津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「肩こり」という漱石の新造語ーその後

2023-07-23 06:02:59 | 徒然

 一昨日「■「肩こり」という漱石の新造語」を書いたら、いろいろとご教示をいただき驚いている。
先ずは熊本史談会の事務局長・K氏から、一番乗りで「肩こり」についての紹介された放送番組の資料を添付してお教えいただいた。

 その後別の方から同様のご教示をコメント欄に書き込みをいただいた。そしてその初出は夏目漱石の作品「門」であるとの事である。
幸い青空文庫に掲載されていたから、眺めてみたがえらい長編である。スクロールしながら斜め読みしたけれど発見できなかった。
こんな中から発見されたとは、驚き入ってしまった。


 午後に至るとメールで、吉竹博著の「おつかれさん」の研究にその旨が紹介されていたとのご連絡をいただいた。
本を処分しているようで、掲載ページは不明だとの事であった。

                

 そうこうしている内、昨日の夕刻にはまた別のメールが入った。
「津々堂さんもお持ちの(半藤一利氏著)「続・漱石先生ぞな、もし」のp164~165に詳しく紹介されています」とあった。
えっ、しょっちゅう読んでいるのにと思い、慌てて本棚から取り出して見てみると仰せの通り、詳しく紹介されている。
作家の井上ひさし氏が週刊文春に連載していた「二ホン語日記」(第14回)に「明治維新このかた大正七年前後まで漢語による新造語がどしどしつくられていたが、なんてったってその大親分は疑いもなく森鴎外である。(中略)ひるがえって、贔屓の漱石先生となると、新造語では振るわない。」とあり、半藤一利氏も「これぞ漱石の新造語といえるものを探し出さなくては義理が悪いと思った」とある。漱石の孫娘(末利子氏)聟である半藤氏の意気込みである。
ただ、半藤氏が直接見つけ出したのではなく、叉引きで吉竹博氏の著作を読んで偶然見つけだされたらしい。
まさしく、漱石先生の作「門」であった。ただし「肩こり」とはなく「頸と肩の継目の少し背中へ寄った局部が、石のように凝っていた」とある。一方漱石夫人の「漱石の想い出」には、漱石が「年じゅう肩がこるの頭がいたいのと言って・・・」とこちらは、漱石先生に殉じて「肩がこる」と書かれている。
半藤氏もこれで井上ひさし氏に「義理を果たした」と記しておられる。
改めて青空文庫の同作品を見てみると、第11項に間違いなく確認することが出来た。
主人公の奥方の、これはひどい「肩こり」の話で、寝込んだというとんでもない症状であった。

 私がブログに書いた下らぬ一言に、すぐさま反応してこのようなご教示をいただき驚くとともに只々感謝である。
改めて深くお礼申し上げる。この文章をタイピングするのに当方の「肩こり」もさらに増したように感じられる。

 

 

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■明治天皇御真影

2023-07-22 08:02:34 | 書籍・読書

 現在松本健一著の「明治天皇と言う人」を読んでいるが、明治という時代を理解するのには恰好の著作である。

                  

本の表紙には顎髭が白くなった軍服姿の天皇の横顔の写真が使われているが、私が知る明治天皇のお顔とはいささか違うように思える。ふと他人ではないかとさえ思った。
しかし、別の処で見たことがあるとおもい本棚をきょろきょろしているうちに、森田誠吾氏著「明治人ものがたり」が目についた。
この本は三本建ての内容で、「睦仁天皇の恋」、森銑三を取り上げた「学歴のない学歴」、森鴎外の娘と幸田露伴の娘を取り上げた「マリとあや」である。
それぞれ大変興味深く読んだし、「本の終活」の埒外に在る。
この「睦仁天皇の恋」のなかに、上記写真とよく似た写真が掲載されていた。よく似たと記したのはその写真には「睦仁」と明治天皇のサインが施されている。
上の写真の様に前を見るという感じではなく、ややうつむき加減で猫背状態である。
しかし、同じ時期同じ場所で撮影されたものだという事は間違いない。
森田氏の文章を読むと、「昭和も戦後のことである。美術史家の丹尾安典は、ある日の古書市で、色あせた一枚の肖像写真に目をひかれた。」とある。
台紙には「国民新聞社謹製」とあり、明治天皇崩御の前年の大演習の際のスナップだという。
安尾はいささかお疲れ気味の御真影に「天皇も人間である」ことを強く感じ「お肩でもお揉みしましょうかという気に成った」と紹介している。
最期の記事に出て来る「マリとあや」のマリ(森鴎外娘・茉莉)は祖母に手を引かれてこの観兵式(大演習とはしてない)を見に行き、なるべく近くにと思い歩き回った後に、親切な兵隊さんが一番前列に導いてくれた上「そこに居られるのが陛下です」と教えてくれたそうだが、一間位離れたところに「猫背の軍人がいた。それが明治天皇だった」としている。

