~~本日も「鹿嶋春平太チャーチ」にようこそ。
斉藤さん、というかたから、Vol.2「門前活動に留まってしまう」についてのコメントをいただきました。
読みやすくするために、本文の方に表示させていただきます。
ご本人からの了承を得ています。
理屈っぽい話が続きますので、読む人なんかいないのではないか、と懸念しておりました。読んでくださっている方がおられると知って、ほっとしました。
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春平太先生
ついて行くだけで息を切らせていますが、読んでいることを知ってもらうため、たまには感想ぐらい書くようにします。
”証しゴッコ”と言い表されていますが、これ、強烈ですね。なんとなく、教会の実情が想像できてしまう気がするのです。
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もともと、わたしは、”あかし”というのは、洗礼の儀式で行われる、大学で言えば卒論発表にあたるようなものだと思っていました。
研究者の道を歩む人なら、卒論は、研究の出発点でして、ゴールではありません。 それと同じく、受洗することは、どう考えても信仰のゴールではなくスタートなのですから、それ以降は、ゴールを目指して進まねばならないはずです。
ところが、自分がスタートしたあと、すぐ観客席に戻って後続の人たちがスタートするのを観戦したり、あるいは、次の人が無事にスタートできるためのお手伝いに走り回ったりしていたらどうなるでしょうか。
なんだか滑稽を通り越した図式ですが、本人は、決してふざけているわけでなく、大真面目でやっているだけに笑う気にはなれないのです。
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ある人から聞いた話を思い出しました。
冗談かどうかわからないのですが、死ぬ間際になってから、病床洗礼を受けて、人生の一発逆転を狙うような考えの人がいるそうです。
もしも、受洗することを、あたかもゴールだと考えてしまうなら、それで何の問題もないことになります。
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もしかして、洗礼を受けられた周囲の方々のその後の様子を見て、これだったら後回しにしてもかまわないだろうと思われたのかもしれませんね。
~~う~ん、この最後の一文も、鹿嶋に劣らず強烈だなあ・・・(春平太)。