鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.2「門前活動に留まってしまう」

2005年11月15日 | 「考える宗教」へ
前回、すこし厳しい言い方をしました。
だが、かといって鹿嶋はああいう会を「全く」無益だというつもりはありません。


                                 


 雷門で有名な浅草の観音神社(寺か?)がそうでありますように、
福音にもその入り口の門もあり、門前町もあります。

 この門前をきれいにならす人も必要でしょう。
それは、門の中をのぞいたこともない人が、門までやってくるのを容易にします。
門前をきれいにして、中が楽しそうだと想像させることは、福音伝道の一役を担っているのですね。

+++

 だけど、それはあくまでも門前ならしです。
聖句という福音の真髄を尋ね求める門に足を踏み入れないでしている活動です。
雷門の門前通りの店々は活気があってきれいです。
でもそれは門前のにぎわいを作っているにすぎないのですね。

 ところが日本福音の場合、その門前を平らにならしている人々のほとんどが、
その仕事こそ福音活動そのものだと錯覚しているようにみえるのです。
そこに集まった人々が、たとえば小グループを編成して聖句を探求する、
というようなことがみられません。

代わりに、門前にとどまって他のことばかりしています。


                    


 <「証し」中心のイベント活動>

 その「ほかのこと」の代表が「証(あか)し(testimoniy)」と称する、経歴披露ですね。
洗礼受けてクリスチャンになるまでの私の履歴書。これを披露し合います。
あるいは、クリスチャンになったら仕事の上でこんないいことがあった、といったような事情を披露し合います。

 それもまったくムダなものとは言いませんよ。だけど、福音活動の中核ではありません。

 女性のドレスで言ったら、フリルのレースみたいと言ったらいいかな。
絵で言ったら額縁みたいなもので、中身の絵画そのものではない。
それは中身を彩りますが、あくまでも周辺的な彩りにすぎません。



                    

 ところが、日本では多くの場合、それが中心になってしまうんだなあ。
そのなんとかクラブでも、パンフレットを見るとそれが会合イベントの中核でした。

 鹿嶋はそれを“証しゴッコ”と昔からいっています。
ちょっときついですけどね、率直に言うとそうなってしまう・・・。

 語り手の人生に同情したり、自分の履歴と照らし合わせて共鳴したり、
人の人生をのぞき見できた満足感で妙な近親感を感じて一気に同志になったと錯覚したり・・・。

 ところがその実、あんまり近親的になっていないんだなあ。
心の芯のところではちっとも融け合っていない。
愛、愛、なんていってますが、一つ外に出ると結構互いに冷たかったりする。


                    


<聖句が浸み込むと聖書に似る>

 人間の心に、聖書にあるような愛が出来るには聖書に似なければなりません。
そしてそれには聖句が深く心にしみこむことが必要なんですね。
それでもって初めて心が根底から解けて聖書に似ていく。

 それには聖句の奥義を尋ね尋ねて吸収していくことが必須条件なんですね。
その門に入らないで、門前で賑わいを作っているだけでは、
なかなか聖書に似ていかないんですね。

(続きます)


                     

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Vol.1「福音の神髄は聖句の中にあり」

2005年11月14日 | 「考える宗教」へ



 『鹿嶋春平太チャーチ』にようこそ。

 「姦淫の女」が終わったところで「ヨハネ伝解読」をひとまずはなれてみようと思います。第8章の半ばですけどね。新しいテーマで、思うところをおしゃべりしてみます。

 題して『日本に福音が浸透しない構造』つまり『なぜ日本には福音が浸透しないか』を考えてみよう、というものです。


                                 


+++

 クリスマスシーズンでしょうか、執筆重点のライフスタイルの私に、ある会で話をして欲しいという要望が参りました。結構全国的各地でなされているビジネスマンの会の一つだそうです。

 事務局の方から会の説明を聞き、パンフレットいただきました。あとで拝見して、「これでは日本の福音伝道を進めることは出来ないなあ」と改めて思いました。

 鹿嶋はこういう運動にはあまり足を踏み入れないようにしてきました。そして自分が正しいと思うことを黙々と書いていく方針できました。だけど、現実に接触しますと、やはりこのあたりで福音活動に関する見解を示しておかねばならないなあ、と痛感しました。

 で、ここでそれを述べるわけです。

+++

 日本はグルメ時代ですね。美味しい店を紹介する「グルメ本」や雑誌がたくさん出ています。

 他人にある店を勧める場合、勧める当人が、そこで食べて美味しかったからでしょうね。あれは実にうまかった、という体験をもっているから是非といって進めるでしょう。福音も同じです。

 そして、その福音の美味の神髄は、聖書の言葉、聖句の奥深くに秘められているのです。それをよく噛んで探求し続け、その過程で多くの知識を得ることによってのみ味わえるものです。

 味わえるだけではありません。聖書ではその言葉の神髄を一定レベルにまで究めるとその人には霊的な力、しるし(癒しなどの)を現す力が現れる、という約束もあります。それが実際に、ある人々には現れてきているのです。

 こうなるとさらに味わいは深くなる。まあそこまでは行かなくても、その過程で味わう深い味、これが福音の真の味です。

+++

 そのためには、聖句探求の門をくぐって中に入らねばなりません。しかし、福音活動と称している活動には、その門前で地面をならしているだけの活動がたくさんあります。どこでもそうですが日本では特にそれが多い。ほとんどそればかり、という風景です。

 このビジネスマン会も、その典型でした。

 この類型のクリスチャンにある福音思想は、簡単なものです。「愛」とか、「十字架」とか、「救い」とか、「死後の天国」とか「慰め」とか、もちろん「イエス」や「神様」もそのうちの知識ですが、それらを簡単に組み合わせただけのものです。「聖霊」というのは、言葉としては出ますが、それを受けた(体験した)人はいません。

