近所のお宅の菜園の片隅にある梅の木の新しい枝に花が咲いていました。
散歩コースを変えてこの梅の木を目指しました。
桜に比べ梅の木は、「梅切らぬバカ」という言葉がある様に、結構手入れが必要なのでしょう。
古い枝にはまったく蕾もありませんでした。AP住まいの身ですから、ご近所のこんな景色を楽しませていただいています。
今日は太陽も顔を出し蕾もまた膨らむことでしょう。もうすぐ春ですね~~。
「増殖する俳句歳時記」に、松井秋尚と言う方の次の句がありました。
庭先の梅を拝見しつつ行く
近所のお宅の菜園の片隅にある梅の木の新しい枝に花が咲いていました。
散歩コースを変えてこの梅の木を目指しました。
桜に比べ梅の木は、「梅切らぬバカ」という言葉がある様に、結構手入れが必要なのでしょう。
古い枝にはまったく蕾もありませんでした。AP住まいの身ですから、ご近所のこんな景色を楽しませていただいています。
今日は太陽も顔を出し蕾もまた膨らむことでしょう。もうすぐ春ですね~~。
「増殖する俳句歳時記」に、松井秋尚と言う方の次の句がありました。
庭先の梅を拝見しつつ行く
吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2021:5:17日発行 第63号
本能寺からお玉が池へ ~その⑦~
幸か不幸か、今年へ跨った大河ドラマ「麒麟がくる」ですが、2月には到頭その幕を下ろしました。あれから400年余・・・・・・・、それでも私たちは、相も変わらず「麒麟がくる」のを待っています(?)。
そして、パンデミックの嵐の中でも、春はまた廻って来ました。
散る桜 のこる桜も 散る桜 (良寛)
320年前の春、4月21日(旧暦3月14日)、江戸城中で赤穂浪士浅野内匠守(頭)が高家旗本吉良上野介に斬りかかりました。「忠臣蔵」で有名な赤穂事件のきっかけになる事件です。
ところで、「蕉門四天王」の一人として、「蕉門十哲」筆頭と言われる宝井其角は、師匠の芭蕉さん自らが「門人に其角嵐雪あり。」ととても高く評価した俳人です。其角には
かんそゆうせい やぶ
月花を医す 閑素幽栖の 野巫の子有り
という自虐的な(と見せて自負を表明した?)句があります。ヤブ医者の子で詫び住まいの自分は、人ではなく「月花」の医療をしている、と嘯(うそぶ)いているのです。その其角の生家があったのは、江戸・神田お玉ヶ池と言われています。(本当は、日本橋堀江町説の方が・・・・)
其角は「赤穂47士」の一人・大高源吾の俳諧の師匠で、この師弟には討ち入り前夜に(お玉ヶ池の東に架かる)両国橋で別れの歌を交わした、という逸話があり、歌舞伎「松浦の太鼓」の名場面にもなっています。
年の瀬や 水の流れと人の身は (其角)
あした待たるる その宝船 (子葉)
「子葉」は大高源吾の俳号ですが、この話は残念ながら史実ではないようで(其角の自作自演とまで言われていま)す。
討ち入りの後赤穂浪士の中大石内蔵助始め17名が熊本藩お預けとなりました。その際、大石ら浪士を引き取りに赴いたのは熊本藩旅家老(他藩でいう江戸家老)だった三宅藤兵衛重経
です。「三宅藤兵衛」の名前で皆様お気付きでしょうか?この三宅重経は、明智光秀の孫・三宅藤兵衛重利の孫にあたる人です。
当時の熊本藩主・細川綱利(1643~1714)は、ガラシャの曽孫なので、三宅重経と同じく明智光秀の玄孫です。
熊本藩が江戸下屋敷(@港区高輪1丁目:昨年上皇夫妻のの「仙洞御所」になった「高輪皇族邸」が建つ処」に浪士を預かるにあたって、夜中にも拘わらず綱利自ら出迎え、直ちに二汁五菜の料理、菓子、茶などを出すよう命じました。
翌日からも連日御馳走でもてなして、大石らから「腹に凭れるので料理を軽いものにしてほしい。」と言われたほどです。細川屋敷で過ごす間に、大石は藩士たちの血筋を尋ね、それに答えて接待役の藩士・堀内伝右衛門は、旅家老・三宅重経のことを「少し訳あり」として「先祖が明智日向守(=光秀)家中の明智左馬之助(=秀満)」と語っています。
細川綱利は、幕府に浪士たちの助命を嘆願し、助命が叶えば赤穂浪士を細川家で召し抱えたい、とまで願ったそうです。しかしそれは叶わず、元禄16年2月4日、浪士たちは切腹して果てました。芭蕉さんの孫弟子の子葉=大高源吾もその日に(細川屋敷ではなく松山藩松平屋敷で)切腹しました。享年32。源吾は次の句を詠んでいます。
山をぬく 刀も折れて 松の雪 (子葉)
浪士たちが切腹した後、綱利は「彼らは細川屋敷の守り神である」として浪士たちの遺髪を貰い受けて屋敷内に供養塔を建てました。
[9] お玉ヶ池(2)
討ち入りの後、赤穂浪士は泉岳寺(‘港区高輪2丁目)を目指しますが、その折本所の吉良邸最寄りの両国橋ではなく、(武家屋敷街を通るのを避けるため、隅田川東岸の)一ッ目通りを南に下って一之橋を渡ります。もし両国橋を渡ったのであれば、その先(西)2㎞ほどにあるお玉ヶ池(「池は既に無く、地名としてだけですが・・・)がありました。それでは、ここで一旦お玉ヶ池へ戻りましょう。
そもそも歴史をずっと遡れば、明智光秀が織田信長の(そして、自身のでもある)「天下布武」の夢を打ち砕き、徳川家康の「欣求浄土」の人柱に立ったのは、439年前(=1582年(天正12年))のことでした。
