聖書では、人間は本来、聖霊の感触を心の最深部で渇望しているものだ、という人間観です。
これを受け入れますと「人はイエスの言葉の中身が一つわかると、さらに欲しくなる」という道理になりますね。
これが御言葉(イエスの言葉、創主からの言葉)への「飢え渇き」です。
これが増すと、人間は、イエスの言葉がもっと欲しくなります。
学ぶと心に抱く言葉の数が増していきます。
それがまた、外側の聖霊と共鳴すれば、イエスの言葉で出来た共鳴箱が、その人の意識の中に増えていくことになります。
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そうしていると、驚くべきことがおきると、聖書は約束しています。
そういう人間の心には、あるとき、聖霊そのものが内にはいる、と。
これが聖霊のバプテスマです。
<風のような聖霊>
これがまた、画期的な事件なのですが、その前にそれ以前の状態について考えます。
通常この地上にきている聖霊は、風のようにきて風のように去ることを繰り返しています。
ニコデモというユダヤ教の僧侶に、「風は目に見えない。それはどこからともなくやってきて、どこかわからないところに去っていくよね。だけど、我々には風が存在するという感触は確かにあるよね・・・」という主旨のことを、イエスは教えています。
この風は、聖霊のことをたとえていっています。
そうすると、人間の外側から働きかける聖霊も、働きかけては去っていくことになりますね。
もちろん、きて働いて欲しいときは、祈れば答えてくれる可能性もあります。
けれども、人間、クルマの運転してるときもありますし、お金の計算しなければならないときもあります。
この世で肉体を持って生きている間は、二十四時間一秒も絶え間なく聖霊を祈り求めることは、実際の話、出来ません。
で、聖霊は、去っていくこともあるのです。
そして去っていったら、イエスの言葉で出来た共鳴箱は共鳴しないという通りになります。
そうなったら、イエスの言葉から得られる実感が、消滅します。
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ところが、聖霊は、人の心の内に入ってしまうこともある。
そして聖書では一旦入ったら、もう出ないと約束しています。
すると、その人の内では、イエスの言葉が常時共鳴するようになります。
「聖霊を受けたらイエスの言葉が突然よくわかるようになった」という証言をよく聞きますが、それが理由です。
飛躍的にわかるようになる。
そうすると、「御言葉への飢え渇き」も飛躍します。
従来とは比較にならないほど、イエスの言葉をその人の霊が求めるようになるのです。
(続きます)
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