毎年、田布施町子ども会育成連絡協議会(町子連)の新春たこあげ大会に参加しています。12月に子供達が作った凧をTAIKOU SPORTS CENTER TABUSE(通称スポーツセンター)で揚げるのです。12月は仕事の関係で凧作りに参加できませんでした。そのため、一昨年作った凧を持って行こうと思いました。しかし、凧の骨が数ヶ所折れていたため持って行くのは諦めました。さて、凧あげする前に子供達が作った凧のデザイン審査がありました。僭越ながら私も審査員として加わりました。デザイン審査が終わると、いよいよ凧あげです。
今年は程よい風の中、凧あげ大会の開会式
凧あげは、幼児,低学年,中学年,そして高学年の順で競いました。最近はお正月に凧あげしている子供達を見かけません。そのためか凧あげの方法を知らないのでしょう。そして、よく揚がる紐の調整を知らないようです。見ていると、親も知らない方が少なくないようです。私が子供の頃には凧あげが上手なお兄さんが一人や二人いたものです。そして、その上手なお兄さんに教わったものでした。子ども同士の遊びの伝承が消失してしまったことは残念なことです。
凧あげの開始 空に揚がった凧 賞状授与と閉会式
今年は47回目の凧あげ大会です。かつては各地区(麻郷や東田布施など)で凧あげ大会が開催されていたようです。しかし、少子化のためか各地区を一つにまとめて田布施町として行われるようになりました。今年参加したのは30人ほどの子供達です。来年以降、もっとたくさんの子供達に参加してもらえたらと思います。
デザインの部と上昇の部の表彰 いろんな形とデザインの凧
荒砂神社で少し休憩した後、人島地区を迂回するようにして歩きました。かつて運河ではなかったかと思われる両岸が石垣でできた川に沿って歩きました。運河と思う理由は船が一艘通ることができる幅が続いているからです。また、かつてその周辺がは海を干拓してできた塩田だったからです。私が子供の頃、この川底でシジミが取れました。祖母と一緒に川底をさらいながら歩いてシジミを取っていました。今、川底を歩く人はいません。この川でシジミが取れたことを知っている方はいるでしょうか。
平生町にあった蘭樋の跡、ここで海水が入るのを遮断
田布施川と灸川の合流地点(灸川河口)の堤防脇でお昼休憩にしました。本番ウォーキングでは、八海橋を渡って八海公会堂でお昼休憩を取る予定です。お昼休憩が終わると、竪ヶ浜に向かいました。ここまでずっと、トイレの場所がなかったためやむなくパチンコ店前でトイレ休憩をしました。
竪ヶ浜のお地蔵様 竪ヶ浜の祠 竪ヶ浜の金毘羅社
竪ヶ浜の由来は、400年以上前にあった海岸一帯の名前です。江戸時代の記録によると、竪ヶ浜の各家は船を何艘か持っていました。当時の人々が海にが頼った生活をしていたことが分かります。また、干拓の後に塩田が作られました。竪ヶ浜塩はブランドになっており高値で取引されたようです。品質がとても良い塩を生産していたのでしょうね。私が幼児の頃に平生湾側に塩田がありました。たくさんの浜子さんが働いていました。そして、入浜式から流下式に変わったのを覚えています。
磯崎の高台にある公会堂 街に残る蘭樋跡の立札
竪ヶ浜の旧道を通りながら、祠や金毘羅社を見学しました。この旧道を歩いていると、旧家跡や倒壊寸前の民家が何軒かありました。その昔に街道だった頃、行き来する人が多く賑やかな道だったことが分かります。今は昔です。竪ヶ浜の磯崎に着くと、高台にある磯崎公会堂に行きました。ここからは平野を見下ろすことができます。磯崎の名前のとおり、かつては海に突き出た場所でした。次に平生街の中心にある蘭樋跡を見学してからスタート地点に戻りました。下見に参加された方々お疲れ様でした。
平生町の干拓地跡や塩田跡を下見のため歩いたコース
最近の暖冬で、秋の干柿作りがガタガタです。我家の渋柿は10月中旬に実るのですが、最近の秋は暖かいため干柿を作ってもすぐにカビが生えます。つまり、従来の渋柿は干柿作りに全く使えません。そのため、11月中旬以降に実がなる渋柿に転換しています。注文していた渋柿の苗の一つが届きました。その苗を我家の敷地に植えました。