家康が礎を築き、光秀・家康両雄の名を戴いた三代将軍・家光が仕上げた泰平の時代(=江戸時代)を経て、280年近く後の江戸の地で、光秀末裔である三宅艮斎と信長末裔である坪井信道(二代目)とが巡り逢いました。戦国の世に、生命を賭して戦うことで世のために生きる武将として出逢った者たちの末裔が、徳川幕府の落日の時代に再び見えた時、人々の生命を救い護ることを天職とする医師としてだったというのは、誠に感慨深いものがあります。そればかりではありません。見えただけではなく、世のため人のために(「植痘論文」にあるように)「力をあはせて」お玉ヶ池種痘所の開設に尽力したのです。彼等だけではなく、お玉ヶ池種痘所の「設立資金據出者名簿」には(手塚治虫の曽祖父=)手塚良庵の名が、(手塚治虫の「陽だまりの樹」では)文字通り並んで載っていることも、[6]でお話しました。
嗚呼それなのに、お玉ヶ池種痘所は開所僅か半年で火事で焼けてしまいます。種痘所の再建にあたっては、ヤマサ醤油の濱口梧陵の資金提供が大きな力になったことを[7]でお話しました。お玉ヶ池種痘所が東大医学部の源流だと解った今となっては、(今では誰も気に留めないようですが、ほんとうは)我々卒業生は、ヤマサ醤油には足を向けて寝られないのです。もし日本がアメリカであれば(??)、「東京大学」は「濱口梧陵大学」だったに違いありません。アメリカの大学は(例えば「ジョンポプキンス大学」が「ボルチモア大学」ではないように)、開学時代の主な寄付者の名前を大学名にするようですから・・・
手塚治虫の「陽だまりの樹」には、こんな台詞があります。
「大槻俊斎の家に集まった手塚良仙や伊藤玄朴達わずかな蘭方医の果てしない夢が東大医学部のもとを築いたのだった」この台詞の「わずかな蘭方医」の中に光秀の末裔・三宅艮斎と信長の末裔・坪井信道の両者ともが加わっていたのは、何とも素敵なことではありませんか!?
余り知られていませんが、東大医学部発祥の地はお玉ヶ池種痘所(@千代田区岩本町2丁目)とされています。ですから東大医学部は、ここに「お玉ヶ池種痘所」碑と、ご丁寧にもう一つ別に「お玉ヶ池種痘所記念碑」を建てています。
その中の、「お玉ヶ池種痘所記念碑」の方は、「岩本3丁目」交差点に立っています。その碑文には「この種痘所は東京大學醫學部のはじめにあたる」とあります。かつて東大病院耳鼻科の加賀君孝教授は「東大病院だより」(44号)にこう書かれました。「種痘所の設立発起人は ・・・東大医学部のファウンダーでもある」
前回述べたように、お玉ヶ池種痘所は(鉄枠の黒い板の門だったので)江戸の人々に「鉄門」と呼ばれました。今の患者さんが東大病院を「鉄門」と呼ぶことはありませんが、東大医学部関係者は今でも東大医学部や東大病院の事を「鉄門」と呼びますし、東大医学部の同窓会は「鉄門倶楽部」です。今時の東大医学性は、自分の学び舎の始まりが「お玉ヶ池種痘所」であったことを知る由もないかも知れません。でもそんな彼等も、いつの間にか江戸時代と同じ「鉄門生」と呼ばれるようになり、卒業すると「鉄門出身」の医師になってしまいます。そんな鉄門ですが、実は1912年に現在の正門が建つまでは(その由緒正しさからすれば当然かもしれませんが、医学部だけなく全)東大の正門だったのでした。
(是もあまり知られていませんが)一昨昨年・2018年は、東大医学部とその附属病院の創立160年の年でした。「東京大学医学部」の発足は本当は(?)その141年前(1877年)のことなのに、「160年」とはいったいどういう事なのでしょう?。それは東大医学部は「お玉ヶ池種痘所」解説をもってその「創立」としているからなのです。その証拠に(?)「お玉が池種痘所記念碑」には、「この種痘所は東京大學醫學部のはじめにあたるので、その開設の日を本學部創立の日と定め・・・ いまこのゆかりの地に由来を書いた石をすえ、また別に種痘所跡にしるしを立て記念とする」と書かれています。その「開設の日」とは、1855年(安政5年)5月7日のことでした。
前回述べたように、「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れは、お玉が池種痘所が医学所、東京医学校、東京大学医学部へと姿を変えて来たことによって、明治の世に(「江戸」から改名したばかりの「東京」の)本郷まで流れ着いたのでした。
ここ迄に、光秀末裔の三宅艮斎と信長末裔の坪井信道が「力をあはせて」お玉ヶ池種痘所を開設したお話をして来ましたが、種痘所が「医学所」になった後もその教授の中には、艮斎、信良、爲春といった面々が居ましたので、医学所の時代になっても尚両家の協同は続いていたのです。
東京大学の開学時には学部長職はなく、医学部長にあたる「医学部綜理」には、適塾&西洋医学所出身でベルリン大学に留学した池田謙斎(1841~1918)が就任します。そして4年後(1881年)、東京大学医学部に「学部長」が置かれ、初代医学部長になったのは、(三宅艮斎の長男=)三宅秀(ひいず:1848~1938)でした。「東京大学のファウンダー(の一人・三宅艮斎)」の息子が東京大学の最初の医学部長になったという訳です。東大医学部の公式サイトには「歴代学部長」のトップに(お玉ヶ池種痘所の初代頭取で手塚治虫の曽祖叔母の夫である)大槻俊斎を挙げています。「種痘所は東京大學醫學部のはじめにあたる」からです。2代目は緒方洪庵、3代目に松本良順・・・ と続いて、7代目に佐藤尚中、そして(尚中の娘婿・)三宅秀は「東大医学部長」としては初代ですが「歴代医学部長」としては14代目の位置に挙げられています。
