鹿嶋春平太チャーチにようこそ。
前回、久保さんの「原本の文章は絶対真理」という見解を、ファンダメンタリズムとおなじといいました。今回、これを考えましょう。
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久保さん的見解では、まだ、人間が受信し言葉でもって記録するものに、完全な真理の可能性があると考えているのです。
新訳聖書の原本は残っておりません。だけど、聖霊に導かれた使徒たちには、完全な真理を受信し、記録することが出来た、と考えている。これは人間に真理のメッセージを完全受信でき、かつ記録できる、という思想を含めているのです。
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そういうことになりますと、たとえば、ベニーヒンのような人の霊感受信も完全なものであり得る、となります。
彼の「癒しのクルセード」集会では、癒された人が舞台に上がって癒されたことを証言します。そして、証言をした人が舞台を降りようとするとき、呼び止めることがあります。
その人に、「まだ***に病んでいるところがあるのでは? いま、聖霊が自分にそう告げたんだけど・・・」と尋ねます。すると、当人が「そうだ」というのです。こういうことが時としてあります。
人間に完全な霊感受信が可能と思っていますと、こういうものに対する反応は、次のような両極端のどちらかになります。実際にはこの二つを時計の振り子のように行き来することも多いようですが、とにかく二つの極とは次のごとし。
① 一つは「すごい!」と彼に心酔してしまう、という極です。
② 今ひとつの極は、彼の霊感を、「あんなものはまやかしだ!」と、100パーセント否定するという反応です。どうしてそうなるかというと、肯定すると100%心酔することに自分がなる恐れを感じる。それが怖いから、最初から徹底して抵抗・否定するわけです。
後者のケースは米国でも多いです。カリフォルニアに、ベニーヒンの説教を全部記録して、それが聖書と合致しないところを暴き出すための研究所まである、という話を鹿嶋は聞きました。まさかと思いましたが、どうも本当らしいです。
どうしてこんな過剰反応をせねばならないか。人間の霊感受信は完全になりうる、と自覚的であれ、無自覚であれ、思っているからなんですね。で、つぎつぎにしるしを現すベニーヒンをみると、それに自分が心酔しかけていく。これが怖いから懸命に抵抗線を造ろうとするんですね。
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事実は、絶対否定(拒否反応)と絶対肯定(心酔)の間にあるでしょう。
ベニーヒンは霊感で何かを受信しているのです。でも、それは100パーセント正確なものではない。クリアではない。やはり、何パーセントかの明確さでもっての受信なんですね。それのパーセンテージも、時によって変化するでしょう。
彼自身、霊的なコンディションが悪いときには受信が困難になると言っています。当たり前のことです。人間の受信ですから。
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しかし、久保有政さん的見解を安易に受け入れていると、人間のすることへの過剰な期待が心に出来てしまうんですね。するとそれらしき人やその人の言うこと、書くことを絶対真理だと思いがちになる。ところがそうなるのは怖い気持ちもある。そこで恐怖感を持つようになります。
つまり、「真理が人を自由にしない」可能性が出るのです。人間が自由に向けて進むためには、最低限言葉の限界を知ることが必要条件であります。次回にそれをもっと詳細に考えましょう。
(続きます)
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