津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■師匠・高田泰史先生・・すごい

2023-11-21 12:48:02 | 書籍・読書

 「平成肥後国誌」の編者・高田Drのすごさに遭遇した。
先に「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」をご紹介し、この資料を残した沢田延音についても■沢田延音という人物等でふれたが、なかなか人物像が詳らかにできないできた。
今日日、その「平成肥後国誌」で色々調べ物をする中、西阿弥陀寺町の西流寺清泰山の項を読み進めているうちに、沢田延音の書き込みが目に飛び込んできた。
「清正公史・肥後相撲司家・西南の役など郷土史研究家の竹輪屋出身の沢田延音が居た。」とある。
このお寺がある場所は、「明治八年まで五福小学校の前身西阿学校があった処である。」とあり、このあたりに沢田延音の実家である竹輪屋さんがあったのだろうか?。
いやはやお詳しい。さすが師匠恐れ入りまして御座います。感謝申し上げます。

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■果たせない気になる二つの場所

2023-11-21 08:18:28 | 徒然

 訪ねてみたいと思う二つの場所がある。一つは京都の建仁寺・正伝永源院、いま一つは大分の安心院の竜王城と妙庵寺である。
細川家の古い資料に「永源師壇紀年録」というものがあるが、永源院に由来するものである。正伝と永源院は別のお寺であったが、現在は合併されて正伝永源院という。
細川頼有以来のご縁で細川家の墓地と、織田有楽斎の墓地が存在し、かっては有楽斎の茶室「如庵」が存在したが、犬山城の東にある有楽苑に移築されており、ここには写しの茶室が建てられている。
現在では細川護熙さまの襖絵「知音」と、「聴雪」がみられる。
       人様のサイト: 正伝永源院 織田・細川家の菩提寺

 安心院町の竜王城と妙庵寺は、細川幽齋の三男・幸隆の居城と廟所である。
細川家記は妙庵寺を「中津」としているが、明らかな間違いである。

竜王城は中世の山城の風格があり、破城前の城は見事なものではなかったかと思うのである。
別府から宇佐へ向かう中間くらいの位置だから、いけないこともないが、車の免許がないことにはどうにもならない。
       人様のサイト:大分> 豊前 龍王城(宇佐市安心院町)

   細川一族の中では認知度があまりないように思われる幸隆は、能や謡の世界では一目置かれる人物であり、かって能楽宝生流の機関雑誌「宝生」(昭和48年7月~)に三回にわたり掲載された、中村格氏の論考「妙庵細川幸隆について」で詳しく報告されている。

511 妙庵細川幸隆について(その一)―安土・桃山期の能伝承者―, , 中村格, ホ00050, 宝生, 22-7, , 1973, 中世文学, 能
512 妙庵細川幸隆について(その二)―安土・桃山期の能伝承者―, , 中村格, ホ00050, 宝生, 22-8, , 1973, 中世文学, 能
561 妙菴細川幸隆について(その三)―安土・桃山期の能伝承者―, , 中村格, ホ00005, 宝生, 23-2, , 1974, 中世文学, 能


田辺城籠城に於いての活躍や、10,000石を領して竜王城を預かっているが、武人というより、父・幽齋の文人の血を多く継承しているように感じられる。
娘「兼」があり、筑紫左近重門に嫁ぎ延宝3年に熊本で69歳で死去しているが、父・幸隆と並ぶように妙庵寺に埋葬されたと伝わる。遺言であったのだろうか。兼の娘・吉は志水新之丞に嫁ぎ幸隆の家系は女系の故をもって途絶えた。

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■郡勘右衛門家

2023-11-20 07:04:09 | 人物

 以前にも書いたが、我が家が豊前に召し出された切っ掛けは、三斎公が数度、先祖が住む下松(市)に船を留められた際、御食事や御宿の接待をしたことによる。
その際御供をしていたのが、「槙島云庵(昭光)」であり、今一人の御供清田石見の周旋により召し出された。
さきに禅定寺をお尋ねした時そんなお話をした処、和尚様から家系図をお見せいただいた。
今の和尚様の姓は「最勝林(さいしょうりん)」であるが、ご先祖様は「槙島氏」である。清和天皇まで遡る系図であった。
「槙島昭光」の項を読んでいたら、室・上野清信■と記されている。■が妹か女か確認が定かではない?
この清信の女が足利義昭の室であり、妹が昭光の室である。その娘が清信の継嗣・秀政の室となって居り、槙島家と上野家のつながりは深い。

