津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■自祝・サイト満20歳の誕生日

2023-08-22 06:25:59 | 自分史

              明け易や 一つ区切りの爽気かな  津々

 ちょうど20年前の2003年の8月22日が私のこのサイトの誕生日である。
特段の感慨もないが満20歳を迎えた。考えて見れば良く続いたものである。
くだらない小文をブログに書き連ねてきたが、今読み返してみるといい加減な話も多々あって、削除してしまおうと思ったりするが、このくだらなさも又私であるからこのままにしておこうと思っている。

 最近では本来の近世史に加えて、近代史に足を踏み込んで読書や関係する論考など中心に勉強を始めた。
実学党・学校党の流れが、近代の熊本に於いて結成されていく政党、特に紫瞑会との関係など大変興味を持っている。
           紫溟会の政治思想 : 明治10年代の保守主義政党 - CORE
           明治時代における国家主義教育の 一源流 - 京都大学

 「“知るは楽しみなり”知識をたくさん持つ事は人生を楽しくしてくれる」とは、元NHKアナウンサーで熊本県立劇場の館長を務められた鈴木健二氏のある番組冒頭の言葉だが、死ぬまで勉強でボケないようにまずは満25年をめざして、先ずは人生を楽しみながら(苦闘しながら)当サイトも頑張って行こうと思っている。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■池邉吉十郎・上田久兵衛宛西郷隆盛書簡etc

2023-08-21 05:50:46 | オークション

【模写】【伝来】ek8136〈西郷隆盛〉書簡巻物 池辺吉十郎・久田休兵衛宛て 極箱 3枚貼交 薩摩藩士 明治維新の指導者 明治時代 武士 士族

    

 こういう西郷隆盛の書簡(写し)がヤフオクに出品されていることを、19日の史談会例会でN君が教えてくれた。
池邊吉十郎と連名の方は「久田久兵衛と書いてあるけど読み間違いでしょうね」との事だったが、まさしく高祖父・上田久兵衛に間違いない。
巻物仕立てで右に、(1)「十二月十二日付け、池辺吉十郎・上田久兵衛宛」、左手に(2)「二月四日付け、池辺吉十郎宛」及び、後者が入っていたものと思われる「池邉吉十郎殿親展・松橋陣所ゟ西郷吉之助」とある封筒の三点が収められている。
以前
■「西郷隆盛と上田久兵衛の邂逅はなかったのか」という疑問を書いたところだが、思いがけない書簡の登場となった。

   (1)の書簡

       
           拝啓以使者得其意候 兼テ

           御協議之一条本月末ニ當地出
           發之處二決定致候間此旨趣迅
           速及御照會候 就テ貴地神
           風隊之義勿論御覚悟可
           有之事ニ思慮致居候 最
           隊中江者貴君方ヨリ必至急
           御沙汰被下度相願候 且一昨
           日諸方探索之為メ伊集院
           堀田村田等差出置候間貴地
           着之上宜敷相願候 將又御縣
           内ニ着致候得猶亦使者差出可
           申候 途中宿所(水俣)(佐敷)
           (日奈久)(小川)(松橋)彼ノ松橋
           時之所本陳ニ致度存念依テ其他
           御賢慮ニテ百般之都合宜敷余
           者譲拝眉右要用迄 草々頓首

             十二月十二日 西郷吉之助

               池邉吉十郎殿
               上田休兵衛殿

 神風隊(神風連)に触れられている処を見ると、明治九年の十二月の書簡だろうか。
内容が本物だとすると、西南の役勃発が翌年(明治十年)の1月29日のことだから、そのことを予感させるような文章であるが、浅学の身では何とも納得のいかない書簡の内容である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   (2)の書簡         
                                                     

    
           以使者迅速及御照會ニ候
           偖城中谷干城如何
           被計略ニ候哉 城中

           火致し迦之市中共焼失
           有之■ニ城中厳重
           之謀計有之毫由断
           無之哉と思慮致候 貴君
           方如何御賢慮ニ候哉
           ■■之都合折返し御
           報知頼入候 且田原坂木
           戸米坂口方々伊集院
           堀ノ内知識列出陳且又山
           鹿高瀬口自然官軍
           襲来候哉も難計依テ
           彼方々篠原村田副田等
           繰出可申様決定致候間此
           旨趣等も速ニ御通知ニ及候猶
           萬事一時も至急御報
           相頼候右要用迄 早々
                   頓首