 行く前からそんなこと断定できるのか、という人もいるかもしれませんが、これが断定できるんですね。パンフレットから容易に断定できる。偉そうにするためにいうのではありません。こんなのはある程度場数を踏んでみると、簡単にわかることなのです。

(続きます)

               

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Vol.109『さあどうするイエス君!』(8章)

2005年11月13日 | ヨハネ伝解読








                        



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「・・・イエスは身を起こして彼ら(ユダヤ教の律法学者たち)に言われた『諸君の中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけていいでしょう』」(8章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 「この女をどうすべきとお思いか?」
   律法学者たちはイエスに迫ります(5節)。

 イエスは、無視するかのごとく、だまって、地面に何か書いています。この、書いているのが何であったかを福音書に記されていないのが歯がゆいところです。ヨハネはどうして書かなかったのでしょうね。

 学者たちはさらにしつこく迫り続けます。
 「さあ~、どうする、どうする」
      歌舞伎の舞台みたい・・・。

 と、イエスはやっと身を起こして彼らに応えました。「罪のないものは、この女に石を投げつけよ」と一言(7節)。そして、また、地面に何か書き続けました。

 何だったか、我々読者としては、ホントに知りたいところですね。ヨハネはどうして記述しておいてくれなかったのでしょう・・。

 ともあれ、すると意外なことが起きたのです。
 学者もパリサイ人も石を投げることが出来なかった。一人、また一人と、その場を去っていき、ついには、取り囲んだ群衆も去っていきました。ホントに繰り返しますが、イエスは地面に何を書いたのでしょうね!

                  

 イエスの答えを、罠をすり抜ける巧みなものだったと賞賛する説明があります。だが、それは考えすぎじゃないかなあ。戦術的でもなんでもないのでは? ただ、自らの思うところ(イエスはそれを「父の語られること」というのですが)を率直に述べただけ、と見ることも出来るのですね。

 創主は、偽ることが出来ない存在です。他は全能ですが、これだけは出来ないのです。そしてそれはまた、その場その場の便法のようなこともしないし、できないことをも意味しています。

 イエスは、「私は律法を完全化しに(この世に)きたのだ」と宣言しています。

 どういうことかといいますと、旧約聖書における律法(十戒に代表される)は、行いの罪を中心にした戒めなのです。だが、それは罪の一部であるにすぎない、というのがイエスの教えです。

 罪には実際には、「思いの罪」も含まれるのだ、というのです。有名な「女を見て姦淫の情を抱くのは、姦淫したのと同じ」というイエスの言葉はそれを象徴しています。

 そうなれば「あいつ、殺してやりたい」とか「死ねばいいのに」という思いを抱くのも、殺人と同じに罪となります。イエスは、そういう教えを日頃説教しているのです。

 律法学者たちも、一度はそれを聞いていたことでしょう。あるいは・・・、そう!、あるいはイエスはそのことを地面に書いていたのかも知れません・・。

 がとにかく、彼の教えるところはそれだ。その前提で、イエスは「罪なき者は石を投げつけよ」と言ったのです。これでは学者たちは、投げられなくなります。「思い」で律法を犯していない人間など、いないでしょう。

                  

 イエスは、このように、真理をそのまま語ることによって、女を石打の刑から救いました。人々は去って、女とイエスだけが残されました。イエスはゆっくりと身を起こし、女に語りかけます。

 「あれ? みんなはどこに行ったの? おまえを罰する者はいなかったの?」(10節)

 女は応えました。
「主よ、誰もおりませんでした」

 するとイエスはこう言ってその場を締めました。
 「私も、罰しないよ。もうお帰り。これからは罪を犯さないように生きるんだよ」(11節)

 ヨハネはこの一部始終をどんな気持ちで見ていたのでしょうか。

                 

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Vol.108『律法を真に守ろうとすれば救い主の必要を知る』(8章)

2005年11月12日 | ヨハネ伝解読
~~「鹿嶋春平太チャーチ」の「ヨハネ伝解読」です。

 ようこそ。
本日は、「姦淫の女」の場面として有名な、第八章の冒頭です。
 昨日に続き、これについて「考える宗教」をやってみましょう。



                           


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「朝早くまたイエスが宮に入られると、人々が皆みもとに集まってきた。イエスは座って彼らを教えておられた。

 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上で、イエスにいった。

  『先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか』」(8章2~5節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 前回と同じ聖句ですよ。

 ユダヤ教の学者(僧侶は律法に関する学者でもあります)たちは、どういう罠を仕掛けたか。それを考えるには、背景の状況を見ることが必要なようです。

 当時、ユダヤ人の世界の倫理・道徳は、モーセの十戒に代表される律法が貫徹していました。そして、人々は、律法を守れば創主から祝福を受け、反すれば呪われると考えていました。

 ところが、イエスの教えは、その律法をないがしろにするように見えるのです。「罪の許し」を説くからです。

 にもかかわらず、イエスは「自分は律法を廃止に来たのではない、むしろ、貫徹させに来たのだ」といいます。聞いていると、そのような理屈も述べています。難しいけれど、そういう風な雰囲気の話もしているのです。

+++

 そこで、学者たちはこう考えたのでしょう。

「彼が本当に律法を貫徹させるというのなら、この女を石で打ち殺せといわねばならなくなるはずだ。しかし、彼は病人をいやしたりして、なぜか罪人に優しい。弱者に優しい。だから石打ちせよと言えないのではないか。そうしたら、彼は実は律法をないがしろにしていることになる。それをとらえて裁判にかければいいのだ」と。

 前にも述べましたように、イエスの教えのエッセンスは今ひとつ深いのですね。

 ~~律法を完全に守ろうとすればするほど、人間はそれが守りきれないことを知ることになる。真理はそこにある。だから、人間の力を超えた救い主がなくてならないものとなるのだ。それが真に律法を守ると言うことなのだ~~~と。

