これまで述べましたように、日本の福音活動は大半が門前ならし活動なのですが、中には少数ながら、ちょっと門の中に入ってのぞいてみた人もいます。そして、その世界があまりに深淵かつ広大であってとても真理が見出せると思えなくて退却した人もいる。
その中には一転して「聖書の言葉は、絶対真理ではない」と主張し始める人も出ます。それで「聖書の記述には誤謬があるのだ」と証明するのに多大なエネルギーを注ぐ結果になってしまっている。
鹿嶋は、インターネットでそういう方のHPを偶然拝見しました。佐倉哲というかたのHPがそれでした。そこでは実際の聖句をあげて、同じテーマについてここでこう言っているのに、別のところではああいっている。これは明らかに矛盾である。だから、聖書の言葉が真理であるというのは妄想だ~~という反論を根気よく続けておられました。
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それには読者からの反対見解も併記されておりました。
反論の一つに、「それは聖書が写本を集めて編集したことによる。写本には、筆写の間違いがあるだろう。だが写す前の原本はそういう矛盾のない絶対的なものだったのだ」というのがありました。
へ~え、そういう見解もあるのか、とみておりましたら、その論者がなんとあのレムナントの久保有政さんだったんですね。
前にも書きましたが、鹿嶋はこの方の神学的な仕事を高く評価してきました。送って下さる「話題通信」というメールの論考にも教えられるところが少なくありませんでした。その久保さんがそういっておられるのを読んで、鹿嶋はびっくりしました。
佐倉さんはこれに再反論をしておられました。たしか、こんなような主旨だったと記憶しています。
~~原本が真理だと言っても、それは現存しない。だから論者の久保さんもみていない。そういう経験的に確かめられないものをもってきて、これには誤謬がない、絶対真理だといってもそれは議論として意味は薄いのではないか~~と。
それで、佐倉さんは~~やはり聖書は真理の本ではない、著者は聖霊に導かれてかいた、というけれど、自分は信用できない~~ということでした。
いずれにしても佐倉さんは、その意図はどうであれ、結果的には聖書の門前に立って「この門の中には真理なんてないよ」と声高に叫ぶ役割をされておられるんですね。
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この方はかなりな論客にみえます。それに、聖書の無謬性に対する非難は、かなり深い執念がこもっているようでもあります。鹿嶋はここでその問題点を示しておこうと思います。
(続きます)