鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.103『「律法いのち」の世界で律法を踏みにじったと誤解される』(7章)

2005年11月07日 | ヨハネ伝解読
~~~マジェスティさん、コメントありがとうございました。
さあ、今日も元気で「ヨハネ伝解読」。
「考える宗教」を続けていきましょう!


                        



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=聖句=
 「下役どもが祭司長やパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはいった。『なぜ、あの男(イエス)を連行してこなかったのだ』 下役どもは答えた。『この人のように語った人は、これまでありませんでした』 パリサイ人たちはいった。『おまえたちまでがだまされているではないか・・・』」(7章45~47節)
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 パリサイ人たちは、エルサレムの神殿の広場で、自分たちと違った教えをするイエスをとらえようとしました。

 とらえに行かされていたのは神殿の守衛などの役人たちでした。彼らは、手ぶらで帰ってきました。パリサイ人は戻ってきた下役たちに言います。

 「おまえたちは何でイエスをとらえてここに連れてこないんだ!」 守衛は応えます。「あの人のような風に語る人は今までにいませんでしたので・・・」

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 これは何を意味しているのでしょうね。イエスの教えていく内容について、これまでこんな風なものはなかった、といっているのでしょうか。

 あるいはイエスは、自らを百パーセント「権威ある者」との前提で、断定的に教えている、その語り口を言っているのでしょうか。

 イエスは「僕はこう思うよ」とか「・・ではないでしょうか」なんて謙虚な言い方はしませんからね。後者の可能性が高いですね。

 イエスのその権威ある語りの風格に圧倒された。とらえようと足を踏み出すことが出来ず、自分たちもただただ聞いてしまっていた~~と。パリサイ派の人々はあきれます。「おまえたちまで、のせられてしまっているとは・・・」(47節)

そして続けます。「おまえたちの中に、いや、パリサイ派の人々の中にも、あの男の話を信じた者はいなかったか? いたら言いなさい」と。さらに続ける。

 「群衆にはのせられるのがいても仕方ないんだ。彼らは律法をわきまえていなからな。もともと呪われた連中なんだから・・」(48-9節)

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 ここでどうして「律法をわきまえない」が批判の言葉として出てくるのでしょうか?

 当時も一般大衆は貧しくて、律法をきちんと学ぶ余裕はありませんでした。だから、大衆が律法をわきまえてない~~それはいいでしょう。

 しかし、高僧たちは、イエスもその律法をわきまえてない一人だ、だから、間違った教えをしている~~と判断しています。イエスの教えることは、当時の彼らとしては、律法を踏みにじり、ないがしろにする教えだとしか受け取れなかったのですね。

 イエスは、「人間は律法を守りきることは出来ないんだ」と教えるんですね。

「だから、私が来たのだ」
「私はすべての人の罪を負うべく、死ぬために来たのだ」
               ~~と。

 こういう話を聞くと、律法を守って生きてきた人々の頭には、「この男は、律法をないがしろにして人々を堕落さす教えを説いている」というイメージしか浮かばないでしょう。

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 実際にはそうではないのですけどね。

 イエスは「罪というのは、行いによるものだけでなく思いによるものもあるのだ」との主旨を教えています。「女を見て姦淫の情を抱けば、姦淫をしたと同じに罪なのだ」というのはそれを言っているのです。

 (だったら、渡辺淳一とかいう作家なんて、朝晩罪犯してることになるね。のみならず、それを小説にして何万という読者に姦淫の情を抱かせているよ)

 だからイエスは「自分は律法を完全化しにきたのだ」と言うんですね。律法とは、もともと、そういうものなのだ、という。そうしたら、誰もこれを犯さないでいることはできないことになります。

 出来ないけれども、律法は厳然としてある。だから、「守れない」という論理が成り立つ。私が「守れない」と言っているのは、律法をないがしろにしていない結果だーーーたしかにそういう理屈になるんですね。

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 けれども、鹿嶋も含めて通常の人間は、それがわかるほど賢くはないのですね。
パリサイ派の人々たちも「イエスは律法をないがしろにしている」という風にしか考えられない。

 律法は彼らのいのちです。それに反したら、体罰刑をも当然のごとくに与えてきた彼らです。

  テレビで、アフガニスタンのタリバン政権下での処刑をみたことがあります。盗みをして、手首を切り落とされた老人が報道されていました。姦淫した女は、競技場で公開銃殺されていました。

 当時の正統派ユダヤ人たちも、そういうのが当たり前という生活をしていたのです。それほど律法を生きるよすがにしていたのですね。

 これを踏みにじっていると誤解されたイエスは、それだけでも殺されるしかありませんでした。イエスはすごい教えを述べていたのですね、こんな状況の中で・・。


                 
コメント
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