 すごい論理ですね。
 でもこんな内容の深い論理は、僧侶たちには理解できませんでした。

 持って生まれた頭が悪いのではないでしょうね。人間というものは、思考が形式化してしまうと、新たに、実質に沿って論理を追うことは不可能になるのですね。鹿嶋は学問の世界で、そういうタイプをたくさん、たくさん見てきました。がともかく、イエスが偽善者というのは、そういう思考形式の人間をさしてのことでしたよね。

+++

 日本人にもこの性向が強いです。
 特に、平和な期間に、そうなっていく傾向が大きい。

 明治維新の元勲たちの次の世代から、指導層の思考の形式化が即座に進行しました。国家は迷走を開始しました。第二次大戦での敗戦のショックで、一時的に解けましたが、戦後高度成長がなったらまたすぐに、それが始まりました。

 いま受験勉強のプロ化がすすんで、指導層に入っていくべき若者の思考が形式化しています。日本国家の弱体化はつまるところそれによって進行するのではないでしょうか。

                  
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Vol.107『姦淫の女、登場す』(8章)

2005年11月11日 | ヨハネ伝解読


~~~「ヨハネ伝解読」にようこそ。
 話は、「姦淫の女」の場面に入りました。
 ここは有名で、メル・ギブソンの制作・監督の映画『パッション』でも克明に描かれていましたね。姦淫の女を演じた女優さんは、すばらしい美人でしたね。

 イエスの母マリア役の女優もそうでした。メル・ギブソンはこの映画を、思い切ってリアルであると同時に、思い切り美しく描こうとしたんですね。



                        



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「朝早くまたイエスが宮に入られると、人々が皆みもとに集まってきた。イエスは座って彼らを教えておられた。すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上で、イエスにいった。 『先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか』」(8章2~5節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  8章に入ります。
 舞台は一転して、姦淫の女が登場してまいります。

 翌日、イエスが神殿の広場に来て説教していると、彼女がイエスと群衆の前に引き出されるのです。連れてきたのは、ユダヤ教の律法学者、つまり高僧とパリサイ派の人々です。彼らは、どうして情報を得たのか、姦淫の場に踏み込んで彼女を捕まえてきたのです。

 前日にイエスの教えを聞いていた人々は、夕方になると家に帰りました。今と違って、電灯がありませんから、夜は広場も真っ暗になるんですね。夜が非常に長い。昔はそういうライフスタイルです。

 イエスは、自宅がありませんから、オリーブ山に入って夜を過ごしました。そして、朝明るくなると、再び広場に出て説教を始めていたんですね。そうしたら、僧侶たちが、女を連れて登場したのです。

+++

 彼らは、問いかけました。「先生、この女は姦淫の現場で捕まえられた現行犯です。言い逃れの余地はない。モーセの律法では、こういう女は石でもって打ち殺すことになっています。先生の教えではどうなりますかな?」(3~5節)

 ヨハネはこれを「わな」だと書いています。イエスの答える言葉を根拠にして、裁判に訴えようとした、と(6節)。どういう罠なんでしょうね。彼はそれについては何も説明していません。ここは読者の推定に任せているのでしょうか。


                    
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Vol.106『やあ、ヨハネ君・・・』(7章:最終)

2005年11月10日 | ヨハネ伝解読


~~ようこそ、「ヨハネ伝解読」へ。

 今日も、脇道での勝手な推論です。
 まあ、いいよね。
 「考える宗教」だから・・・。



                                


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「彼ら(パリサイ人たち)のひとりで、以前イエスに会いに行ったことのあるニコデモが、彼らにいった。『我々の律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたこを知った上でなければ、裁くことをしないではないでしょうか』」(7章51節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回も、聖句は同じです。
これに関する鹿嶋の想像です。

 ヨハネの目線を追ってみますと、これを耳にする以前から彼はイエスの脇をはなれているように思えます。群衆たちの様々な意見を耳にするヨハネは、イエスから離れて群衆の中に混じっているのです。そして、群衆と同じように、イエスに相対する形で話を聞いている。

 時折、話は途絶えます。病人が持ち込まれ、イエスが癒しを始める時もあるのです。一息もある。そうした時、ヨハネは、ぶらりぶらりと広場を散策したのではないでしょうか。その中で、イエスに関する群衆の様々な見解をも耳にしていった。

+++

 そうして歩いていたら、なんと、あるとコーナーで、管理者のグループが集まって話し合っていたのです。ニコデモもそこにいた。ヨハネは、ごく自然にその話を聞く位置に身を置いていました。

 「やあ、ヨハネ君じゃないか」
「どうしてる。君はまだあの男(イエス)について学んでいるのか」
「前には、バプテスマのヨハネにぴったりついていたんだろ?」
「真面目な人間だからなあ、君は・・」
「でも、程々にしておけよ。身を誤るよ」
「正統な伝統に帰っておいで」
「君は我々も評価しているんだ。座席は空けてあるよ」

       ~~~とまあ、こんな声がかけられます。

 ヨハネはごく自然な空気で応じます。

「うん、そうですね、もうすこし・・・・」
「・・説教ですか? 彼(イエス)は祭りが終わったら止めて帰ると思いますよガリラヤに・・・」
「何か伝えること(イエスに)ありますか、伝えますよ」

 ~~いま、何十年かがたって、ヨハネにはその時の光景がまざまざと蘇っています。

 もちろん、それは、その何倍とある記憶の中の一つです。そうしたなかで、彼は、この記憶は断片的にでも書き残そうと決心したのでしょう。聖書的にいうと、そういう思いを、聖霊によって与えられた、と言うことになるのでしょうが・・。

    (7章、これで終わります)

                     

 
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Vol.105 『敵味方を感じさせないタイプ』(7章)

2005年11月09日 | ヨハネ伝解読

~~ようこそ、ヨハネ伝解読へ。
 7章が終わりに近づき、少し、脇道に入っております。



                        


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「彼ら(パリサイ人たち)のひとりで、以前イエスに会いに行ったことのあるニコデモが、彼らにいった。『我々の律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたこを知った上でなければ、裁くことをしないではないでしょうか』」(7章51節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 前回と同じ聖句です。
