鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.2「門前活動に留まってしまう」

2005年11月15日 | 「考える宗教」へ
前回、すこし厳しい言い方をしました。
だが、かといって鹿嶋はああいう会を「全く」無益だというつもりはありません。


                                 


 雷門で有名な浅草の観音神社(寺か?)がそうでありますように、
福音にもその入り口の門もあり、門前町もあります。

 この門前をきれいにならす人も必要でしょう。
それは、門の中をのぞいたこともない人が、門までやってくるのを容易にします。
門前をきれいにして、中が楽しそうだと想像させることは、福音伝道の一役を担っているのですね。

+++

 だけど、それはあくまでも門前ならしです。
聖句という福音の真髄を尋ね求める門に足を踏み入れないでしている活動です。
雷門の門前通りの店々は活気があってきれいです。
でもそれは門前のにぎわいを作っているにすぎないのですね。

 ところが日本福音の場合、その門前を平らにならしている人々のほとんどが、
その仕事こそ福音活動そのものだと錯覚しているようにみえるのです。
そこに集まった人々が、たとえば小グループを編成して聖句を探求する、
というようなことがみられません。

代わりに、門前にとどまって他のことばかりしています。


                    


 <「証し」中心のイベント活動>

 その「ほかのこと」の代表が「証(あか)し(testimoniy)」と称する、経歴披露ですね。
洗礼受けてクリスチャンになるまでの私の履歴書。これを披露し合います。
あるいは、クリスチャンになったら仕事の上でこんないいことがあった、といったような事情を披露し合います。

 それもまったくムダなものとは言いませんよ。だけど、福音活動の中核ではありません。

 女性のドレスで言ったら、フリルのレースみたいと言ったらいいかな。
絵で言ったら額縁みたいなもので、中身の絵画そのものではない。
それは中身を彩りますが、あくまでも周辺的な彩りにすぎません。



                    

 ところが、日本では多くの場合、それが中心になってしまうんだなあ。
そのなんとかクラブでも、パンフレットを見るとそれが会合イベントの中核でした。

 鹿嶋はそれを“証しゴッコ”と昔からいっています。
ちょっときついですけどね、率直に言うとそうなってしまう・・・。

 語り手の人生に同情したり、自分の履歴と照らし合わせて共鳴したり、
人の人生をのぞき見できた満足感で妙な近親感を感じて一気に同志になったと錯覚したり・・・。

 ところがその実、あんまり近親的になっていないんだなあ。
心の芯のところではちっとも融け合っていない。
愛、愛、なんていってますが、一つ外に出ると結構互いに冷たかったりする。


                    


<聖句が浸み込むと聖書に似る>

 人間の心に、聖書にあるような愛が出来るには聖書に似なければなりません。
そしてそれには聖句が深く心にしみこむことが必要なんですね。
それでもって初めて心が根底から解けて聖書に似ていく。

 それには聖句の奥義を尋ね尋ねて吸収していくことが必須条件なんですね。
その門に入らないで、門前で賑わいを作っているだけでは、
なかなか聖書に似ていかないんですね。

(続きます)


                     

コメント (1)
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