津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■読書連鎖

2023-07-15 05:41:04 | 書籍・読書

 不順な天気が続く中、ここ一週間ばかりひたすら読書に親しんでいるが、いわゆる「読書連鎖」というやつにはまり込んでしまった。
専ら「幕末・維新史」の復習と言った感じである。それも現在私が所蔵する書籍に限られるから、なかなか疑問が解消しない。
新肥後学講座・明治の熊本」「熊本歴史叢書・細川藩の終焉と明治の熊本」からスタートし、何となく本棚に目をやって佐高信著の「西郷隆盛伝説」を取り出した。拾い読みで完読には至っていない。それから、石光真人編著の「ある明治人の記録‐会津人柴五郎の遺書」をよみ、会津の人たちに対する官軍の容赦ない非道な行いに息をのんだ。
森田健司著の「明治維新という幻想ー暴虐の限りを尽くした新政府の実像」から、松本健一著の「明治天皇と言う人」を読む。これも完読には至っていないが大変面白い。
西郷が最も目の敵にした一橋慶喜と会津・桑名両藩と考明天皇に触れた「孝明天皇と一会桑」、その他市川三郎の「明治維新の哲学」等々である。
今まであまり興味がなかった「維新史」に触れてこのような「読書連鎖」にはまり込んだが、梅雨が明けたら上記の著書の中に在る引用論考や掲載書籍など図書館に出向いて、連鎖を継続させようと思っている。
インターネットで調べると、維新史に関する書籍の何と多い事か。81爺様の新たなチャレンジである。

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■幽齋と竹原市蔵の出会いがなければ、宝暦の改革はなかったかも

2023-07-14 06:54:36 | 先祖附

 豊肥本線阿蘇‐宮地の間に、その線路と国道53号線を挟んで南北に細長い竹原という地域がある。ここが細川家家臣・竹原氏の父祖の地である。
その祖は阿蘇家家臣だが、丹後の細川家に仕官し、細川家の豊前→肥後移封によって父祖の地肥後へ帰ったという不思議な因縁がある。これは昨日書いた野田喜兵衛と共通する事例である。
細川幽齋が秀吉の命で文禄四年(1595)六月薩摩に下った折出会った、島津氏に仕えて書記などを勤めた聡明な若い家臣(9歳)をもらい受けて連れ帰った。田邊城籠城では幽齋の身近に近侍した。これが竹原氏の租・市蔵惟成である。

    市蔵・惟成(庄右衛門・玄可)
        * (藤孝君)文禄四年六月太閤の命に依て薩州御下向、薩摩・大隈・日向を検考なされ候、
                            (中略)
          御逗留の中、(島津)龍伯・義弘饗応美を尽され、茶湯和歌連歌の御会等度々有、一日
          連歌御興行の時、幼少成ものを執筆に被出候と、幽斎君御望なされ候間、龍伯其意に
          応し竹原市蔵とて九歳に成候童を被出候、此者才智有之、第一能書なるゆへ、御心に
          叶ひ頻に御所望にて被召連、御帰洛被成候
             市蔵は阿蘇家の庶流にて、宇治の姓也、竹原村に住する故竹原と云し也
             阿蘇六十五代惟種の代に、不足の事有、安芸・上総・紀伊と云三人のもの
             薩摩に来て、島津家に仕へ、大友と合戦のとき、紀伊は討死、安芸ハ高名
             有、九千石を領、其子孫ハ段々知行分り小身にて、一門広く何れも阿蘇何
             某と名乗候、上総も高名して、感状三通有、上総嫡子市蔵惟成と云、幽斎
             君丹後へ被召連、慶長元年正月御児小姓被召出、知行百石被下、後に庄
             左衛門と改候、三斎君百五十石の御加増被下、御伽に被仰付候
             能書なるを以、幽斎君御代筆被仰付、書札の事、故実をも御伝へ被成、吸
             松斎へ御相伝の御次并写本も仕り、一色一遊斎へも仕付方の弟子に被仰
             付候、三斎君よりも御口授等被遊、御両君御卒去後も猶稽古不相止、隠居
             名を墨斎玄可と云                    (綿考輯録・巻四)
        * 田辺城籠城 始終御側ニ罷在候故、働無之候                           (綿考輯録・巻五)

元々は阿蘇家の家臣だが市蔵が薩摩の島津氏の許に在ったというのは、肥後に於ける阿蘇家の対立の中で、心ならずも薩摩へ逃れた阿蘇一族に随伴し薩摩に住み着いた。
市蔵は、偶然にも幽齋により丹後に誘われ細川家の臣となり、忠興・忠利の働きにより父祖の地熊本へと凱旋した。
誠に数奇な運命をたどっているが、父祖の地の肥後入国時は感慨深いものがあったろう。

