『代替医療解剖 (新潮文庫)』
サイモン・シン、エツァート・エルンスト、2013、『代替医療解剖 (新潮文庫)』、新潮社
本書はサイエンス・ライターのサイモン・シンが正統医療(西洋医学)にたいする代替医学の効能について、二重盲検法に基づき詳細な調査に基づき、批判的に検討した結果についての報告書である。著者らの基本的な立場は、二重盲検法により検証して効果があると判定できない様々な代替治療に高額な治療費を支払うことはないというものである。
しかし、本書を読むにつれ、この立場は、いささか疑わしいもののようにおもえてきた。というのは、著者らのいう正統治療も二重盲検法により「統計的に」有効であるという治療法に過ぎず、「プラセボ」の落とし穴にはまっているということが見て取れるということである。つまり、正統治療と代替治療の間には絶対的な差があるわけではなく、統計的な治療効果の差があるに過ぎず、お釈迦様である「プラセボ」様の手のひらから抜け出ることは困難に見えたからである。
「プラセボ」とは、人間の持つ信頼という社会的な行為の生理学的な説明に見える。つまり、効くとおもえば、効く可能性が高くなり、信頼性が高いと思えば、信頼が高くなるというおそらくは生理学的薬理学的に裏付け可能な自律的な治癒効果のことを指している。
訳者の青木薫は文庫のあとがきで、元鍼灸医で鍼灸のプラセボ効果に注目してハーバード・メディカルスクールのプラセボ研究プログラムの中心人物となったチッド・カプチャク医師の研究を紹介している。カプチャクによればプラセボ効果の研究は、「医師と患者の相互作用にも科学の光をあてる」、彼の研究の目的は医術(the art of medicine)を医療の科学(the science of care)に変えていくことであるという。
本書を読むについれ、著者たちの代替治療についてのプラスマイナスについての評価は大変興味を持ちながら読むことができたものの、正統治療の課題についても目を向けることの意義が予想以上に大きいことをわからせてくれた。
わたしは、まだ、学生の頃、九州の一地方でフィールドワークをかじり始めた頃出会った方である。彼女自身の健康についての判断プロセスについての的確さについて、今更ながらにおどろかされ、また、その経験こそが今につながっていると思っている。それは、このようなことであった。
Nさんはいまから30年ほど前に50歳ほどの女性で、あるとき、背中に痛みを感じて日常生活にも不自由を感じていた。最初外科に行き、レントゲンをとってもらって、外科的な問題ではないとの診断を受け、次に内科に行った。内科でも様々な検査の結果、内科的な問題でもないとの診断を受けた。そして、当時誕生して間もなかった九州大学医学部の心療内科にも訪れて、様々なカウンセリングをうけた。しかし、以上の過程をへたあとも背中の痛みは思わしくなかった。やがて(というか、平行して)、地元の「神様」たちを巡った。「神様」たちというのは、神がかりになってお告げをする職能的宗教者で、この地方では多くの「神様」たちはそれぞれ多くの信者を獲得していた。Nさんは、こうした「神様」も訪ね歩き、ひとりひとり異なるお告げを聞かされた。
しかし、最後に到達したのはK巫女とよばれる「神様」のところだった。彼女は、Nさんの屋敷が最近手直しが行われたことを神のお告げによって告げ、その過程で、もともと屋敷内にいたとある霊魂にさわりが生じたという。Nさんには思い当たることがあった。Kさんの立会で、お祓いをして、元の小さな祠を立て直すことになった。そのころから、Nさんの背中の痛みはしだいになくなっていったのだという。
「神様」の話まで持ち出すと、ますます馬鹿げたことのように見える。しかし、わたしが、本書を読んで思い起こされたことは、Nさんの遍歴もまた、ある種のプラセボ効果ではなかったということだ。つまり、どのような過程であれ患者自身の納得(それは、意識的なものも、無意識的なものも含まれるだろう)のもとで行われるならば、それは、治癒効果をうむ可能性を秘めているということだ。医者や正統治療を盲信するのではなく、代替治療だけではなく民間信仰も含めて、患者の納得をどのように得ることができるかということが重要なのであると、40年の年月を経て、今更ながらに再び思い知った次第だ。