神格化された「天皇」もこうした観察をとおしてまさに「人間」であることを知るのだが、これはまさに明治新政権の大きな罪であると思う。
ついでながら、森田誠吾氏のこの著は是非お読みいただきたいと、推薦申上げる。

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■「肩こり」という漱石の新造語

2023-07-21 06:17:35 | 徒然

 引越しを済ませて40日ほどになるが、椅子から立ち上がると腰に痛みがあって体が伸びきらずに少々前かがみになる。
「本格的爺さんに見えるよ」と奥方が指摘する。前かがみで荷造り・荷解きをした後遺症とでもいえる。
部屋の中をうろうろしているうちにちゃんとなるのだが・・・
一方後遺症とは言えないかもしれないが、今一つ、左上腕部の痛みの再発と肩の凝りである。
上腕部の痛みはコロナワクチンの接種後からだが、そのせいなのか外科的な事なのか、何が原因やらとんと判らない。
時折腕に痺れが起っているので少々うろたえている。
肩こりの方は数か月前に、少しでも症状が回復すればと思い磁気ネックレスを購入した。
いまでもPCの前に4~5時間は座っているから、これも治りそうにはない。
81爺様がネックレスをするというのは全く様にならないが、藁にもすがりたいという気持ちがあった。
夏になりTシャツですごしていると、外出の際には恥ずかしいから外さなければならない。
奥方に譲ろうと思ったら、ムズムズするからいらないと断られた。結構高かったからなんとか使って減価償却をしなければならない。

 ところで以前悪友が「肩が凝るという言葉は、夏目漱石が作った言葉だ」と蘊蓄をたれたことがある。
「本当かい」と聞くと、「疑うのか」という。「図書館で借りた本にあった」「本の題は忘れた」という。
そんなことを思い出しながら、肩をもんでみたり叩いてみたりして過ごしているが、まだ悪友が言うその「本」には出くわしていない。
ご存知の方が居られたら、ご教示給わりたい。

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■村上景則離国

2023-07-20 08:20:24 | 歴史

 細川忠興の死後の八代の情勢に対する光尚の神経質的な行動は、過去にも何度か触れてきたが、丹羽亀丞の「松江城秘録」等で知られるように徹底している。
特に最側近・長岡河内(村上景則)の、三斎遺言の実効を計らんとする行動に対する嫌悪感である。
結果として、三斎と光尚の父・忠利の間で交わされた八代支藩創立は反古となった。家老松井興長を八代城主として入城させ、細川行孝は宇土の地に宇土支藩の創立で決着せしめた。
幕閣と周到な打ち合わせが為された結果であり、当の松井興長にも事前に知らせなかったと綿考輯録は記録している。
光尚は、村上景則には扶持を与えて隠居を進めたが、これを拒否して離国している。その返事ともされるのが以下の「御請」とする書簡である。
村上水軍の末裔である景則は、父・隆重と二代にわたり忠興に仕え、戦場で功名を上げ10,000石を知行せられてらだひたすら忠興→三斎の代に仕えた。