 時代が下り細川家が8代・重賢の時代に竹原勘十郎(玄路)なる人物があり重賢の側用人を勤めている。
財政面で岐路に立たされていた重賢は後に大いなる評価にいたる「宝暦の改革」に手を付ける。
その為に有為なる人材の発掘が当面の課題となった。宝暦の改革の立役者・堀平太左衛門を重賢に協力に推挙した竹原勘十郎は、この市蔵の六代の孫にあたる。
初代市蔵が薩摩での幽齋との邂逅がなければ、宝暦の改革における堀平太左衛門の活躍は見られなかったかもしれない。




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■野田家は忍者?何時から、どうして・・・

2023-07-13 07:24:17 | 先祖附

 熊本史談会の最長老K様は93歳、まだまだお元気で次回の例会にもご出席のご予定である。
そのK様のお祖母様の御実家は熊本藩士の野田家、その祖・野田喜兵衛は「忍者です」と仰る。(奥様の御実家と勘違いしていたが?こちらは雑賀氏だった)

「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」には、「忍之者」として七人の名前がはっきりしている。

              拾五石五人扶持     吉田助右衛門
              同           野田喜兵衛
              知行五十石       沢 吉右衛門
              拾石二人扶持      福川小右衛門
              同           松山小兵衛
              同           下川嘉兵衛
              同           上野又右衛門


細川家の資料は上記のように記しているから間違いないのだろうが、私は少々疑問を持っている。
というのは、野田家の遠祖は、天草家の家老職であったとされる。
何故か丹後の細川家を頼る様にとの遺言で細川家と接触したというから、誠に不思議な縁である。

綿考輯録には次のように記されている。ここに喜膳という名があるのが喜兵衛である。

         天正十七年十一月ニ十五日本渡没落之節、養父美濃ハ討死、喜膳儀は家之系図を持、
         丹後国ニ罷越、当御家を奉頼候様ニと遺言仕候ニ付、家之系図を首ニ懸、其年十二月
         迄之内、喜膳儀天草より丹後国江罷越申候、其折節三斎様御鷹野先ニ而御目通りをお
         めすおくせす罷通候処、若年之者只者ニはあらすと被遊御見受、仮名を御尋させ被遊候
         ニ付、天草侍野田喜膳と申者之由名乗候得は、御前近く被為召寄、御直ニ家筋等之様
         子被遊御尋候ニ付、則首ニ懸居申候系図を奉入高覧候得は
         三斎様御詠歌
            天草の藤の名所ハきかさるに野田と名のるハ武士としらるゝ
         右喜膳、後喜兵衛と云、忠利様御逝去之節、殉死なり      (綿考輯録・巻ニ十六)

細川家の「忍びの衆」は、森田誠一氏の「伊賀・甲賀資料」調査から細川家には18家の忍者が存在していたとされる。
朝倉・浦・牛島・岡村・栗原・沢・沢村・坂井田・下川・花田・藤村・福川・松田・村田・森川・山内・吉村・笠ETCである。すでにこの資料では野田氏の名前はない。

例えば(寛永七年三月)廿日の奉行所日帳には
一、対馬殿(宗義成)下関へ御着之由候間、高麗人参壱斤御用候間、才覚仕、上々をかいよせ可申旨、被 仰出ニ付、御買物奉行

  野田喜兵衛参候而、かい候へと申渡候、銀渡人ニ御鉄炮衆一人付遣候、
とあり、お買い物奉行を勤めている。
「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」は、三斎隠居後から肥後入国の間のものだが、沼田勘解由(延元)が寛永元年に死去していることから、寛永元年以前のものだろうと推察されている。
つまりその間は「忍びの者」、寛永七年に至ると「御買物奉行」、出世をされたと言えばそれまでだが、野田家がいわゆる忍者の伊賀・甲賀の家系だとは思えないし、なんとも理解に苦しんでいる。
「お前、忍者をせい・・」といわれて「はい畏まりました」とすぐにできるものでもなかろうし・・・
K様にそのことをどうお考えかお伺いしてみたいと思っている・・

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■ブログ第1号の投稿から

2023-07-12 06:00:18 | 徒然

 このブログを始めてから今月24日で丸19年になる。(実はその前からUPしているがPCのトラブルで消えてしまっている)
その最初の記事が今私が頭を悩ましていること -1-である。

その(1)が「細川忠興の六男とされる寄之(松井)の生年が「綿考輯録」では元和四年、「松井家先祖由来附」では元和二年」であるという喰い違いについてだった。
綿考輯録の記述が優先されていて、刑部家の興孝を6男、松井寄之を7男とする史料が多いが、最近では「松井家先祖由来附」の記事から寄之を6男、興孝を7男として扱われている。

その(2)が宇土支藩の祖・細川立孝と刑部家の興孝の生母・清田幾知のことについてである。ご親族の方からのご報告でその戒名や幼名などをお教えいただいた。
当時は勉強不足で承知していなかったことが判るが、有難いご報告だった。ただし、幼名については「**む」とあり*については判読不明だという事であったが、これについては未だ判明せずにいる。 



