聖句には不明瞭なところがある。
他の箇所とつじつまの合わないようなところもある。完全でない・・・~~いいじゃないですか。
当たり前じゃないですか。不完全な人間が受信したんですから。
でも、そのことは、人間(聖書の著者)に向けて発信された創主のメッセージそのものに真理がないんだ、
ということには必ずしも直結してはいないんですね。
人間の受信の方に不十分な点があるにすぎない。
だから聖書の読者には、その不完全な聖句を手がかりにして、創主の伝えようとした真実を探求する、
という仕事が残されるわけです。
何パーセントかの不完全な点があっても、それも織り込み済みで、
真理の全体観を得る努力をするわけです。
創主が伝えようとしたメッセージの全体観をですね。
そこに健全な「解読」という作業が出てくるのではないでしょうか。
宗教的に健全なと言う意味での・・。
<信仰ってなに?>
そこには、創造主という絶対者が知らせようとして発信したメッセージへの信頼があります。
まだ探求する前ですから、その中身は明らかではありませんが、
そこに絶対的真理があるだろうと「信頼」する。
キリスト教ではよく「信仰」という語を使いますが、その言葉の真意はそこにあるのではないでしょうか。
信仰の英語はfaithで、それは日本語ではむしろ、「信頼」のほうが近いですよね。
出発点で信頼を持って探求していく。
調べていくことによって知識が増え、それが信頼をさらに深めていく。
信仰というのはそういうものであるのが健全ではないでしょうか。
なのに、ニッポンキリスト教では、単純な論理を受け入れたら、
もうそれで、ゴールに入った、信仰は完成した、と思っている。
で、みんな完成者ですからもうそれ以上探求するものないから、
「証し」ばかりやってることになるんですね。
いわゆる「救いを受ける」というのと、
それへの信頼を深めるというのとは同じことではないんですけどね。
信頼の上に立って解読をすすめていく。こういう解読を、宗教的に健全、と鹿嶋は考えます。
それが、「健全な神学」だと思うわけです。
(続きます)