                      御請
          一妙解院御代ニ私参上申間敷と申上候儀、 公儀
           御奉行衆も御存候ニ、今更熊本江被 召出候儀も
           不被為成被 思召候、又私参上仕儀も不成儀ニ御
           座候由 御諚御尤ニ奉存候事
          一妙解院様御代ニ私参上不仕わけ色々御座候得共、
           事永ク御座候間、有増申上候、 三齋様私ニ御懇ニ御
           座候故、小倉ゟ中津江御隠居之刻、せめての御奉公ニ
           御隠居之御供仕、御一世者御奉公仕度奉存候、御
           手せばニ被為成候間、縦御そうり取御一人之御仕合ニ御
           座候共、其御さうり取を仕可申覚悟ニ御座候由申上、御
           供不仕申候間、 妙解院様江不参不仕候事
          一御合力可被 仰付候条、御國之内何方ニも罷居、宮松殿
           御見舞申候様ニと 御諚之通忝奉存候、如何様共
           御諚次第ニ可仕儀ニ御座候得共、御奉公も不仕候ニ御恩を
           いたゝき申候儀、如何ニ奉存候間、御暇被下候者忝可奉
           存候、此等之旨宜被仰上可被下候、以上

                  七月廿日 長岡河内守 花押・印

              長岡(沼田)勘解由殿
              丹羽亀丞殿

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■ヤフオクでお勉強

2023-07-20 07:01:19 | オークション

    【真作 思文閣便箋読み有】掛軸「藤村庸軒 自筆仮名消息」江戸前期 茶匠 宗旦四天王 庸軒流茶道 書

 「なんでも鑑定団」で時折お顔を拝見する田中大氏が社長を務められている古美術商・思文閣さん出品のヤフーオークション、さすがと言うべきか読み下し文が添えられていました。
私は仮名文は大いに苦手ですが、やはり勉強はしなければなりませんから、このような貴重な資料を拝見できるのは誠に有難い事です。
感謝。


 

         

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■赤子の旅

2023-07-19 08:28:12 | 歴史

        一猪八郎様來ル廿二日五時の御供揃ニて、此元御發途之筈ニ候、
         此段觸之面々えも知せ置可申旨御用番被申聞候條被奉承知、
         觸支配方有之面々は可被相知せ置候、以上      
            文化六年巳七月十九日    御奉行中

猪八郎君とは齊茲の五男、文化六年三月十八日に誕生された。僅か四ヶ月ほどしか経過していない中で江戸へ下られたが、赤児の旅は無理というものだろう。
案の定というべきか翌七年十二月廿九日二歳で江戸で死去している。

生母は松岡氏女・為のち春、二男三女を為したがすべて二歳以下で夭折している。熊本生まれ2人、江戸生まれ3人、つまり齊茲公はこの側室を伴って参勤されていることが判る。
この間、他の側室が子を為されることはないところをみると、お気に入りの側室であったのだろう。

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■内分とか分知とか・・・

2023-07-19 06:41:56 | 歴史

 ある資料を読んでいたら、「分知或内分奉願候儀・・・」とある。「内分分知」と言う言葉があるが、この資料によるとどうやら、内分と分知は違うもののように思われる。
例えば細川家においては、宇土細川藩と細川新田藩がありこれは内分分知だとされる。本家の表高54万石は変わらない。
そこから考えると「分知」とは、表高を分けるという事だろう。

 細川家家臣のお宅をみると、弟や二三男に自らの禄を分け与えて新家を創家している例は多く見受けられる。
これがいわゆる分知ということだろう。分知したことにより本家の禄高は当然減少する。
そして上記資料を見ると、分知する主が弟に300石分知すると当主は1,700石になり、2,000石の役職には就けないという指摘である。
「大身之面々茂おのつから小身ニ罷成其上重キ御役儀被仰付候儀茂差支候・・」とする。
役高相当の家禄がなければ、「良い役職には就けませんよ」と言う話である。そういう決まりが存在した時代がある。「それでもよければ500石を限度にどうぞ」と規定した。これは当然高禄のお宅でしか通用しない話である。
しかしそれ以前、500石と言う限度がない時代は、親族のH家(200石)は弟に80石を分知し、自らは120石取りとなり両家は明治を迎えている。
役儀にはこだわらかったのだろう。

 しかし宝暦の改革が行われると、優秀な人材の登用が行われ始め、先の決まりは反古となり禄高に関わらず重要な役儀に着くようになってくる。
200石位の人が、500石・700石の役職につくようになる。そうすると、役高と家禄の差については「足高(たしだか)」と共に「役料」が支給されるという現実的な手法が取り入れられた。
優秀な人材が新たな時代を作っていくとともに、家禄の大きなお宅の当主が「重き御役儀」にありつけないという状況を生んだ。

