流れ着く先=「東京大学医学部」の「創立」は([19]で述べたように)「お玉ヶ池種痘所」の開所でしたから、私に言わせれば、「東京大学」はアメリカ式に命名する(ことはあり得ないでしょうが、)のであれば「濱口梧陵大学」になる筈なのです。

   醤油蔵の 匂いも人も 冬ぬくし  (服部嵐翠)

 ヤマサ醤油の濱口梧陵は、お玉ヶ池種痘所の再建によって江戸の医療に多大なる貢献をしました。勿論梧陵は、江戸のみならず地元・銚子の医療にも貢献したいと考えて居ました。そこで、銚子の医師・関寛斎(1830~1912)を江戸のお玉ヶ池種痘所に派遣し、艮斎に種痘術や当時江戸で大流行していたコレラの防疫法を学ばせ、見事江戸のパンデミックが銚子に及ぶのを防いだわけです。

        ヤマサ醤油

 種痘は、人類初のワクチンです。予防接種薬が「ワクチン」と呼ばれるのは、最初のワクチンである痘瘡ワクチンの原料がワクシニアウイルス(≒牛痘ウイルス)であることに由来しています。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、「vaccine」(ワクチン)の語源はラテン語の「vacca」です。「vacca」は、日本語で(現代イタリア語でも)「(雌)牛(英語のcow)」の意味です。日本語の「ワクチン」はドイツ語の「vakzin」から来ています。
 皆様ご存知のように、ワクチン(種痘)によって痘瘡(天然痘)は根絶されました。(1980年5月、WHOによる「天然痘根絶宣言」)日本では、1955年(昭和30年)が痘瘡発生の最期の年です。濱口梧陵は、(お玉ヶ池種痘所によって)種痘の日本、とりわけ江戸での普及に多大な貢献をした人です。
 一方、山崎佐が「お玉ヶ池種痘所」(の再建)と言う「功績」を挙げた二人とした中のもう一人は、三宅艮斎です。艮斎の長男・秀は、([10]で述べたように)東大理学部教授の池田菊香は「うま味」を発見する基になるアイディアを提供しました。それによって池田は、1909年(明治42年)にうま味調味料「味の素」を発明します。味の素は「発酵法」で作られますが、その50年近く後、うま味調味料の製造法として「RNA分解法」を発明したのがヤマサ醤油です。そしてRNA分解の過程で産出されるうま味成分以外の核酸成分の活用法を研究する中で、1980年代に研究用試薬として製品化されたのがヌクレオチドの一種「シュードウリジン(psuedouridine)」です。そして2005年、ドイツの製薬会社ビオンテックのカタリン・カルコ上級副社長と、ペンシルベニア大学のドリュー・ワイスマン教授の2人によってシュードウリジンで構成したmRNAワクチンが開発されました。そして今、ファイザー社とモデルナ社に新型コロナウイルスワクチンの原料=シュードウリジンを提供しているのがヤマサ醤油なのです。
 「お玉が池種痘所」から時(と言っても、150年近い月日)を隔てて、ヤマサ醤油は、国内にとどまらずグローバルな規模で、感染症医療に多大化貢献をすることになりました。そのお陰で、COVID-19パンデミックに苦しむ世界中の人々が救われることに繋がったのです。昨春[9]で「東大卒業生は、ヤマサ醤油には足を向けて寝られない。」と申しましたが、ヤマサ製のシュードウリジンがワクチンの原料になったことを思えば、灯台関係者ばかりではなく、世界中のあらゆる人々にとってヤマサ醤油は大恩人(?)なのではないでしょうか?

    神田川 流れ流れて いまはもう
        カルチェラタンを恋うることも無き   (道浦母都子)

 この曲は「神田川」を詠っていますが、東京の神田川にパリのカルチェラタンが何故出てくるのか?と、不思議に思われる方もおられるでしょうね。そこで詠われた「カルチェラタン」は、パリのそれではなく、1968年のカルチェラタンに呼応した学生運動が大きく興った東京・神田駿河台の学生街を指しています。神田川で言えば、御茶ノ水橋や聖橋の南側の地域です。その聖橋の1㎞下流に架かるのが和泉橋です。
 「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れは、江戸・神田のお玉ヶ池には止まらず、「お玉ヶ池種痘所」の(誕生してすぐの焼失後、濱口梧陵の助けによって場所を変えての)再建によって下谷和泉橋通へと流れが変わり、明治維新後は「大学東校」「第一大学区学校」と名を変えて、下谷和泉橋通の藤堂藩上屋敷跡に1874年(明治7年)「東京医学校」が開講しました。(再びの余談になるのに)しつこいようですが、藤堂藩は、伊勢、伊賀の二か国を領国としていて、一般には「津藩」と呼ばれるようですが、伊賀では決して「津藩」とは呼びません。また、松尾芭蕉のことを伊賀では「芭蕉さん」と呼び習わしています。(それで、こちらでも同様にしています。何せ私は伊賀の生まれなものなので・・・)
 東京医学校は、開校2年後に本郷の加賀藩上屋敷跡(現・東京大学本郷キャンパス)に移転します。こうして「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れは、老子の「上善如水」の教え(=最上の善い生き方は、争うことをせず、誰もが嫌がる低いところへ流れてゆく「水」のようなものだ。の意)に反するかのように坂を上って本郷に流れ着いたのです。
 東京医学校が本郷に移った後も、医学校の医院はそのまま和泉橋通に残り、本郷に新たに「東京医学校第一医院」(現・東京大学医学部付属病院)が会員したので、(「下谷和泉橋通」改め)神田和泉町の医院は「(東京医学校)第二病院」となりました。東京医学校が東京開成学校と統合されて「東京大学医学部付属第二病院」となります。
 1886年(明治19年)3月、帝国大学令が公布され、東京大学医学部は「帝国大学医科大学」になりました。前々回述べたように、初代の医科大学長には(「東京大学医科区部開基の大功労者」である三宅艮斎の長男・)三宅秀が就任します。勿論「東京大学医学部付属病院第二医院}は、「医科大学付属第二病院」と名を変えて診療を続けました。
 ところが、20世紀を迎えた1901年(明治34年)冬、医科大学第二医院は火事で全焼してしまいます。斎藤茂吉(1882~1953)の随筆「三筋町界隈」に「凄かったのは第二医院のかじで、あまりの驚愕に看護婦に気がふれたのがあって・・・」と書かれたように、96人の入院患者の内1/4近い21名もが死亡した、という大惨事でした。火事と言えば、医科大学の源流であるお玉ヶ池種痘所の開所時の火事が思い起こされます。
 斎藤茂吉は、東京帝国大学医科大学を卒業して精神科医になった人ですから、私たちにとっては精神科の大先輩ということになります。斎藤茂吉には、或る御縁があって秋にも再登場して頂く予定です。
その後第二医院は、二度と再建されることはありませんでした。何と、帝国大学の「運動場」になってしまったのです。そして、第二医院が焼失して8年後の1909年(明治42年)春、第二医院の跡地に「三井事前病院」が開院します。「慈善病院」とは、徳川幕府の「養生所」のように無料で受診できる病院のことで、この三井慈善病院の場合は、(内科、外科、願か、耳鼻科、皮膚科の5科の)診療業務は医科大学に委託されました。「三井記念病院 百年のあゆみ」(2006年)によれば、「お玉ヶ池種痘所の社会福祉の精神は、東京帝国大学医科大学付属第二医院を経て、・・・三井慈善病院へと引き継がれていく・・・」ことになり、1919年(大正8年)には「泉橋慈善病院」、1943(昭和18年)「三井厚生病院」と名を変え、更に1970年(昭和45年)の新病棟建設に伴って「三井記念病院」に改称して、「お玉ヶ池種痘所の社会福祉の精神」が「引き継がれて」いきます。(勿論、「精神」だけしか(?)引き継げず、三井記念病院は他院と同じ保険遺漏機関ですから、慈善病院ではありません。)するとここで、当院との関りを思い出しました。三井記念病院精神科の中嶋義文部長は、かって当院に在籍されたことがあります。
 ここ迄、京都の「本能寺」から江戸の「お玉ヶ池」(→下谷和泉橋通→本郷)への300年ほどの流れを辿って来ましたが、その流れの一部(?)は、こうして下谷和泉橋通に留まり、医科大学第二医院、三井慈善病院と姿を変えて、現在の三井記念病院に繋がっているのでした。