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■ツツミ様のご教示

2023-07-11 06:49:11 | 歴史
 菊池寛の小説に「忠直公行状記」がある。その史料になったであろう「片聾記」という史料が存在する。
それを知ったのは約19年前、唐木順三の「千利休」を読んでいたら「福井県立図書館から藩の裏面史「片つんぼ記」なる本が出版されそれを購入したとあったことに始まる。
何だこれはと思い、福井県立図書館に電話をしたら、「片聾記」でありそのようなよみかたではなく「へんろうき」と読みますとお教えいただいた。そのことをブログに書いたら、いろいろコメントをいただいた。
4年ほど経過した2008年7月、HN「ツツミ」様からコメントをいただいているが、氏とのお付き合いはこれが始まりだったようだ。
それ以来度々コメントを頂戴し、いろいろご教示をいただいている。

先に「■可惜人生を棒にふる」越後騒動について少し触れた。この事件に連座した小栗美作の弟で遠島となった小栗兵庫の年端もいかぬ幼い子供たち四人が細川家に預けられ、二人は夭折、残りの二人は四十年にも及ぶ拘禁生活をすごした。
越後高田藩主・光長の後継者争いのよるものだが、遡ること55年ほど前、その光長の父で家康の次男結城秀康の嫡男・徳川忠直の狂気に満ちた事件によりその忠直は豊後国へ配流となった。
これが菊池寛の小説になった。
夫人勝姫の父・秀忠により隠居を言い渡され豊後国(大分市萩原大分市津守)に流されたが、それまでの狂気に満ちた行いは、付き物が落ちたようにように穏やかに過ごしたという。
ここで生まれた男子二人は、忠直の嫡男・光長の許に帰国して仕えたが、こちらでは越後騒動が起きた。
大分で生まれた忠直の二人の男子の下の子・永見太蔵が小栗美作の非を訴えたのが、後の越後騒動の始まりであり、これも罪を得て配流となった。

 そんな、忠直の大分に於ける状況についてツツミ様から数度にわたりコメント頂いているが、コメント欄にうずもれたままでは申し訳なく思い、御承引をいただきここにご紹介する。

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■Unknown (ツツミ)
2019-07-12 21:46:16

こういう本が出ていたんですね。今度図書館で読んでみようと思います。
中日新聞で連載されていたもののようですが、私が、越前藩士と忠直の娘達の萩原随行の事を知ったのも、一昨年の中日新聞のウェブ記事でした。けっこう興奮を覚えた記憶が有ります。

忠直卿の狂気を示す例に、正室の勝姫を殺害しようとした、という話が挙げられる事があります。越前の編纂史料には、勝姫だけでなく娘の殺害も企てたとしているものまで有りますが、もし本当にそのような状態であったのなら、二人の姫を随行させるような事は無かったでしょう。

文禄四年(1595年)に、長崎に居たルイス・フロイスが、忠直乱行譚と全く同じ内容の話が載る報告を、イエズス会に送っています(『関白殿薨去の報知』)。
文禄四年というのは、松平忠直が生まれた年であり、ここに載せられているのは、同年、豊臣秀吉により自害させられた「殺生関白」豊臣秀次に関する噂です。秀次自害から間も無く、長崎にまで届いていたこうした乱行の噂は、秀次追い落としの正当化の為に、秀吉の周辺が、広めたものだったのではないでしょうか。
この乱行譚はすっかり定着し、『聚楽物語』、『真書太閤記』、『絵本太閤記』と、秀次の悪行として語られますが、一心太助や、松平長七郎の登場する『大久保武蔵鐙』あたりで、松平忠直の行った事にされてしまいます。『大久保武蔵鐙』の忠直乱行譚は、『本邦続々史記』にそのままコピペされ、その内容は豊後にも伝わっており、天保年間に編纂された豊後の地誌『雉城雑志』に、歴史的事実のごとく引用されています。このようにして、日本国中にステレオタイプの暴君忠直像が広まって行ったものと思われます。
誕生した年に、自分の暴君像が作られていたというのは、なんとも皮肉な話です。
■お蘭様 (ツツミ)
2019-07-28 21:43:37

先日ご紹介した忠直関連史料は、『大日本史料』の「十二編の六十」でしたが、その後、既に「十二編の六十一」も刊行されていたらしく、東大史料編纂所の刊行物紹介を見ると、先に未載録とお伝えした、「萩原御姫様」や随従家臣団についての、中川家史料も採録されているようです。熊本の図書館でも、ご覧になれると思います。
これまでバラバラに掲載されてきた忠直の書状なども、ほとんど網羅されているのではないかと思います。府内の医師小野昌庵に宛てた書状は、越前の三陽和尚宛の物同様、忠直の人間味を感じさせるものです。

