鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.9「言葉は金網製のネット」

2005年11月22日 | 「考える宗教」へ


鹿嶋春平太です。
まず、言葉一般について考えましょう。
その知識をもとに、次回に聖書の言葉を考えます。


                              


 人間が使う言葉ってなんでしょうか
 その役割は、ネットで出来た入れ物、容器のようなものと考えられます。

 サッカーボールを入れる網の袋があるでしょう。ボールを入れると網はボールの形になります。一つ入れたら一つの、二つ入れたら二つの形になる。その袋のようなものだと考えたらいいのではないかな。

 ただしそのネットが繊維で出来ていると、ボールを出したら形が崩れてしまいますよね。言葉にはちょっと違うところがある。中に入ったものの形をとどめています。これを現すには銅などの細い針金で出来ている金網だとイメージしたらいいでしょう。

 金網ですから、一定の形を持っているわけです。そうしたらボールがなくなると、クシャンと形が崩れてしまうことがなく、形が残ります。

 そういうものだと思ったらいいです。

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 でも、金網はサッカーボールを入れる容器であって、中身のボールそのものではありませんね。言葉も、そういう容器であって、中身ではありません。

 では、言葉の中身はどうか、というと、それは一つの雰囲気としか言えないものです。雰囲気、すなわち「気」です。

 これは、人間が、感性でもって認知することの出来るものです。
 感性を働かせれば、キャッチできる。
 そういうものです。

<気は霊>

 では、気とは何かというと、それは別の言葉で言えば「霊」です。
 霊というと、日本人はギョッとする傾向がありますが、なんのことはない、それは気功術などでいう、気です。同じものです。

 その気が、言葉という金網の中に入っている、それが人間の使う言葉の状態です。
 この気がなくなっても、金網は残りますね。

 言葉も、このように、容器である金網だけになっても残ります。

でも、その場合は、中身の気の感触がありません。気は目で見ることは出来ませんが、人間が雰囲気として感じ取ることが出来るものです。

 だが、感じ取れないこともある。その場合我々は、日常、「空虚な言葉」と言っています。

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 でも、外枠の容器だけになっても、それは金網ですから、本来中に入っていたものの形は残していますよね。我々は、その金網の形から、本来あった中身をイメージすること、思い描くことが出来ます。

 そして、その中身に一定の確信が抱けますと、そこに、気がよみがえってきます。

 これが、「言葉を読んで“わかる”」ということです。
 我々は、本などで他人である著者の言葉を読んで「わかった!」といいますね。
 それはその中身の気(霊)がよみがえったとき、それを感性でつかんだときの状態に他なりません。

 ~~~以上を基礎知識として、聖書の言葉とその中身について考えましょう。

  (続きます)


                
コメント
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