 そして前回、鹿嶋はこう言いました。ヨハネがこういう情報を得られたのは、彼が後年ニコデモと交流があって、それを聞いていたからではないか、と。

 順当にはそういうところでしょうが、実は、鹿嶋はそうではないような感覚をも抱いています。これは直観ですが、ヨハネ伝で記録されている事実はほとんどすべて、ヨハネが直接観察したことを踏まえたものだと思えてならないのです。

 彼の記述には、なぜかそういう確信を感じます。それに沿っていくと、ここでもヨハネは、上記聖句の事実を観察していることになります。どうやって? 管理者グループの近くで聞いていたのではないかとも思えるのです。

+++

 管理者グループは、神殿の広場の一角に集まっていたのではないでしょうか。密室に入って会議していたのではない。背伸びをすればイエスの頭髪が遙か向こうに見えるくらいのところにかたまっていた。だから、その周辺には、神殿に参拝に来た群衆たちもガヤガヤやっていたり、行き来したりしています。

 ヨハネは、そこに混じっていたのではないでしょうか。そして、彼らのやりとりを目立たないように聞いていた。

 もともとヨハネは、目立たないタイプの人なのです。その点ペテロの対極です。ペテロは一寸した言動がすぐに絵になる。スター性の固まり。目立ってしまう。ヨハネはその反対、そういう人ではなかったでしょうか。

 こういう人っているものです。風貌だけでなく、人格もバランスとれていて、温厚で、激することがない。心の深いところに激しさを秘めていても、外側には一つも出ない。人畜無害で敵でも安心してしまう。そのくせ、腹は据わっている。こういう人は、敵味方両方に、ごく自然に交わることが出来るようです。

+++

 3世紀末から4世紀にかけて、エウセビオスというカトリック教団の司教がいました。彼は『教会史』という貴重な本を残しました。この本の中で、彼が他の司教たちに尋問された場面が記されています。

 キリスト教団は、303年から13年まで、激しい弾圧を受けました。

 313年にローマ帝国のコンスタンチヌス帝がキリスト教への「寛容令」(ミラノ勅令)をだして、この宗教活動は、一転、国家に公認されます。その後の、司教たち指導者の会議の途中に、エウセビオスは突然追求されました。

 他の司教は、10年に及ぶ迫害の中で、みな身体が不自由になっています。司教は教団活動の指導者ですから真っ先に攻撃されるのです。片手のない者、脚のない者、目のつぶれた者、みんないずれかが拷問でなくなっているのです。

 ところが、エウセビオスだけは、五体満足でした。それが他の司教たちには、不審だったのです。途中で信仰を捨てていたのではないか。転向していたのではないか。だから、拷問を受けていないのではないか、という疑いをかけられたのでした。

 指導者会議は紛糾します。そして、この結末に関して、あるいは、自分の身の潔白不潔白に関して、エウセビオスは著書になにも記していません。不思議ですね。

 だから、読者は推察するしかないのですが、春平太はやはり彼も、飛び抜けて人格円満、誠実にして人畜無害な人だったのではないかと思います。敵も味方も安心する。こういう人って、いるものですよ。

 彼は、弾圧中にも、ローマの管理者と交わって、迫害を落ち着かせるところなどを交渉していたのではないか。そういう仲介者的な立場に、ごく自然に立てた人ではないか、と思われます。

 ローマ側にとっても、使える存在だった。

 彼は、教団活動が公認された後、ローマ政庁側と教団側との折衝役を務めています。そして、指導者会議では議長を務めています。

+++

 ヨハネもそういう人ではなかったでしょうか。場合によっては、イエスを殺そうとしている側の人とも話し合うことが出来る。「彼はそんな悪い人ではないですよ」などと、顔色一つ変えずに言える・・。

 実際、そうやって、話の中に入っていたのかも知れません。そういっても相手はヨハネを敵方の人間と思わない。「この野郎」とも思わない。不思議に思えない。そういう人だったのではないかと鹿嶋は感じています。


                    
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Vol.104『ニコデモに取材したか?』(7章)

2005年11月08日 | ヨハネ伝解読
 

~~「ヨハネ伝解読」にようこそ。
 7章の最後に、ちょっと面白いことに「考える宗教」をしてみましょう。
少し脇道に入るようですが、興味あるところです。


                        



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「彼ら(パリサイ人たち)のひとりで、以前イエスに会いに行ったことのあるニコデモが、彼らにいった。『我々の律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたこを知った上でなければ、裁くことをしないではないでしょうか』」(7章51節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここでまた、ヨハネの目線に注目してみましょう。そもそも、彼は、管理者とその下で働く守衛たちの会話情報までも、どうして手に入れたんでしょうね。

 考えられる一つは、ニコデモに聞いたということです。

 ヨハネは7章の最後で、ニコデモの発言を記録しています。彼はパリサイ人です。この時彼は管理者グループの中にいます。そして、イエスを、律法を知らない群衆と同じレベルの人間だとする同僚たちの意見に、異議を唱えています。

 「そんな風にイエスを決めつけるものでないよ。それこそ律法をないがしろにすることではないのか? 律法にはまずその人の言い分を聞いた上で裁け、とかいてあるではないですか」と(51節)。これは正論ですね。

+++

 ところがそうなると、同じく聖書を使ってやり返す。ユダヤ人的な流儀でしょうか。指摘された方は、こう言います。

 「その聖書に、預言者はガリラヤからは出ないと書いてあるのを知らないのか。調べてみなさい」と。

 おまけに「そんなことをいうニコデモ君は、ガリラヤの出なのか?」とまで言っています。これは余分ですね。感情的。こういう中傷的な言葉を付けて反論するのは相手を感情的にしようとする誘いでもあるかもしれませんね。

+++

 ニコデモは、第3章に出てきたあのニコデモさんです。イエスに「新しく生まれなければ創造主の国をみることは出来ない・・」といわれると、「どうやってもう一度母の胎内に入ることが出来るのか?」と質問したあの彼。

 彼は、権力体制側に属していながら、イエスの教えに何かがあると直観してイエスのもとに質問に来たりしている。そして、ひそかに帰っていく。そういう人です。

 ヨハネはペテロと並んでイエスの両脇を固めた助さん格さんの助さんです。イエスの生前中に、ニコデモと接触しています。イエスがいなくなった後にもニコデモと交流があったにちがいありません。そしてニコデモにこの話を聞いていた。でヨハネは、本日の聖句の部分を書けたのだ、と。こういう見方もできそうです。



               
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Vol.103『「律法いのち」の世界で律法を踏みにじったと誤解される』(7章)

2005年11月07日 | ヨハネ伝解読
~~~マジェスティさん、コメントありがとうございました。
さあ、今日も元気で「ヨハネ伝解読」。
「考える宗教」を続けていきましょう!