                                                           
 
 

                                   

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■強力花粉症

2023-02-18 15:07:47 | 徒然

 午前中は熊本史談会の例会、西南戦争研究家にして沢山の著作をお持ちになる第一人者・勇先生のお話を伺う。
大変有意義なお話しで、どうやら我々が持ち合わせる知識がいい加減なものであったことを実感させられる。
多くのビジターも参加されて大盛況・・・関係者に感謝申し上げる。
帰りは何時もようにバスに乗ったが、暫くして目がしぱしぱし始めた。あまり気に欠けずに帰宅、奥方は出かけていて暖房はつけっぱなし、ムッとするような温かさに思わずバルコニー側のドアを開放、しばらくすると、目のかゆみが頂点に達して両手でごしごし初めて、ようやく「花粉症だ」と気付いた次第・・・
花粉症罹患初日であるが、耐え難い痒さで目が明けられない感じがする。目薬を買いに出たいがまずは顔を洗ったりして人休憩している。
皆様もどうぞお気をつけて・・・・

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■「丁丑戦争日報」ー(4)

2023-02-18 06:57:56 | 史料

 前頁には「風評」とあるものの続である。いろんな人からこの様な話が耳に入るのであろう。
それぞれの噂話は戦争のさなかの緊迫した状況を物語っている。

    (出小)屋ニ滞留
       龍醸艦長崎港ニ    1865年、肥後藩の注文により、イギリスのアバーディン造船所で建造。廃藩置県により
        碇泊 杉本話       熊本藩は明治政府に供出された。1878年に「扶桑」が竣工するまでは、日本海軍の主力艦だった。
       軍船一艘小島沖ニ
        碇泊 清音話
       官軍先鋒小倉兵
        植木駅ニ於テ敗北 真八話
       昨夜城中ヨリ地雷火
        ヲ發セリ 杉本話
       三淵・朽木・堀隊長
        付薩撃鎮ノ説■ニ
        不快ヨシ 甲斐話
         薩兵戦死ノ塚穴百
        人死體十ケ之内
        既ニ七坑埴埋之由 同人
       ・鎮臺兵糧■ニニ一
        両日分ノ由賄方脱
        走ノ者白状ノ由 同人

 

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■遊行上人熊本入りは何時?

2023-02-17 08:49:56 | 熊本

 随分以前にも書いたが、遊行上人が熊本入りされた際、熊本では喪中であったため、侍(知行取)はすべて元結を切り、月代も剃らずにいたので、そんなむさい姿で上人の熊本入りをお迎えするのに大いに躊躇したという話がある。

「年表稿」をよく読んでみると、正徳四年十一月十二日に細川綱利が江戸白金邸で亡くなり、十二月廿七日遺骸が熊本に到着し妙解寺に葬られた。
そして、正徳五年には確かに遊行上人が熊本入りされているが、これは五月の事で、一月ばかり西福寺に逗留されて八代へ向かわれたとある。
半年ばかりのタイムラグがあり、当初の話としてはつじつまが合わない。

 もう一つ、正徳二年の記録では以下のような記録が残る。
「8月11日、高瀬町願行寺、遊行上人宿寺とす」とあり、度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(13)には次のような記録が残る。        


       四五五
         同年游行上人巡御國達

      一遊行上人明後十七日高瀬出立ニて、熊本宿坊阿彌陀寺へ    
       着之筈ニ付、御曲輪宿坊迄之道筋屋敷/\掃除等有之、
       形儀桶は被出置ニ不及趣夫々相觸候様、受場廻之足輕え
       及達候、此段為御存知申達候、道筋之書附左之通
         出京町口より本町筋、京町氏家仁左衛門屋敷前、新堀   
         御門、長岡助右衛門殿屋敷下御門、田中典儀屋敷前よ
         り冠木御門、小笠原備前屋敷前、法花坂より一丁目前、             冠木御門→住江御門か
         三丁目御門より細工町筋、阿弥陀寺へ参着之筈ニ候     
          以上