 処がやっかいなことに、この将軍義昭の寵臣・上野大和守秀政はまさに細川家にとっては喧嘩仇ともいうべき間柄である。
ウイキペディアが記すところを引用すると、「義昭と信長が対立を深め、幕命によって形成された信長包囲網が信長の手によって崩されると、幕府に迫る織田軍を前に清信は義昭の面前で徹底抗戦を訴え、降伏を唱える細川藤孝と口論に及んだという。ただし、この時の口論を含めて義昭時代に活躍していたのは後継者とされる上野秀政で、秀政が幕臣内の反信長勢力の中心(以下略)」とある。


昭光による周旋だと考えられるが、細川家にこの子孫が召抱えられた。
忠興は「上野は当家に対して敵なれは、家号を改めよと被仰」「郡主馬名字をあたへ郡勘右衛門と名乗候なり 」という記録がのこる。
三淵家に連なる郡家とは別流である。



               足利義昭
               ‖
      +---上野清信---+--●
      |        |   堀孫四郎  
      +------●   +==大和守秀政 
          ‖        ‖-----------郡勘右衛門門・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・郡(勘右衛門)家
     槙嶋玄蕃頭昭光(云庵)--- ●

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■私、高田老松町の生まれです

2023-11-19 10:52:35 | 徒然

 昨晩のブラタモリは「目白」の話、椿山荘が紹介されたが隣の細川家には及ばなかった。
今朝ほど悪友が連絡してきたが、「どうだ目白生まれ?」と小馬鹿にしたような言いようである。
東京での生活はたかだか2年程過ごしたばかりで、熊本地吾郎を自認しているが、私の感覚では生まれ故郷は「小石川」とか「高田老松町」であって、目白という感覚は全くない。
「神田川は目白じゃないよね」とタモリ氏が言っていたが、「ああそうなんだ」という位の認識である。
祖父が細川邸で働いた町、父が療養の甲斐なく死んだ町、母や姉が十年弱住んだ町であり、私には全く記憶にない井戸の側で遊ぶ写真一枚の証拠しかない町である。
今一度訪ねてみたいと思っていたが、最近では体力的に難しいことを大いに自覚している。

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■豊臣氏-熊本藩木下家

2023-11-19 07:32:33 | 史料

                六つ日足紋

 先日訪れた禅定寺に真新しい木下家のお墓があったので墓誌を見てみると、なんと日出藩木下家の五男・俊之を初代とする木下家のお墓であり、地震後幾つもあった一人墓をまとめられてとの事であった。
豊臣一族木下家の一族であることを示す、まごう事なき「日足紋」が穿たれていた。
但し本家の「木下日足紋」は使われていないが、遠慮あっての事だろうか。
禅定寺様に少々資料を差し上げるに当たり、判りやすい系図を整えようと思って、以下の略系図を作ってみた。
細川藤孝と木下勝俊(長嘯子)の和歌を通じての親交や、藤孝の女・加賀が延俊に嫁ぎ、その娘が足守の木下利当に嫁ぐなど、細川家と木下家の関係が理解できよう。

 

木下家利ーーー朝日            長嘯子
      ‖ーーーーーー+ーーーーー家定ーーーーーー+ーーー勝俊
             養子定利  |        |
          | 豊臣秀吉    +ーーー利房ーーーーーーーー利当・・・・・・・・・・・・・・・→足守藩・25,000石
          |   ‖     |                       ‖ 
           +ーーーーーねね   |          ●
                              |        |                        ⇧
           +ーーーーーやや   |       +ーーーー●延俊正室・加賀(細川藤孝女)の長女
              ‖           |               |
            浅野長政         +ーーー延俊ーーー+ーーー俊治・・・・・・・・・・・・・・・→豊前日出藩・20,000石
                                                        |              |
                                                        |               +ーーー延次・・・・・・・・・・・・・・・→寄合交代・5,000石
                                                        |              |  
                   |               +ーーー俊之・・・・・・・・・・・・・・・→肥後細川家家臣
                                                        |
                                                         +ーーー小早川秀秋