既に『大分縣史料』に載録されている、津守の熊野神社に納められていた忠直の願文も、採り上げられているのではないかと思いますが、これらの願文には、萩原で元和九年十一月二十一日に死去し、浄土寺の比翼塚の一方に葬られたはずの、「お蘭女」の署名が見られます。
『忠直に迫る』の試し読み画面を見ると、「お蘭様」は切支丹で、元和九年十一月に死去した、という説を唱えているようです。実際浄土寺でもこの没年を採っていますが、私は、これには、疑問を持っています。
「お蘭女」の署名が最後に登場するのは、寛永九年正月の寄進状です。翌年正月の寄進状からは、その名を見る事は、出来ません。この間に亡くなったものと思われますが、あるいは、「寛永九年」の没年が、「元和九年」と、誤って伝えられたものかも知れません。そして、この寛永九年に誕生し、翌年の寄進状から署名に名を連ねるのが、忠直の三男熊千代(永見長良)です。
いつか津々堂さんが紹介されていた『津守一伯公伝記』では、津守で生まれた忠直の子は、三人とも「おふり殿」の所生となっています。しかし、系譜上忠直の直系である津山藩の家譜では、次男松千代(永見長頼)と熊千代の母は、家臣平賀治郎右衛門の女であり、三女お勘の母は「小糸」となっており、平賀氏は、熊千代を生んだ日に死去したとされます。
例年願文に名を連ねる女中は、「小むく女」、「お蘭女」、「おむく女」、「おいと女」でしたが、寛永十年からは、「お蘭女」の名だけが記されなくなります。忠直の子を生む女中であれば、願文に名を連ねる立場だったはずであり、この四人の中に熊千代の母親が居たはずです。そして、熊千代が生まれた年に死去した(と推定される)のは、「お蘭様」だけである事から、私は、この平賀氏が「お蘭様」であり、松千代、熊千代の母だったから、比翼塚に葬られるという特別な扱いを受けたのではないかと考えているのですが・・・。
■Unknown (ツツミ)
2023-07-05 21:16:52

先週の記事「可惜人生を棒にふる」で触れられていた「越後騒動」は、松平忠直が配流先の豊後津守でもうけた、次男松千代(永見長頼)、三男熊千代(永見長良)、三女お勘が、直接、間接に関係している(騒動当時長頼とお勘は既に他界し、その子等が騒動の火種)ものですが、熊千代誕生の翌年(寛永十年)、津守の熊野神社に奉納された熊千代名義の寄進状願文に託した、「万〃ねん/\、松竹靏亀、千世にや千よ、いくひさしく、ちやくし越後守殿(長男越後高田藩主松平光長)へたいめん申、ぢなん松千代我等(熊千代)同前ニ、きやうだいもろともに、ちとせの春いわい可申候、はじめての御いわい之しるしまでにしんし候物也、」という、兄弟の繁栄を願う忠直の想いが、虚しく感じられます。
ところで、コロナ前に記したコメントに、これら熊野神社に納められた寄進状の署名から、松千代、熊千代の母は、浄土寺忠直廟所の比翼塚に葬られたとされる「お蘭様」だったのではないか、という推論を立てましたが、あながち突飛な考えではなかったかも知れません。水戸彰考館で享保年間に編纂された、徳川一門を網羅する系譜『源流綜貫』に、長頼、長良、お勘の三人について、以下のように説明されているのを見つけました。

「長頼 母某氏(《割注》“名蘭”号紅源院)寛永七年庚午正月二十日生于豊後小名熊千代為光長家臣称永見市正寛文七年丁未八月十六日卒年三十八葬高田善行寺㳒名蓮長日頼号立源院」
「長良 母同長頼寛永九年壬申七月二十三日生于豊後小名松千代為光長家臣称永見大蔵天和元年壬酉六月二十二日有故流八丈島」
「女子 名閑母某氏寛永十一年甲戌生適光長家臣小栗美作正矩生大六某寛文五年乙巳五月十七日卒年三十二㳒名清誉春㳒号高源院」

長頼と長良の幼名が取り違えられてはいますが、二人の母親は「蘭」である事が明記されています。忠直の系統が、津山藩主として復活した後、永見長頼の子孫は、津山藩家老として存続していますので、長頼の母に関する正しい情報が伝えられていた可能性は高いと思われます。彰考館にしても、根拠も無しに、いきなり「蘭」という名を持ち出すはずもなく、津山藩から得た情報に依り、このように記載したのでしょう。
今では、大分市民でも、忠直卿の愛妾「お蘭様」という人が居たと知る人は、ほとんど居ないのではないかと思いますが、私が子供だった大昔には、「おらんさま」という大分銘菓(どういう菓子だったのかは知りません)が有りましたので、その名だけは聞き覚えがあるという人は、けっこう多いはずです。大分の史料館や浄土寺でも、「お蘭様」の実像について再検証して、その存在に再び光を当てて欲しいものです。
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■明和六年七月十日、坪井報恩寺にて

