吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2021:5:17日発行 第64号
本能寺からお玉が池へ ~その⑧~ 医師・西岡 曉
滝落ちて 群青世界 とどろけり (水原秋櫻子)
夏に心不全で亡くなって、その命日が「群青忌」と呼ばれる秋櫻子、今では「群青忌」は「秋櫻子忌」ともどもそのまま夏の季語になっています。
[10] 本郷(2)
秋櫻子(本名:水原豊:1892~1981)は、東京帝国大学医科大学卒業の産婦人科医で、昭和医科専門学校(現・昭和大学)の初代産婦人科教授です。秋櫻子の句碑は東大にも昭和大にもありますが、この中東大のそれには、医学図書館浦にあるエルヴィン・フォン・ベルツ(1849~1913)の胸像(とユリウス・K・スクリパの胸像が並んでいます。)を詠んだ句が刻まれています。
胸像をぬらす 日本の 花の雨 (秋櫻子)
この句の「花」は、勿論桜花です。ガラシャが辞世に詠んだ花もまた桜花でした。(だから、という訳ではないでしょうが、)群青忌=(新暦の)7月17日は、ガラシャの(旧暦での)帰天日(命日)でもあります。ガラシャの姉・明知岸は、ベルツの同僚教授だった三宅秀の先祖です。「花」はまた、ベルツの妻の名でもあります。
(ドイツ人の)ベルツの親友にオーストラリア外交官のハインリッヒ・フォン・シーボルト(所謂小シーボルト)が居ます。「小シーボルト」は、三宅秀の父・艮斎の大師匠(師匠の師)である、フイリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男で、日本への「考古学」導入者にして「大塚貝塚」の自称(とされますが、真実の可能性もあるようです。)発見者です。
御存知の方も居られるでしょうが、(ハインリッヒの父)フイリップ・シーボルトには日本人の娘がいます。その娘=楠本イネ(1827~1903)は、(蘭方では)日本初の女医となり、1870年(明治3年)、東京・築地で産科医院を開業しましたが、開業にあたっては、異母弟・ハインリッヒとアレクサンダー(ハインリッヒの兄。明治政府の「お雇外国人」の一人。)の援助を受けました。
1862年(文政9年)に(父)シーボルトが江戸を訪れた際、三宅艮斎が(出羽で採取した)鉱物標本の鑑定を依頼したところ、その標本をオランダに持ち帰ってしまい、40年余が過ぎた1864年(元治元年)、遣欧使節団(の従者)としてスランスに赴いた(若干16歳の)秀が返却を要求しましたが、その数年後僅か2割(より少なかったとも・・・)だけが返されました。シーボルトが返してくれなかった鉱物標本は、どういう訳か今なお行方知れずです。
[7]で述べたように、神田お玉ヶ池に開かれた「お玉ヶ池種痘所」は、二度の移転を経てその最後の2年ほどは下や和泉橋通の藤堂藩上屋敷にありました。江戸に上屋敷の他に御徒町に中屋敷、駒込染井村に下屋敷を構えていた藤堂藩はまた、大川(現・隅田川)に架かる両国橋の袂・横網町(現・墨田区両国1丁目)に蔵屋敷を構えていましたが、そこから堅川沿いに東に一里ほどの処が本所緑町です。
1848年(嘉永元年)12月、本所緑町で生まれ、そこで44年暮らしたのが、明智光秀の11代目の子孫で佐倉藩医、そして後に「お玉が池種痘所」の発起人=「東大医学部のファウンダー」になる三宅艮斎の長男・三宅秀です。
日本が牛痘が伝来したのはその翌年ですが、艮斎が幼児の秀に種痘をする頃、江戸には牛痘はまだ無くて、人痘しかありませんでした。[6]で述べたように、幕府が「蘭方禁止令」を敷いていたからです。艮斎が織田信長の8代目の子孫で長州藩医だった(二代目)坪井信道たちが江戸に「お玉が池種痘所」を開設したのは、1858年(安政5年)5月、三宅秀が9歳の時でした。
その翌年三宅秀は、杉竹外の塾で漢籍を、福知山藩医・川島元成にオランダ語を、12歳で小石川の高島秋帆の塾と下谷の(「万延元年遣米使節」の通訳見習だった)立石斧次郎の塾で英語を学び、16歳の時その英語力を買われて第2回遣欧使節団(1864年)に団員の従者として随行します。帰国後は父艮斎の診療を手伝いましたが、暫くして横浜のジェームス・C・へポン(という書き方は自称で、現代風にに書けばヘップバーンですね。1815~1911)の英語塾(現在の明治学院、フェイリス女学院の源流)に学び、へポンは「自分は老人で陳腐な医学しか教えられない。」からと「真実の医学修行」先として紹介した同じく横浜のアメリカ海軍軍医・アレキサンダー・M・ヴェッダ―(1831~1870)の下で(らんがくではない)西洋医学を学びます。1867年、長州藩に赴くにあたってヴェッダ―は三宅秀を誘いましたが、長州は当時「朝敵」とされていたため、秀は長州行きを断って加賀藩に職を求めます。この時の職は医師ではなく(英語)翻訳係でした。後年加賀藩江戸屋敷(跡)が職場になる日が来るとは、藩主・前田慶寧(よしやす)以下加賀藩の人々は勿論、秀本人も、想像することは出来なかったでしょう。