 ところが、この時期どなたかが亡くなり喪中だという記録もない。

 一方、寛政のころにも熊本入りされているという事を知り、「年表稿」を数年分調べてみると、寛政7年3月15日に「遊行上人高瀬発阿弥陀寺に入る、25日江戸へ立つ」とある。なにかしら関連する記事はないかとWEB検索をしてみたら、「八代市の近世浄土宗寺院・荘厳寺の建築的特徴」という論考が有り、これによると25日に遊行上人一行は荘厳寺を訪ねていることが判る。荘厳寺の図面が残るが、その折に制作されたものだろうという見解である。
年表稿に25日に「江戸へ立つ」の記述は正確ではないことが判る。
しかし、この年とて何方かの喪中だという事は伺えない。

 遊行上人の全国行脚については、「遊行日鑑」という 圭室文雄氏の編著書が世に存在するが、熊本県立図書館はこれを所蔵していない。(残念の極み)
3巻あって古本で20,000円以上するようだから、このために購入するという訳にもいかない。
それ故、図書館蔵書で「遊行上人」で検索を懸けて、ヒットした古文書などを全部眺めてみようと思っている。
さて、いつ出かけましょうか・・・

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■「丁丑戦争日報」ー(3)

2023-02-17 07:01:16 | 史料

 明日18日(土)の熊本史談会では、西南の役研究の第一人者・勇 知之先生をお招きしていろいろお話をお聞きする。
先生が史料として提供された、西郷隆盛がが篠原国幹・村田新八に対して届けた植木転戦を指示する書状は、23日付けとなっている。
今回ご紹介する平川俊太の「丁丑戦争日報」では、風評として城兵(官軍)が藤崎(宮)辺りに集まり薩軍を迎え撃ついわゆる大激戦を極めた「段山の戦い」に触れている。
22日から始まったこの戦いは、至近距離からの撃ち合いとなり、官軍は「与倉中佐」が戦死した。薩軍も多くの戦死者が出ている。
23日も続いたこの戦いのさなかに、篠原・村田に西郷から書状が届き、二人に自ら出向き田原坂・木留での敵の殲滅を指示するように託している。その中には「(熊本城は)日本の名城なるか故に容易に乱入の振出覚束なし」として、転戦を指示している。このような史料と共にこの「丁丑戦争日報」を読むと、戦いの状況が正確に広く流布していることが伺える。熊本史談会での勇先生のお話しが楽しみである。

     風評
     城兵藤崎辺ニ屯集
     シタルソ第九大隊敗走
     植木辺ニテ薩兵
     為ニ敗ラレタルヨシ前
     説三曲ノ事ト矛盾
     又一説官軍ト接戦
     ト他日ノ定説ヲ
     俟ツ
     沼山津辺■兵ノ説起
     ル前知事公ニ從フトノ
     主意ノ由 余 知事公ノ
     鎮定ノ御主意演方
     ス
     縣廳官員退
     ■スヘシト平山
     之説帰来レル由
     平山

  
      冬次ヨリ参ル 冬次ハ竹
      宮社後ハ善兵ヱ宅ニ
      寓居セリ
      桺井末 服部 田中清人
      平山■来訪ス
      刀一本貸ス面々
      桺井 山次 井上安■
      ナリ 時計大塚至剛

       朝雨後晴
        二月廿四日
         旧正月十二日
      去ル十八九日ノ比長崎在留
      ノ佛人電信ヲ発ス廿一日
      魯(露)仏ノ軍艦一艘宛長崎ニ
      来泊セシ由 清音話                    清音・・・・・息子カ
      薩洲櫻島沖ニ洋ノ
      軍七八艘来ル由 真八話
      川崎又八寓居三ノ宮
      鳥居近辺利三郎宅
      杉本宅ノ辺出小(屋)

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■本能寺からお玉が池へ ~その⑨~

2023-02-16 07:06:18 | 歴史

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2021:10:29日発行 第65号
     本能寺からお玉が池へ ~その⑨~        医師・西岡  曉


    啄木鳥や 落ち葉をいそぐ 牧の木々  
(水原秋櫻子)

 「本能寺からお玉ヶ池へ」の時を跨ぐ旅は、「牧の木々」とは異なり、決して「いそぐ」ものではありませんが、「本能寺の変」から300年近くたった1876年(明治9年)、その旅は江戸・神田のお玉ヶ池には止まらず、下谷和泉橋通から(「お玉ヶ池種痘所」が源流の東京医学校が移転して来たことで)本郷へと流れ流れて来たのでした。
 「本能寺の変」で激しく敵対した明智家VS.織田家ですが、それから280年の歳月を経て両家の末裔が江戸の神田・お玉ヶ池(跡)で、「力をあはせて」種痘所を開き、それが今(でも?)本郷にある東大医学部の源流になったのですから、明智家と織田家とが「東京大学医学部開基の大功労者」になったと言って良いのかも知れません。
 それから更に150年余、来る2022年は「本能寺の変」から440年という記念(?)の年です。
「お玉ヶ池種痘所」発起人(の一人で明智光秀末裔)の三宅艮斎ですが、その長男・秀の妻・藤の(三宅家ではなく実家・斎藤家の)義祖父に順天堂学祖(初代堂主)・佐藤泰然がいます。泰然の欄学塾「順天堂」が開かれたのは1843年(天保14年)ですが、それから114年後、順天堂は「大学創立10周年記念」講演会を開催しました。「順天堂の由来」と題するその講演の縁者は、山崎佐(たすく:1888~1967)です。山崎佐は法学者&医史学者で、呉秀三(東大医学部精神科第二代教授)と呉の道教(広島)の医学者・富士川游(1865~1940)らが1927年(昭和2年)に設立した「日本医史学会」の第5代理事長を務めた人です。山崎は10周年記念講演で、こう述べています。
 「お玉ヶ池種痘所が西洋医学所から医学所、それから東京帝大の医学部となって・・・ これ等は実に三宅艮斎、濱口吉兵衛の功績であることを忘れてはならない  ・・・ 艮斎の長男秀は、明治初期長い間、東大医学部の学長であり、その孫絋一は、東大医学部の精神科の教授であったことは、皆さんのよくご存じのこと・・・ 」
 その講演から早半世紀を超える歳月が流れ、「忘れてはならない」彼らの功績を知る人も少なくなりました。この「濱口吉兵衛」こそは、ヤマサ醤油7代目で小泉八雲が著書「A Living God(生き守様)」に採りあげて讃えた濱口梧陵のことです。ただ残念ながら、山崎佐は肝心の梧陵の名前を(一文字)間違っています。梧陵は本当は「浜口儀兵衛」で、「吉兵衛」はヤマサではなくヒゲタ醤油の人です。
 「順天堂の由来」の講演で「忘れてはならない」ことがもう一つあります。東大病院や吉祥寺病院が名乗っている『病院』は、山崎佐によれば「・・・『医院』と云うのが正しいので・・・『病院』と云うのは誤り・・・」なのだそうです。
 山崎は続けて「・・・『病院』などと云ったことはないのであります。・・・天明7年(1787)森島中良が蘭書を翻訳して紅毛談話という本を作りました。その第1巻に『病院』と題して西洋では斯々だと説明しました。・・・爾来『病院』という名称が一般に用いられるようになったのです。がしかしよく考えて見れば『病院』では「病の場所」という意味でありまして、病を治すと云う意味は少しもありません。病人を集めて療治するのならば『療病院』が最も適当で、『療院』を一字にすれば『医』ということになるので『医院』が適当の字ということになるのです。それですから満州や中国、台湾などでは『医院』と云いますが、『病院』とは決して用いていません。日本で『病院』と云っているのを見て『字を知らない』といって冷笑しています。尤も病人を集めているだけで、治すつもりがなければ『病院』でもよいわけでしょう(笑声)。かような次第で、この大学が付属診療所として堂々『順天堂医院』という大きな看板を出しているのは、至極結構なことで、本当に病人を集めて治すつもりならばこれでなければなりません・・・」
 成程こう言われれば、浅学菲才の者どもは御説御尤もとひれ伏すしかありませんね。なお、森島中良は幕府奥医師・桂川甫周の弟で、蘭学者兼(?)戯作者ですが、その師匠はあの平賀源内です。