             二月四(日) 西郷吉之助

             池邉吉十郎殿

 かって、■池邉吉十郎宛西郷隆盛書簡ー2を御紹介したが、これは三月九日付けであった。
この書簡の内容からすると、日付の二月四日は三月四日の間違いであろう。よくよく眺めても二月と記されている。
二月四日であれば西郷軍はまだ薩摩を出発していないし、当然熊本城も焼失はしていない。

 (1)(2)共、何とも理解し難く勇先生にお送りしようと思っている。
以前
■池邉吉十郎宛西郷隆盛書簡ー1でご紹介した何時のものか判らない池邉宛の西郷の書簡も存在する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■幽齋公の御命日

2023-08-20 08:18:20 | 歴史

 今日は、幽齋公(藤孝)のご命日である。没年は慶長十五年(1610)八月廿日である。
細川家記は「京都天授庵及び小倉に葬る。肥後入国の後分骨を立田山に移し、寛永十四年七月十一日寺を建立して泰勝寺と号す」と記す。
13年前、その泰勝寺跡で細川家主催の「幽齋公400年祭」が催されるに当たり、細川家から「300年祭」が催された際の出席者名簿が送られてきた。
幽齋公に関係ある「勝龍寺以来」「田辺城籠城衆」のご子孫の方々だが、その後3世代程あとのご子孫を調べ出すには大いに苦労奔走した事を思い出す。

11月7日、25家のご子孫が集合されて、「幽齋公400年祭」は滞りなく開催された。
前日、ご準備で忙しくされている中、佳代子夫人にお目にかかり、ご報告を申し上げた。
のちに集合写真を拝見して、その当時の苦労がいっぺんに吹き飛んだことを思い出す。今年で幽齋公没後413年になる。

        集合写真2

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■江戸時代の貨幣表示「分」

2023-08-20 06:15:37 | 歴史

 「分」という貨幣表示がある。金であれば「分」は「ぶ」とよみ4分をもって一両とする。
「銀目」に於いても「分」があるが、これは銀1匁の1/10を1分、こちらは「ぶん」と読む。
金1両=銀60匁(600分)=銭4000文だから、銀1分は銭では6.7文ほどとなる。

 さて東京に三分坂という急坂がある。かっては「さんぶ坂」と呼んでいたらしい。
昭和45年発刊の「江戸の坂東京の坂」という本によると、当時はまだそう呼んでいたのだろう。
著者・横関英一氏によると、余りにも急阪であるため荷車を押す人夫賃を「三分(さんぶ)」余計に払わなければならない処からこの名がついたという。
そうだとすると、金の「さんぶ=金三分」ではべらぼうに高く、銀の「さんぶん=銀三分」が正当なところだから「さんぶん坂」と呼ぶべきだと主張される。
落語「時蕎麦」のニ八そばが16文だというから、3分=20文は妥当なところだろう。
下の写真を見ると「SANPUN ZAKA」と表示されている。過ちて改むるに憚ることなかれである。
           三分坂 | 東京とりっぷ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■どちらが本職?

2023-08-19 13:41:56 | 徒然

 直木賞作家・泡坂妻夫氏の本職(?)は、「上絵師」だというが、着物に家紋を描く職人さんのことである。
氏には「家紋の話ー上絵師が語る紋章の美」があり、これを購入して知った。

 同じ直木賞作家・森田誠吾氏は実家の広告制作会社精美堂を継いでおられたが、古い職人さんが版木や印章の彫りなどもなさるらしい。

 また「わが俳句交友録」の著者・車谷氏の話だが、この人は名にし負う悪筆らしい。
俳人であるが、悪筆故に人様から色紙頂戴の話が合っても頑なに拒み続けている。
あるとき素晴らしい印章をみて、自分も作ってみたいと思い自ら腕を振るって原稿を作った。
これを何故か森田氏の処に持って行っている。
森田氏は一目見て「自分が彫る」と言い出され、数十年物の乾燥しきった硬く石のようになった「つげ」の木を使い数日かけ、サロンパスを張りまくって仕上げられた。
そこで森田氏は「礼はいらぬが何か色紙を頂戴したい」と言い出された。これには車谷氏も頭を抱え込んでいる。
それでも何とか物にして届けると、森田氏は「全力投球の気持ちが書にあらわれている。いつか取り替えてほしい」と言い、「作句も無心であれば、書もまた無心、無心の一筆お願い申し上げておきます」「思い捨つるな叶わぬまでも、縁と浮世は末を待てと申します」と結んであった。
一流人の交わりは含蓄深く羨ましいものだと思ったことである。
森田誠吾氏と言えば、私の大好きな作家の一人で「魚河岸ものがたり」で直木賞を受けられた。
NHKでドラマ化され、今では大歌手となった今井美樹や名俳優小林薫などが出演した名作だった。
「銀座八邦亭」や「明治人ものがたり」「江戸の夢 忠臣蔵と武玉川」 などを愛読した。