2023-07-10 06:36:55 | 先祖附

 「手討達之扣」という史料が上妻文庫にのこされている。
その中に「久武権之助仝金吾手討宜敷御賞詞」という一文がある。

   明和六年七月
     上田夘助組
                 久武兵助嫡子
                  久武権之助
                 右同人二男
                  久武金吾
     右両人儀一昨晩報恩寺於寺内寺本無右衛門
     支配之御長柄組新右衛門と申者色々過言慮
     外之躰難■通兄弟ニ而討果申候段相達申候
     依之兄弟共ニ先相慎兵助儀心を付候様申聞
     置昨日右之趣御奉行所江罷出相達申候処兵助
     并ニ子供慎居候ニ不及候段御奉行所ゟ申来候事
       七月十二日

     上田夘助組久武兵助忰共間於報恩寺御長柄
     之者討果候仕形年齢ニ者精悍敷儀共有之候
     畢竟平日教育宜敷故と被存候以後共ニ
     心を附教育可仕旨兵助可申聞旨御家老間於
     列座助右衛門殿被申聞候間私宅ニおゐて兵助
     江右之趣申渡候事

 大変寛容な処分と言うより御賞詞を頂戴する異例さに驚かされる。
この事件の詳細についてはかって「潜渓先生書簡」に記録されている一文を御紹介したのでご覧いただきたい。

久武家は我が家、及び母の実家にも連なる親戚筋である。久武権之助は綺石という俳名をもつ俳人としても知られる。

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■古文書を巡っての調停事件

2023-07-09 09:10:40 | 徒然

 引越し荷物は大方所を得て納まってしまったが、その所が本来の場所ではなく、本や資料を探すのに大いに難儀している。
時間をかけて並べ替えをしなければならない。
そんな中で、ファイルの整理などをしていると思いがけないものが出てきて驚かされる。
その一つが「訴訟資料」である。尤正式裁判ではなく「動産引渡請求調停事件」という調停である。
平成27年7月私が訴えられたのだが、弁護士(お二人)が第二回目で早々に取下げ結審となったというものである。
訴人のお宅にあった史料を私が借りたまま返さないからというものだが、その史料の存在を示すものとして弁護士から提出された資料は、実は私が作成したものであった。
もっともこの訴えは別人の圧力があって訴人は仕方なく調停を訴えられたものと思われる。

訴人の御主人が亡くなられた後、膨大な資料を整理してリスト化したものである。
「あ、これは私が作成したものです」と説明したら、弁護士は「えっ」と言う顔をされたが・・・
その証拠は私のブログの中に残されていた。

私のリスト作成以後、行政の方が入られてこの資料も含め調査が行われたらしい。その段階で当該資料が一時期持ち出されたのだろうと思われる。
早々に結審となったが、その史料の存在もあきらかになったのだろう。

 貴重な史料を借りたまま返却されないという話は沢山聞く。それも著名な方々のお名前が聞こえてくる。
時が流れてご当人が亡くなられたりしていると、貸し借りの話はうやむやになり、下手をすると史料が失われてしまうことになる。
私の経験の様に「調停」とはいえ裁判沙汰になるという例はそう多くはないのだろう。
誠に苦々しい思い出が顔を出したものである。

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■「切支丹宗門之儀・・」三点

2023-07-08 06:27:57 | オークション

 ヤフーオークションに珍しく同時に細川藩史料として「覚ー切支丹宗門之儀・・」三点が出品されている。
内容については三点若干の相違があるが、殆ど同じと言っても良い。この時代になると形式的なものといってもよいか?

          覚
    切支丹宗門之儀従前之無懈怠今以相改申候
    先年従
    公儀被 仰出候御法度書之趣奉得其意候
    弥以私家内組者不及申末々男女至迄堅相改
    申候処不審儀者無御座候 尤毎年觸状判形
    取置申候 若相替儀御座候ハゝ急度可
    申上候 為具如斯御座候以上
             
       享和二壬戌年七月 山東平兵衛(花押)      山東平兵衛家6代(忠三郎・次左衛門)          
         長岡左馬助殿                    米田家9代・是陸(家老)

 



    (若干内容は異なるが本文省略)

       文政八年乙酉三月  陳 半太左衛門(花押)   陳半十郎家7代(安次・佐左衛門)初代は天草四郎の首を取った陳佐左衛門
         長岡監物殿                 米田家10代・是容(家老)

 

    (若干内容は異なるが本文省略)

       弘化二年未十二月  岩崎物部(花押)      岩崎物部家4代か
         長岡監物殿                     米田家10代・是容(家老)