 [11] 堅田
 「本能寺からお玉ヶ池へ」の永き流れは、吉祥寺とも深大寺とも何の所縁もなさそうですが、[9]で触れた家康の『欣求浄土』が、ほんの少し深大寺に関りがあります。「桶狭間の戦い」で今川義元が信長に斃された時、今川の人質だった松平信康(=後の家康)が自害しようとしたのを菩提寺大樹寺の住職・登誉和尚が思い止まらせ、掲げた流れ旗が「厭離穢土、欣求浄土」です。これは平安時代の比叡山延暦寺の高僧・恵心僧都源信の「往生要集」から採られた言葉ですが、その源信の師が深大寺に祀られている元三大師良源です。深大寺の一大行事(で、「日本三大だるま市」の一つ)・だるま市は、毎年「厄除元三大師大祭」の日=3月3日・4日に立ちます。その昔、恵心僧都が比叡山から夜の琵琶湖を眺めていると、湖の中に光輝く物が見えます。それを網で掬いあげると、黄金の小さな阿弥陀仏でした。恵心僧都は、その仏像を納めるために浮御堂(@大津市本堅田)を湖上に建てました。後の世に「近江八景」の一つ「樫田落鴈」とも言われる処です。

    近江八景 堅田落鴈(歌川広重)

ここには芭蕉さんの句碑が二つもあります。

        じょう 
      鎖あけて 月さし入れよ 浮御堂  
(芭蕉)
      ひらみかみ
     比良三上 雪さしわたせ 鷺の橋  (芭蕉)

 「比良三上」の中「近江八景」の一つ「比良の暮雪」で知られる比良山。その麓、「明智の城」のあった坂本の少し北の町が堅田です。堅田は、平安の大昔から琵琶湖の漁業権、航行権を一手に握って富を築いた「堅田胡族」の町で、ルイス・フロイス(1532~1597)の日本史には「坂本より2レグヮ(≒8㎞)の甚だ裕福なる町」と書かれています。その一方で、何故か二度も焼き討ちの憂き目を見る辛い歴史を抱えた町です。
 一度目は、何と延暦寺による「堅田大責」(1468年)でした。それから百年の後、信長&光秀vs浅井・朝倉との闘いの一つ「志賀の陣」(1570年)で、浅井・朝倉方だった堅田水軍の頭領・猪飼昇貞らは織田方に寝返りますが、結局この闘いは浅井・朝倉方の勝利に終わります。その翌々年、織田vs足利義昭の(最終決戦?)「槙島城の戦い」で(柴田勝家、丹羽長秀らと共に織田方として)今堅田を攻略した明智光秀の配下となった猪飼昇貞は、浅井・朝倉方への攻撃が加わります。そして二度目は、皆様ご存知の信長&光秀による(浅井・朝倉攻めの一環の)「比叡山焼き討ち」。その時堅田も、南の坂本と共に焼かれたのです。その11年後、「本能寺の変」に続く「山崎の戦い」に敗れた明智光秀の重臣・斎藤利光(1534~1582)は、猪飼昇貞を頼って堅田に落ち延びますが、光秀の信頼を集めて「明智」の苗字を賜っていた猪飼秀貞(昇貞の嫡男)が裏切ったことで羽柴方に捕らえられて、京の六条河原で斬首されました。利三の三女・福は、(来春改めてお話しますが、)徳川家光の生母・春日局です
 そして今、堅田は「鮒ずし」の(滋賀県中で作られてはいますが)名産地です。「本能寺の変」の二週間前、光秀が家康の饗応の席に鮒ずしを出して信長に叱責されたのですが、「本能寺の変」の原因だなどという与太話もありますが、琵琶湖畔の安土城を居城にした信長が琵琶湖名物の鮒ずしを毛嫌いすることなどあろう筈もありません。
 「本能寺の変」から40年後の1622年、斎藤俊三が捕らえられた地・堅田で生まれたのが芭蕉さんの一番弟子・宝井其角(本名・竹下侃憲=ただのり)の父・竹下東順(近江膳所藩藩医&俳人)です。(其角本人は、江戸っ子です。)12歳で芭蕉に入門した後も、医家の跡取りとして医学も学んでいたという竹下侃憲は、中国の古典「易経」にある「晋其角(そのつのにすすむ)」(「これ以上進めないところまで進む」意)から採った「其角」を俳号にします。
 一方、「比叡山焼き討ち」で堅田と共に焼き討ちに遭った坂本に、焼き討ちの直後に信長は光秀に命じて坂本城を築かせました。フロイスは「日本史」の中で坂本城を「豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と書いています。信長&光秀は、坂本城を拠点として近江の平定を目指します。その際堅田は、織田&明智の水軍の拠点になりました。坂本城が建って11年、「本能寺の変」で明智光秀の娘婿・明智左馬之助秀満は、水軍を率いて安土城に攻め入りましたが、「山崎の戦い」で明智勢が敗れると秀満は、坂本城に火を放って自刃しました。この秀満と(光秀の長女=)岸との息子・藤兵衛は、一族滅亡のその時([2]で述べたように)乳母の手で落ち延び、叔母・ガラシャの下細川家で育てられ(ガラシャの子供たちと一緒にキリシタンになり)ました。
 「お玉ヶ池種痘所」の発起人(=「東京大学医学部開基の大功労者」)・坪井信道の先祖・織田信長への「本能寺の変」での一番槍という武功を挙げた安田国継の縁で唐津藩の天草冨岡城の番代(他藩で言う城代家老)になった三宅藤兵衛重利は、「本能寺の変」から55年後の1637年(嘉永14年)(寛永14年)、「天草島原の乱」で一揆軍と闘って討死しました。三宅重利は、「お玉が池種痘所」の発起人(=「東京大学医学部開基の大功労者」)・三宅艮斎の8代前、(「お玉が池種痘所」の後身である。)「東京大学医学部」の初代学部長・三宅秀の9代前の先祖にあたります。