又、当日はコロナ対策の爲、マスクの着用とご記名をお願いいたし
遡ると共に我が家の初代磯部庄左衛門に至る、同族の平川氏(嫡男家、我が家は二男家)に平川家文書がまとめられて、熊本県立図書館に収められている。
その中に平川駿太なる人物の西南戦争に係わる日記が数冊ある。(65㎜×194㎜)
写真はその第一冊目で丁丑戦争日報 明治十年二月廿一日ヨリ五月二日ニ至ルとあり、以下次のように続いている。
丁丑兵後日乗 明治十年五月三日以来(六月三十日まで)
丁丑日乗 明治十年七月一日以降 (十二月三十一日マデ)
そして、明治三十年迄にも至る膨大な日誌で、これを全部読み解けば面白いだろうと思われる。
昨日は午後からこれを目的に図書館へ出かけた。
先ずは西南戦争に係わる第一巻を写真撮影をしようと考えたのだが、厚みが25㎜ほどあり、ざっと250頁くらいはあろうかという記録であった。まずは、3月15日までの約50枚ほどを写真撮影、西南戦争の直接的な描写は少ないが、薩軍・官軍の動きや主要人物の動向、知人友人の被災状況など内容は多岐に亘っている。
まさに西南戦争に関する民政記録である。面白いのは、現代の私からすると共に血族であるが、当時親族としての認識はあり得ない平川駿太が高祖父川尻奉行・上田久兵衛(休)と交流があったことを伺わせる記録が垣間見られた。
文字おこしをしてみようと思うが、紙の隅が折れていて写真撮影に難儀したが、判読不可の部分は再度原本を確認すれば良い事であると考えて居る。
御覧の通りきれいな筆跡である。「西南の役」を知るうえで貴重な史料であろう。
発生時刻 | 震源地 | マグニチュード | 最大震度 |
2023年2月9日 16時19分ごろ | 熊本県熊本地方 | 3.7 | 3 |
最近地震があると、足のこむら返りではないけれど、「来るぞ」という予兆を感じます。いわゆる波の段階でしょうか?
熊本大地震で数えきれない地震に見舞われましたから、一昨日の震度1でも敏感に感じました。
最近熊本人は、この程度の地震では「おっ」と声を上げるかもしてませんが、落ち着いたものでしょう。
4を超えると少々身構えますが・・・阿蘇山の火口も活発ですし、鹿児島の桜島も昭和の火口のふたがあいて噴煙が立ち昇ったり、少々不穏な感じです。
トルコ・シリアの大被害の状況を見ると、過去の日本におけるいろいろな地震の事が頭をかすめます。
地球の営みの結果でどうしようもありませんが、活動期に在るという事なのでしょうか?
熊本市中央区の国史跡「熊本藩主細川家墓所(泰勝寺跡)」で、肥後細川家の初代藤孝(幽斎)夫妻と2代忠興・ガラシャ夫妻の墓「四つ御廟[ごびょう]」に、何者かが液体をかけたような跡が見つかった。熊本市は8日、県警に被害届を出す方針を明らかにした。 市文化財課によると、公園の管理を請け負う市シルバー人材センターの会員が2日に汚れを見つけ、水で落ちなかったため、6日に市に報告した。4基の五輪塔すべてで最下段の石(地輪)の周囲にかけられており、市は人為的に汚された可能性が高いとみている。かけられた液体は赤みがかった色をしており、成分は分かっていない。 いつ液体がかけられたかは不明だが、同課は「気付きやすい目立つ汚れなので、発見日(2日)に近いと思われる」としている。写真で汚れがないことを確認できているのは昨年2月7日。現場には入園料を払えば誰でも入ることができ、付近に防犯カメラはないという。
市は、県警へ被害届を出す予定で、同課は「文化財としての価値を損なうような行為で、お墓でもあるので残念だ」と話している。文化庁や県に相談しながら、文化財を傷つけない洗浄方法や見回りの強化など再発防止策を検討する。(園田琢磨)
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誠に悲しい話です。四つとも汚されたようですが、なにやら意図的なものを感じてしまいます。
なんとか現代の技術を駆使して、元の姿を取り戻してくれたらと切望します。 津々堂
吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2020:10:21日発行 第62号
本能寺からお玉が池へ ~その⑥~
長い中断があった大河ドラマ「麒麟がくる」も、この秋、ようやく中盤、明智光秀がいよいよ歴史の舞台にデビューします。
ちり際は 風もたのまず けしの花 (宝井其角)
「蕉門十哲(言うまでももないでしょうが、芭蕉さんこ高弟トップ10のことです。)筆頭と言われる宝井其角は、[3]で述べた芭蕉さんの臨終の際、死に水を取った九人の御弟子さんの一人です。其角は、一説には江戸・お玉ヶ池生まれとも言われています。ここで詠われた「けし」は、勿論アヘン芥子ではなく、雛罌粟(ひなげし)のことです。
実はこのシリーズ=「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れは、前回までで一区切りなのですが、いま少し後日譚にお付き合い下さい。「風もたのま」ない潔さのけしの花や「散りぬべき時知りて」いる桜花と違って、往生際が悪くて済みません。