■ 木下嘉納  (南東48-1)
     肥後守家定(豊臣秀吉室ねね・実兄 姫路城主
     右衛門大夫延俊(三男 豊後日出藩主 室・細川藤孝女・加賀 
         長兄・木下勝俊(長嘯子)
         次兄・宮内少輔利房(二男 備中足守藩主)
         次弟・小早川秀秋

    1、三郎左衛門・俊之(孫市・孫三郎 陰入)  
         長岡監物組 御番頭 弐千石 (寛文四年六月・御侍帳)
         長兄・伊賀守俊治、豊後日出藩主 
         次兄・縫殿助延次、五千石内分・交代寄合衆

               承応元年三月~延宝元年十二月 番頭
               延宝四年一月(備頭)~元禄二年七月(致仕)備頭大頭

    2、平馬(三郎左衛門)  
         人持衆并組外衆・清左衛門組 三千石 (御侍帳・元禄五年比カ)
               宝永六年九月~正徳元年四月(病死)備頭大頭
    3、伊学(三郎左衛門・俊親) 三千石 御備頭五番御城代着座 屋敷・一丁目
               享保元年二月~享保十七年九月 城代
               享保十七年九月~元文二年二月 備頭大頭

    4、伊織(養子 実・交代寄合木下家四代栄俊弟 俊允)
    5、廣之助
    6、平馬   上着座 三千石 宝暦二申六月廿七日当役
               明和五年四月~安永二年三月(病死) 備頭大頭
    7、嘉納       安永六年二月~天明六年七月 小姓頭
               天明六年七月~寛政元年三月 番頭
               寛政元年三月~寛政六年九月 留守居大頭

               
    8、勇(三郎左衛門)
               寛政十二年閏四月~享和二年十月 番頭
               享和二年十月~文化八年七月 用人

               享和元年九月~享和二年十月 鶴崎番頭
    9、渋八(平馬) 上着座・持座七人着座・大木組 二千七百石 御小姓頭
               文政四年六月~文政七年閏八月 番頭
               文政七年閏八月~文政十一年九月 小姓頭
               文政十一年九月~文政十二年十一月 番頭

    10、孫一郎(三郎左衛門) 
               天保十年十二月~弘化二年四月 番頭
    11、哲太(伊織) 御番頭 二千七百石
            木下哲太差出(嘉永六年) 二千七百石
                木下伊織差出(安静二年) 二千七百石

               安政三年十月~文久二年七月 番頭
    12、嘉納      二千七百石
               元治元年八月~元治元年九月 番頭
               元治元年九月~慶応三年十一月 小姓頭
               慶応三年十一月~明治元年二月 番頭
               明治元年五月~明治二年十月 備頭大頭・後、士大隊長

 

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■石川県の「愛本橋」・・雑感

2023-11-18 07:05:43 | 徒然

 先に取得した「石川郷土史学会々誌-代54号」は、目的の記事だけではなく、大藩加賀のいろいろな興味深い論考が載せられていて、大いに興味をそそらせてくれる。
私の目に飛び込んできたのは、「愛本橋に関する異説-その一」という記事であった。
内容は架設に関わった方々に関わることのようだが、「愛本橋」といえばその不思議な構造形態でしられ、工学系人間である私は少々の知識は持ち合わせていた。

           

 今はこの橋は存在しないようだが、このような模型が残されており、不思議な構造形態で知られている。
両岸から斜めに突き上げる様に、カンチレバー(片持ち)の巨大な木材が何本も、何段もかさねあげられて橋の本体を支えている。
山梨県大月市には「猿橋」が現存する。

チベットに今でも使われている橋が下の写真だが、愛本橋のような完成系の構造ではなく如何にも素朴で、牛の体重をようやく支えているという感じである。
1匹ずつ渡んなさいと声を掛けたくなる。
           

錦帯橋は驚異的な木造アーチ構造の橋だが、これは世界に類例はないのではなかろうか。
また明治に至るまで木造によるトラス構造の橋は出現しない。
しかし、チベットと日本に全く同じ発想によるこのような橋の存在を知ると地球は狭いと感じる。

チベットのこの橋も、たかだか10mくらいの距離だと思われるが、川がへだてる隣町は、まさに異国という感じであったろうから、大いに知恵を働かせながらこのような構造の橋を世界に共通する構造橋として現出した。流れのはやい川で隔てられた隣町は、新たな交通手段を得て人の往来が盛んとなり、文化・経済の流通など多大な影響を与えた。
チベットしかり、又加賀国に於いてもそうであったろう。災害に於いて橋を流失して平時の交通手段を失くした人々の生活には大きな負担がかかる。
橋は命である。命を支える手段としていにしえの人々は、想いもつかないこのような橋を現出した。人間は凄い。