 二刀流の達人は世に色々居られるようだが、仕事も半流・趣味も半流の私などは足しても半流の情けなさである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文政三年八月十九日御達

2023-08-19 05:40:27 | 先祖附

        一濱町様、白河筋ニて長六橋下縄場等漁為御覧、有折被遊
         御出筈ニ付、聲取坂下船渡場二十間上より本山村船渡場
         下迄之間、當月より九月中網漁留被仰付、杭木をも被建
         置筈候 右之通一統可及達旨候條、左様相心得、觸支配方
         へも可被相達候
            (文政三年)八月十九日    御奉行中

 日にちがはっきりしないが、濱町様(齊茲公)が白川での川漁をご覧になるので、声取坂下の船渡し場の20間(約36m)上流から(現・大甲橋あたり?)、本山村の舟渡場(旦過の渡し?)の下流部までの間、九月半ばまでの間網漁はやめる様にとの達しである。

 齊茲は文化七年に隠居、濱町御屋敷に居住したため、濱町様と呼ばせている。文化十三年病気療養のための湯治と称して御暇をいただいて帰国した。
そのために本山に新しく屋敷が建てられた。文政六年にはこの本山屋敷で耈姫が誕生した。三年十ヶ月で夭折すると齊茲は再び江戸へ下り、天保六年(1835)十月廿三日白金邸で死去した。享年81とされるが、実は77ともありこちらが正しい。文政十年以降は少将様と呼ばせている。
宇土支藩藩主から宗家を継ぎ、以降宇土支藩家の血が続いた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■中村汀女の鼻

2023-08-18 09:31:44 | 人物

                   

 俳人・中村汀女の故郷は水清らかな(だった?)江津湖に程近い、数年前生家跡を訪ねたことがある。
汀女は裕福な斎藤家の娘で、江津湖にはその斎藤家の名前を冠した「斎藤橋」がある。
汀女は美貌の人である。近くにはボート練習所が有り五高生徒など男どもを魅了したらしい。

 処で、同姓同名の二人の尾崎一枝さんがいらっしゃるが、お父さんはそれぞれ高名な小説家、「人生劇場」の尾崎士郎氏並びに「暢氣眼鏡」の尾崎一雄氏である。
二人の対談による共著「二人の一枝」が、同姓同名であるがゆえのエピソードなどあり大変面白い。
そして尾崎士郎氏のお嬢さんは、中村汀女の長男・湊一郎(TBSプロデューサー)氏に嫁がれている。
その一枝さんの話が車谷弘著「わが俳句交友録」の汀女さんの話の中に登場する。

 あるとき尾崎一雄氏が「お宅の一枝さん(士郎の娘)が・・面白いことを書いていましたよ」と汀女に話しかける。
「私は鼻が低いので、中村一族の集まりへゆくと恥ずかしくなっちまう。中村一族はどうして皆さん、あゝ鼻がたかいんだろうって・・・・」
すると汀女は結婚前に親類にあいさつ回りの為に人力車で熊本の街を走ると「鼻・鼻・二段鼻」と行合う子供たちが囃し立てたと話して、声を立てて笑ったという。
二段鼻とは鉤鼻のことだろうが、そうは見えない。鼻筋の通った高い鼻が団子っ鼻の子供たちには眩しかったのだろう。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「士族」に関する「明治以降縣政史料」一覧

