鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.108『律法を真に守ろうとすれば救い主の必要を知る』(8章)

2005年11月12日 | ヨハネ伝解読
~~「鹿嶋春平太チャーチ」の「ヨハネ伝解読」です。

 ようこそ。
本日は、「姦淫の女」の場面として有名な、第八章の冒頭です。
 昨日に続き、これについて「考える宗教」をやってみましょう。



                           


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=聖句=
 「朝早くまたイエスが宮に入られると、人々が皆みもとに集まってきた。イエスは座って彼らを教えておられた。

 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上で、イエスにいった。

  『先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか』」(8章2~5節)
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 前回と同じ聖句ですよ。

 ユダヤ教の学者(僧侶は律法に関する学者でもあります)たちは、どういう罠を仕掛けたか。それを考えるには、背景の状況を見ることが必要なようです。

 当時、ユダヤ人の世界の倫理・道徳は、モーセの十戒に代表される律法が貫徹していました。そして、人々は、律法を守れば創主から祝福を受け、反すれば呪われると考えていました。

 ところが、イエスの教えは、その律法をないがしろにするように見えるのです。「罪の許し」を説くからです。

 にもかかわらず、イエスは「自分は律法を廃止に来たのではない、むしろ、貫徹させに来たのだ」といいます。聞いていると、そのような理屈も述べています。難しいけれど、そういう風な雰囲気の話もしているのです。

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 そこで、学者たちはこう考えたのでしょう。

「彼が本当に律法を貫徹させるというのなら、この女を石で打ち殺せといわねばならなくなるはずだ。しかし、彼は病人をいやしたりして、なぜか罪人に優しい。弱者に優しい。だから石打ちせよと言えないのではないか。そうしたら、彼は実は律法をないがしろにしていることになる。それをとらえて裁判にかければいいのだ」と。

 前にも述べましたように、イエスの教えのエッセンスは今ひとつ深いのですね。

 ~~律法を完全に守ろうとすればするほど、人間はそれが守りきれないことを知ることになる。真理はそこにある。だから、人間の力を超えた救い主がなくてならないものとなるのだ。それが真に律法を守ると言うことなのだ~~~と。

 すごい論理ですね。
 でもこんな内容の深い論理は、僧侶たちには理解できませんでした。

 持って生まれた頭が悪いのではないでしょうね。人間というものは、思考が形式化してしまうと、新たに、実質に沿って論理を追うことは不可能になるのですね。鹿嶋は学問の世界で、そういうタイプをたくさん、たくさん見てきました。がともかく、イエスが偽善者というのは、そういう思考形式の人間をさしてのことでしたよね。

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 日本人にもこの性向が強いです。
 特に、平和な期間に、そうなっていく傾向が大きい。

 明治維新の元勲たちの次の世代から、指導層の思考の形式化が即座に進行しました。国家は迷走を開始しました。第二次大戦での敗戦のショックで、一時的に解けましたが、戦後高度成長がなったらまたすぐに、それが始まりました。

 いま受験勉強のプロ化がすすんで、指導層に入っていくべき若者の思考が形式化しています。日本国家の弱体化はつまるところそれによって進行するのではないでしょうか。

                  
コメント
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