鹿嶋春平太です。
まず、言葉一般について考えましょう。
その知識をもとに、次回に聖書の言葉を考えます。





人間が使う言葉ってなんでしょうか
その役割は、ネットで出来た入れ物、容器のようなものと考えられます。
サッカーボールを入れる網の袋があるでしょう。ボールを入れると網はボールの形になります。一つ入れたら一つの、二つ入れたら二つの形になる。その袋のようなものだと考えたらいいのではないかな。
ただしそのネットが繊維で出来ていると、ボールを出したら形が崩れてしまいますよね。言葉にはちょっと違うところがある。中に入ったものの形をとどめています。これを現すには銅などの細い針金で出来ている金網だとイメージしたらいいでしょう。
金網ですから、一定の形を持っているわけです。そうしたらボールがなくなると、クシャンと形が崩れてしまうことがなく、形が残ります。
そういうものだと思ったらいいです。
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でも、金網はサッカーボールを入れる容器であって、中身のボールそのものではありませんね。言葉も、そういう容器であって、中身ではありません。
では、言葉の中身はどうか、というと、それは一つの雰囲気としか言えないものです。雰囲気、すなわち「気」です。
これは、人間が、感性でもって認知することの出来るものです。
感性を働かせれば、キャッチできる。
そういうものです。
<気は霊>
では、気とは何かというと、それは別の言葉で言えば「霊」です。
霊というと、日本人はギョッとする傾向がありますが、なんのことはない、それは気功術などでいう、気です。同じものです。
その気が、言葉という金網の中に入っている、それが人間の使う言葉の状態です。
この気がなくなっても、金網は残りますね。
言葉も、このように、容器である金網だけになっても残ります。
でも、その場合は、中身の気の感触がありません。気は目で見ることは出来ませんが、人間が雰囲気として感じ取ることが出来るものです。
だが、感じ取れないこともある。その場合我々は、日常、「空虚な言葉」と言っています。
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でも、外枠の容器だけになっても、それは金網ですから、本来中に入っていたものの形は残していますよね。我々は、その金網の形から、本来あった中身をイメージすること、思い描くことが出来ます。
そして、その中身に一定の確信が抱けますと、そこに、気がよみがえってきます。
これが、「言葉を読んで“わかる”」ということです。
我々は、本などで他人である著者の言葉を読んで「わかった!」といいますね。
それはその中身の気(霊)がよみがえったとき、それを感性でつかんだときの状態に他なりません。
~~~以上を基礎知識として、聖書の言葉とその中身について考えましょう。
(続きます)