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■安住アナの「走るなメロス」という落ち

2023-11-17 12:46:12 | 徒然

 TBSアナウンサーの安住氏の、誰もが一度は読んだであろう「走れメロス」を題材とした母校・明治大学での講演は、「走るなメロス」で落ちをつけるなどまるで落語のようである。
太宰治著の小説の文中の「少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。」という一節を取り上げ、これだけ話を盛り上げて聴講する学生たちを魅了し、笑いを起こし拍手の渦を巻き起こしている。
「沈んでゆく太陽の十倍の速さ」を解説していくのだが、太宰治も良い(太宰ならぬ)題材を提供したものだ。
安住氏のこの話は大いに評判を呼んでいるのはYoutubeによるところが大きいと思われるが、巷間いろんな処でも紹介されているようだ。
しかしそんな表現をしながら、現実的には10里の道を一日で走るというのだから、江戸時代の参勤交代を考えると「沈んでゆく太陽の十倍の速さ」で走るという表現がとんでもなく過大であることが判る。
安住氏が引用したこの表現の意外性は、柳田化学男氏が誰にもわかる様に計算解説したものが現実離れした話なので笑いを取る結果となる。
一方では安住氏は触れていないようだが、ある中学生がメロスの時速は3.9㌔だと算出して2013年の「算数・数学の自由研究」で最優秀賞を受賞されている。
安住氏は日本一ともいえる話術で明治大学の生徒さんを笑いの渦に巻き込んでいるが、一方岡崎中学の生徒さんは「一日で40㌔なら行けるんじゃない?」という素朴な判断の上に計算をして、そのスピードが「3.9m/時間」だとされた処が素晴らしい。
そして、上記の過大な表現を小説構成上の有用な表現として快く受け入れる豊かさも持ち合わせている。
安住氏は作家による日本語の表現の素晴らしさについて述べられたのだと理解しているが、またそれとは違う視点で同じ小説の文章に考察を加えるという中学生の研究心もまた素晴らしいと思うのである。
若者の好奇心は素晴らしく、未来は明るい。2014年の黒田官兵衛の水攻めを徹底検証!等もすごくためになって面白い。

私は毎日ブログを上げるのに四苦八苦しているが、毎日読書する中、疑問を持つ視点をもって精読するとこのような成果が得られるのではないかと強く思うのである。


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■田中河内守について

2023-11-17 07:04:32 | 人物

 以前小川研次氏が投稿された■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・2の中の■第四章 明石掃部-五、田中氏田中河内守なる人物が登場しているが、この人物の特定に至っていなかった。
先日、八女市在住で「筑後国主田中吉政研究会」の江崎様から「田中河内守吉久は、長男の吉次だと分かりました。吉次は、吉久と名乗り、四男の忠政を補佐して家老として尽力していました。昨年、福岡県地方史連絡協議会の機関紙「地方史ふくおか」に載せることが出来ました。ほっとしています。」というご連絡をいただいた。
熊本の田中家は吉政の弟の家系であり、この人物の特定については力の及ぶところではなかったが、有難いご示教をいただき感謝申し上げる。
掲載誌「地方史ふくおか」を購入したいと思っているが、まだ連絡のつけようが判らないでいる。
朔日お尋ねした禅定寺に弟・与左衛門・氏次を祖とするお宅のお墓が存在する。
「柳川城主・田中吉政の弟の家系です」とご説明した処であった。
禅定寺さまは先の熊本大地震でお住まいが倒壊するとともに、大雨が続く中解体の手が入り、大切な諸家の過去帳などが失われたとお聞きした。
過去帳に代わる諸家の「先祖附」等をそろえて、お届けしたいと考えている。

