前回、真理とは言葉の外枠をガイドにして感知される霊であると言いました。
なのに、聖句という言葉の字面が、絶対の真理とするとどうなるかを、今回は考えましょう。
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言葉は、外枠としての金網でしたね。これ自体を真理だと見なすと、その金網が真っ赤に熱せられたような状態になるのです。
かな(金)火箸、というのをご存じですか?
火のついた炭などをつかんで取り出したりする時に使う、金属で出来た箸です。
これを火の中に入れておきますと、熱くなって真っ赤になります。
これを「焼け火箸」といいます。
もう熱くて使えません。距離を置いて見ているしかない。
触ったらやけどして、水ぶくれになります。
もう、怖くて触れない。
たとえば、前述したイエスの言葉ですね。「もし右の眼が罪を犯したら、その眼をえぐり出して捨てなさい・・・・」云々の命令の言葉。これなど字面のみをとったら、焼け火箸ですよね。
聖句の金網も、字面を絶対の真理としたら、焼け火箸のようになります。
真っ赤に燃えた焼け金網になる。
一度触ったらもう、怖くて触れなくなります。
字面を絶対真理としたら、聖句はそういうものになってしまいます。
そうなると、もう聖句の門の中に踏み込んでいこうという気にならなくなります。
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ではどうしたらいいか。内容のつながりを読みます。そのつながりとは、別の言葉で言うと「本筋」です。聖句には、細部において一致しないところがありますが、ありがたいことに、本筋においては、信じがたいほどに首尾一貫しているのです。
それを見つけ出そうとしていくのです。その際、留意すべきことがあります。それは「個々人が、各々のペースで、各々の回路で探り出していく」ということです。
聖書の世界は飛び抜けて深いです。みんな、そういう個々人ベースでしか「納得ある理解」には至れないのです。これについては後にもう少し詳しく考えましょう。
(続きます)
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