昨日の史談会で2時間ばかりお話をしたが、前段であまりにも時間を摂りすぎて、レジュメの後半部分に触れず終いになってしまい、出席者の皆様に深くお詫びをするという体たらくになってしまった。
その中で細川家と前田家の縁戚関係に触れ、嫡男・忠隆がその故を以て廃嫡されるという結果になったことを縷々ご説明した。
一週間ほど前、ここにご紹介する石川郷土史学会々誌に「芳春院江戸證人一件」という記事がある事を見出し、注文していたが、昨日の朝お話のために我が家を出る時ポストに投函されていて、そのまま会場に持ち込み、内容を確認した。
徳川家康暗殺未遂事件で疑われた細川・前田両家が、和睦の条件として出された江戸證人については、巷間云われるように、前田家が細川家より早いという説は、前田家側の史料により否定されていることを確認し、滑り込みセーフのご報告をした次第である。
細川家は細川忠興三男光千代(忠利)が慶長五年の正月25日江戸入りしているが、前田家の利家夫人・芳春院は3月3日の前田-徳川の和解後、6月6日に江戸入りしたことが、この会誌に紹介されている。
上杉征伐から関ケ原の戦いが始まり、ガラシャが死に、細川幽齋は田邊城で15,000の敵に囲まれ、松井・有吉は豊後の石垣原で大友勢と闘うという大変難儀な一年であった慶長5年という年であった。
そんな困難を乗り越えて細川家はその年の暮れ、雪深い山陰路から拝領した豊前399,000石の領地へと入る事になる。
嫡男・忠隆と室・前田千世姫の離婚は、真実の処何時だったのかは、この資料を見ても確かなことは判らない。
但し、忠隆の姫の生母を前田千世姫とするご子孫内膳家のご主張は、現実的ではないことが伺える。
今週の「ブラタモリ」は「鯖街道」が取り上げられていた。
カックンと曲がった鯖街道(若狭街道)は、断層がもたらしたものと解説されていたが、二つの断層が同時に動いて形成されたとは予想打につかなかった。
今日は史談会で2時間ばかりお話をしたが、「熊川城主としての沼田氏」を御紹介することを忘れていたが誠に残念だった。
細川藤孝の実父といわれる足利義晴とその子・義輝についても、散々触れた処であったが、まさか朽木の里に逃れ邸宅があったという事は、私も知らなくて大いに勉強になった。
朽木氏の29代目のご当主が登場されていたが、細川家にも分流の朽木家(三淵家流)もあり、興味深く拝見した。
ここにある様に「京は遠ても十八里(72㌔)」といわれる鯖街道を歩き通して(?)の紹介は、タモリ氏にとっても楽しい一日になったようだ。
私もおいしい鯖寿司が食べたい・・・
来週は「目白」だそうだ。多分旧細川家関係の肥後細川公園や永青文庫、和敬塾や胸突き坂、神田川筋などが紹介されることを期待している。
今私は、久しぶりに生まれ故郷に旅行をする一週間前というような感覚の中にいる。
文禄の役で細川忠興について従軍した細川家の重鎮・松井康之は、嫡男の興之が手傷を負い重体となると、急遽帰国させたが治療の甲斐もなく名護屋で死去(文禄2年8月15日)した。
秀吉は、康之の帰国後、朝鮮での働きや嫡男の死去を慰労し、石見12万石を与えると表明した。
しかし康之は、あくまで自らは細川家の家臣であるとしてこれを辞退しているが、いつの頃か詳細は知り得ない。
一方、康之の母(荒川治部大輔澄宣の女)に対して茶湯料として与えられていた八瀬村の領地に加えて、新たに神童子村の160石余を加え、計173石余が康之に与えられた。12万石の話とこの知行とは、どちらが先であったろうか。
一、百六拾石壱斗七升 本地城州神童子 (現在の京都府木津川市山城町神童子)
一、拾三石壱斗弐升 母地同 八瀬村 (現在の京都府京都市左京区八瀬)
合百七拾三石弐斗九升
右令扶助之訖、可全領地候也
文禄二年十一月十一日 (秀吉)御朱印
松井佐渡守(康之)とのへ
この措置は、秀吉が亡くなり徳川の天下になってからも引き継がれた。(若干内容は異なるが・・)
康之の後は次男の興長が相続したが、興長は細川家の筆頭家老・八代城主そしてこの知行による徳川家直参という身分となった。
将軍家の代替わりがあると江戸へ参勤した。