                        



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「下役どもが祭司長やパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはいった。『なぜ、あの男(イエス)を連行してこなかったのだ』 下役どもは答えた。『この人のように語った人は、これまでありませんでした』 パリサイ人たちはいった。『おまえたちまでがだまされているではないか・・・』」(7章45~47節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 パリサイ人たちは、エルサレムの神殿の広場で、自分たちと違った教えをするイエスをとらえようとしました。

 とらえに行かされていたのは神殿の守衛などの役人たちでした。彼らは、手ぶらで帰ってきました。パリサイ人は戻ってきた下役たちに言います。

 「おまえたちは何でイエスをとらえてここに連れてこないんだ!」 守衛は応えます。「あの人のような風に語る人は今までにいませんでしたので・・・」

+++

 これは何を意味しているのでしょうね。イエスの教えていく内容について、これまでこんな風なものはなかった、といっているのでしょうか。

 あるいはイエスは、自らを百パーセント「権威ある者」との前提で、断定的に教えている、その語り口を言っているのでしょうか。

 イエスは「僕はこう思うよ」とか「・・ではないでしょうか」なんて謙虚な言い方はしませんからね。後者の可能性が高いですね。

 イエスのその権威ある語りの風格に圧倒された。とらえようと足を踏み出すことが出来ず、自分たちもただただ聞いてしまっていた~~と。パリサイ派の人々はあきれます。「おまえたちまで、のせられてしまっているとは・・・」(47節)

そして続けます。「おまえたちの中に、いや、パリサイ派の人々の中にも、あの男の話を信じた者はいなかったか? いたら言いなさい」と。さらに続ける。

 「群衆にはのせられるのがいても仕方ないんだ。彼らは律法をわきまえていなからな。もともと呪われた連中なんだから・・」(48-9節)

+++

 ここでどうして「律法をわきまえない」が批判の言葉として出てくるのでしょうか?

 当時も一般大衆は貧しくて、律法をきちんと学ぶ余裕はありませんでした。だから、大衆が律法をわきまえてない~~それはいいでしょう。

 しかし、高僧たちは、イエスもその律法をわきまえてない一人だ、だから、間違った教えをしている~~と判断しています。イエスの教えることは、当時の彼らとしては、律法を踏みにじり、ないがしろにする教えだとしか受け取れなかったのですね。

 イエスは、「人間は律法を守りきることは出来ないんだ」と教えるんですね。

「だから、私が来たのだ」
「私はすべての人の罪を負うべく、死ぬために来たのだ」
               ~~と。

 こういう話を聞くと、律法を守って生きてきた人々の頭には、「この男は、律法をないがしろにして人々を堕落さす教えを説いている」というイメージしか浮かばないでしょう。

+++

 実際にはそうではないのですけどね。

 イエスは「罪というのは、行いによるものだけでなく思いによるものもあるのだ」との主旨を教えています。「女を見て姦淫の情を抱けば、姦淫をしたと同じに罪なのだ」というのはそれを言っているのです。

 (だったら、渡辺淳一とかいう作家なんて、朝晩罪犯してることになるね。のみならず、それを小説にして何万という読者に姦淫の情を抱かせているよ)

 だからイエスは「自分は律法を完全化しにきたのだ」と言うんですね。律法とは、もともと、そういうものなのだ、という。そうしたら、誰もこれを犯さないでいることはできないことになります。

 出来ないけれども、律法は厳然としてある。だから、「守れない」という論理が成り立つ。私が「守れない」と言っているのは、律法をないがしろにしていない結果だーーーたしかにそういう理屈になるんですね。

+++

 けれども、鹿嶋も含めて通常の人間は、それがわかるほど賢くはないのですね。
パリサイ派の人々たちも「イエスは律法をないがしろにしている」という風にしか考えられない。

 律法は彼らのいのちです。それに反したら、体罰刑をも当然のごとくに与えてきた彼らです。

  テレビで、アフガニスタンのタリバン政権下での処刑をみたことがあります。盗みをして、手首を切り落とされた老人が報道されていました。姦淫した女は、競技場で公開銃殺されていました。

 当時の正統派ユダヤ人たちも、そういうのが当たり前という生活をしていたのです。それほど律法を生きるよすがにしていたのですね。

 これを踏みにじっていると誤解されたイエスは、それだけでも殺されるしかありませんでした。イエスはすごい教えを述べていたのですね、こんな状況の中で・・。


                 
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Vol.102『群衆と宗教管理者にカメラを回していく』(7章)