11月中旬以降に実がなる渋柿の苗を植え付け
去年渋柿の収穫をするために久留米に行きました。収穫した甘柿も渋柿は、11月中旬以降にに実がなる品種です。晩生渋柿の苗を3本を注文していますが、残り2本は遅れること2月に届く予定です。人気なのでしょう。残り2本の苗は、先日しいたけ用に伐採したこならの木の近くに植えるつもりです。数年後は久留米に行かなくても渋柿を収穫できると思います。暖冬の影響は、干柿作りにも影響を与えているのです。
届いた渋柿の苗一つ 苗の植穴を掘る 畑の傍に苗を植え付け
年末は郷土館の移動郷土館や来館者の対応などで忙しく、発明クラブに時間がなかなかさけませんでした。年明けの昨日、久しぶりに田布施町少年少女発明クラブに行きました。1月と2月は田布施農工高校で電子工作です。プログラミングがらみの電子工作のため、電子部品の半田付けからプログラミングまであります。半田付けが初めての4年生にはちょっと難しいかも知れません。今年の電子工作は、
田布施農工高校で電子工作のための半田付けをしている子供達
Micro-Bitと呼ばれる教育用ICチップが使われています。教育用のためか安価で¥2,000程度で購入することができます。インターネットで簡単にダウンロードできるソフトが出回っています。元々はイギリスで考案された教育用チップですが日本語版があります。パソコンのUSB端子やスマホのBluetoothを使って簡単にチップと繋ぐことができます。
先生を囲んで説明を聞く 半田付けの見本 自分で半田付け
子供達は、Micro-Bitのチップを渡されるとIC基板の半田付けをしました。チップを挿すコネクタ、コードを接続するコネクタなどです。老眼の私はメガネが無いと分からないような細かな作業です。ほとんどの子は我慢強く丁寧に半田付けしていました。私が初めて半田付けしたのは真空管ラジオを作った中学生の時でした。時代の差を感じます。
電子回路の配線図を確認 コネクタにコードを接続
半田付けや配線が終了すると、部屋を移動してプログラミングを学ぶパソコン教室に移動しました。この部屋でMicro-Bitのソフトウェアを学びます。私が初めてプログラミングを習ったのは大学に入学してからです。学んだソフトウエアはフォートランやCOBOLでした。当時はフローチャートでプログラムの流れを学びましたが、子供達はパソコン上の仮想積み木のような図形で学ぶようです。一つの積み木が一つの仕事(命令実行)に相当し、積み木を重ねると重なった数の仕事(命令実行)をします。コンパイル工程がないようですので、ソースコードを逐次実行するインタプリタではないかと思います。
パソコン教室に移動してMicro-Bitのソフトウェアを学ぶ
子供達を見ていると、自宅にパソコンがあると思われる子供は容易にブログミングになじんでいるようでした。マウス、クリック、ダウンロード、コピー、ペースト(貼り付け)などを知っているからでしょう。しかし、家にパソコンが無い子供にとって、パソコンの操作そのものが大変ではないかと思います。小学校でCADを教える補助をしたことがありましたが、家庭環境の与える影響はとても大きいと思います。
パソコンを見る子供達 操作は難しいかな? プログラミング体験中
私が子供の頃、自動車の運転は技能の一つでした。それが今では当たり前になりました。運転ができないと仕事すらできない時代になってしまいました。プログラミング能力も同じような経過をたどるのでしょうか。単純な仕事はますます単価が下がり(低賃金)、海外に移転したり、国内にあっても外国人労働者に奪われます。
興味深そうにパソコンを見つめる子供達
日本がより豊かになるためには、デジタル社会に慣れ親しみ新しい技術や文化を想像できる力が必要だと思います。また論理的思考もより必要になると思います。今の日本は停滞しており、海外にどんどん追い抜かれています。今の子供達を見ていると、満たされているためか競争心や創造力が少ないように思います。しっかりした教育がないと、世界にどんどん追い抜かれてしまい貧困な国になるのではないかと危惧しています。杞憂だとよいのですが。