細川忠興は、秀次謀叛事件に娘婿・前野が連座して切腹させられると同時に、秀次から黄金100枚を拝領したことをとがめられ、切腹の措置を危うく逃れるが、その返却を求められ康之をして秀吉への弁明に勤める一方、家康へ100枚の融通を申し入れ何とか事なきに至ったが、康之の働きは顕著である。
家康の代になると、前田利長以下の家康暗殺の企てが露見したが、当事者が処分される中、忠興は大阪屋敷の砦化の普請や両国に於ける備蓄が疑われた。徳川家重臣からは攻撃の為の出兵を示唆されたが、家康に対し康之が弁明に奔走し、幽齋・忠興・弟興元ならびに康之が誓紙を入れて詫びることで決着した。
いずれも、康之が身を削っての働きで、細川家入国後康之が病の床に就くと、忠興は沢山の見舞いの書簡を送り平癒することを祈り続けた。まさに細川家の為に身を捧げた一生であった。
コロナ肩痛がずっと続いていたが、ここ四五日痛くてたまらない。
私はお風呂はもっぱらのシャワー派だが、温度を高めにして患部にシャワーをあてるとこれが一番良い。
昼の間、何か良い対策はないかと思い、「貼るカイロ」を思い出し薬箱を探したら、何故かどっさり出てきた。
二枚シャツの上から貼り、温度が拡散しないようにとその上からカーディガンを着込むと、上腕部から肩にかけてホンワカ状態で良い按配である。
10時間効くというからありがたい。コロナ接種後肩痛に悩まされている方は結構多いと聞く。
早く気が付けばよかったと思っているが、これとて気休めで治るわけではない。「こまったもんばい」
細川忠利の「白川~川尻間の運河開削」については過去にも何度か触れた。
永青文庫に残る記録と、堀内傳右衛門が書き遺した「旦夕覚書」では随分内容が異なりこれが完成したのかどうかは疑わしい。忠利の死によりストップしたのではなかろうか。
熊本藩年表稿を見ても完成したという記録は見当たらない。
上の写真は熊本大地震で液状化現象が起きた地区のかって白川と河尻をつないでいたという「大河」の痕跡を示した図である。
(詳しくは第3回熊本市液状化対策技術検討委員会 説明資料)
液状化現象が起きた地区の皆さんは、まさか我が家の地下に大昔の「大河」が流れていたとは思いもされなかっただろう。
そして、忠利が拡幅開削をしようと考えた水路とこの「大河」の跡がほぼ重なっているのが興味深い。
今でも水色で示した水路は存在しているが、いかにも狭く忠利が望んだ高瀬舟が通るような運河とは思えない。
どなたか、お詳しい方は居られないだろうか。御教示を賜りたいと切望している。
以前もふれたがブラタモリ「北九州編」で、いみじくもタモリ氏が「黒田と細川は仲が悪いからね~」と発言していたが、福岡県人はこの事をどうとらえているのだろうか。
元来秋の収穫は次年の生活の糧であるから、移封され慶長五年の年末に入国する細川の為に置いていくのが筋であることは間違いない。豊前国唐津城主12万石だった黒田はそれをかすめ取って行った。
その量が11万石にもなるというのだから、知行の4割近いもので気の短い忠興(399千石)が沸騰したのは当然だろう。
処がこの事は、黒田家史料には登場しないという。黒田家が面目の為に意図的に記録から除外したのだろうと某教授は仰っているが、科学的実証が伴わないとすれば、歴史学上はこの話は本当かという話なるのだろうか。
あら方事実であろうという推測の元に、別の史料を掘り起こして実証していくのだから、これは探し回ってもなかなか見つかるまいと思われ、ある時ひょっこりどこからか資料が顔を出すのかもしれない。
「地域史研究の場合、日本歴史の展開の中に位置づけられたその主体性を怠れば、それはお国自慢の隠居趣味」とは、森田誠一先生がその著「歴史滴録」で語られる処である。
森田先生(タモリ氏ではない)が仰せの如く、津々堂のやっていることはまさしく隠居趣味だと自認はしている。
タモリ氏にも「黒田と細川は仲が悪かったと伝えられるからね~」と訂正をお願いしなければならない。
それでも歴史は面白い。私は稗史が大好きである。
