私たちは「真理は人を自由にする」というイエスの言葉を深く詳細に考える必要があります。
人間の言葉そのものに、それを記した文字の字面(じづら)に絶対真理を求めるいきかたは、
人の精神の自由を奪うのです。





ヨーロッパの中世では、1000年以上にわたって、カトリックの教理主義が人々を支配しました。
教理というのは、聖書の解釈です。
その一つを教団が正統な解釈とすると、それが教団教理となります。
カトリックの教理はとくにドグマと言います。
中世のカトリック教団は、国家の宗教省(日本で言ったら文部科学省)で、
国家権力でもって人民の宗教姿勢を統制できました。
彼らは聖句の自由な探求を禁じました。自分たちが正統とする教理以外の解釈をすると、
裁判にかけ罰則を下しました。
それが宗教裁判と火刑であったのは、よく知られています。
こういう体制下では、人間は恐怖で萎縮します。精神の自由がありません。
その反省から、教理の源にある聖句そのものを絶対視する立場が生まれました。
これはファンダメンタリズムと言われることが多いです。聖句絶対主義ですね。
ところがこれもまた危ない。
これは教理主義の欠陥を脱却したものに一見みえますが、その実そうではありません。
人間の書いた文字の字面に絶対真理を認めるのですから、
本質は教理主義と同じことをしている結果になるのです。
で、人を自由にはいたしません。

<右目が罪を犯したら・・・>
聖書には、怖いことも書かれていますよ。新約聖書には
「右の目が罪を犯したらその目をえぐり出せ、右手が罪を犯したら切って捨てよ」
という主旨の言葉が、イエスの言葉として記録されています。
この聖句を単独で取り出して、それを絶対真理としなければならない、となったらどうなるか。
人は聖書を恐れるでしょう。
真理とするということは、従わねばならないことに通じていきますから。
イエスの言葉は、弟子たちも聞いています。
で、これを聞いて明くる日ペテロは片目になってイエスの前に現れたか?
ヨハネは片手を切り落として、出てきたか?
そうではなかったですよね。
と言うことは、イエスのこの言葉は「解読」が必要ということになりますね。
解読をするというのは、聖句の文字それ自体を、字面を絶対真理とするのではない、ということです。
ファンダメンタリズムだったら、人は「自由にされません」よ。

久保牧師さんは、聖句絶対主義をまもろうとして、
現存の聖書は写本をもとにしたものだから矛盾したところも含んでいるけど「原本の文章は無矛盾で絶対真理」
といっておられる。
だが、こういう考え方、スタンスは基本的にはファンダメンタリズムとおなじなんですね。
次回それを考えましょう。
(続きます)