 明智左馬之助湖水渡りの図

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■「丁丑戦争日報」ー(2)

2023-02-15 09:59:55 | 歴史

   坂本松本屋■無          坂本松本屋
   恙手取辺小銃打         恙なく、手取あたりは小銃打
   合ノ音アリ蓋城兵        合の音があり、まさしく城兵
   脱走スル者ヲ打カ        脱走する者を打つものか?
   薩兵三五坂本宅         薩摩兵が三々五々坂本宅
   辺伺ヒ徘徊ス脱兵        辺りを伺いながら徘徊している、 脱走兵
   ヲ追撃スル者ニ似        追撃するもののようだ
   タリ
   水前寺ヲ過キ間島        水前寺を過ぎ間島(秋津町秋田)
   ニ至ル今日駿蔵長        に至る 今日駿蔵が長
   崎より帰ル廿一日夜       崎より帰る 廿一日の夜
   茂木ニテ舟ヲ買櫓        茂木(長崎市)にて舟を買い櫓を
   三挺ヲ立廿二日八時近      三挺立て廿二日八時に
   津ニ着シ河内葛山        (松尾町)に着き河内葛山の
   荒木ニ休息川床道        荒木(宅?)に休息し川床(河内町岳)        
   家氏ヲ訪ヒ小萩柿        家氏を訪ね小萩(北区貢)から       注:この地に道家家のお墓あり
   原徳王ヨリ三宮ニ        原(北区花園)さらに徳王から三宮に
   一宿シ小関ゟ保田窪       至り一宿 小磧より保田窪

   水前寺ヲ過キ間島ニ       水前寺を過ぎ間島に
   来ル海辺山中ノ途次       来る、海辺山中の途次
   薩兵散入セルヨシ        薩摩兵散入せる由、
   道家翁ヨリ余ニ傳        道家氏より私に伝
   言シテ曰ク今般有栖       言ありて、今般有栖       
   川親王征西将軍ノ命ヲ      川親王征西将軍の命を
   奉ラレタル寸ハ前知事公     奉じられたる寸(時?)は前知事(細川護久)     
   或ハ副将軍ニテ旧藩       あるいは副将軍において、旧藩     山縣有朋陸軍中将・川村純義海軍中将       
   士鎮撫ニ御越シアルヘシ     士の鎮撫にお越し有るべし
   御釋退勿論ナルへケレ共     御釋退も勿論申し出なさるべきだが   釈退→不参加の申し出(釈明)
   強テ命セラルゝ寸ハ■止     強いて命ぜられたる時は■止
   ムヲ得ス従軍アラセラル     むをえず従軍なされる
   ベシ其節ハ楠公戦死       べし、その節は楠公戦死
   ノ覚悟モ可有之■勘       の覚悟もこれあるべく         主命による戦死の覚悟
   考有之ヨシ之          お考えこれあること
   昨日征西将軍十五        昨日征西将軍十五
   大隊ヲ引率シ既ニ三       大隊を引率してすでに三
   田ノ駅ニ到着          田(?)の駅に到着

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■体重が3㌔落ちまして・・・

2023-02-15 07:18:36 | 徒然

 糖尿病であるが故か、摂生して食事療法をしているせいなのかよく判らないが、体重が3㌔強落ちた。
2ヶ月半ばかりの間でのことである。
糖尿病で体重が急に落ちる場合は、こんな数字ではないらしい。
「あんた誰?」という具合に痩せると聞いたから、私の場合は食事量穂のせいだと、強く信じている。
ところがここ最近、3㌔チョット(こちらは距離)の朝散歩が何とも辛くて、少々異常を感じ始めた。
また、右足の「あど」が痛くて足をかばうものだから、体幹に狂いが出たと見え歩き方がおかしくなってしまった。
我が家の先祖も江戸参勤を何回もやった人がいるが、昔の人は大変な脚力があるもんだと感心する。
「半足わらじ」で歩く人もあったと聞くが本当か知らん。さぞかし、体重も落ちることだろう。
最近は極力、半足わらじで歩くような形で(あどを浮かせて)歩くように心がけている。
昨日ごみで処分した私の散歩用の靴は、見事に「あど」の部分が擦り切れていた。
今日あたり散歩がてら靴屋さんに出かけようかと思っているが・・・自転車にしようかな?

                                                  足半ぞうり

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■はたしていつの大小暦?