今日は立冬、星野麥丘人という私と同年代の俳人の句に「立冬のクロワッサンとゆでたまご」というお洒落な句があるが、立冬の朝のほのぼのとした風景が見て取れる。
糖尿病の私としてはさしずめ「立冬や野菜サラダとヨーグルト」といったところである。朝食前には血圧その他の測定を怠らずにやる。
立冬や 脈もつねなる拍動す 津々
一昨日までは夏日が六日間続き、新記録になったようだが、紅葉がまだ本格的ではない。
立冬と言ってもピンと来ないのは、温かさのせいもあるが何時もと様子が変わらぬ変らぬ朝ぼらけだ。
今のMに引っ越してきてから、私は毎日東の空が白むころには起き出しているが、「毎日初日の出」を拝んでいる。
刻一刻と移り行く朝の景色は、まさに一期一会のたたずまいを見せてくれて、元気をもらう。
日の出の時間が随分遅くなり、その位置も随分南へ動き、季節の移ろいをこんなことでも感じている。
立冬や 昨日に変わらぬ朝ぼらけ 津々
慶長9年忠興の生死に関わるような大病を受けて、徳川家の干渉もあって忠利が継嗣子と確定すると、奇跡的に本復した忠興は、二男・興秋を江戸へ証人として送る事を決意、付け家老とも言われる長岡(飯河)肥後に出発を渋る興秋の説得を依頼する。
なかなか翻意しない興秋を説得したのは、忠興の側室であろうと思われる「小さい将」である。
小さい将は誓文の案文までも呈したらしく、興秋はこれを受けて江戸へ下る事を決意している。
そして、翌10年に至り長岡肥後らと共に豊前を出発した興秋は、京都入りすると建仁寺十如院で突然剃髪する。肥後らの知らぬ間のことであった。
肥後らは帰国して復命するも、謹慎を申し付けられた。この事は使者を以て幕府に届け出られたが、その使者が帰国すると、飯岡父子の誅伐事件が起こった。
面目をつぶされた徳川幕府の指示であったろうことが伺える。
この事件はまだ後を引いている。飯岡肥後の奥方は、三年以上夫婦仲が悪く疎遠であったが肥後の最期に当たっては肥後の元に戻り共に死した。
この奥方は長岡監物(米田是季)の妹だが、この事件が原因と思われ監物は豊前を出奔している。
熊本大学永青文庫研究センターの稲葉教授は、この一連の「興秋出奔=飯岡父子誅伐=米田是季出奔」事件を御家騒動ととらえ、忠興が「興秋勢力を強行的に排除する措置をとることで、回避されたのだった。」(稲葉継陽著ー細川忠利・ポスト戦国世代の国づくり・p27)と解説されている。
つまり、長岡監物の出奔に関して何らかの圧力があったという事だろうか。
歴史学は科学だといわれる。根拠あってのご発言だと思うからその根拠を知りたいものだと切望する。
米田監物は出奔から15年後、家督相続した忠利が直後に帰国を促した。そしてしばらく後家老の第二席に就任することになる。
【真作】喜聞◆『伊達政宗 書状(極月の文)』 1幅 古筆 古文書 古書 消息 仙台藩主 大名 武将 細川忠利の記述 茶道 歴史資料 桃山~江戸初期
宛先が良く読めないが、細川忠利を招いての数寄を行うについての招待状か。墨の薄い部分が読めないのが残念だが、「如昔之夕咄」などの文字が見え、親しい間柄の集まりのように思われる。
伊達政宗の「鶺鴒の花押」が見事である。内記忠利の行動を追って、いつの頃の物なのかリサーチしてみたい。
忠利は慶長5年(1600)8月(陣中・小山か)秀忠の諱を賜り内記忠辰と名乗り、暫くして忠利と改めたがその時期ははっきりしない。ただし同8年(1603)、氏を細川に改めているからそれ以降の事と思われ、元和8年(1622)には越中守となるから、内記の名乗りもこのころには消えているのだろう。
私がブログを書き始めた頃「忠利の生母は小侍従」と書いたことがある。
こんなことは綿考輯録には絶対書いてはないから、どこかの本で読んだことを書いたのだろう。
出処は戸田敏夫氏著の「戦国細川一族・細川忠興と長岡与五郎興秋」だろうと思われる。
先述の如く現在この本を精読しているが、p226に以下の如く、間違いなく書かれている。
系譜には、忠利の母について、光秀の娘または秀林院、と書かれた忠隆、興秋と同じとある。つまりガラシャが母だったとあるが、