[7] 和泉橋
前回お話したように、1858年(安政5年)、江戸・神田の幻の池・お玉ヶ池のあった処に種痘所が開かれました。
この時の江戸の蘭方医たちの「據金」は580両と伝わっています。ただそのうち幾許(いくばく)か(かなりの額かも・・・は、実は(頭取になった大槻俊斎の以前からのスポンサーだった)蘭方薬種商・神崎屋=斎藤源蔵が提供したそうです。
ところがお玉ヶ池種痘所は、開所して僅か半年にして火災で焼失してしまいます。再建にあたって、その間に失脚した川路聖謨の拝領地はもう使えません。下谷和泉橋通の(種痘所発起人の一人)伊藤玄朴宅の近くの旗本・山本嘉兵衛と安井甚左衛門の地所を借りることで用地はすぐに見つかりましたが、設立時に既に多額の資金を「據出」した蘭方医たちにはもう資金がありません。そんな時、救いの手が(発起人の一人=)三宅艮斎に伸びてきたのです。艮斎の盟友だったヤマサ醤油の濱口梧陵が、300両もの大金を提供してくれました。そればかりか、種痘所再建の後も更に400両を医療機器や図書の費用として寄付してくれたのです。翌年再建された種痘所が配った「植痘諭文(うえぼうそうさとしぶみ)」には、「・・・・奇特の人の費(ついえ)を助け力をあはせて又々下谷和泉橋通り藤堂家に再營て・・・」とありますが、この「奇特の人」こそ濱口梧陵だったのです。(神田お玉ヶ池から下谷和泉橋通に)場所を変えて再建された種痘所は、(江戸では唯一無二)のものだったので、再建後も「お玉ヶ池種痘所」と呼ばれ続けます。お玉ヶ池種痘所は、黒塗りの厚板を鉄板で囲い鋲釘を打って門扉にしたので「鉄門」とも呼ばれました。なお「お玉ヶ池」は当時既に「池」としては存在しませんでしたが、「和泉橋」は、今に至るまで(何度か焼けて架け替えられてはいますが、現在の「昭和通り」が神田川を渡る橋として)しっかり架かっています。
一年後種痘所は、同じ下谷和泉橋通の藤堂藩上屋敷跡地(現・千代田区神田和泉町。現在の「三井記念病院」の建つ所です。)に移り、幕府直轄となりす。この「下谷和泉橋通」の地名は、藤堂屋敷の主が代々「藤堂和泉守」であったことにに由来しています。そして更に一年後、種痘所は遂に「お玉ヶ池」の名と別れを告げます。「西洋医学所」と名を改めたのです。本シリーズは、どうやらここからは「本能寺から和泉橋へ」と読み替えて頂かねばならないようです。
翌年、西洋医学書頭取の大槻俊斎が胃癌で死去すると、幕府の招聘を受けた緒方洪庵(1810~1863)が二代目頭取に就くことになって(渋々)江戸にやって来ます。その次の年「西洋医学所」は「医学所」になりましたが、僅か4か月で緒方洪庵は喀血で急死したため、医学所は頭取を喪ってしまいます。洪庵が倒れたとの知らせを受けた(洪庵の適塾で塾頭を務めた)福澤諭吉(1835~1901)は、芝新銭座(の自宅)から下谷和泉橋通の医学所頭取屋敷迄駆けつけたそうです。
去年の大河ドラマ「いだてん}に「芝から日本橋まで走る馬鹿どこにいる」という台詞がありましたが、勿論そんなことは言っていられません。「福翁自伝」には、こう書かれています。「下谷に居た・・・急病とは何事であろうと、取るものも取敢えず即刻宅を駆出して、・・・新銭座から下谷まで駆詰で緒方の内に飛込んだ所が、もう綷切れて仕舞った跡。」
緒方洪庵の次の頭取には、松本良順(1832~1907)が就きました。良順は、順天堂学祖・佐藤泰然の次男で、長崎海軍伝習所でポンぺ(本名:ヨハネス・ポンぺ・ファン・メールデルフォールト)に師事した蘭方医です。洪庵の(適塾流の)語学中心の講義は、良順によって(ポンぺ流の)医学中心の講義に改められました。
1868年(慶應4年)正月、戊辰戦争が起ると医学所は(幕府軍の)傷病者治療所になり、新選組の近藤勇や沖田総司も受診したことがあります。近藤勇は、武蔵国多摩郡上石原村(現・調布市野水)出身で、西光寺(@調布市上石原1丁目)に坐像(2001年建立)のある調布所縁の人です。
その年の4月に新政府軍が江戸に入ると(近藤勇は、4月25日に板橋で処刑されました。)医学所頭取の松本良順は幕府軍軍医として会津に去り、学生の多くも離散したため、医学所は休校状態となり、遂にはその年6月に新政府に接収されました。そして7月になると、横浜の「(新政府)軍陣病院」が下谷和泉橋通の藤堂家上屋敷跡地(の医学所の隣地)に移転して来ます。軍陣病院は「大病院」と名を変え、その取締役(=院長)には薩摩藩医・前田伸輔が就きました。9月慶應から明治に改元され、10月、大病院取締役はオランダ(ユトレヒト大学)留学から帰国して朝廷初の蘭方医になった緒方惟準(これよし:洪庵の次男)に、更に翌年の正月には薩摩軍医・石上良策へと替わります。
1869年(明治2年)2月、医学所は大病院に九州合併されて「医学校兼病院」となり、その年の12月には「大学東校(とうこう)」と改名しました。これは、新政府が昌平学校を「大学校本校」、開成学校を「大学南校」に改名したのに合わせたものです。大学東校の校長には、順天堂第二代堂主・佐藤尚中(1827~1882)が招聘されました。佐藤尚中の次女・藤は、後に三宅秀(ひいず=艮斎嫡男)の妻になる人です。
1871年、休校中の大学侯本校が廃校となったことで、大学東校は単に「東校」となります。
