鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.3「哲学、文化は『世』のもの」

2005年11月16日 | 「考える宗教」へ
 

 聖句の門に入っていかないと、前回述べたようなゴッコが中心になる。どうしてでしょうか?




                              


 聖句の探求に入らないと、福音の論理を簡単なところ、浅いところで繰り返しいているだけになります。そうすると、しばらくすると福音に飽きてきます。もう、することなくなってくる。

 で、何かもう少し“感動”的なはずだよなあ、福音とは・・となる。それで手っ取り早い方法として「告白ごっこ」に走るわけです。

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 同じ門前活動でも教職者さんたちは、もう少しおしゃれな活動形態をとります。世の教養に向かうんですね。

 たとえば「祈り」の方法をもうすこし深く知ろうとして、哲学者の言葉に向かいます。ニーチェとか、キルケゴールとかね。

 祈りの奥義も聖句の中に豊かにあります。なのに聖句の代わりに哲学を探求して、何か得たつもりになっている。だがそれでは、福音的・霊的にはほとんど何も得られません。哲学は文化ですよ。文化は「世」のものですよ。芸術もそうだ。時の流れの中で消滅していくものです。

 対して、福音は永遠な「天」のものです。それは霊的な天の論理から来るもので、別種類です。そして天の論理は聖句になっている。それを探らないで福音の奥義に触れられるわけないでしょう。天の知識が増えていくはずがないではないですか。

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 でも、再び言いますが、これも「全く」ムダとは言いませんよ。
 門前を華やかにするには役立ちます。キリスト教“文化”というのはそういうものです。だけど、それは門前華美化活動以上のものではない。そのことに、教職者たちもほとんど気づいていないのですね、ニッポン国では・・・。

(なお、ついでに言っておきますと、アメリカでもキリスト教“文化”は盛んです。だが、それは聖句探求の核が豊かにあって、その神髄に触れた喜びとエネルギーが、門前町にもあふれほとばしって咲き乱れている、という風景です。日本ではそういう核がなくて、外枠だけをなぞっている光景・・・)

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 その結果、現実社会にないような何か深いものを求めて教会にきた人は、失望して帰って行きます。門前のにぎわいに誘われて来てみはしたんですけどね、「な~んだ」と言って帰るしかない。

 これが日本に福音が広まらない本質的な理由です。

 キリスト教に深いものを求めてきた人が、留まらないんだから、集団の活動に根底からのパワーが出ないのです。残った人の福音活動は“お嬢さん芸”といったらいいか、“去勢されたような感じ”といったらいいか、とにかくパワーがない。知的・霊的共に・・。これでは広がらないのですね。

(続きます)


                   
コメント
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