ところで、お玉が池種痘所の「設立資金據出者」の一人である広島藩医・呉黄石の妻は(資金據出者筆頭=)箕作阮甫の長女・せきです。その三男が東京帝国大学医学部精神病学第二代教授になった呉秀三(1865~1932)です。ご存知の方も多いと思いますが、呉秀三の次の言葉は、現在の精神科医療に携わる私たちにとっても肝に銘じておかなければならないものとして有名です。
我邦十何万の精神病者は実に此病を受けたるものの不幸の外に、此邦に生まれたる不幸を重ぬるものと云ふべし。
精神病者の救済・保護は実に人道問題にして、我邦目下の急務と謂はざるべからず。
後の時代の日本の精神医学・医療の歴史に大きな足跡を残した二人(一組?)の精神科医=植松七九郎(1888~1968)、金子準ニ(1890~1979)がいます。この二人は、戦前は昭和医学専門学校(現・昭和大学)精神病学教室を開設し、戦後は日本精神科病院協会を創設し、精神衛生法(現・精神保健福祉法)の制定を主導しました。金子準ニは「お玉ヶ池種痘所」が東大医学部の礎になったことを踏まえて「艮斎は、東京大学医学部開基の大功労者」だと書いています。
1868年、三宅艮斎が(政治的立場は異なっていたようなのに、時期的には徳川幕府に殉ずる形で)亡くなり、明治政府が誕生します。勿論(?)当時本当に幕府に殉死した人も居ました。お玉ヶ池種痘所の大家(?)で大河ドラマ「青天を衝け」にも登場した川路聖謨もその一人です。
その翌年、幕府の「昌平坂学問所」、「開成所」、そして(「お玉が池種痘所」の後身である)「医学所」が統合され「大学校」が開講して「医学所」は「大学東校(とうこう)」になりました。更にその翌年(1870年)、三宅秀は大学東校の「大学校中助教」に任じられます。
そして1871年、ドイツ陸軍軍医が大学東校の「お雇い外国人」としてやってくると、外国語は英語しか喋れなかった三宅秀が通訳を命ぜられます。馴れないドイツ語の講義を日本語に訳して語らなければならないので、ドイツ人教授に講義録のメモを用意してくれるよう頼み込むなどの苦労を重ねて東大医学部の黎明期を築いていったのでした。
後年三宅秀は、東京大学初代医学部長、帝国大学医科大学初代学長を務め、日本初の医学博士5人の中の一人になりました。前回お話したように、東京大学(⇄帝国大学医科大学)は、加賀藩江戸上屋敷敷地に建てられましたから、三宅秀にとっては加賀藩所縁の場所が二十余年の長きに亘って職場だったことになります。
医学部長時代の三宅秀には、福沢諭吉に叱られた思い出があり、後にこう語っています。「私は寛保の治療は数千年の長きけいけんがあるのだから漢方を全く廃止してはいかないと云うようなことを、明治14年でしたか彼の一つ橋の大学の卒業式の時に演説したことがありますが、其時式を終って祝宴の席へ来てから福沢先生が『三宅君はもっと親孝行だと思ったら、案外親不孝だ。お前の父君などの西洋医学を開く為の骨折りは一通りや二通りではなかった。漸く是まで育ったのを親の苦心を忘れてしまって寛保を贔屓にしたりして怪しからぬ』と言われましたけれども、どうも仕方がない。私はいまだに鍼でも按摩でも灸でも多少効はあろうと思っています。」
ここで言う「一つ橋の大学」とは(現在の一橋大学の前身である東京商業学校のことではなく)東大の法・理・文の三学部のことで、(その前身である開成学校の校地=)一橋キャンバスに在ったのです。当時本郷には医学部だけしか在りませんでした。
福沢諭吉が「親の苦心」を知っているのは、「蘭方禁止令」の下で(艮斎と同じ蘭方医として)大変な「苦心」を共にしていたからでしょう。[4]の写真で艮斎が抱えているのは、その写真の撮影者・ジョン万次郎が1860年(万延元年)に(日米修功通商条約批准書交換のために)咸臨丸で訪米した際、サンフランシスコで購入した「ウェブスター英語辞典」と思われますが、その時一緒に辞典を購入したのが福沢諭吉でした。
三宅秀は1890年(明治23年)に帝大医学部を退官します。その18年後、帝大理学部教授の池田菊苗(1864~1936)がうまみ成分(グルタミン酸)の調味料(後の「味の素」)を発明しますが、そのことに寄与したのが三宅秀の論文でした。味の素の公式サイトの「社史・沿革」にはこう書かれています。
「日本初の医学博士・三宅秀氏が『佳味は消化を促進する』という説を唱え、これに励まされた池田博士は、ついに昆布だしの味成分がグルタミン酸というアミノ酸の一種であることを発見。この味を『うま味』と命名し、さらにグルタミン酸を原料としたうま味調味料の製造方法を発明しました。」
また、同じく理学部教授だった三好学(1862~1939)が日本に導入した「天然記念物」の概念を「史跡名勝天然記念物保存法」(1919年)として具現化させたのも三宅秀(勿論、彼一人の力ではありませんが、中心人物でした。)です。
呉秀三 三宅 秀