1872年、学制が施行されて全国が8つの「大学区」に分けられたのに伴い、東校は「第一大学区医学校」となりますが、佐藤尚中の構想した5年制でドイツ語授業の「正則」と3年制で日本語授業の「変則」、という二部制が採用されなかったため尚中は辞職します。後任の校長は、順天堂&西洋医学所出身の長谷川泰(1842~1912)でしたが、僅か一月で(同じく順天堂出身で佐賀藩医だった)相良知安(1836~1906)に替りました。
1874年(明治7年)8月、第一大学区医学校は「東京医学校」に改名し、同年10月、校長が適塾&(長崎の)医学伝習所出身の長与専斎(1837~1902)に替ります。
[8] 本郷
東京医学校は、1876年(明治9年)11月、本郷の加賀藩上屋敷跡に移転しました。現在の東京大学本郷キャンパスです。その折種痘所の「鉄門」も移築され、医学校の正門になりました。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、灯台のシンボルだと思われている赤門(重要文化財)は、1827年(文政10年)建立の加賀藩上屋敷御守殿門をそのまま使ったものです。
さてこうなると「本能寺からお玉ヶ池へ」は再び読み替えて頂かねばならなくなりました。ここからは「本能寺から本郷へ」となります。
本郷に移った翌年の1877年(明治10年)、東京医学校は東京開成学校と統合されて「東京大学」になりました。東京医学校改め「東京大学医学部」の誕生です。前回予告しました何故「お玉ヶ池種痘所」が「東京大学事始め」なのか?の答がこれでした。
東大医学部の前身の東京医学校(さらにその前身の第一大学区医学校、大学東校、医学所、お玉が池種痘所)は、本郷の加賀藩上屋敷跡に移るまで下谷和泉橋通の藤堂藩上屋敷にありました。私事になりますが、私は藤堂藩の領国=伊賀上野の生まれなので、東大医学部とは藤堂藩を介してしょっとした繋がりがあることになります。もっとも、恥ずかしながら私自身その繋がりに(在学中に止らず卒業後幾十年もの間)毫も気付くことがありませんでした。
と言うことで、伊賀上野出身の芭蕉さんの秋の句を一句・・・ 三宅艮斎・秀父子の先祖(であり、我が家の先祖とも伝わる)・明知光秀の妻を詠んだ句です。
月さびよ 明智が妻の話せむ (芭蕉)
1689年(元禄2年)秋、芭蕉さんが「奥の細道」の旅の直後に弟子の又玄(ゆうげん:本名=島崎清集。伊勢神宮の神職)の家に泊まった時、当時落ちぶれて貧しい暮らしをしていた又玄夫妻の手厚いもてなしを受けたことに感激してこの句を詠んだそうですが、この「明智が妻の話」には解説が必要でしょう。福井県坂井市にある古刹・称念寺の公式サイトには、こう書かれています。
「(光秀は)称念寺門前に寺子屋を開きますが、生活は貧しく仕官の芽もなかなか出ませんでした。・・・朝倉の家臣と連歌の会を催すチャンスを称念寺の住職が設定します。・・・光秀には資金がない中、妻の熙子がその資金を黙って用意したのでした。・・・煕子が自慢の黒髪を売って、用立てたものでした。光秀はこの妻の愛に応えて、どんな困難があっても必ずや天下を取ると、誓ったのです。
この「明智が妻の話」はあくまでも伝承で、「煕子」という名を含めた史料には記載がありません。「明智が妻の話」には、婚約後に痘瘡(天然痘)に罹って痘痕が残ったために妻木家が嫁入りを躊躇ったところ、光秀はそれを歯牙にも掛けずに娶ったという話もあります。それを想うと、彼等の末裔・三宅艮斎がお玉ヶ池種痘所の発起人になったことには、とても不思議な因縁を感じます。
奥方が2代(台)目の電動アシスト自転車を購入しました。そこでお下がりで1代目を私がもらい受け、サドルを交換したりして使う事にしました。
これで図書館通いも天気さえよければ、いつでも出来る様になり、PCを持参して先祖附の原本を眺めながら、直接必要データを取り込もうと思っています。
誠にらくちんで、帰りに苦労していた坂道も汗をかくことなく帰宅できそうです。たまにはタイヤ交換などメンテナンスをすれば、あと三四年は折り紙付きです。
充電さえすれば、相当な距離まで出かけられそうで行動範囲が広がるのが有難いですね。
コロナもあって家に籠ってばかりいましたが、行動派爺になるかもしれません。いろいろレポートもしたいと思います。
以前の熊本史談会の会合の後?で、加藤忠廣夫人の崇法院(琴姫)が、京町口の古刹・往生院に生母振姫(徳川家康三女・秀忠養女、蒲生秀行室・正清院)の逆修碑を建立されていることに就き、その場所がよく判らないという話があった。
私も縁戚の墓地があるため何度か訪れているが、はっきりした場所はよく覚えていない。
広大な墓地が広がっており、一度訪ねてみたいと思っている。
振姫は夫・蒲生秀行が若くして死去すると、養父秀忠の命により二男一女を遺して、浅野長晟に再嫁し次男の「光晟」を為したが、産後十数日後に死去した(法号・正清院。しかし、浅野家に於いては振姫の血が連綿としてつながっているという。
但し、蒲生家の男子二人は夭折したため、蒲生家は改易となった。
一方、横手町の安国寺には、蒲生秀行のお墓(供養塔)が存在する。大変大きなものだが、これもすいすいと見付出すという具合にはいかない。秀行の戒名は「弘真寺殿覚山浄雲」というが、弘真寺とは安国寺が豊前から肥後入りする以前のこのお寺の名前である。これが何故なのかはよく理解できないでいる。