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■熊本史談会7月例会について

2023-07-07 05:27:21 | 熊本史談会

 熊本史談会の活動につきましては、日ごろからご理解を給わり御礼申し上げます。
7月例会は講師を招聘しての後援会は予定して居りません。会員の自由討議で親睦と意見交換をいたす所存です。
一二、会員以外の方のお問い合わせが有り、その旨を縷々ご説明申し上げて居りますが、ビジターの方のご出席は何時もの様に受け付けて居りますから、どうぞご出席くださいますようお願い申し上げます。
熊本史談会の今後の方向性などを模索していきます上で、ご意見など戴ければ幸いに思います。
今回から、会場が変更になり、熊本市中央区大江5丁目1-1の市電交通局前のウエルパルくまもと1Fの「愛ポート」となります。
                                                                   
10時よりの受付となりますが、それより以前の当会の例会にご出席も可能ですのでご希望の方は9時以降ご入場下さいませ。今回は会費無料です。

尚、8月は通常通りに講師をお招きしての講演会となりますが、自由にご参加いただけます。
詳しくは熊本日々新聞の文化欄、また当方ブログでご案内を申し上げますので、宜しくお願い申し上げます。

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■於安国寺「四つ戦難供養」の開催

2023-07-06 10:12:38 | 熊本

 最近は幕末から明治にかけてのいわゆる維新期の資料を盛んに読んでいる。
そんな中、例年熊本市横手の安国寺で行われる、「四つ戦難供養」の法会に何時も出席される方から電話をいただき、例年に変わらず今年も今日七月六日に行われることをお聞きした。
今年は例年に比べ出席者が少ないようにお聞きした。コロナの時期を挟みそうなったのだろう。
ご出席できない皆様には是非ともご自宅で手を合わせていただきたいものだ。

     ■有馬陣戦死各霊之墳(島原の乱)        
     ■上総沖溺死者供養塔(ハーマン号沈没)
     ■小倉陣戦死者供養塔(第二次征長戦争)
     ■東国戦死之碑   (戊辰戦争)

こうして並べてみると、維新期に亡くなられた方々が多いことに気付くが、数の上からすると何と言っても島原の乱であろう。
随分古い記録だが今年の1月オークションに出品された書状を御紹介したことがある。天草島原の乱の平定から僅か半年ほどの時期である。
それ以来連綿と供養が行われてきたことに、細川家の想いをうかがい知る思いがする。
例年雨の中に行われることが多いように記憶するが、今日は梅雨の中休みでそれも暑くなりそうだ。
関係者の皆様、ご出席の皆様にはお気をつけてお過ごしいただきたい。そろそろ供養が始まる時間である。

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■「西郷隆盛と上田久兵衛の邂逅はなかったのか」という疑問

2023-07-06 06:52:31 | 人物

 熊本史談会では二回にわたり、在熊の西南の役研究の第一人者・勇知之先生のお話を伺ってきた。
大変興味深いお話で、その後直接お電話でお話ししたりして、現在は古文書の解読なども含め西郷周辺の事につき虜になっている。

 私はそんな西郷と、高祖父上田久兵衛が西南戦争のある一時期、川尻の町の至近の場所でそれぞれの立場でその成果を得ようと努力する中で、二人が相まみえることはなかったのだろうかと言う、素朴な疑問を持っている。
 西郷が川尻に入ったのは明治十年の二月廿一日の夕刻だとされる。
戦火を恐れた川尻の町民は、前の川尻町奉行・上田久兵衛に町の安寧の為に尽力を要請した。
久兵衛は前知事(細川護久)の「大義名分を弁へ専ら鎮静を主とせよ」との論旨を得て、士族約1,500人の協力を得て「鎮撫隊」を結成し、川尻のみならず近隣の村々の治安維持に尽力した。
川尻町史は「明治十年西南の役薩軍肥後に入るや池邊吉十郎と議し、二月二十六日川尻町に赴き、川尻岡町米村金八の家(現川尻小学校内)を以て事務所に充て、従前川尻町奉行の名により、仮に民政を布き以て薩軍の為に便宜を計り、傍、人民保護の任に當り斡旋最も努む」と記す。
「幕末京都の政局と朝廷ー肥後京都留守居役の書状・日記から見たー」の編著者・宮地正人東大名誉教授によると、久兵衛と西郷の邂逅については明確に否定されておられる。
久兵衛は元和元年(1864)七月の京都留守居役拝命から(8月1日京都着)~慶應元年(1865)十二月九日の解任までの約16ヶ月という短い期間ながら、京都における公武合体に向けて「一会桑」と中川宮を主とする公家衆との周旋に奔走して驚嘆に値する働きを見せ、これに対峙する立場であった西郷らからすると、久兵衛の解任は喝采ものであったようだ。
親徳川から親朝廷へと舵を切りつつある藩の上層部からすると、このような久兵衛の働きぶりはかえって危険に思えてきたのであろう。
解任に当たって西郷は「近来細川の議論も相変、上田休兵衛・林新九郎の両人は国元え被打下、井口呈助と申者交代として被差出、此人は余程着実の人にて御座候由、上田第一会津の手先にて御座候処、国中におひて議論相起、右の次第に及候由御座候、細川正義に立替候はば、頓と頼方無之ものと相成可申義に御座候」と記し、幕府側の頼みになる存在がなくなったとしている。その結果は歴史が示すとおりである。
上田久兵衛の京都留守居役解任からちょうど二年が過ぎた十二月九日「王政復古クーデター」が行われた。