2005年11月06日 | ヨハネ伝解読
                                      


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「・・・こうして群衆の間では、イエスが何者であるかについての意見が分かれた」(7章43節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 次にヨハネは、群衆たちがイエスに対していろいろな見解を抱いている様を順に示していきます。

 あるものは預言者だと言います。
 またある者は「救い主」だという。
 すると別の者は

 「救い主(キリスト)ならば、ダビデの生まれたベツレヘムから出るはずではないか。聖書(旧約)にそう書いてあるから」

             ~~と反論します(40-43節)。

 ヨハネは、これらの人々にカメラを回していくかのように、その表情を描写しています。各々簡単に写していくだけ。この第7章はオペラの間奏曲のようです。

+++

 ここに描写されているように当時のユダヤ人は「聖書にはこう書いてあるではないか」といつも聖書の預言を踏まえて考え、議論したようですね。今でもそういう特徴はなくなってませんが。

 この点に関しては、イエスは全く正しいとしています。ただ、その解釈が外面的、形式的になってしまっていると高僧たちを批判したわけです。

 その高僧たちは、ユダヤ教の立場に立って、宗教を管理する人々です。ヨハネは、この管理者グループの面々にカメラを回して、7章とされている部分を終えます。

 ユダヤ教僧侶の頂点には祭司長がいます。これはサドカイ派のユダヤ教徒によって占められている役職です。それを取り巻いてパリサイ派の人々がいます。

+++

 パリサイ派の人というのは、旧約聖書に書かれているすべての律法に厳格に従おうとした人々です。

 かれらは、天使や人の霊の復活などの霊的なものの存在を認めていました。後に福音を異邦人(ユダヤ人以外の人間)に伝えるのに大車輪の活躍をするパウロというユダヤ人がいます。彼はパリサイ派に属した人でした。

 他方、サドカイ人(びと)というのは、聖書のはじめの5書、すなわち「モーセ五書」に書かれた律法だけに従うべき、という立場のユダヤ教徒でした。

 また彼らは天使などの霊的存在を認めませんでした。ということは、人の霊についても認められませんので、従って、復活も認めない。そういう人々でした。

+++

 それで、宗教なのか?と疑問に感じる読者もいるかも知れませんね。その通りですが、実際には、そういうことはままあるのです。仏教も釈尊の教えた原点では、霊的な存在は考慮の内にありませんでした。

 また、日本的キリスト教でも「愛、愛」と言っているだけで、霊的な存在に関しては無関心という現象が顕著に出ています。彼らはそれで宗教だと思っているわけです。ニッポン人も不思議だなあ・・。

+++

 経済階層的にみると、パリサイ派は主として中産階級、サドカイ人は最もお金持ちでした。これは、心理法則にも合いますね。人間は、経済的に富んでいくほどに、霊的な意識が薄れていくものです。物理的世界を楽しめますので、そこに多くの関心がとどまっていくんですね。

 イエスは「金持ちが(霊的な)信仰を持つのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」という意味のことを言っています。今述べた傾向をとらえて教えているわけです。

 なお、ユダヤ教徒には、この他に、エッセネ派というグループがあったことが最近わかってきました。クムラン文書というのが発見されてそれがわかったのですね。彼らは、世間から離れて、瞑想三昧の隠遁生活をするグループでした。律法を守るのに懸命になるのではなく、創主との霊的交信を強く求めた人々だったようです。

                  
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Vol.101『聖霊のバプテスマを予告する』(7章)

2005年11月05日 | ヨハネ伝解読
~~ご機嫌いかがですか?

 さあ、今日も元気に「ヨハネ伝解読」いたしましょう。

「解読」というのは、「考える」ことです。
 「考える宗教」を楽しみましょう。



                        


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「『わたし(イエス)を信じる人においては、その腹からいのちの水が川となって流れで出るでしょう』。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている聖霊のことをいわれたのである」(7章38~9節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  37-9節で、ヨハネはまた、突然別のことを記しています。イエスの「私を信じるものは、いのちの水がその腹から流れ出るであろう」(38節)という上記の言葉がそれです。

 そして、ヨハネはこれについては自ら解説を加えています。「これは、イエスを信じる人たちが後に受けることになる聖霊について言っておられたのだ」と(39節)

 でも、これだけでは、まだよくわかりませんね。ヨハネは後の章に、イエスがそれについて詳しく語ったところを記録しています。それは、聖霊のバプテスマというものがどういうものであるかの本質を示してくれる貴重な記録になっています。

+++

 でも、それでも、我々にはまだ、聖霊のバプテスマのなんたるかは十分にはわかりません。それは「使徒行伝」の2章に記述された出来事を読んで、はじめて具体的なところがわかってくるという代物です。

 使徒行伝は、ルカが書いています。これはもともとは『ルカによる福音書』の後半部分だったのです。それが編集段階で分離され「使徒行伝」とされました。

 ヨハネは、最後に福音書を書いた人です。ルカの書いたものはすでに読んでいます。その上で書いているわけです。だから、「具体的なところは、ルカが書いているので私が書く必要なないな」と判断しているのでしょう。

 そこで、神学的、論理的なところに重点を置いて記録しているのでしょう。それは14章以降で、改めて見ることにしましょう。ともあれ、かくのごとくに、7章は諸テーマを断片的に示す予告編という色彩の濃厚な章となっています。


              
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Vol.100『「天」と「世」とは絶対的に対立している』(7章)

2005年11月04日 | ヨハネ伝解読

~~ご訪問下さったあなたへ

  お元気ですか?
 「鹿嶋春平太チャーチ」です。

 いま「ヨハネ伝解読」をやっています。
 そのうちまた、新しいテーマに移ります。

「解読する」というのは、「考える」ことです。
 「考える宗教」を楽しみましょう。



                        