秀行の娘・崇法院(琴姫)が父の為に建立した。
安国寺からそう遠くない小沢町には西福寺があるが、正式には「東光山了雲院松平西福寺」という。
細川家の菩提寺として知られるが、このお寺は、崇法院(琴姫)が江戸の「松平西福寺」から釈誉上人をお招きして開山とされたという。
その本家「松平西福寺」は、現在は、東京都台東区蔵前4-16-16にある。徳川家康によって建立されたお寺である事から、「松平」を冠している。
その由来については松平西福寺由来に詳しい。共に徳川家ゆかりの浄土宗である。崇法院の母は家康の三女である。
つまりお爺様が創建した江戸・松平西福寺の末寺として、熊本の地に招聘開山されたことになる。
崇法院はこのような名誉の血筋の人だが、忠廣との子・光正(虎松)の不行跡により加藤家が没落に至ったのは誠に痛恨事である。
「寛永9年(1632)に夫・忠廣が改易された際には、出羽国への配流には同行せず、以後は京都にて暮らした。
寛永10年(1633)7月16日には子・光正が配流先の飛騨高山で病死した。享年19歳。
寛永11年(1634)には弟の蒲生忠知の死により、実家の伊予松山藩蒲生家までも改易となっている。
明暦2年(1656年)に死去した。享年55。京都の本圀寺に葬られた。」 一部ウイキペディアより引用
いろいろなぞっていたら、思わず紙上での掃苔となってしまった。「地図散歩・別篇‐お寺散歩」を始めようかしら・・・
細川公御家流刀拵寸法
「細川公御家流刀拵寸法」とする巻物と、真新しい収納箱である。
其箱書きには「玉名豊樹所持珍書を慶應二年肥後藩八木田小右衛門政徳が写せしもの也」とあり、平成二年と
いう年号と所有者の名前が記されている。
この事から八木田小右衛門政徳とは八木田家の分家「八木田小家」のその「小=小右衛門」であることが判る。
この人物は「新撰事蹟通考」の編著者・八木田桃水の孫にあたり、藩政時代最後の八木田家当主である。
細川家に刀を拵えるに当たっての標準的寸法等が存在していたことを伺わせている。
このブログを始めて7月が来ると、満19年になる。
一番うれしいのは読者の思いがけない反応である。励ましや貴重なご意見や知見、また貴重なデータの提供など有難いご連絡をいただく。
先にご紹介した「明智家系・喜多村系図」に係わるご紹介論考に対し、この度ご厚誼をいただいているツツミ様から、これを強力に補強
することができる資料をコメントとして頂戴した。
コメントまでは目を通されるされる方は少ないのではないかと思い、御承引をお願いし全文をここに再掲する。
これにより「明智家系・喜多村系図」の信憑性がより増したと私は理解している。皆様のご意見を給わりたい。
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西郷局の親戚?
津々堂様
『柳営婦女傳系』の、徳川秀忠生母西郷局(寶臺院)の父とされる
この話題(■弥兵衛・弥平兵衛・弥次兵衛)と関係ありそ
(
「蓑笠之助、始は服部平太夫と云て伊賀の者也、其頃伊賀の名張の
云ひ、
に茶湯して御入り故
り有しと。彼の名張の城下御通りこれ有
て、山路の間道を御通り遊ばされ、
之助と改號すべしと仰せ付けられ、常に近仕す。」
「彼の服部出羽守は明智滅亡に付沈淪し、江州北村に蟄し、北村と
(柳沢)美濃守吉保
が幼息にて嫡孫の由なれば、
る。」
付された系図を見ると、平太夫と出羽守は従兄弟の関係になってお
ちなみに、江戸町年寄の喜多村家についても、大田南畝の『一話一
由緒書きが有ります
文禄2年(1593年) 猪俣先祖代々系図 巻物 武家文書 和本 古書 古文書
巻紙の一部
私の母は T 家から嫁いできた。T 家の実父という人は若死にしたようだ。その3代くらい前の当主は、我が家から養子に入っている。
我が家の先祖はあまり出世とは縁がなかったみたいだが、T 家に養子に行ったこの人優秀だったのだろう、代々御番方の家ながら奉行副役迄なった。
伯父に言わせると、家禄(150石)からすると随分裕福だったと言っていたが、その人のことだろう。
家禄に加えて、副奉行としての「お足し高」があった。明珍の鎧があったとか自慢していたが、この話は随分盛ってある様に思える。
その T 家は、遠祖は「猪俣氏」だという。先祖附自体が火災で失われたらしく、あまり詳しいことが書かれていない。
ヤフーオークションに猪俣氏系図が出品されていた。少々気に成って応札するつもりでいたところ、入札時刻ころ読書に夢中になり、気が付けばすでに
どなたかが落札・・・しょぼんです。
今朝ほど地震があった。奥方は気づいていないらしい。
チョットした揺れだったが、そろそろ起きようかという時間で、うとうとしていたからはっきり地震だと感じた。
発生時刻 | 震源地 | マグニチュード | 最大震度 |
2023年2月6日 5時52分ごろ | 熊本県熊本地方 | 2.8 | 2 |
地震感度は良好である。トルコでは随分大きな地震が発生したみたいですが、お見舞い申し上げます。
「18歳と81歳の違い」に例えられるのが「18歳は暴走し、81歳は逆走する」というのがある。
言い得て妙だなと感心するが、私は「18歳は偏差値が気になり、81歳は血圧・血糖値が気になる」方である。
我が家は短命の家系だと言われている。そいう意味では81歳の私は歴代トップに成ってはいるが、もう少々生かせてほしいと念願している。