2023-02-14 17:07:30 | 歴史

以前ヤフオクに出品されていた大小暦である。
大の月(30日)が、三・五・七・八・九・十一とあり、小の月(29日)が正・二・四・六・十・十二とあり、いつの暦なのかはわからない。
1月から12月まで、「小・小・大・小・大・小・大・大・大・小・大・小」というのが、この年の組み合わせで、この組み合わせが又いつ出てくるか判らないのが大小暦の複雑さであり面白さである。
ただ、甲子とあるから、寛永元年・貞享元年・延享元年・文化元年・元治元年のいずれかのものであることが判る。
そしてこれは(文久4年・元治元年)の改元の年が該当する。日本の暦(大小暦)から
毎年暦の刷り物が贈答用に大量に刷られたというが、たったこれだけしか書かれて居なくても、大の月・小の月が判らないと商売人は月末の集金や支払いに支障が出来、お百姓さんは、季節を判断して苗床の仕立てや種まきや、雨の時期・風の時期などを判断したのであろう。
当然閏年が挟まり、一年が13か月になる年が生じるが、これとて、法則がある訳ではなく全く同じ配列の暦が見当たらないのは、見事とも思える。

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■一葉さんから梅子さんへ

2023-02-14 07:03:24 | 徒然

 「5000円札」の樋口一葉さんが、どうやら来年は「津田梅子さん」に取って代わられる。
5000円札を眺めながらふとそう思った。「桐一葉おちて、天下の秋を知る」という感じではある。 

 私は毎年の大晦日には、樋口一葉の「大つごもり」を読むことにしている。
お金に苦労したという一葉が、自分の姿を主人公に投影させ、ひねりにひねって考えた筋書きのように思える。
「年の暮れ、叔父を見舞った主人公は治療費が払えないことの相談を受け、やむなく奉公先の商家の金2円を盗む。
大晦日にはお金の締めが行われるため、露見を覚悟していた所、店の放蕩息子がやってきて残りの金をみんな持ち出した。」

そんな筋書きだが、お金に苦労した一葉さんの頭の中に妄想として在ったのかもしれない。

 何の本で読んだのか覚えがないが(終活で処分したか?)、一葉さんのこの名前の由来は、どうも桐一葉の話とは全く関係なく、どうやら「貧乏話」に由来するらしい。
何方かの死にあたり香典に窮し歌を託した?らしいが、「自分は達磨大師になり、弔おうにもおあし(銭)がない」とあった。(その歌については全く覚えていない)
つまり、「達磨さんは葦の一葉に乗ったまま、ときの皇帝にまみえた」という故事から、自分はおあし(お金)がなく「葦の一葉に座っている」という認識であったろうと解説されていた。真偽のほどはよく判らない。

 そうだとすると一葉さんの貧乏は悲しい。商家に勤めた女の苦しみが始まる。貧乏はいろいろ悲しい。

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■本能寺からお玉が池へ ~その⑧~

2023-02-13 19:33:18 | 歴史

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2021:5:17日発行 第64号
     本能寺からお玉が池へ ~その⑧~        医師・西岡  曉


    滝落ちて 群青世界 とどろけり  (水原秋櫻子)

 夏に心不全で亡くなって、その命日が「群青忌」と呼ばれる秋櫻子、今では「群青忌」は「秋櫻子忌」ともどもそのまま夏の季語になっています。

 [10] 本郷(2)
 秋櫻子(本名:水原豊:1892~1981)は、東京帝国大学医科大学卒業の産婦人科医で、昭和医科専門学校(現・昭和大学)の初代産婦人科教授です。秋櫻子の句碑は東大にも昭和大にもありますが、この中東大のそれには、医学図書館浦にあるエルヴィン・フォン・ベルツ(1849~1913)の胸像(とユリウス・K・スクリパの胸像が並んでいます。)を詠んだ句が刻まれています。

    胸像をぬらす 日本の 花の雨  (秋櫻子)

 この句の「花」は、勿論桜花です。ガラシャが辞世に詠んだ花もまた桜花でした。(だから、という訳ではないでしょうが、)群青忌=(新暦の)7月17日は、ガラシャの(旧暦での)帰天日(命日)でもあります。ガラシャの姉・明知岸は、ベルツの同僚教授だった三宅秀の先祖です。「花」はまた、ベルツの妻の名でもあります。
 (ドイツ人の)ベルツの親友にオース
トラリア外交官のハインリッヒ・フォン・シーボルト(所謂小シーボルト)が居ます。「小シーボルト」は、三宅秀の父・艮斎の大師匠(師匠の師)である、フイリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男で、日本への「考古学」導入者にして「大塚貝塚」の自称(とされますが、真実の可能性もあるようです。)発見者です。
 御存知の方も居られるでしょうが、(ハインリッヒの父)フイリップ・シーボルトには日本人の娘がいます。その娘=楠本イネ(1827~1903)は、(蘭方では)日本初の女医となり、1870年(明治3年)、東京・築地で産科医院を開業しましたが、開業にあたっては、異母弟・ハインリッヒとアレクサンダー(ハインリッヒの兄。明治政府の「お雇外国人」の一人。)の援助を受けました。
 1862年(文政9年)に(父)シーボルトが江戸を訪れた際、三宅艮斎が(出羽で採取した)鉱物標本の鑑定を依頼したところ、その標本をオランダに持ち帰ってしまい、40年余が過ぎた1864年(元治元年)、遣欧使節団(の従者)としてスランスに赴いた(若干16歳の)秀が返却を要求しましたが、その数年後僅か2割(より少なかったとも・・・)だけが返されました。シーボルトが返してくれなかった鉱物標本は、どういう訳か今なお行方知れずです。