2023-08-18 06:28:18 | 史料

 明治以降縣政史料「8‐士族」

  8ー1  明治二年 士族卒増禄轉免 高瀬(藩)
  8ー2  古奉公附 明治三年 フ~サ迄
  8ー3   同        シ~サ
  8ー4   同        シ~ス迄
  8ー5  明治三年 高瀬藩士代禄帳
  8ー6 8ー8 明治三年 舊陪臣代數原禄根帳 六冊ノ内、五・ニ・三
  8ー9  明治三年 組附並留守中小姓内家一部
  8ー10   支配牢人及譜代家来解放等達
  8ー11 8ー12 明治五年 禄席奉職等調隠
  8ー13  明治五年 秩禄隠居家督調
  8ー14  明治五年 禄高増減届
  8ー15  明治五年 禄米帳
  8ー16  明治五年 貫族移動調
  8ー17  自明治五年・至仝六年 士族隠居家督相続願
  8ー18  明治五年 士族家禄及入貲卒地筒等調
  8ー19  明治五年 無禄卒調
  8ー20  明治五年 卒代數調 岡本村外三ヵ村
  8ー21  明治五年 卒代數調 薩摩瀬村外八ヵ村
  8ー22  明治五年 卒代數調        
  8ー23  明治五年 卒代數調 大村湯前村
  8ー24  阿蘇惟敦舊臣士族平民編籍調
  8ー25 8ー28 明治二十五年 入貲勤功藝術等之士族卒調
  8ー29  明治五年 禄米奉戴調
  8ー30  明治六年 士席落席 入質一代限
  8ー31 8ー32 明治七年 無禄士族基本帳 イ~ス迄
  8ー33  明治七年 無禄士族基本帳
  8ー34  明治七年 貫属明細帳 士族元卒録一代限 ム~ス迄
  8ー35  自明治七年・至仝九年 貫属(士族)明細帳
  8ー36 ~ 8ー38 次明治七年・至仝八年 一代禄平民悉皆奉還調
  8ー40 8ー41 明治七年 家禄奉還名禄(ママ)
  8ー42  毎時七年 一代限禄高調

              (つづく)  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■暑い・・・図書館浴

2023-08-17 13:41:48 | 徒然

 図書館浴とは作家・出久根達郎氏の造語である。書林浴と言う言葉もあるようだが、多くの貴重な本に囲まれて雰囲気を楽しもうという訳である。
今日は午後から天気が崩れるという予報で、熊本県立図書館の開館時間を目指して朝から出かけた。
電動アシスト自転車だから、やたらと体力も使わないが・・とにかく暑い。
今日は、熊本県政史料の「目録」のコピーと、横井小楠の「国是三論」を読みたいというのが主たる目的である。
実は花立三郎氏著の「国是三論」は県立図書館に二冊あるのだが「禁帯出」なのだ。それも閉架である。
取り出してもらったが、短時間で読むのは高が知れているし、途中でほかに借りれそうで原文が紹介されている全集でもないのかと思ったりする。
段々、古本を購入しようかという気持ちに傾いて来た。文庫本なのに送料ともに5000円を超えている、現在では貴重本なのだ。
その他ニ三の本を借りて退館、江津湖を廻ってみようかとも思ったがとにかく暑くて、熱中症にならないようにと帰途に就いた。

 図書館の構内には、安藤忠雄氏の設計で自らの資金で建設寄贈される「こども図書館」の建設が行われている。
シンプルなデザインの小さな建物だが、安藤忠雄氏のご厚意に感謝しなければならない。完成が待たれる。

                                                             

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■羨ましい交友の記録

2023-08-17 06:45:18 | 書籍・読書

 作家・菊池寛が大正十二年(1923)に創刊した「文藝春秋」社は、今年100周年を迎えるという。
終戦後池島信平という名物編集長と呼ばれた人物によってさらなる成長を遂げたとされる。
そんな時代であろう、後に専務まで務めることになる「車谷弘」という編集者がいた。
その車谷の著に「わが俳句交友記」があるが、これも死ぬまで離せない本の一冊である。
戦前戦後を通じて活躍された作家や俳人、画家・建築家・財界人などとの交流が時には1対1、時には大勢の集まりの中で誠にうらやましい交流が為されている。
  久保田万太郎・水原秋櫻子・中村汀女・横道利一・川端康成・高田保・内田百閒・井伏鱒二・永井龍男・飯田龍太・
  高浜虚子・小絲源太郎・渋沢秀雄・中里恒子・清水甚吉・尾崎士郎・尾崎一雄・谷口吉郎・徳川夢声・渡辺水巴
錚々たるお名前が並ぶ。このほかにも文中に多くの方々との交流があったことが見て取れる。