 一つ引っかかっているのは、■藩債処分という大盤振舞いで触れた件である。
細川本家は表高54万石だが、宇土支藩3万石、新田藩3.5万石を分知しているから実高70万石からすると63.5万石が対象になるのではないかとも思えるが、これはどうやら表高が対象であり本家がすべてを受領したものではないのか。
そして内分分知高相当分が、本家から渡されたと理解しているのだが如何であろうか。
御承知の方のご教示をいただきたい。

 

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■暑中お見舞い申し上げます

2023-07-18 08:12:11 | 徒然

               暑中お見舞い申し上げます

 また、各地で甚大な水害に見舞われた皆様にお見舞いを申し上げます。
特に山形の被害については、幼い頃の熊本大水害を思い出し心が痛みます。
後片付けに追われる皆さん、ボランティアの皆さん、熱中症にかからぬようお気を付けください。

 熊本は数日良い天気が続き、そろそろ梅雨明けかと思われましたが、明日あたりから一週間ほど雨模様のようです。
先に書いた熊本大水害は昭和28年の6月26日でしたが、その翌々年の7月末、我が家は又床上浸水の被害に遭いました。
あまり強い雨が降るようなことはないと思いますが、油断大敵です。
今朝もお天道様が顔を出して熊本は35度の予報が出ており暑くなりそうです。

 梅雨が明けると、随兵寒合が訪れる九月半ばまで一月半ほどは極暑が続く熊本ですが、外出を控え冷房を入れて夏籠りをしなければならないようです。皆様御身ご自愛の上お過ごしくださいませ。

                              津々堂 拝

 

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■藩債処分という大盤振舞い

2023-07-18 06:35:21 | 歴史

   読書連鎖がまだ続いている。

 明治二年六月の版籍奉還(大名が治めていた土地(版)と人民(籍)を朝廷に変えさせるという政策)にあたり、領主権を奪われる旧藩主については、その藩の禄高の10%が与えられた。
それも表高(54万石)ではなく小物成などを含む実高が基準になったというから、細川家に於いては70万石とか75万石とかの1割を受け取けとられたか?(詳細な史料が見当たらない)
あるデータによると幕末期の米の値段は、「(江戸の米) 1 石(150 ㎏) 慶應二年秋では銀 585 匁、約 99.450 円」とあるから、約70億円をもらえることになる。
一方では、各藩には膨大な借金が有り、これが頭の痛い問題であった。近い時期においても明治元年新政府は陸軍の編成の目的で諸藩に万石当り300両の納付を指令しているから、熊本藩に於いては1,620両を拠出したことになる。
はたしてこの金額はどこから賄ったのだろうか。

「読書連鎖」の中で読んだ、大石慎三郎著「江戸時代」に、私が長年解決しえなかった「藩債処分」についてほんの少し触れられていた。

 明治四年七月の廃藩置県(江戸幕府以来の藩を廃止し地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革)にあたり、新政府はそれまでの幕藩体制にとどめを刺すため、旧藩の不安や不満を抑えるために各藩の債務を一部廃棄、その他は明治政府が肩代わり返済するという驚くべき手に出ている。
その総額は3,600万両だと大石氏は指摘される。その内の約1/3は破棄、その他については新政府が返済するというのである。
破棄された1/3の債務は天保14年以前のもので12,000両だとされる。驚くべき債務が一気に免除された。
そして、発足時の新政府の収入は120万両だとされる。どうやって返済していったのか、大いなる疑問を今後勉強していこうと思っている。

 これらの説明の記述の最期に大石氏は、旧藩主にとって「現石の10%の家禄を保証されたうえ、旧債一切を明治政府が引き受けてくれたということは、領主権の喪失にひきかえても、なお維新変革は領主たちにとって笑顔でむかえいれるべき慶事であったということになる。領主階級は維新変革による被害者ではなく利得者なのである。」と記しておられる。
薩長土肥による維新の大業に乗り遅れたとされる熊本藩は、賞典禄こそ得ることは出来なかったが、細川護久は3000両の賞典金をもらっている。