熊本人は徳富蘆花の「肥後の維新は、明治三年に来ました」とする著「竹崎順子」の冒頭の部分をすぐ採り上げるが、大いなる難産であったことは間違いない。

 川尻に於ける久兵衛の鎮撫の活動は、一時期官軍の称える所であったが、五月に入ると獄に繋がれ九月三十日に至ると家族にも伝えられることなく斬首となった。
「其方儀朝憲ヲ憚カラズ、名ヲ鎮撫ニ仮リ、兵器ヲ弄シ衆ヲ聚メ其長トナリ、西郷隆盛・池部吉十郎ノ逆位ヲ佐ケ、榊原庄一外四名ヲ擅ニ斬殺セシムル科ニ依リ、除族ノ上斬罪申付ル」との申し渡しであった。

久兵衛の無念は「西郷の逆意を佐け」の一言に尽きると思う。また、細川家の一官吏としての拘束が強く、長州や薩摩の下級武士のような自由な活躍の場も封じ込まれてその実力が結果を得なかった事であろう。
西郷もまた、明治の「維新」といわれる種々の業績を成し得たにもかかわらず、ともに戦った人々に裏切られて下野し、一介の薩摩人として思いもかけぬ騒乱の首謀者となって非命の人となった。
西郷の死は九月廿四日である。その日を待ち受けたかのように、六日後上田久兵衛は西郷に一味したとして斃れた。

彼の無念は、一度は「裏切りとも思える藩是の変更」による辞職、二度目は「西郷の逆意を佐け」たとする裁判判決の主意による死である。

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■瀬名・信康の血

2023-07-05 08:03:25 | 歴史

 細川家には結構徳川家系との婚姻がある。忠利夫人は秀忠養女・千代姫、綱利夫人は松平頼重養女久姫と紹介されるが、その実は水戸家の初代・頼宜女(水戸光圀妹)である。
また宗孝夫人は紀伊徳川家・宗直(吉宗息)女・友姫、斎護には一橋中納言治済(将軍家斉実父)女・紀姫といった具合である。
 忠利夫人は小笠原秀政娘とよく紹介されるが、家康の嫡男・信康の娘・登久姫が秀政に嫁いだことによる。家康の孫娘聟なのだが秀忠の養女としているから、秀忠の娘婿とされている。
非業の最期を遂げた瀬名・信康の血を引いている。つまり信長の娘・五徳の血も受け継いでいる。
息・光尚は「徳川の爪の端」などといわれてかわいがられている。この血は綱利・宜紀・宗孝・重賢・治年へと続いて途切れた。
 宗孝・斎護夫人それぞれ子を為して居られず、徳川の血は留まっていない。

 

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■江戸藩邸のゆるみ

2023-07-04 07:27:36 | 歴史

 貞享二年八月十九日、江戸にて不行跡が咎められて多くの人たちが処分を受けている。
時の当主は綱利44歳である。この年の六月藩主綱利は熊本に帰国している。そんな中、江戸定府のいわゆる綱利側近の人たちが大量に処分されている。
江戸詰めの大御目付当たりの報告であろうが、在熊の重役たちは定府の綱利側近の振る舞いを苦々しく感じてきた。
綱利はその翌年の参勤で「貞享三年閏三月六日熊本御発駕 四月六日江戸御着」している。
主のいない江戸藩邸で、当然のことであろうが綱利の決済の元に処分を断行している。

 ■以下は江戸にて不行跡知行召上扶持方下さる
    ・前川与三兵衛 名門・三淵家の一門である。延宝元年七月廿三日筑後北之関において、従兄弟である前川勘右衛門と藤田助之進
            同縫殿之進が意趣あって戦った際、三淵家当主山名十左衛門と共に助力して藤田父子を討取る働きをしている。
            そんな与三兵衛が扶持召し上げとなって、息助武に至り絶家している。

    ・谷与三右衛門 谷与三右衛門は三百石、この処分により拾人扶持被下置、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気被成御免候
           (惣左衛門ト改)

    ・田中次太夫  田中次(治)太夫は二百石、 六人扶持被下置、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気被成御免候