 その中の一つの話として、久米正雄に触れる一文がある。久米が新潮社(文芸春秋ではない)を尋ねると佐々木茂索と言う人がいて「なんだ君はこんなところにいたのか」と言うと、上司が驚いて佐々木は大いに信用が高まったのだそうだ。
佐々木は上司から翻訳本の誤訳を見つける仕事を仰せつかり、その話を聞いた久米が驚いて尋ねると、「通読して日本語としておかしい処を見つければいいのさ」と答え、なるほどと納得したという。
私も納得した。古文書を読む時もまさにその通りで、「文章として成立するか」成立していなければ、どこかに読み間違いがある。

 文壇と言う言葉があるが、文士と言う言葉はまだ生きているのだろうか。かっては「文士劇」なども盛会だったと聞くがこれとて最近では噂を聞かない。
この著はまさに文士の世界の話であり、本当に豊かな交流が有り、お互いが刺激し合い尊重し合い、自らを高めていたことが判る。
久米正雄の葬儀に出席した佐々木茂索の憔悴ぶりは甚だしく、奥様にささえられ嗚咽していたと車谷は記している。
そんな話が満載の、この著の中身を時折ご紹介してみたいと思っている。

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■めでたく候

2023-08-16 07:21:26 | 書籍・読書

 かって■「候」は句点・・・?を書いた。谷崎潤一郎が言った言葉だそうだが、現実はそうではない。
古文書には多くの例外が見える。
上記谷崎の言葉が紹介されている、山本夏彦の「完本 文語文」は私が大好きな著書で、私が死ぬまで座右に置く大切な蔵書である。
改めてページを開いてみたら、今迄気が付かなかった「候」にかんする記述に遭遇した。
その文章は以下の如くである。

  森銑三翁といえばその小品「朝顔」に数え年十四になる少女が、歌の師匠に初めてほめられ「めでたく候」と書いてもらった。喜びに耐えず帰って母に示し、ともども喜んだのに日ならずしてふとした病で少女ははかなくなくなったという。
候という字に
はこういう使い方もあったのである。

 ここに指摘された「めでたく候」という言葉が包含する意味合いをこの十四歳の少女は十分に理解したのである。
「おめでとう、よく頑張ったね、あなた自身の努力のおかげだよ」という意味合いが愛情豊かにこの五文字に表されている。
こういう話に遭遇すると、81爺は目頭が緩んでくる。講談社学芸文庫「新編 物いう小箱」に収められている。
Amazonから注文を入れたのは当然である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■三體千字文

2023-08-15 16:38:05 | 徒然

 引越し後習字の用紙が一束顔を出した。これは習字以外には使いようがないから、最近三體千字文をお手本に一日一頁、
真形草三體・六文字、計18文字を書いている。
これがなかなか厄介で、中々筆が走らず結局18文字は25文字・30文字になる有様である。
恥ずかしい話だが、私は筆順がいい加減に覚えている文字が沢山ある。かって、ある講座を5年ほど講師をしたことがあるが、受講の諸君に開講の時に一番に断りを入れたほどである。
奥方や子供たちからも大いに馬鹿にされたが、最近「成」という字の第一画が「ノ」であることを知ったほどである。
横棒を第一画で書いて形を整えてきたが、「ノ」を第一画とするとなんとも形が取れないといった具合である。
また、草書の「成」が何故このように変じたのかがよく判らず、これは筆が進まない事はなはだしい。
古文が何とか読めるようになっても、書くことは先ずできない。書くというトレーニングをすると古文書を読むのにも大いに役立つだろうと考えている。
紙の束が何枚あるのかよく判らないが、成果も見えてこようと言うものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■磯田道史氏曰く「士族制度は誤解のもと」

2023-08-15 15:52:43 | 徒然

                               お盆ボケしておりまして、朝からUPするのを忘れて居りました。

 明治維新後のある時期「卒族」という身分があった。いわゆるかって「足軽」と言われた人々である。
維新政府の中にこの卒族に該当する高官が誕生するに及んで、この「卒族」はなくなり「士族」に包含された。
磯田道史氏は「伊藤博文」「山縣有朋」等がそうで、その他この措置によりこの制度が「誤解のもと」だと氏の著書「日本史の探偵手帳」で書いている。
かっては、「侍」「徒士」「足軽以下」とある程度の身分訳が為されていたものが、「士族」という十把一絡げにされてしまって江戸時代の武士の世界が誤解されてしまうと嘆かれるのである。