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■於・くまもと文学歴史館 20日迄

2023-07-17 10:49:32 | 展覧会
 私の様に歴史に親しんでいる者にとっては、上妻博之氏は膨大な書写資料を残された偉大な人物としてとらえがちである。
「上妻文庫」と命名され、その史料は公開されて、我々は熊本近世史の勉強にその恩恵を多大に受けている。
一方では植物学者であられ、牧野富太郎博士との交流もあって、今般の企画となった。
明治13年生まれの祖母は、何故か牧野富太郎博士のフアンであった。「無学の人が日本一の植物の先生になられた。何でも一生懸命にやればこうなれる見本のような人」と言うのが祖母の弁であった。
NHKの朝のドラマも大変評判のようだ。植物学に向かう人が増えるかもしれない。
私としては、古文書に親しむ人が増えて、「上妻文庫」が読み解かれていくことを期待したい。
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■細川ガラシャ(明智 玉)忌 ー つづき

2023-07-17 08:43:59 | 歴史

                

 熊本県立美術館で開催された「細川ガラシャ」展の図録は、ガラシャの生涯を知るのには一等の資料である。
ガラシャが書き遺した書状は17点が確認されている。

 ガラシャの書状の特徴は、宛名の下に「た・多」と書かれているが、これはガラシャの名前・たまからきている。

例えば三宅藤兵衛に宛てた書状には「そつ(帥=幼名)まいる より
                              」と書かれている。
書状の多くは松本小侍従という女性に宛てたものだが、これは忠興の命により松本因幡に嫁いだ人物だが、名前は判明していない。「まつもとないき(松本内儀)」という宛名も見え、小侍従が結婚後も親密な書状のやり取りがあったことを伺わせている。
これ等の書簡は「松本文書」として、国立国会図書館が収蔵している。

 その他宛名に、「そうしゅんさま」「ひこのしん□」「ゑもしさま」等があるが、「ゑもしさま」は忠興のことである。これらすべてのあて名の下に「」と記されている。
ただ一点「ただおき殿」宛の書状があり、これだけは「からしや より」と記されている。
玉がキリシタンである事を細川家史料が秘匿しようとする中、大いに注目すべき貴重な書状である。
ただし、内容は誠に穏やかな家族の平安を知らせるものである。

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■細川ガラシャ(明智 玉)忌

2023-07-17 07:30:49 | 史料

 423年前の今日、細川ガラシャがその生涯を閉じた。無念の生害ではあるが、信仰のもと御主の元へ旅立たれた。

昨晩は久しぶりに、2008年(平成20年)に宮津市で行われた「歴史文化シンポジウム」の記録集「細川ガラシャと宮津城下町」と、2018年に熊本県立美術館で行われた「細川ガラシャ」展の図録を開いてみた。
前者には、記念講演にガラシャの研究で有名な京都橋大学学長(当時)の田畑泰子氏が出て居られ、講演について文字おこしをして紹介されている。
この中で田畑氏は二つの明らかな間違いを仰っている。後の質問で「異議」が出なかったのも不思議である。

■ 1、天正11年玉子は次男興秋を生んでいます。この年に秀吉に再婚を許されるわけです。(中略)許された年に次男興秋を生んでいま
   すので、離婚していたとはいえ、夫とは会っていたということになります。
でないと子供は生まれませんので。

 つまり玉が味戸野幽閉中に忠興が会いにやって来たとお考えらしい。これはあり得ない話で、玉は興秋を身ごもったあと味戸野に幽閉されたと考えるのが順当だろう。
別途「細川ガラシャ略年表」が掲載されているが、ここにも間違いが有り興秋の生年は天正12年になっている。

■ 2、玉子との間に忠隆・興秋・忠利それから女子三人が書いてありますが(系図)、これだけ子供をもうけているのに、少し問題な
   のですが、郡氏(お藤=古保生母)と清田氏(?)という側室がいたことがわかります。
   このことは玉子に
とつては納得できないという問題もあるわけです。

