~~斉藤さんのコメントのページに、くりまんサンからもコメントが入りました。
「読む人いないのでは・・・」と心配していたところに、「読んでるよ」との信号が二人もの人から入ると、単純な鹿嶋はまるで一グループの同志がいたような気になりました。
くりまんサンには、以前に了承いただいておりましたので、これも本文に転載させていただきましょう。
Unknown (くりまん) 2005-11-28 20:24:58
こんにちは。いつも更新を楽しみにしております。
日本の多くの教会において、「証し」は信じて受洗した時のものを歌手の「一発ヒット曲」のようにその後何年も語り継いでいく傾向にあるように思います。
一部の教派においては、救いをうけた後の「聖霊のバプテスマを受けた証し」や「癒しの証し」等がみられますが、現状ではこれらを堂々と証しするのは、牧師さんに遠慮してむずかしいのではないのでしょうか?
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そこで救われた後の証しは、教会内での活動をとおしてのものや、日常生活において「神を意識した出来事」などのあたりさわりのないものが中心になっているように思います。これらのものは「証しをするための」証しのようなものも多く、「神は付け足し」のようです。
救いを受けた後、牧師さんを含めて、何を追及したらよいのかわからず、社交サロン化してしまっている教会が多いのではないのでしょうか?
~~う~ん、言われて気づきました。意図的ではない、「何を追求したらよいのかわからないから・・」だったのですね。これを誰かが明確に示さなければなりませんねえ。
私自身、未信者だった頃、罪責感の中で苦しそうに祈っている先輩方を見た時、「救われるのは死ぬ間際でいいや~」と思ったものでした・・・(苦笑)。
~~う~ん、これもまた痛烈。「痛烈大賞コンテスト」もうけたら、斉藤さんとトップを争いそうだなあ・・。(鹿嶋)