本書はサイエンス・ライターのサイモン・シンが正統医療(西洋医学)にたいする代替医学の効能について、二重盲検法に基づき詳細な調査に基づき、批判的に検討した結果についての報告書である。著者らの基本的な立場は、二重盲検法により検証して効果があると判定できない様々な代替治療に高額な治療費を支払うことはないというものである。
しかし、本書を読むにつれ、この立場は、いささか疑わしいもののようにおもえてきた。というのは、著者らのいう正統治療も二重盲検法により「統計的に」有効であるという治療法に過ぎず、「プラセボ」の落とし穴にはまっているということが見て取れるということである。つまり、正統治療と代替治療の間には絶対的な差があるわけではなく、統計的な治療効果の差があるに過ぎず、お釈迦様である「プラセボ」様の手のひらから抜け出ることは困難に見えたからである。
「プラセボ」とは、人間の持つ信頼という社会的な行為の生理学的な説明に見える。つまり、効くとおもえば、効く可能性が高くなり、信頼性が高いと思えば、信頼が高くなるというおそらくは生理学的薬理学的に裏付け可能な自律的な治癒効果のことを指している。
訳者の青木薫は文庫のあとがきで、元鍼灸医で鍼灸のプラセボ効果に注目してハーバード・メディカルスクールのプラセボ研究プログラムの中心人物となったチッド・カプチャク医師の研究を紹介している。カプチャクによればプラセボ効果の研究は、「医師と患者の相互作用にも科学の光をあてる」、彼の研究の目的は医術(the art of medicine)を医療の科学(the science of care)に変えていくことであるという。
本書を読むについれ、著者たちの代替治療についてのプラスマイナスについての評価は大変興味を持ちながら読むことができたものの、正統治療の課題についても目を向けることの意義が予想以上に大きいことをわからせてくれた。
わたしは、まだ、学生の頃、九州の一地方でフィールドワークをかじり始めた頃出会った方である。彼女自身の健康についての判断プロセスについての的確さについて、今更ながらにおどろかされ、また、その経験こそが今につながっていると思っている。それは、このようなことであった。
Nさんはいまから30年ほど前に50歳ほどの女性で、あるとき、背中に痛みを感じて日常生活にも不自由を感じていた。最初外科に行き、レントゲンをとってもらって、外科的な問題ではないとの診断を受け、次に内科に行った。内科でも様々な検査の結果、内科的な問題でもないとの診断を受けた。そして、当時誕生して間もなかった九州大学医学部の心療内科にも訪れて、様々なカウンセリングをうけた。しかし、以上の過程をへたあとも背中の痛みは思わしくなかった。やがて(というか、平行して)、地元の「神様」たちを巡った。「神様」たちというのは、神がかりになってお告げをする職能的宗教者で、この地方では多くの「神様」たちはそれぞれ多くの信者を獲得していた。Nさんは、こうした「神様」も訪ね歩き、ひとりひとり異なるお告げを聞かされた。
しかし、最後に到達したのはK巫女とよばれる「神様」のところだった。彼女は、Nさんの屋敷が最近手直しが行われたことを神のお告げによって告げ、その過程で、もともと屋敷内にいたとある霊魂にさわりが生じたという。Nさんには思い当たることがあった。Kさんの立会で、お祓いをして、元の小さな祠を立て直すことになった。そのころから、Nさんの背中の痛みはしだいになくなっていったのだという。
「神様」の話まで持ち出すと、ますます馬鹿げたことのように見える。しかし、わたしが、本書を読んで思い起こされたことは、Nさんの遍歴もまた、ある種のプラセボ効果ではなかったということだ。つまり、どのような過程であれ患者自身の納得(それは、意識的なものも、無意識的なものも含まれるだろう)のもとで行われるならば、それは、治癒効果をうむ可能性を秘めているということだ。医者や正統治療を盲信するのではなく、代替治療だけではなく民間信仰も含めて、患者の納得をどのように得ることができるかということが重要なのであると、40年の年月を経て、今更ながらに再び思い知った次第だ。
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