「鹿嶋春平太チャーチ」へようこそ。
今日はこれまでの話をまとめてみまましょう。





鹿嶋は、聖書に人間の言葉で記されている聖句は、外枠であり金網でしかない、と考えてきました。
もちろん、その金網は、天の創主の思いにかたどられた独特の形状を持っています。そして、その金網は永遠不滅のもので出来ています。形状も変化しないし、不滅です。
けれども、外枠はやはり、中身の霊を霊感でもって認知させるためのガイド(案内)であり「手がかり」なのです。
絶対の真理の本体は、その中身の霊である聖霊なのです。そしてそれは、雰囲気という「気」としてのみ感知できるものです。
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それが雰囲気(より正確にはオーラ)として霊感の豊かな人に与えられた。あるいは言葉で与えられることもあった。が、ともかく旧約の預言者や新約の使徒たちはそれをキャッチしました。 そして文字に書き留めました。
だけど、彼らの霊も、この世では肉体の中に閉じこめられている霊です。
罪を犯す前の「はじめのアダム」は、肉体の影響を受けないほどに強い霊でした。だが、「あとのアダム」やその霊を受け継いだ人類の霊からは、力が減退しています。
だから、霊感でもって受信すると言っても、やはり、多少のバイアス(ずれ)が生じる。これは自然な、法則通りなことなのですね。
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言葉の限界もあります。
創造主からのメッセージには、言葉として与えられていないものもあります。映像(まぼろし)もその一つで、「ヨハネの黙示録」などではそれがたくさんあります。
そういう言葉でもって受けていないものについては、ヨハネは言葉にする必要がありました。
人間の言葉は有限です。
霊感を言葉に置き換える能力も、有限です。
そういう文書が集めて納められたのが聖書です。文書の間で、細部にわたったところの描写に多少の不一致があるのは、それは自然なことなのです。
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けれども、なんともありがたいことに、それらは細部においてでした。基本的な骨子においては、驚くほどに一貫して矛盾がありません。
「旧訳聖書はわたしについて預言したもの」というイエスの言葉に立って解読していくと、終始一貫筋が通っていきます。
そして、それえを手がかりにして、その中身のオーラ(霊)を感知できるときが来ると、聖書は「わかって」きます。この霊(聖霊)が、絶対の真理の本体なのです。
字面ではありません。字面は外枠の金網です。