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■禅定寺掃苔

2023-11-16 16:31:48 | 徒然

 今日は禅定寺をお尋ねした。和尚様には長時間お付き合いをいただき、熊本大地震後の歴史墓の現状などをつぶさに拝見、ご説明などを賜った。
加藤家・細川家時代を通じての著名な方々のお墓が数多くある。又無縁墓も数多くあり、整理に明け暮れて居られる。
高祖父・上田久兵衛のお墓も倒れたまま、私も関係者ではあるがお墓の監理は直系のご親族が居られるから、ただ手を合わせてお詣りをした。
顕彰碑も倒れたままである。
並河志摩守の大きなお墓も倒れたまま、ただご子孫の米村家のお墓が目の前にあったが、これが新しく場所を変って新しくなったため、重機での作業が容易になるとお慶びであった。
貴重な歴史墓の存在は、計画道路の変更というあまり聞きなれない行政措置により、その変更案により新町から直進する形でまさに工事中である。
藤村男爵家その他のお墓はその道路工事にかかり、立派なお墓が姿を消した。
またご住職が槙島昭光(云庵)のご子孫という事で系図を拝見できた。その女系のつながりも知ることが出来、有難い時間を過ごした。

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■細川忠隆の義母・前田芳春院の江戸人質について

2023-11-16 06:51:02 | 歴史

 例えばウイキペディアの前田利家室「芳春院」の項を見ると、「江戸幕藩体制において諸大名妻子の江戸居住制が確立するが、芳春院はその第一号となる。」とある。
私がこだわっているのは、「芳春院はその第一号」とする文言である。これは明らかな間違いであることを指摘しておきたい。
先に取り寄せた石川郷土史会発行の「石川郷土史学会々史-第54号」にある記事、「芳春院江戸證人一件」にある通り、それは慶長5年6月の事であり、細川光千代(忠利)の正月25日が第一号である事は明らかである。
芳春院は細川忠興の嫡男・忠隆室千世姫の生母である。二人は父忠興によって離縁させられるが、これは細川家と前田家が婚姻関係にある事が災いした。
両家の婚姻関係に徳川家が水を差した。それ以前、徳川家康暗殺未遂事件が明るみになり、浅野長政・土方雄久・大野治長らが罪を得て流罪となった。前田家も一等の疑いをもたれ、その和解に至ったのが慶長5年の3月である。1月には細川光千代が細川家の人質として江戸に下った。上記論考の記述を借りれば、江戸城内の人質屋敷に留め置かれたのであろう。(当時前田・細川共に江戸藩邸はない)
ガラシャ夫人が生害し、千世姫が姉・豪姫の屋敷へ逃れた事に対し、忠興は大いに怒り離婚を言い渡したが、忠隆はこれに従わず前田家を頼っている。
前田・徳川の間、また細川も謀叛を疑われ漸く和議に至り光千代を江戸へ下している中に於いての忠隆の行動は、前田にしろ細川にしろ迷惑なものであった。
私が、この論考をわざわざ手に入れて確認したかったのは、千世姫がいつ加賀に帰ったかという一点につきる。
これは細川忠隆の子孫である内膳家が主張されている、忠隆の三人の姫の生母が千世姫だとすることへの違和感から発している。
上記論考によると、千世姫は忠隆と離婚後加賀へ帰国し、慶長10年に加賀八家の一、村井長次に嫁いでいる。
内膳家の長女の生年が慶長5年であり、千世姫の御子である可能性は合い得ない妥当事を指摘して置きたい。
この論考により、私の二つの疑問が解決した。

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■細川家は北朝という話

2023-11-15 16:35:08 | 徒然

 先の史談会での話のとっかかりで、50年ほど前のある会合で細川護貞様が仰った「細川家は北朝です」というお話を申し上げた。
30歳前後の事だが、護貞さまが「自分の師」と仰っしゃる狩野直喜(君山)が、私の祖母の叔父にあたる事から、あわよくばそのことを申し上げてご挨拶しようと思ったが・・・叶わなかった。
「細川家は北朝です」ということは、その出自が足利家であるから当たり前のことだが、その当時は歴史にはとんと疎く、そんなことさえも知らなかった。
長ずるに及んで、護貞さまのその時のお言葉の真意は何であったろうかと考えるようになったが、お亡くなりになった今、知る由もがなである。
熊本細川家初代の藤孝公は足利将軍・義晴の庶子だとされる。生母智慶院(清原宜賢女)が藤孝を身ごもったまま細川(三渕)晴員にお下げ渡しになった。
それゆえに、義弟にもなる将軍義輝亡き後、義昭を一条院から救出し、長い流浪の末織田信長をたより義昭の将軍復帰を実現させた。
その後、義昭から離反して信長に着いたが、終生義昭に心を注いでいる。まさに藤孝は足利の人である。
50年も前の話で、前後の話は全く覚えておらず、護貞さまのお言葉はそのようなことを仰りたかったのではなかろうかと推察している。
皇室の正統を云々する「正閏論」は、明治天皇の「南朝正統」のお言葉を以て決着した。
北朝の天皇(現天皇もそうだが)は、足利により並擁立された「閏」という訳である。
その足利の末裔であるという意味合いも多少ながら嗅ぎ取っているのだが、1966年ご次男近衛忠輝さまが、三笠宮甯子さまをお迎えになり、皇室とのつながりも生まれた直後でもあったから、そんなお気持ちもお有りではないかと推察している。
所詮は、「津々堂の戯言」ではある。