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「あなたがたは、どうしてわたし(イエス)を殺そうとしている(seek to kill)いるのか?」(7章19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 イエスは、続いて、突然飛躍したような言葉を発しています。

 彼はユダヤ教の高僧たちにたいして、「モーセはあなた方に律法を与えたではないか。なのにそれを行う者は一人もいない」といいましたね。高僧たちは、行っているつもりでいます。

 ところが、イエスは彼らに対して、律法の真意を全くわかっていないといっている~~という。そういうすれ違いがあることは、前述しました。

 それはそれでいいでしょう。
 ところがイエスはそれに続いてこんなことを口に出します。「あなた方は、なぜ私を殺そうとしているのか」(19節)

 突然話が変わって、ビックリしますね。
 だが事実はそうなのですね。

 ユダヤ教の僧侶たちは、この時すでにイエスを殺そうとして機会をうかがっています。諜報員・兼・殺し屋を送っているのです。刺客かな? だから、イエスは、祭りの前半にはエルサレムに来なかったのでしたよね。

+++

 けれども、今神殿でイエスの説教を聞いている多くの群衆にはそれは見えません。だから彼らは言うのです。
 「あなたは悪霊にとりつかれているんじゃないのか? あなたを殺そうと思っている人などいるものか」(20節)

       ~~と。彼らがそういうほど、高僧たちは、イエスを殺そうという気配を全く見せませんでした。

 だが、イエスは、結局彼らは殺しに来る、という確信を持っていました。理由は、天(天国)と世(宇宙)とは絶対的に敵対関係にある、ということを知り抜いていたから、ということになるでしょう。なお、これに関わる聖書の空間イメージは、拙著「聖書のことがよくわかる本」(中経出版)などで確かめてください。

+++

 聖書では、この世(宇宙)は、創主に対抗した天使たちを一時的に閉じこめた牢屋ということになっています。その天使の長は、創主に対抗したが故にサタン(悪魔)に変質しています。悪魔は、創主のなす事に敵対する本性を持つに至っているのです。

 だが、それに関する証拠は、まだ行動として現れていません。だから証明されておりません。証明されたら、裁きがなされます。それまではとりあえず、悪魔は宇宙という牢獄に閉じこめられている容疑者という論理です。

 その状態で悪魔は、言ってみれば、宇宙という牢屋の中で牢名主として君臨しているという図式です。

 その牢屋の中に創主の子イエスが、創主(天国)の言葉を持ってやってきます。悪魔の本性は、そういう存在は殺すという風にしか働かないようになっています。それはまだ、行為になって現れていない。だが、いずれはそうなっていくしかない、というわけです。後に悪魔はユダヤの僧侶たちに、殺意の意識を実行させていきます。

+++

 だからイエスはもう、殺されるのは必定と悟っているのです。そこで、もう当たり前であるかのように、こう言うのです。

 「今しばらくの間、私はあなた方と一緒にいるが、それから、私をつかわされた方のみもとにいく」(7章33節)

 これは、十字架刑死をし、復活して、弟子たちに宣教命令を与え、天国に上る、という一連の行為を意味しています。だけど、この段階で、群衆にそんなことわかるわけがありません。彼らは互いにこう言います。

 「彼は、ギリシャ人の中に離散しているユダヤ人のところに、教えを述べに行くつもりでもいるんだろうか・・・」と(35節)。


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Vol.99『世は偽りのあるところ』(7章)

2005年11月03日 | ヨハネ伝解読

~~みなさん、お元気ですか?

 さあ、今日も元気に「ヨハネ伝解読」いたしましょう。
「解読」というのは、「考える」ことですからね。
 「考える宗教」を楽しみましょう。



                            

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「自分の権威を基盤にしてことを語る者は、自分の栄誉を求めます。だが、自分を使わされた方の栄誉を求める者は正直であって、彼の内には偽りがありません」(7章18節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今回も同じ聖句です。

 前回は、われわれが経験できるこの世の現象をとりあげて「自分の栄誉を求めてする話には嘘が入る」ということを説明いたしました。けれども、これは、社会科学的な説明であります。

 この伝記の著者ヨハネは、もう一つ深い世界認識を、この話の背景に持っているようにみえます。

+++

 彼はもうちょっと形而上学的といいますか、根底的なところを意識しています。それを見据えて記している。具体的には~~

   「『世』という空間は偽りがあるところ」

           ~~という認識です。ヨハネ福音書は「天のもの」対「世のもの」という対比を明確に踏まえて記されているところに一つの特徴があります。こうした神学をもって様々な出来事を記しているのですね。

 もちろん、それは、イエスの世界把握なのですが、ヨハネはそれをしっかりと受け止めて、伝記を書いています。いってみればそれは

 ~~「世」は基本的に悪魔にリードされている世界であって、悪魔は偽りの父(源)である。世とは偽りのある空間なのだ。真実(真理)は創造主の王国であるところの「天(天国)」から来るものである~~

                         という理解です。そこで

 イエスがこの世でなす教えは、父なる創主からくることであるから真理である(すなわち偽りは含まれていない)

              ~~こういうことになります。創造主から来ていない言葉であったら、たとえそれが自分の栄誉でなく、他の人の栄誉のために語っているのであっても偽りは介入するものだ、ということになるわけです。

+++

 より正確には、そういうことになるでしょう。だがここではイエスは、アバウトな言い方で短く言っているようです。

 「まあ、ざっといえば、こういうことだ。ある人の語っていることが真実かどうかを、概略判定するリトマス試験紙のようなものがあるとすればだ。それは、語っている本人の姿勢に、自分に名誉を得ようとしているような姿勢があるかどうかだよ」と。