 ■以下は江戸にて不行跡暇                 
    ・坂井十兵衛  坂井十兵衛は二百石、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気御免被召帰、六人扶持被下之
    ・続五左衛門  続五左衛門は二百石、御暇被遣候、断絶か
    ・門司源兵衛  門司源兵衛は百五十石、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気御免被召帰四人扶持被下之、のち御扶持被下
            置衆・御奉行所触 四人扶持、息・善右衛門が跡を継ぎ明治に至った。

 ■常々行跡叶わず知行召上当前扶持方
    ・里杢之助   里家は「殉死の家」この杢之助は養子(甥、実・岩崎武兵衛二男・兵四郎 )で二百石、その養子・政之助が
            妙解院五十回忌にあたり(十三歳)二百石を拝領、これは家祖・杢之助が光尚に殉死した筋目によるものと考
            えられる。

 ■常々不行跡暇                
    ・続三四郎   三百五十石、御暇被遣候、断絶か

それぞれの人たちの「不行跡」の内容が知れないが、名のある人たちが先祖から継承してきた家禄を失った。
自業自得とは言えこれだけまとまっての処分であるから、江戸藩邸の「ゆるみ」が見て取れる。
史料は良きことも悪しきことも紙面に残す。関係者には申し訳ないとも思うが、このような事の原因は何かと考えるのが人情というものである。

 

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■水が出ないというアクシデント

2023-07-03 07:26:03 | 徒然

 日が変わる頃から猛烈な雷鳴と雨が続きましたが、空が明るくなる時期ようやく雷鳴もやみ雨も小康状態になりました。
処が断水と言う思いがけないアクシデントに襲われました。停電はしていないにもかかわらず、揚水ポンプのブレーカーが落ちているのでしょうが、このマンションでは一番の新参者ですからよく事態が呑み込めません。
周辺を見回すとどうやら町全体が停電しているようです。わがマンションは発電機が動いているのかもしれません。

先住の人たちが三々五々集まっておられますが、お任せするしかありません。
考えて見れば、アクシデント時の連絡方法などを聞いていないことに気付きました。
平常の不動産屋さんへの連絡可能な時間まであと二時間ほど待たなければならないのでしょうか。
同フロアの方がコンビニに水を買いに行くと云われお声掛けしていただき、お願いすることにしました。有難い事です。

 涸川の健軍川はまだ安全な状態ですが、小さな河川ですから先のような雨が降ると一番低いやや下流部ではあと1mほどの余裕しかなく越水する恐れもあります。
線状降水帯がかかっていて、今後も多量の降雨の警報がでましたが、市内全域の状態がよく判らないでいます。
穏やかな六月の雨とは打って変わった状態です。

 又、雨が降り出しました・・・・

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■細川慶順の嫁問題「細川・久我・一條家の関り」

2023-07-03 06:42:29 | 歴史

 白杉少一家(南東50-10)の5代目・専九郎については 細川斎護公御書出(弘化四年)に、「四百五十石 京都留守居定詰」とある。
当時の京都留守居は、後年のように政局に多分に関わるというようなことはなく、買物方や細川家の縁戚に当たる公家衆(久我家・一條家)との窓口的意味合いが深かったように思われる。
この白杉専九郎はその後、「御前様付」と言う役に付いている。
これは専九郎が、細川慶順(韶邦)の結婚に関わったことによるものだと考えられる。
慶順の正室は一条忠香の養女(三条実萬女=実美妹)の峯姫である。
そんな三条家女を一条家の養女となして慶順の正室に迎えようという動きが起きた。そもそもどういう発想からそういう事になったのはうかがい知れないが、江戸表からそのような指示が白杉専九郎にもたらされた。
細川家縁戚である公卿衆とは、日ごろの出入りもあり専九郎は先ず「久我大納言」に取り入っている。
当時の久我家当主は久我建通、細川重賢夫人・由婦姫が久我通名女であり、建通はその四代の孫にあたる。そしてその実父は一条忠良・生母は細川齊茲女・冨子である。
そして峯姫の養父一条忠香は忠良の異腹の子であり、久我建通は異腹兄になる。
非常に複雑な関係だが細川家とは濃い血でつながっていることが判る。そんなことは百も承知であったろう専九郎が久我建通を説き伏せ又一条家にも別して説得を試みて、三条實万女・峯姫を一条家の養女と為して慶順の正室として迎えることに成功するのである。
京都留守居という役職がこのような、大変重要な案件を一任せられていることに驚かされるが、その期待に応える実力を備えていた。
一条家の三人の姫君は、長女・美子姫が明治天皇妃、二女・三賀子姫が徳川将軍慶喜の正室、三女・峯姫が細川慶順の室であり、そういう女系のつながりから幕末・明治の政変を眺めると又興味深いものがある。
少々、白杉家から脱線してしまったが・・・・・

そして細川・久我・一条家の関係略系図を書こうと思ったが、複雑すぎて難儀している。      

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