 [7]で述べたように、神田お玉ヶ池に開かれた「お玉ヶ池種痘所」は、二度の移転を経てその最後の2年ほどは下や和泉橋通の藤堂藩上屋敷にありました。江戸に上屋敷の他に御徒町に中屋敷、駒込染井村に下屋敷を構えていた藤堂藩はまた、大川(現・隅田川)に架かる両国橋の袂・横網町(現・墨田区両国1丁目)に蔵屋敷を構えていましたが、そこから堅川沿いに東に一里ほどの処が本所緑町です。
 1848年(嘉永元年)12月、本所緑町で生まれ、そこで44年暮らしたのが、明智光秀の11代目の子孫で佐倉藩医、そして後に「お玉が池種痘所」の発起人=「東大医学部のファウンダー」になる三宅艮斎の長男・三宅秀です。
 日本が牛痘が伝来したのはその翌年ですが、艮斎が幼児の秀に種痘をする頃、江戸には牛痘はまだ無くて、人痘しかありませんでした。[6]で述べたように、幕府が「蘭方禁止令」を敷いていたからです。艮斎が織田信長の8代目の子孫で長州藩医だった(二代目)坪井信道たちが江戸に「お玉が池種痘所」を開設したのは、1858年(安政5年)5月、三宅秀が9歳の時でした。
 その翌年三宅秀は、杉竹外の塾で漢籍を、福知山藩医・川島元成にオランダ語を、12歳で小石川の高島秋帆の塾と下谷の(「万延元年遣米使節」の通訳見習だった)立石斧次郎の塾で英語を学び、16歳の時その英語力を買われて第2回遣欧使節団(1864年)に団員の従者として随行します。帰国後は父艮斎の診療を手伝いましたが、暫くして横浜のジェームス・C・へポン(という書き方は自称で、現代風にに書けばヘップバーンですね。1815~1911)の英語塾(現在の明治学院、フェイリス女学院の源流)に学び、へポンは「自分は老人で陳腐な医学しか教えられない。」からと「真実の医学修行」先として紹介した同じく横浜のアメリカ海軍軍医・アレキサンダー・M・ヴェッダ―(1831~1870)の下で(らんがくではない)西洋医学を学びます。1867年、長州藩に赴くにあたってヴェッダ―は三宅秀を誘いましたが、長州は当時「朝敵」とされていたため、秀は長州行きを断って加賀藩に職を求めます。この時の職は医師ではなく(英語)翻訳係でした。後年加賀藩江戸屋敷(跡)が職場になる日が来るとは、藩主・前田慶寧(よしやす)以下加賀藩の人々は勿論、秀本人も、想像することは出来なかったでしょう。

 ところで、お玉が池種痘所の「設立資金據出者」の一人である広島藩医・呉黄石の妻は(資金據出者筆頭=)箕作阮甫の長女・せきです。その三男が東京帝国大学医学部精神病学第二代教授になった呉秀三(1865~1932)です。ご存知の方も多いと思いますが、呉秀三の次の言葉は、現在の精神科医療に携わる私たちにとっても肝に銘じておかなければならないものとして有名です。

 我邦十何万の精神病者は実に此病を受けたるものの不幸の外に、此邦に生まれたる不幸を重ぬるものと云ふべし。
 精神病者の救済・保護は実に人道問題にして、我邦目下の急務と謂はざるべからず。

 後の時代の日本の精神医学・医療の歴史に大きな足跡を残した二人(一組?)の精神科医=植松七九郎(1888~1968)、金子準ニ(1890~1979)がいます。この二人は、戦前は昭和医学専門学校(現・昭和大学)精神病学教室を開設し、戦後は日本精神科病院協会を創設し、精神衛生法(現・精神保健福祉法)の制定を主導しました。金子準ニは「お玉ヶ池種痘所」が東大医学部の礎になったことを踏まえて「艮斎は、東京大学医学部開基の大功労者」だと書いています。
 1868年、三宅艮斎が(政治的立場は異なっていたようなのに、時期的には徳川幕府に殉ずる形で)亡くなり、明治政府が誕生します。勿論(?)当時本当に幕府に殉死した人も居ました。お玉ヶ池種痘所の大家(?)で大河ドラマ「青天を衝け」にも登場した川路聖謨もその一人です。
 その翌年、幕府の「昌平坂学問所」、「開成所」、そして(「お玉が池種痘所」の後身である)「医学所」が統合され「大学校」が開講して「医学所」は「大学東校(とうこう)」になりました。更にその翌年(1870年)、三宅秀は大学東校の「大学校中助教」に任じられます。
 そして1871年、ドイツ陸軍軍医が大学東校の「お雇い外国人」としてやってくると、外国語は英語しか喋れなかった三宅秀が通訳を命ぜられます。馴れないドイツ語の講義を日本語に訳して語らなければならないので、ドイツ人教授に講義録のメモを用意してくれるよう頼み込むなどの苦労を重ねて東大医学部の黎明期を築いていったのでした。
 後年三宅秀は、東京大学初代医学部長、帝国大学医科大学初代学長を務め、日本初の医学博士5人の中の一人になりました。前回お話したように、東京大学(⇄帝国大学医科大学)は、加賀藩江戸上屋敷敷地に建てられましたから、三宅秀にとっては加賀藩所縁の場所が二十余年の長きに亘って職場だったことになります。
 医学部長時代の三宅秀には、福沢諭吉に叱られた思い出があり、後にこう語っています。「私は寛保の治療は数千年の長きけいけんがあるのだから漢方を全く廃止してはいかないと云うようなことを、明治14年でしたか彼の一つ橋の大学の卒業式の時に演説したことがありますが、其時式を終って祝宴の席へ来てから福沢先生が『三宅君はもっと親孝行だと思ったら、案外親不孝だ。お前の父君などの西洋医学を開く為の骨折りは一通りや二通りではなかった。漸く是まで育ったのを親の苦心を忘れてしまって寛保を贔屓にしたりして怪しからぬ』と言われましたけれども、どうも仕方がない。私はいまだに鍼でも按摩でも灸でも多少効はあろうと思っています。」
 ここで言う「一つ橋の大学」とは(現在の一橋大学の前身である東京商業学校のことではなく)東大の法・理・文の三学部のことで、(その前身である開成学校の校地=)一橋キャンバスに在ったのです。当時本郷には医学部だけしか在りませんでした。
 福沢諭吉が「親の苦心」を知っているのは、「蘭方禁止令」の下で(艮斎と同じ蘭方医として)大変な「苦心」を共にしていたからでしょう。[4]の写真で艮斎が抱えているのは、その写真の撮影者・ジョン万次郎が1860年(万延元年)に(日米修功通商条約批准書交換のために)咸臨丸で訪米した際、サンフランシスコで購入した「ウェブスター英語辞典」と思われますが、その時一緒に辞典を購入したのが福沢諭吉でした。
 三宅秀は1890年(明治23年)に帝大医学部を退官します。その18年後、帝大理学部教授の池田菊苗(1864~1936)がうまみ成分(グルタミン酸)の調味料(後の「味の素」)を発明しますが、そのことに寄与したのが三宅秀の論文でした。味の素の公式サイトの「社史・沿革」にはこう書かれています。
「日本初の医学博士・三宅秀氏が『佳味は消化を促進する』という説を唱え、これに励まされた池田博士は、ついに昆布だしの味成分がグルタミン酸というアミノ酸の一種であることを発見。この味を『うま味』と命名し、さらにグルタミン酸を原料としたうま味
調味料の製造方法を発明しました。」
 また、同じく理学部教授だった三好学(1862~1939)が日本に導入した「天然記念物」の概念を「史跡名勝天然記念物保存法」(1919年)として具現化させたのも三宅秀(勿論、彼一人の力ではありませんが、中心人物でした。)です。