実は忠興の側に仕えた小侍従という女性と、忠興の間に生まれたのが忠利であったようだ。小侍従は、公卿清原頼賢の娘で、その容
貌はガラシャに似ていた。一説には、清原の養女とも、ガラシャの妹ともいわれる。おそらくガラシャと小侍従は、お互いの容貌、
姿の類似から、姉妹のように、気心の合ったふたりではなかったか。二人が手紙のやりとりを随分行っているのを見ても想像がつく。
だが忠興は、小侍従が忠利を生んだあとは、すぐ小侍従を家臣の松本因幡と妻わせた。因幡は元の姓を平田といい、知行百石。
京の者で、宮津時代から細川家に仕え、田辺籠城などを経て丹後以来の働きが認められ、豊前へ入国ののち三千五百石に加増された。
戸田氏は自信満々の躰で書かれているが、出典を書いていただいているとよかったのだが、上記の如くブログで書いて、お叱りをいただいたことを思いだした。
「~だともいわれる」という表現があるがこうしておくべきだったと思うが、この言い回しのありようは誠に便利である。
この本の最期には「略歴/細川家と周辺のひとびと」という、個々人の略歴が紹介されているが、こちらにはしっかりと忠利の生母は「忠興の三男、生母は光秀の女」とあり、御愛嬌である。
■ 松本助左衛門 【丹後以来】 (南東37-19)
1、平田因幡 【田辺城籠城】 妻・忠興公室(ガラシャ)御付「小侍従」
生国佐々木の氏族也、佐々木家没落ニ付、離国後、京都に居申候、兼々忠興君御懇意て、
是非丹後へ罷越候様、米田宗賢を以被仰下其子彦三と共に、宮津江罷越、数日被留置、御
懇意相重り、百石の御擬作被下、其上御前様江被召仕候、小侍従と申女房あしく不被成訳
にて候を、因幡妻ニ被下候、取持候様にと宗賢妻ニ被仰付、嫁娶仕、何となく御奉公申上
候 (中略)今度宮津にても働き、直ニ駈来、篭城仕(田辺城)父子共ニ北海手の持口の
内、宮津衆各と有内成へし御利運に成、三斎様関原より御のほりのせつ、父子途中まて罷
出候へは、籠城の次第被聞召上、御感之旨被仰出、夫より福智山江御供仕、働申候、豊前
に被召連、丹後已来之忠義御感有之、因幡へ御知行三百五十石被下、平田を松本と被成下
候而、御櫓一ヶ所御預被成候 (綿考輯録・巻五)
小侍従 明智日向守殿より秀林院様江被附置候女房にて候、太閤様御代諸国御大名奥方伏見御
城為見物被召寄候刻、秀林院様へハ御出被遊間敷由ニ而、山内と申所ニ御立退被成候、然
共不被成御出候而は叶かたき趣に付、小侍従申上候ハ、乍恐私儀常に奉似御面候体候由承
候間、御名代ニ罷出申度願申候間、高蔵主御取次にて太閤様御前へ被召出、殊外御機嫌よ
く御直ニ御茶被下御小袖等拝領、其後も右為御礼、猶又登城仕候、ヶ様之訳にて因幡果申
候而も後家へ御合力米被下候 (綿考輯録・巻九)
11月2日、熊本県立劇場で、朗読音楽劇「高麗門秘話‐小笠原玄也一家の十五人‐細川藩キリシタン武士の殉教」が催された。
寛永十二年(1635)十二月二十三日、この殉教は家族や召使など15人全てが殺されたが、実は別に二人の人が殉教している。
一人は志賀休也、今一人が小宰相(こさいしょう)と呼ばれる人である。
寛永十一年(1634)、細川家家臣志賀左門(大友一族)の家に志賀休也という筑後の浪人が寄宿していた。この時、春日寺(岫雲院)の書物(仏教徒である証文)を持っていたという。
しかし、小笠原玄也一家(妻は加賀山隼人の娘)と共に禅定院で処刑されたのである。
左門はこの翌年、大友兄弟、右京、権左衛門、休悦らと七月に転宗したと『肥後切支丹史』は記す。
今一人の小宰相についてはつまびらかな史料が見当たらない。その名前からして細川家の奥にでも勤めていたのだろう。
先日、戸田敏夫著「戦国細川一族‐細川忠興と長岡与五郎興秋」を読んでいると「小さい将」という名前が登場してきて、上記の殉教者「小宰相」と同人物なのではないかと考えたりしたが、肯定する確かな史料がない。
この「小さい将」は忠興の側室であったらしいが、忠利が忠興の継嗣子となった後、兄の細川興秋が父忠興により江戸への證人に指名されたが、これに抵抗した興秋を説得したのがこの人物だとされる。