+++

 「世」は偽りのあるところ、という、ヨハネの認識をわかり易く例示すれば、こういうことではないでしょうか。この世にはとても立派で有名で名誉あるとされている人がいます。勲何等旭日何々とか、ノーベル賞とか色々ある。

 である時その人に直接会います。すると、そんな立派な人の口からも、会話をしていると効果を計算した言葉が適度に出るのです。効果を計算した言葉とは、そのために加工した言葉、すなわち、偽りの言葉です。これがなんとも上品に自然に出る。聞いている方が抵抗感を自覚できないくらいに自然に出ます。

 すると、こんな思いを抱く人もいるのではないでしょうか。あんなに立派で有名な人なのに、これは何だ~~と。甚だしい場合には、怒りを抱いたり、もう人間なんて信じられない、と思ったり・・・。

+++

 ところがヨハネの根底にある世界観では、これは一言で片づけられてしまいます。

  「それが『世』だ」

 ~~と。もちろん、現実の「世」にも改善の余地はありますよ。しかし、前回述べたようにそれには上限があります。どうして? ああ、それはこの「世」での改善だから~~と聖書ではなるんですね。

 ヨハネは自分の肉体が今住んでいる「世」とは、そういうものだと洞察しておりました。「『天』から来た言葉を語る人には偽りはない」(18節)と彼が記したイエスの言葉にヨハネは「天から来た言葉を語る人『だけに』偽りはないんだよ」という意味をも読み取っていたと考えられます。

               
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Vol.98『自分の栄誉を求めたら話に嘘が入る』(7章)

2005年11月02日 | ヨハネ伝解読
          

                          


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「自分の権威を基盤にしてことを語る者は、自分の栄誉を求めます。だが、自分を使わされた方の栄誉を求める者は正直であって、彼の内には偽りがありません」(7章18節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~~本日も同じ聖句を考えましょう。

 「自分は、父なる創造主の栄光のために語っているのだ」と言っておいて、イエスはもう一つのことを付け加えます。

「・・・・(自分をつかわされた方の栄光を求める者は)真実であって、その人の内には偽りはない」(18節)

 ここではまず、裏の意味を考えてみましょう。つまり「自分に栄誉を得ようとして教える者の話には、偽りが混じりこんでくるものなんだよ」ということについてです。

+++

 現実の体験をふりかえりましょう。
 我々は日常、物事を教え伝える人に、自分の名誉を得ようとしているような雰囲気を感知することがあるでしょう。そういう動機は、やはり、隠そうとしてもチラチラと言動にに出るものであります。

 理屈の上ではどうでしょうか。
 我々に自分の栄誉を高めようと言う目的意識がありますと、どうするでしょうか。そのために都合の悪いことは言わないようにしようとするでしょう。また、都合のいいように、若干でも、話を脚色しようとするでしょう。そういう力が意識の下で働くはずです。

 ・・で、そういう話には偽りが含まれてくるのであります。

 自分の栄誉、名声、評判が短期間の内に、自分の地位に文字通り直接的に影響する代表的な人物があります。民主主義制度下での政治家がその人です。彼は選挙運動期間中に、とにかく大衆に対して名誉あるイメージを形成しなければならない。情報不完全な社会です。でないと、票が集まらないのです。

 そこで彼らの口からはどうしても「はったり」が出てきます。
 選挙が終わっても、普段の生活が事前運動のような面を持っています。だから無事当選して政治家になっても、選挙区の住民に会うと、自然に嘘混じりのおいしいことを口にします。それも、しっぽを捕まれないような、虚実皮膜の嘘を上手に交えます。

+++

 けれども、これは全く改善の余地がない社会悪というわけではありません。
 人民が、さらに一層賢明になり、かつ、政治家に関する情報が十分に行き渡るようになれば、現状は“その分”よくなっていくでしょう。民主制度下の政治現象は、基本的に、人民の知的レベルに従うわけです。

 その意味で、事態は改善の余地アリなのですね。インターネットをはじめとする情報革命のおかげで、情報は完全化に向けて進み始めました。あとは我々ひとりひとりが、生涯を通して学習を続けることですね。問題は、学び続ける社会の空気を、子孫に残していくかどうかではないでしょうか。

 ですけれども、それはカイゼンであってゼロになるものではありません。政治家の話にふくまれる嘘が少なくなるだろう、というだけのことです。ともかく、自分の栄誉にプラスになるように、あるいは、マイナスにならないようにと、効果を計算して発言したら、その話には嘘が入る。そういう構造になっているんですね。

                      


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Vol.97『賞賛すべきは父なる創主だよ』(7章)

2005年11月01日 | ヨハネ伝解読
                        


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「自分の権威を基盤にしてことを語る者は、自分の栄誉を求めます。だが、自分を使わされた方の栄誉を求める者は正直であって、彼の内には偽りがありません」(7章18節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ~~前回と同じ聖句です。

 ・・・ところが自分の場合はそうではないんだよ、とイエスは言っています。「・・・・自分をつかわされた方の栄光を求める者は・・・」(18節)のその「求める者」とは、自分のことを言っているのですね。

 「私の場合は、父なる創主が語られることそのままを諸君に伝えている。だから、私は創造主の正しい権威をもとにして語っているんだ」と。そういう自覚のもとに自分は教えを語っているんだよ、というわけです

 具体的にはこうなるでしょう。
 たとえば聞いている者が「これは素晴らしい話だ、これこそは真理だ」とイエスを賞賛いたします。けれどもイエスはすかさずこういうことが出来ます。

 「私の語ったこの教えは、みーんな父なる創造主から来ているんだ。さあ、みんな、万物を創造された方のかくも素晴らしい知恵をほめたたえよう!」

 ・・・こう言っていたらその栄誉はそもそもの権威が所属するところ、すなわち創主に行くことになるでしょう。それが「自分をつかわされた方の栄光を求める」というイエスの言葉が持っている意味ではないでしょうか・・・。


                
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