                               呉秀三         三宅 秀

 

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■妙解寺建立380年と森鴎外の名著

2023-02-13 07:09:53 | 歴史

 寛永20年(1643)2月13日、2年前の18年3月17日に死去した細川忠利の菩提を弔うための妙解寺が建立された日である。
19年4月には、その費用に充てるため100石以上には三分役、それ以下の者には一分半役が申し付けられた。
泰勝寺に納められていた遺骨は、この日に妙解寺に納められ法会が執り行われた。
そして殉死した阿部弥一右衛門の惣領・権兵衛が、焼香の際自らの元結を切り目安を挙げるという、不祥事を働いた。
若き藩主・光尚の激怒する処となった。
これが、2月21日の「阿部一族の誅伐事件」へと波紋を広げるのである。用人林外記は若きライバル竹内数馬を討手の大将に指名した。
光尚はこの現場が花畑邸からいかにも近く、いたたまれなかったのか松野某の屋敷に出かけている。かっての千葉城があったあたりである。
その意を受けた数馬は死を遂げる。屋敷に籠った阿部一族はすべてが死を以て応えた。
当の権兵衛が殺されたから一族が屋敷に籠ったという説があるが、これは間違いで、権兵衛はこの事件後に井出の口において「縛首」の刑に処せられた。
3月14日に至ると、権兵衛召使の者13人の内、豊前以来の者3名が誅伐された。父・弥一右衛門以来の者も居たであろう。
これら一連の事件が、森鴎外の歴史文学の名著「阿部一族」を誕生せしめたのである。
21日を迎えると「阿部一族誅伐事件」から380年前となる。

 

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■「丁丑戦争日報」ー(1)

2023-02-12 08:55:28 | 史料

      読み下しにチャレンジしていますが、読めない字(■)が多く御見苦しい限りです。
丁度そんな中、23日付けの「西郷隆盛の全軍に出した指令書」なるがメールで届きました。その読み下しに悪戦苦闘中です。

    晴 夜陰
     二月廿一日
      旧二月九日
    前九時比間島発足竹           午前九時ころ、間島(熊本市東区秋津町秋田)を発足、竹
    宮ヨリ過保窪野店         宮(たけみや=健軍)より、保窪(保田窪?)を過ぎ野店で
    一酌事 新南部・小関渡         お酒を飲む、新南部から小磧(おぜき)で(白川を)渡り
    三時至立田祠堂一宿        三時に立田の細川別邸(現泰勝寺跡)御祠堂に至りて一宿す
    熊本為破裂弾           熊本城下は破裂弾で
    被焼昼終夜焔烟          焼かれ、昼・終夜共に焔烟(炎煙)が
    漲天曉明後橋辺薩         天にみなぎり明五橋あたりに薩
    人進撃有砲声           兵が進撃して砲声がある

    晴
     二月廿二日既
      旧二月十日
    前七時大小砲声■塁         午前七時大小の砲声■塁
    焔烟漲天薩兵渡          焔烟(炎煙)天にみなぎり薩摩の兵が
    子飼橋安政橋九時         子飼橋・安政(安巳)橋を渡り九時
    既至寺原岩下           既に寺原・岩下に至る
    西南祇山ヨリ四方池小       西南の祇園山(万日山)より四方池~小山田
    山田本妙寺田端■■         小山田、本妙寺田畑■■
    辺薩兵悉■            あたりに薩摩兵が悉く■■
    ❍樋口列北丘ヨリ多        ❍樋口氏(細川邸の家扶=樋口定か)北岡邸より多・・・
                       (列=同志の意)

 

    耒ル               来る
    三姫君布田郷錦埜        (細川護久侯)の三人の姫君(喜寿・宣・志津姫)は布田郷錦野
    村赤星廣克宅へ          村の赤星廣重(弘重)宅へ
    御轉住              お転住になる(3月14日迄20泊)    熊本大学・三沢純准教授‐御姫様たちの西南戦争
    日田藩兵三百斗■         日田藩の兵士が300人ばかり■
    小川ヨリ白川辺ヲ廻テ       小川より白川あたりを廻って
    小関橋ゟ経塚ヲ経         小磧橋より経塚をへて
    テ植木ニ至り援兵           植木に至りて援兵
    ヲ迎撃ノ策ナルヘシ        を迎撃する策なるべし 
    鎮城攻撃尤急ナリ         鎮城攻撃尤急ナリ
    夜月入ノ比ヨリ城ニ女       夜月が入るころ城に女(がいる?)       
    ノ風評ニテ双方ノ         との風評があり、双方の
    砲声互ニ発曉ニ撤         砲声が互いに発し、暁に徹
    シテ不止 ❍休焉殿ニ        してやまず ❍細川休焉(忠顕=内膳家9代)殿と
      對話曉五時ニ至         対話する 曉五時に至り
           就寝                 就寝する 
     陰
    晴二月廿三日
      旧正月十一日
    攻撃手頻響飯後          攻撃の手が頗る響き、(朝?)飯の後
    祠堂ヨリ引取津崎         立田の細川邸御祠堂を引き取り、津崎
    新旧屋敷ニ至下          新(か)
の旧屋敷に至る 下
    田家共皆無恙           田家共皆つつがなく・・・
    

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