興秋は落ち着きを取り戻し、松井佐渡・加賀山隼人宛に「天罰起請文前書之事」を認めるとともに、同日この「小さい将」にも「申立てう/\の事」という五項目にわたる「誓文」を書き遺している。
興秋(たゝ以=忠以=ただざね)にとって身近な信頼のおける立場の人であったらしい。母ガラシャの近くにいた人かもしれない。
そして、もし殉教した「小宰相」と同一人物であれば、ガラシャが亡くなった後猛火の吉田屋敷から逃れた人の一人であり、当然切支丹であったのだろうと推測される。
11日の熊本史談会11月例会でお話することになって、レジュメを作ったりパワーポイントを編集したりと一週間ばかりを過ごした。
そんな中で、改めて資料を眺めていると、錯誤があったり今迄知らなかった事柄などが顔を出すと、段々不安が募ってくる。
そこで改めていろんな本を読み返している。
藤孝公が生まれた天文3年(1534)から廃藩置県(1871)までの337年間を、1頁12年(左右両面)の年表にして、本を読んでは片っ端からここに記入して、細川年表を造っているが、いろんな事件・事柄などの時代的重なりなどが見えてきて興味深く、ここ数日で随分内容が充実してきたことを感じる。
ぎりぎり金曜日まで勉強三昧となる。
最近81爺様は年相応の劣化がひどく、とても人様の前で話が出来る状態ではなくなってきた。
恥をかかないようにという想いと、最後の御奉公かなとという想いが錯綜している。
先に熊本藩の川尻御蔵ならびに玉名の高瀬御蔵跡が「国指定史跡」に認定されたのを受けて、川尻御蔵は整備が進み一般公開の運びになった。
又、玉名の御蔵は高瀬御茶屋と敷地を一にしているが、国指定を受け今後は詳細な調査が進められるらしい。お茶屋の復元など進めば有難いなと思う。こちらではこれを記念して市立歴史博物館・こころピアで展覧会「御蔵をめぐる人びと」が開催される。
又、11月12日には玉名市民会館・会議棟で講演会「14:00~16:30(13:30開場)」が開かれる(入場無料・事前予約不要)
■「熊本藩制と年貢米ー近世中後期を中心にー」熊本大学永青文庫研究センター准教授・今村直樹氏
■「江戸時代大阪米市場における肥後米の位置」神戸大学経済経営研究所准教授・高橋泰郎氏
昨日は「熊本四街道 第13回シンポジウム」に参加してきた。
先ずは来賓の、熊本河川国道事務所の福井氏の挨拶が有り、古き時代の遺産ともいうべき四街道と、時代を反映する高速道やTSMU等の立地に伴う連絡・通勤網としての道路の整備など、県下の道路事業についての詳しい説明を受けた。これらの新しい道が、四街道と共に新しい文化を形成されることであろう。
基調講演は、肥後医育ミュージアム研究員の松崎範子氏の「熊本藩の街道と宿場町」、忠利公の指示により開かれた味取町が単なる通過地であることから、豊前街道と玉名道の結束点である現植木町に新たに味取新町が形成される過程等、その他にも大変貴重なお話を伺うことが出来た。
報告として大津町の文化財保護委員の竹下洋一氏の「豊後街道と上井手沿いの歴史的景観を護り発信しよう」という、文化財の保護がいかに危うい状態にあるのかを当事者の苦悩というべき現状をお聞きし、同上を禁じ得なかった。
シンポジウムでは、コーディネーター・吉村圭四郎氏の進行で、会長の甲斐利幸氏「昔日の古道は訪れる人をワープしてくれる。」熊本歴史学研究会副会長・武田宏司氏の「中世における真言律宗寺院の立地」、玉名市教育委員会・佐藤夕香氏の「高瀬御茶屋」、熊本市文化財課の松永直輝氏の「明治初期の3人の来熊者、ジェーンズ・明治天皇・モース」等それぞれの発表も興味深い物であり、貴重講演の松永氏
がそれぞれの発言を受けてまとめの発言をされて終了となった。
有意義な一日をすごし満たされた気持ちになって、賑わいの中にある会場・熊本城城彩園を後にした。
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(
資料準備のため、事前にご電話申し込みをお願いします。電話( 090‐9494‐3190 眞藤)
参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。