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■城下町図掲載のリクエスト・・その後

2023-11-15 06:43:25 | 地図散歩

 今年の2月初め■城下町図掲載のリクエストを書いた。
現在当ブログでご紹介している「熊本城下町図(安政比)」以外の絵図に掲載されている肥後藩士宅のリストの作成についてのリクエストであった。
9ヶ月を経過したが遅々として進まない。
少々考えすぎて「細川藩家臣略歴(川口恭子氏編)」に連動させようと思ったのがいけなかった。
つまり、諸家の場所の掲載がある頁を「肥後細川藩侍帳(津々堂版)」に記載したいとの思いがあってのことだが、これをやり始めると、まさにその侍帳を作る時と同じような作業が必要になる。
爺様はすっかり音を上げてしまった。約束は約束だ、辞めるわけにはいかない。
さあどうしようと思ったら、手が止り半年ほどが過ぎてしまった。・・・・・・・・まずい、大いにまずい・・・・・・・・・
平成28年11月熊本史談会例会で「熊本城下を古地図で散歩する」として、資料として配布したのがこの写真だが、このブログ内で「我が家検索リスト」でご紹介したように、掲載ページごとにしたら「簡単じゃん・・」と、少々手抜きすることにした。
約束したことは何とか完了させなければならないが、私には年齢というどうしようもないハードルがあるから、これを越すには手抜きも仕方あるまいと思い付いたら気が軽くなった。
その内に1頁毎、リストをこのブログに掲載しようと思っている。
まだ太陽は上がらないが今朝は誠に爽やかな気分である。

                     

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■御恵贈御礼「八代切支丹史」

2023-11-14 15:14:00 | 書籍・読書

                  

 過日の熊本史談会の例会の会場で、今は副会長を務めている若き友人中村君から拝受した。
中村君は熊本の歴史関係の大変な読書家で蔵書数はゆうに万を越しているらしい。
地震の時に下敷きになって死なないようにと、冗談で話をしているが、蔵書はふえるばかりで置く場所がないとこぼしている。
時々整理をしながら、処分するこのような貴重な本を頂戴している。
この本は、八代の十条製紙(株)八代工場の「夕葉文庫」という社内誌で、発行は1962年という古書である。
「夕葉文庫」の名の由来は、いにしえ球磨川は「木綿葉(ゆうば)川」と呼ばれていたことによるものだろう。
本の所在は当然承知していたが、このたび拝受して読んでみると114頁に及び八代一円における「相良時代」「小西時代」「加藤時代」「細川時代」の夫々の詳しい切支丹史である。
すでに所蔵する「日本切支丹宗門史」その他の刊行物や資料などと肩を並べて本棚に収めた。
遅ればせながら、有難くお礼申し上げる。

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■寵臣の言、有能の士を滅ぼす

2023-11-14 08:08:32 | 歴史

 明治天皇に仕えた永田永孚の母親は、蟄居させられた津川平左衛門女だとされるが、その永孚の著「還暦之記」には「国老遠坂関内、奉行入江某後素泉ト云ト共ニ三人故アリテ蟄居ヲ命セラル、其事秘シテ漏レスト雖トモ、公ノ郡夷則ヲ寵信シ華奢ノ風ニ移ルヲ極諫セシニ因テナリト云」とある。三人のうちの一人が大目付・津川平左衛門だとする。

