鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.109『さあどうするイエス君!』(8章)

2005年11月13日 | ヨハネ伝解読








                        



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=聖句=
 「・・・イエスは身を起こして彼ら(ユダヤ教の律法学者たち)に言われた『諸君の中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけていいでしょう』」(8章7節)
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 「この女をどうすべきとお思いか?」
   律法学者たちはイエスに迫ります(5節)。

 イエスは、無視するかのごとく、だまって、地面に何か書いています。この、書いているのが何であったかを福音書に記されていないのが歯がゆいところです。ヨハネはどうして書かなかったのでしょうね。

 学者たちはさらにしつこく迫り続けます。
 「さあ~、どうする、どうする」
      歌舞伎の舞台みたい・・・。

 と、イエスはやっと身を起こして彼らに応えました。「罪のないものは、この女に石を投げつけよ」と一言(7節)。そして、また、地面に何か書き続けました。

 何だったか、我々読者としては、ホントに知りたいところですね。ヨハネはどうして記述しておいてくれなかったのでしょう・・。

 ともあれ、すると意外なことが起きたのです。
 学者もパリサイ人も石を投げることが出来なかった。一人、また一人と、その場を去っていき、ついには、取り囲んだ群衆も去っていきました。ホントに繰り返しますが、イエスは地面に何を書いたのでしょうね!

                  

 イエスの答えを、罠をすり抜ける巧みなものだったと賞賛する説明があります。だが、それは考えすぎじゃないかなあ。戦術的でもなんでもないのでは? ただ、自らの思うところ(イエスはそれを「父の語られること」というのですが)を率直に述べただけ、と見ることも出来るのですね。

 創主は、偽ることが出来ない存在です。他は全能ですが、これだけは出来ないのです。そしてそれはまた、その場その場の便法のようなこともしないし、できないことをも意味しています。

 イエスは、「私は律法を完全化しに(この世に)きたのだ」と宣言しています。

 どういうことかといいますと、旧約聖書における律法(十戒に代表される)は、行いの罪を中心にした戒めなのです。だが、それは罪の一部であるにすぎない、というのがイエスの教えです。

 罪には実際には、「思いの罪」も含まれるのだ、というのです。有名な「女を見て姦淫の情を抱くのは、姦淫したのと同じ」というイエスの言葉はそれを象徴しています。

 そうなれば「あいつ、殺してやりたい」とか「死ねばいいのに」という思いを抱くのも、殺人と同じに罪となります。イエスは、そういう教えを日頃説教しているのです。

 律法学者たちも、一度はそれを聞いていたことでしょう。あるいは・・・、そう!、あるいはイエスはそのことを地面に書いていたのかも知れません・・。

 がとにかく、彼の教えるところはそれだ。その前提で、イエスは「罪なき者は石を投げつけよ」と言ったのです。これでは学者たちは、投げられなくなります。「思い」で律法を犯していない人間など、いないでしょう。

                  

 イエスは、このように、真理をそのまま語ることによって、女を石打の刑から救いました。人々は去って、女とイエスだけが残されました。イエスはゆっくりと身を起こし、女に語りかけます。

 「あれ? みんなはどこに行ったの? おまえを罰する者はいなかったの?」(10節)

 女は応えました。
「主よ、誰もおりませんでした」

 するとイエスはこう言ってその場を締めました。
 「私も、罰しないよ。もうお帰り。これからは罪を犯さないように生きるんだよ」(11節)

 ヨハネはこの一部始終をどんな気持ちで見ていたのでしょうか。

                 

コメント
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