 熊本藩には「有禄士族基本帳」というまさに卒族が亡くなった後の、旧細川家藩士その他の一覧が存在しており、当方サイトでもその名簿を御紹介している。
実は私はその累計数を知らないのである。
八代古文書を読む会の蓑田勝彦氏編著の「熊本藩の社会と文化」(八代古文書の会会報1~50号合冊)の「熊本藩の武士身分について」よると、(1)士席名籍から「一門・上卿・下卿」24名、「着座」69人、「上士」225人、「平士(中士)」962人、「下士」630人、つまり「侍」24+69+225+962=1280人、「徒士」=「下士」630人とまとめて居られる。
又、(2)独礼以下名籍からいわゆる「足軽以下」を11,910人とし、家臣の総計(1+2)を12,676人としている。
士席名籍独礼以下名籍が明治元年のものだとされるが、これが「有禄士族基本帳」の数と合うのかどうか興味深い。
卒族については、代々の者は繰り入れられたが、一代奉公の足軽などは平民になっているし、また、「無禄士族」などはその名称から「有禄士族基本帳」には当然入っていないと思われ実情の把握は難儀である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■1900年という日の今日

2023-08-14 05:37:41 | 歴史

 50年とか100年刻みでその年に起こった主な事件を覚えるというのも、歴史を親しむうえで大いに役立つように思える。
そんな中で、1900年と言うきりの善い年の今日という日は、日本をはじめとする八ヶ国連合軍が北京に入城して、義和団の乱が終結した記念すべき日である。
祖母の叔父に当たる狩野直喜は北京留学中に事件に巻き込まれて、柴五郎中佐らと行動を共にして籠城している。
二列目中央の軍服姿の人物が柴五郎、右から二番目が同時に留学した二人のうちの一人服部宇之吉、その左隣が狩野直喜である。
狩野直喜には「服部先生の思出」という小文が残されている。

                               

 柴五郎は会津出身、石光真人編著の「ある明治人の記録・会津人柴五郎の遺書」に詳しいが、会津城落城にあたっては祖母・母・姉妹が自刃するという辛い過去を背負いながら軍人の道に進んだ。
この事件に於ける柴中佐の沈着果断の判断は、大変称賛されて会津出身者として陸軍大将迄上り詰めた人である。
会津陥落後の斗南に於ける会津人の苦労も、庄内藩に対した西郷の温情とはかけ離れた過酷なものであり、今もって心からなるわだかまりは解けないと聞く。
上記の著を手に取ら一読されることをお勧めする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■北嶋雪山のお墓

2023-08-13 06:01:14 | 熊本

 熊本史談会の会員のN君から、北嶋雪山のお墓を尋ねたという事で、写真が送られてきた。
北嶋雪山とは、藩主細川綱利に命ぜられて『肥後国郡一統志』編纂にあたった。しかし彼が陽明学徒である故をもって、細川家を放逐されることになる。
寛文九年(1669)、いわゆる徳川幕府の「異学禁制」によって同時に19名が処分された。
その中には、綱利の側近であった2,822石余の御小姓頭・朝山次郎左衛門等が含まれている。
その後、肥後藩の陽明学は幕末に至るまで雌伏の時代を迎える。

                                                             ウイキペディアより引用

    雪山はその後熊本を離国、江戸へ赴いている。しかしある時忽然と姿を消した。そして長崎にあらわれ酒代の替りに書を揮毫し帳簿付けなどをするうちにその書をもって名を成すことになる。
奇人として知られ多くの逸話を遺している。
熊本を離れて28年後の元禄十年(1697)閏二月に長崎に没した。享年62。長崎大音寺に葬られた。

 N君の情報によると泗水町(現在の菊池市泗水大字吉冨)にこのお墓があるという。迂闊ながら詳細を知らなかった。
ググってみるといろいろな紹介もされていて、私の勉強不足が露呈してしまった。
この場所は、雪山が幼少の頃父宗宅とこの地に居住した場所であり「護村山吉祥寺薬王殿と称する小堂」に、村人が長崎に出かけ「雪山の分骨」を得てこの地に墓碑が建てられたものらしい。
現在の住居表示によると「泗水町大字吉富692番地」とある。

                                                     トリミング加工を加えさせていただきました。

             

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする