鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.102『群衆と宗教管理者にカメラを回していく』(7章)

2005年11月06日 | ヨハネ伝解読
                                      


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=聖句=
 「・・・こうして群衆の間では、イエスが何者であるかについての意見が分かれた」(7章43節)
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 次にヨハネは、群衆たちがイエスに対していろいろな見解を抱いている様を順に示していきます。

 あるものは預言者だと言います。
 またある者は「救い主」だという。
 すると別の者は

 「救い主(キリスト)ならば、ダビデの生まれたベツレヘムから出るはずではないか。聖書(旧約)にそう書いてあるから」

             ~~と反論します(40-43節)。

 ヨハネは、これらの人々にカメラを回していくかのように、その表情を描写しています。各々簡単に写していくだけ。この第7章はオペラの間奏曲のようです。

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 ここに描写されているように当時のユダヤ人は「聖書にはこう書いてあるではないか」といつも聖書の預言を踏まえて考え、議論したようですね。今でもそういう特徴はなくなってませんが。

 この点に関しては、イエスは全く正しいとしています。ただ、その解釈が外面的、形式的になってしまっていると高僧たちを批判したわけです。

 その高僧たちは、ユダヤ教の立場に立って、宗教を管理する人々です。ヨハネは、この管理者グループの面々にカメラを回して、7章とされている部分を終えます。

 ユダヤ教僧侶の頂点には祭司長がいます。これはサドカイ派のユダヤ教徒によって占められている役職です。それを取り巻いてパリサイ派の人々がいます。

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 パリサイ派の人というのは、旧約聖書に書かれているすべての律法に厳格に従おうとした人々です。

 かれらは、天使や人の霊の復活などの霊的なものの存在を認めていました。後に福音を異邦人(ユダヤ人以外の人間)に伝えるのに大車輪の活躍をするパウロというユダヤ人がいます。彼はパリサイ派に属した人でした。

 他方、サドカイ人(びと)というのは、聖書のはじめの5書、すなわち「モーセ五書」に書かれた律法だけに従うべき、という立場のユダヤ教徒でした。

 また彼らは天使などの霊的存在を認めませんでした。ということは、人の霊についても認められませんので、従って、復活も認めない。そういう人々でした。

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 それで、宗教なのか?と疑問に感じる読者もいるかも知れませんね。その通りですが、実際には、そういうことはままあるのです。仏教も釈尊の教えた原点では、霊的な存在は考慮の内にありませんでした。

 また、日本的キリスト教でも「愛、愛」と言っているだけで、霊的な存在に関しては無関心という現象が顕著に出ています。彼らはそれで宗教だと思っているわけです。ニッポン人も不思議だなあ・・。

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 経済階層的にみると、パリサイ派は主として中産階級、サドカイ人は最もお金持ちでした。これは、心理法則にも合いますね。人間は、経済的に富んでいくほどに、霊的な意識が薄れていくものです。物理的世界を楽しめますので、そこに多くの関心がとどまっていくんですね。

 イエスは「金持ちが(霊的な)信仰を持つのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」という意味のことを言っています。今述べた傾向をとらえて教えているわけです。

 なお、ユダヤ教徒には、この他に、エッセネ派というグループがあったことが最近わかってきました。クムラン文書というのが発見されてそれがわかったのですね。彼らは、世間から離れて、瞑想三昧の隠遁生活をするグループでした。律法を守るのに懸命になるのではなく、創主との霊的交信を強く求めた人々だったようです。

                  
コメント (1)
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