高校生達お兄さんに教わる 先生からの注意やアドバイス
草刈りをしたり山の木々を伐採すると処分に困ります。木の幹を燃えるゴミに出すわけにもいきません。空き地に放置して腐るのを待つ時間的余裕もありません。そんな時、広い畑の真ん中に穴をあけて燃やします。もちろん、延焼しないように風がない日を選びます。毎年のことですが、10月末から始めて3月末位までの間に時々燃やします。この期間は寒い季節でもありますので体を温める効果もあります。また、燃えさかる炎はヒーリング効果があるようで一種の癒しになります。揺れ動く炎をボーっと見つめていると時を忘れます。
夕方になり、風が静まるのを待ってたき火
たき火は子供の頃からお手の物です。燃えやすい紙や松葉を下に、その上に小枝を置いて、さらにその上に太い枝を置いてから着火します。その後は、火の勢いをキープするように乾いた枝や残渣を放り込みます。万が一に備えて、水が入ったバケツやスコップを近くに配置します。あたりがだんだん暗くなると炎がいちだんと鮮やかになります。そんな時、椅子に腰かけながら炎を静かに見守りながら暖まります。私にとっての至福の時です。
下の紙に着火 枝や残渣を積む 暗くなり輝く炎
午前中に仕事を済ませて家に帰った午後、2時間ばかり山すそや荒れ地の藪を刈り取りました。笹や蔓などが生い茂る藪のため、草刈機を振り回していると足腰が疲れました。続いてタマネギの草取りをすることにしました。コットンクラブの方々に苗を植えていただいたタマネギ、苗の根本に雑草がたくさん生えていました。その雑草を全て手で抜きました。座っての作業でしたが、中腰姿勢のためやはり疲れました。暗くなり始めた5時過ぎに切り上げました。苗を植えたり,種をまいたり,収穫したりする作業は楽しいものです。しかし、藪を刈ったり草を抜く作業は、畑は綺麗になるものの成果が目に見えないためか疲れます。
中腰でもくもくとタマネギの草取り
タマネギの根元に生える雑草、手で抜く時に誤ってタマネギを抜かないように注意します。草を抜く前に私は、先のとがった自作工具を使ってタマネギの根本周辺を軽くひっかくように耕します。そのようにすると、雑草をことのほか容易に抜くことができます。これで、しばらくはタマネギは世話無用です。
根元に生えた雑草 工具で根本を耕す 除草後の根本
4月頃にもう一度根元の除草をすれば大丈夫です。順調に育てば初夏にはタマネギを収穫できそうです。ほんどは軒下にぶら下げて長期保存します。今だに去年収穫して軒下にぶら下げたタマネギを食べています。ところで、収穫したタマネギは我家では食べきれない量です。親戚に送ったり、苗を植えていただいたコットンクラブの方々にタマネギをお分けしようと思います。
根元の雑草を取る前のタマネギ 根元の雑草を取ったタマネギ
この1月は思いのほか暖かい冬です。早朝はさすがに霜が降りて床から出にくいものですが、お昼頃になると寒さが遠のきます。そう言えば、真冬にも関わらずまだ雪を見ていません。そんな暖かい冬のためか、毎日のようにしいたけを収穫して食べています。異常気象なのでしようか、少々心配になります。
今日収穫した美味しそうなしいたけ、さっそく夕飯に
しいたけの収穫時期ですが、毎年晩秋に収穫するものの真冬は収穫が途絶えます。そして春のなって再び収穫できるようになります。今年は、晩秋からずっと収穫し続けています。美味しいしいたけを食べられるのはいいのですが、毎日だと少々飽き気味です。ところで、昨日は春立一番かと思うような突風が吹き荒れました。このまま春になってしまうのでしょうか。今年も猛烈に暑い夏になるのではないかと心配です。
しいたけのほだ木 並んだしいたけ 次々に出るしいたけ
晩秋にコットンクラブの方々に藍の花柄を収穫していただきました。その花柄の中に種子が混じっています。これを天日でカラカラになるほど干しました。量的には花柄の1/3位が種子です。花柄を含んだまま種まきしても問題はありません。ちゃんと発芽します。ただ、種子より花柄の量が多いため、どの程度種を蒔いたのが把握できません。そのため種子だけを選別しました。この田布施では、約2ヶ月後の3月中旬が藍の種まき時期です。それに間に合わせるためもあり、今回花柄から種子を選別しました。
