鹿嶋春平太チャーチへようこそ。
言葉は金網、中身は気(霊)と前回に申しました。
これを基礎知識として、いよいよ聖句について考えていきましょう。





気は霊ですから、それを感知する能力をである感性を、霊感ということも出来ます。
ここでも霊感というと、多くの日本人はギョッとしますけれども、なんのことはない、感性と実体は同じです。
感性でつかむものは、気であって、それは霊と言われているのと同じです。
で、その霊を感性で認知するのですから、霊感といってもなにも不思議はないのですね。
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さて、懸案の聖句です。
イエスは「わたしの言葉は霊であり、また、いのちである」と言いました。
「鹿嶋春平太チャーチ」の基礎知識からしますと、これの意味するところは、次のように考えられます。
<イエスの「言葉は霊」とは?>
イエスはいま、人間の使う言葉を使って語っています。
そして、その言葉を構成するのは、外枠としての金網です。
そして我々が言葉を使うときには、金網には中身が入っていることもありますし、入っていないこともあります。霊(思い)がこもっていない空虚な言葉をはくことが、我々人間にはあるのですね。
だがイエスの場合はそうではありません。イエスは「自分が語っているとき、この言葉は中身も完全に入っている」といっているのです。
中身とは霊(思い)でしたね。
だが、イエスの場合はそれは常に「天からの思い」です。
イエスの「自分は父なる創主から受けたことをそのまま語っている」という言葉からすると、そうなりますよね。すると、イエスの思いは「天の創造主からの思い」でありますから、これすなわち、聖霊となります。
こうして「私の言葉は霊」とイエスが言っている霊は、「聖霊」のことだとわかってきます。
<「言葉はいのち」とは?>
で、聖霊はいのちエネルギーを創造主から100パーセント受け、かつそれを放射していますよね。だから、実質的には、創造主と同じく、いのちエネルギーの源泉なのです。
そこで「イエスの言葉は聖霊という中身を常に持っている」ということは「いのちエネルギーで常に満ちている」ということにもなります。
だから、「イエスの言葉はまた、いのちでもある」ということになるのですね。
(続きます)