最近は大いに摂生しているが、糖尿病を克服するまでには至っていない。
寿命は運命だろうとは思うが、やはり寝込んだりして家族に迷惑をかけるのは一番避けたいところだから、糖尿病など由来の病気に患からないようにと大いに気にするようになった。
「自分探しをしている18歳、皆が自分を探している81歳」
「まだ何も知らない18歳、もう何も覚えていない81歳」
「ドキドキが止らない18歳、動悸が止らないのが81歳」
「恋に溺れるのが18歳、風呂で溺れるのが81歳」
「恋で胸詰まらせるのが18歳、餅でのどを詰まらせるのが81歳」
私当年満81歳で御座いますが、まだまだ当てはまるものは「血圧・血糖値」くらいでそのほかは無縁で御座います。
吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2020:7:19日発行 第61号
本能寺からお玉が池へ ~その⑤~
「本能寺の変」に続く「山崎の戦い」で敗れた明智光秀は、居城・坂本城へ落ちようとするも叶わず自刃し、首は知恩院(@京都市東山区林下町)に葬るよう言い遺したとも伝えられています。
その知恩院の開祖である法然(浄土宗開祖:1133~1212)のイメージソング(?が作られて今年で10年になります。)では、こう歌われます。
春くれば 花自ずから咲くように
秋くれば 葉は自ずから散るように
しあわせになるために 誰もが生まれてきたんだよ
悲しみの花の後からは 喜びの実が実るように
(さだまさし)
「深大寺道をゆく」旅では、芭蕉さんの桜の句をご覧頂きましたが、ガラシャが辞世に詠んだ「花」も、勿論「桜」です。
東京の桜は今はもう葉桜ですが、ここで桜の句をもう一つ・・・・ガラシャの「花」に通ずる趣を感じられるかも知れません。
さくらさくら さくさくら ちるさくら (種田山頭火)
このシリーズは、昨春、ガラシャ姉妹の話から始りました。明智ガラシャ(しつこいようですが、「細川ガラシャ」というのは明治時代からの呼び方で、本来はこちらです。)の本名は、明智玉です。
そしていよいよ今回、本命の(?)「お玉ヶ池」が登場します。このシリーズに大きな関りがある二人の女性が同じ「玉」というお名前なのには、不思議なめぐり合わせを感じずにはいられません。
この春お届けするのは、このシリーズのメインテーマである「お玉ヶ池」のお話です。「本能寺の変」から275年の時を経て、江戸城下の神田・お玉ヶ池(跡)で、明智光秀の孫(ガラシャの甥)・三宅藤兵衛の末裔と織田信長の孫・秀信の末裔とがめぐり逢うことになります。
[6] お玉ヶ池
一昨年の夏、「深大寺道をゆく」旅で石神井川を渡ったことがありました。その折石神井川の「小さな流れが、江戸時代には『大川』と呼ばれていた隅田川の大きな流れになって東京湾に流れ込んでいるとは、ちょっと想像がつきません・・・・」と申しましたが、(江戸時代よりもずっと)大昔、石神井川は(上流、中流は、今と変らぬ流れですが)王子辺りから下流は、現在の(東への)流れとは異なり、(南へ流れ下り、今の姿からは想像もつきませんが、)途中に不忍池を経てさらに南へ流れ、神田辺りまで来ると(こちらも現在の風景からは全く想像もつきませんが、何と)不忍池よりも大きかったという(後に「お玉ヶ池」と呼ばれることになる)池を抜け、その南、人形町辺りで江戸湾に注いでいました。その頃は「お玉ヶ池」という名はまだなくて、「桜ヶ池」と呼ばれていたそうです。
都営地下鉄新宿線岩元町駅の(南東側)近くに「繁栄お玉稲荷大明神」(@千代田区岩本町2丁目)という立派なお名前の(割と少々小振りな?)神社があります。ここに「お玉ヶ池」の由来を書いた説明版(棒?)が立っていますので、読んでみましょう。
「この辺りに昔、お玉が池という池がありました。江戸の初めには不忍池よりも大きかったといわれますが、
徐々に埋め立てられて姿を消したといいます。最初、桜が池と呼ばれましたが、ほとりにあった茶店のお玉
という女性が池に身を投げたとの故事からお玉が池と呼ばれるようになったといいます。」
石神井川の流れは、その後(現在の東への流れに)改修されて荒川に注ぐことになります。その上(?1600年に)お玉ヶ池の北側が開削されたことによって、お玉ヶ池の(「池」としての)姿は完全に消えました。
それでも江戸の日と武とには不忍池よりも大きかった「池」の印章が余程強かったとみえて、お玉ヶ池が(池で)無くなって200年は経つという頃でも、神田松枝町(現・千代田区岩本町2丁目)辺りには通称「お玉ヶ池」と呼ばれたそうです。
さて突然ですが、ここで季節を少々先取りして、芭蕉さんの夏の句を一つ・・・・。
瓜の皮 剝いたところや 蓮台野 (芭蕉)
信長の大好物(の一つ)に真桑瓜があります。大河ドラマ「麒麟がくる」では、信長の父・信秀が美味しそうに食べていましたね。
信長・光秀の時代は、「瓜」といえば真桑瓜(今の時代、「甜瓜」と書かれることが多いようです。)でした。江戸時代になると、その名の元になった美濃国本巣郡真桑村(現・岐阜県本巣市)を差し置いて、山城国西岡の桂(現・京都市西京区)、山城国相楽の狛野(現・木津川市山城町)、そして江戸の成子(現・新宿区西新宿、東京医大の北側エリア)が名産地になったそうです。