 ここで明らかな間違いは、清田氏は立孝・興孝の生母であり女子は生んでいない。氏は「万姫」を玉が産んだと勘違いされている。(文中にその名前が登場する)万姫の生母は明智次左衛門女であり、(この側室は明智一族であり、玉の公認ではなかったのかと私は考えるが)明らかな間違いである。
氏が納得できない問題と指摘するのは、玉が遺言した「お藤(後の古保=松井興長室・松の丸)を継室にしないように」という強い意思表示のことであろう。郡氏は天正十年にお藤を生んでおり、いささか玉のジェラシーが感じられる。

まさか、ガラシャ夫人の生涯の前日にこのような史料を開いたのは、苦々しい事であった。

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■天草島原の乱後に於ける忠利の配慮

2023-07-16 15:51:49 | オークション

 【真筆】【渡鹿庵】[細川忠利] 10528 掛軸 消息 古文書 書状 合箱 紙本 熊本 肥後 三斎の三男 熊本初代藩主 在銘

   

 「上意」とあるが宛名がないのが残念である。御軸にする時に切り落とされたのか。
どうやらその人物は天草島原の乱で手疵を受けているようだ。

忠利は、この人物が治療を受けて快方に向かっていることを喜んでいる。しかしながらもしもの時の跡式について、仮養子に願い出ている「弟」については、願い出にも及ばない(そのようにする)、としている。
包み紙があり宛名が記されていたのだろうが失われたのか、中身のみが残されお軸となった。

この様な形式の史料に私は初めて出くわした。大変貴重な史料だと思われる。
問題はこの人物だ。わざわざ忠利が誰かを派遣して、この上意を伝達した事からすると大身の身分の人だろう。
弟を跡式に頼んだ人とは・・・?、急には思い出せない。
天草島原の乱に関する史料を引っ張り出して、それらしい人を探しだしてみたい。さて見つけ出すことが出来ますやら。

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■Core Web Vitalsって何・・・

2023-07-16 06:13:42 | 徒然

 当サイトに対しGoogleから次のようなインフォメーションがあったが、放っておくとどうなるというのだ?
81爺様にはとんと理解が出来ずにいる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お客様のウエブサイトで検出された Core Web Vitals の INP の問題 
Google はサイトの応答性を測定する新しい指標 Interaction to Next Paint(INP)に移行します。INP は、2024 年 3 月に FID に代わって Core Web Vitals となります。
Search Console で、お客様のサイトに以下の INP の問題があることが検出されました:

  • INP の問題: 200 ミリ秒 超(モバイル)
検索結果でのランキングを上げ、全般的に優れたユーザー エクスペリエンスを提供できるよう、サイト所有者の皆様には、Core Web Vitals を改善することを強くおすすめします。Core Web Vitals は、その他のページ エクスペリエンス要素とともに、Google のコア ランキング システムがランキングを決定する際に考慮する要素です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
ランキングに影響するからCore Web Vitals を改善せよということだが、その方法がよく判らない。
一応誰かに相談して対応しようと思っているが、ランキングなんてどうでもよくって、御覧いただける方だけに向けて頑張ろうと思っている。
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■gegegegege gwo gwo ggwo・・・

2023-07-15 06:05:51 | 徒然

   gegegegege gegege gegegegege gegege gegegegegege gegege gegegege gegegegegegege gegege
   gwo gwo ggwo     gwogwo    gwo gwo  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんな按配で健軍川に巣くった蛙が空が明るくなる5時ころまで、ひっきりなしに鳴く。
これが枕元で鳴いているように聞こえるのだ。どうやら上の階のベランダで反響しているように思える。
線状降水帯による凄い雨が降った時、いつもは水無川のこの川が2.5mほど水位をあげて濁流怒涛となった。
蛙も抗しきれず流されたのではないかと思ったら・・・どっこい健在である。
「合唱していやがるナ」と思いながらきいていると、どうやらそうではなく二匹のようだ。
甲高い gegegegege という鳴き声と、低音の gwo gwo がそれぞれを意識しながら鳴いているように思える。
最近はこの蛙のお陰で、5時過ぎ起床が身についてしまった。お陰で慢性的寝不足が続いており、お昼はオットマンに足を投げ出してうとうとする時間が多くなった。
いまも gegegegege のかえるが、gegege gege と短いフレーズで時折鳴いている。夜通しご苦労さんという感じ。
私はと言えば、眠い目をこすりながら熊本史談会の7月例会に出かけます。 

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