以下の三人が享和元年11月、経済政策の失敗(?)を糾弾され免職、閉門・蟄居を仰付けられた。
「熊本藩年表稿」には次の様な記載がある。
   享和元年(1801)11月18日、中老兼大奉行・遠坂関内を免職し閉門蟄居せしむ。
                 中老堀丹右衛勝文を家老に任ず(交代人事)
           11月19日、奉行松下久兵衛に大奉行助勤を命ず(交代人事)
           11月21日、大目付郡夷則を中老に任ず(交代人事)
           11月29日、遠坂関内退役触状
           是月、留守居大頭津川平左衛門の職務を免じ閉門させる。(大目付とも)
           
   享和3年(1803)9月14日、奉行入江十郎大夫に蟄居を命ずる
   文化13年(1816)11月3日、藩主齊樹帰国し滞在中遠坂列三人へ目見えを許す
   文政2年(1818)8月、是月元中老遠坂関内、元大目付津川平左衛門、元奉行入江十郎大夫の罪を許さる。

 毎度指摘するのは細川家の手元不如意である。緊縮財政でなんとか難局を乗り越そうとする大奉行・遠坂に関して、の当時の藩主・齊茲が側近郡夷則らの意を受け免職させたというのがこの事件の本質らしい。
齊茲公も重賢公の遺訓を忘れ「華奢ノ風」に走られた。そして、有能の士三人は15年という長きに亘り閉居させられた。

遠坂関内は遠坂家の9代目だが、養子でありその実は熊谷傳之進の弟である。
父とも母とも頼んだ兄傳之進が病に付した時、蟄居の身ゆえに見舞いにも出られず、人を遣わしてそのさまを問ひ憂うのみであったという。そして実兄は死去しているが、葬儀にさえも出ていないのであろう。
  世に住める詮(かい)も波間の磯千鳥 鳴音も須磨の關の隔てゝ
「關」とはまさに蟄居の身を嘆いている。

關内殿謹之後 家居也 不梳髪 不剪爪 塵垢盈皮膚 老公一年赴江戸 過關内之門 召之 召出而拝之 亂髪長爪 似佛形 公亦凄然 (田中氏雑録)

この文章からすると、関内は江戸で蟄居したか?
謹みよく閉居して、髪に櫛も通さず、爪も切らず、皮膚も塵垢にまみれていた。齊茲公が参勤の際関内の家の前を通られ召されたので拝すると、乱髪・長爪の佛形の関内の姿に齊茲公は凄然とされた。

公にあり讒言により身を亡ぼすもの、君側の寵臣の不都合なる進言をなすもの、世は様々だが如何にも哀れを誘う話ではある。

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■先祖召し出しの恩人

2023-11-13 06:34:11 | 人物

             

 私事で申し訳ないが、これは我が家の細川家召し出しの経緯が判る先祖附の冒頭部分である。

      三斎様豊前より江戸御上下被遊候時分ハくた松(下松)ニ御船
      繋被成候 右市左衛門(初代の父)居宅浜辺に有之候を、御船被遊
      御覧御尋被成候ニ就而者磯部浄雲与申者之忰居
      宅之由清田石見殿 槙島雲庵方ゟ被達御耳候
      處兼而被為 聞召及候由ニ而市左衛門宅へも両度被為
      懸 御腰御膳等被召上候御供之衆ニハ浜辺に假
      屋を申付料理等差出申候由 其節市左衛門親子三人共ニ
      御前へ被召出御懇之御意共御座候 其後於豊前
      右石見殿雲庵方両人ゟ申参御意之由ニ而市左衛門子供
      両人豊前へ御召寄御児小姓ニ被召出(以下略)

つまり当家の初代(庄左衛門)と兄(長五郎)は、清田石見殿・槙島雲庵(昭光)御両人のお陰で召し出しになったという訳である。
清田石見の直接のご子孫ではないが、石見の兄・五郎左衛門のご子孫とは大変ご厚誼をいただいている。
今般全く偶然の事だが、横手の禅定寺の和尚様が槙嶋雲庵のご子孫だという事が判り、当家の曽祖父と絶家した一族のお墓がここにあり、驚いている。
お電話でお話したが、近々お邪魔をして親しくお話をしたいと思っている。
長五郎の家は男子がなく途絶えたようだが、先には、平川氏の古文書史料から、当家が庄左衛門の次男の系統で母方の姓を名乗り現在の姓になり、長兄も平川氏を名乗られ、熊本に於いては磯部の名前は途絶えたことになる。

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