芭蕉さんも真桑瓜は大好きで、大坂で亡くなる三か月ほど前(1694年夏)に京で詠んだのがこの句です。
この句に詠まれた「蓮台野」は、京の都の古の墓地+火葬場で、現在の京都市北区紫野花ノ坊町から紫野西蓮台野辺り、にあたります。とは言え、信長も光秀も蓮台野に墓所は有りません。それどころか(?)、信長の遺骨は今尚行方知れずです。
一方、光秀の遺骨は、菩提寺・西教寺(@滋賀県大津市坂本)の明智一族の墓ではなく、京都・東山の「明智光秀首塚」(@京都市東山区梅宮町)に収められています。
蓮台野に葬られた方の中には疫病に斃れた方も多かったことでしょう。我が国で古来(=6世紀に中国、朝鮮から渡来して、)死に至る疫病として朝廷から庶民まで恐れられ、「日本書紀」の記載が世界最古の記録とも言われる感染症(餅老右、当時は原因不明でした。)があります。それは、ICD分類B03=痘瘡です。(因みに、同じウイルスを感染症でもいま大問題のCOVID19はU07です。)
人類史上初のワクチンとされる(牛痘)種痘がイギリス人医師E・ジェンナーによって発表されたのは、1798年のことでした。ジェンナーの牛痘が日本に伝わったのは、それから51年後、1849年のことです。[4]で登場した三宅艮斎の師・楢林栄建の兄・楢林宗建がパタヴィア(当時オランダ領。現ジャカルタ)から輸入したのでした。
それから更に8年後の1857年(安政4年)6月、江戸・下谷練塀小路の仙台藩医・大槻俊斎(1804~1862)の家に、佐賀藩医&幕府奥医師・伊藤玄朴(1800~1871)、薩摩藩医&幕府奥医師・戸塚静海(1799~1876)、津山藩医・箕作阮甫(1799~1863)、佐倉藩医・三宅艮斎(1817~1868)、福井藩医&幕府奥医師・坪井信良、常陸府中藩医・手塚良仙の長男・手塚良庵(1827~1877)ら12名の蘭方医が、江戸にも種痘所を解説すべく集まりました。
「江戸にも」と言うのは、1849年(嘉永2年)の京都を嚆矢とする種痘所が、既に全国数か所で活動していたからです。
江戸の種痘所が出遅れたのは、京都に種痘所が開かれ大阪で緒方洪庵(1810~1863)が「除痘館」を開いたまさにその年に、幕府が「蘭方禁止令」を出していたからでした。
大槻俊斎は、陸奥国赤井村(現・宮城県東松島市)出身の蘭方医で、手塚良庵の妹・海香の夫です。手塚良庵は、常陸府中藩医・手塚良仙の長男で緒方洪庵の適塾で学んだ蘭方医です。「鉄腕アトム」「火の鳥」etc.の手塚治虫(1982~1989)は良庵の曽孫にあたります。
翌1858年5月、神田松枝町の幕府勘定奉行・川路聖謨(1801~1868)下屋敷に種痘所が開かれます。川路は蘭学の理解者でしたし、何よりも種痘所開設を許可した老中・堀田正睦(1810~1864)は「蘭癖大名」で、種痘所発起人の三宅艮斎ら自分の藩医に採りたてた人だったのが、「蘭方禁止令」が出ていた江戸で種痘所を開くには幸しました。
神田松枝町は、その昔お玉ヶ池があった処なので「お玉ヶ池種痘所」と呼ばれました。お玉ヶ池種痘所の頭取には、大槻俊斎が就任します。ただ、神田お玉ヶ池は町医者ではありませんでしたから、当時「お玉ヶ池の先生」と言えば、「北辰一刀流」の千葉周作(1793~1856:種痘所開所時は既に故人)でした。
ところが時はまさに、「安政の大獄」の真っ最中・・・・(井伊直弼ら14代将軍に紀州の徳川慶福を推した南紀派に敵対する)一橋派(=14代将軍に一橋慶喜を推したグループ)の川路聖謨は、お玉ヶ池種痘所開所の前日に勘定奉行の職を解かれてしまいます。
お玉ヶ池の屋敷を種痘所用地に提供した川路聖謨は、幼児期に痘瘡を患い、痘痕(あばた)が目立つ顔写真が今に残る人です。また、お玉ヶ池生まれとも言われる宝井其角の師・松尾芭蕉も、其角の友人(単なる弟子説も)・大高源吾も、既往症に痘瘡があったそうですから、「お玉ヶ池」という処は、元々(?)痘瘡には縁がある土地だったのではないでしょうか?
(手塚良庵の曽孫=)手塚治虫の漫画「陽だまりの樹」には、このお玉ヶ池種痘所が出来た時のことが描かれています。そこには「種痘所設立資金據出者名簿」が大きく出ていて(全集版第6巻132ページ)、その名簿に「三宅艮斎、坪井信道、手塚良庵」の三名が、文字通り並んで載っています。(ただし、三宅艮斎の名前は「良斎」と、人数の83名は「82名」と誤記されています。)「陽だまりの樹」に描かれた「坪井道信」というのは、二代目信道(=坪井信友:1832~1867)のことです。よく考えると(考えるまでもなく?)このことは、何とも書くべきことなのではありませんか?!
明智光秀が、主君であり同志であった織田信長を斃した「本能寺の変」。それから275年後の江戸で、光秀の末裔である嶋原生まれの三宅艮斎と、信長の末裔である江戸っ子の二代目坪井道信(西美濃生まれの坪井信道の長男)、そしてその妹・牧の夫(で越中高岡生まれ)の坪井信良とが出逢っていたこと。出逢っただけではなく、力を合わせてお玉ヶ池種痘所の開設に尽力したということが、です。
「本能寺からお玉ヶ池へ」のお話は、ここまで来ると殆どゴールと言って良いでしょう。ただ、漫画「陽だまりの樹」では、「お玉ヶ池種痘所」が登場する第33章は「東京大学事始め」と題されています。
何故「東京大学事始め」なのか?その答は、次回お話しするといたしましょう。