乾いた花柄を手で揉んで花柄と種子を分離、洗濯板を使うとさらに効率的
花柄からの種子の分離方法ですが、私は次のようにしています。①木槌で叩いて枝から花柄を落とす ②荒い網を使って余分な枝を取り去る ③花柄を手で揉むか洗濯板で擦って、花柄から種子を分離 ④細かい網を使って花柄と種子を分離 ⑤唐箕を使ってさらに種子だけを分離。売っている種子ほどではありませんが、ゴマ粒ほどの黒色の種子を手に取ることができます。
花柄付きの枝を叩く 花柄を手で何度も揉む 網で種子だけを分離
最後に唐箕で種子だけにすると1/3位に減りますが、それでもコップ一杯の種子を選別することができました。少ないように見えても私一人が藍染めにするには過剰です。そのため、この藍の種子を欲しい知人にお分けするつもりでいます。3月頃に種を蒔いて、5月に移植して、8月か9月に葉を収穫して藍染め(一部は葉を乾燥して保存)、12月に花柄ごと種子を収穫・・・が私の藍栽培の1年周期です。ところで、種子は冷蔵庫で保存すれば数年は持つのではないかと思います。試してみようと思います。
最後に唐箕で種子だけを選別 ゴマ粒ほどの大きさの藍の種子
12月の都留市低山の史跡巡りウォーキングの最後です。尾根道をどんどん進み都留文科大学の裏山に近づくと、広々とした北側斜面が見えるようになりました。よく見ると、斜面全体に苗木がたくさん植えてありました。そして、所々に小学校など学校名が書かれた立札が立っていました。都留市の小学校などの生徒がこの斜面に登って植林したに違いありません。鹿に食べられないように、すべての苗木に白い網状の袋が被せてありました。尾根道を歩いていると角が生えた雄鹿を見かけました。都留市の山には鹿がたくさんいるのでしょう。
尾根道から見た広大な北側斜面、白い点々は袋を被せた苗木
植林された苗木を右手に見ながら尾根道をさらに歩きました。しばらく進むと、都留文科大学方面に降りる道と尾崎山方面に登る道の分岐点に着きました。その分岐点で小休止すると尾崎山方面に進みました。しばらく急な登り道を進むとだんだん林の中にはいり、都留市内が見下ろせなくなりました。山の頂上(尾崎山方面分岐点)に着くと、座って休憩している方が1人いました。我々は休憩しないで下山のコースに進みました。高い木が林立して暗い道をしばらく下山するとミツマタ群生地に着きました。この付近まで来ると、林の間から都留文科大学の校舎やその向こうに都留市内が見えるようになりました。
広い尾根道を歩く 群生したミツマタ ようやく昼食休憩
ミツマタ群生地を過ぎた頃、お昼の時刻になりました。日が差し込む切株に座ってお昼休憩にしました。家内がお湯と即席めんを持って来ていたので、暖かい即席ラーメンとパンを食べました。30分位日溜まりで休憩しました。休憩が終わると再び歩き始めましたが、しばらくは暗い林の中を進みました。明るい斜面に出た頃に、猟犬を連れたグループに出会いました。猟銃を手にしている方が数名いました。何を狩るのかお聞きすると、雉とのこと。最初イノシシか鹿を狩るのかと思っていました。
麓の住吉神社に到着 大量の水が流れ込む導水路
さらに尾根道を道なりに進むと、住吉神社に着きました。参道の長椅子で日向ぼっこしている登山者がたくさんいました。座る場所が無かったため、そのまま神社を通り過ぎました。しばらく歩いて、やっと山の麓に降りました。少し歩くと、勢いよく流れる導水路がありました。人が落ちないようにビニールハウスのような骨組みに金網が覆っていました。少し先に、鹿留川から水を取り込む取水口があります。この取水口から取り込んだ水が、導水路ゃトンネルを取って流れています。そして、今回歩き始めた場所にあった谷村(やむら)発電所まで水が流れているのです。明治から大正にかけて、数Kmもの距離をしかも山の中に導水路をよく建設したものだと思います。特にトンネルは大変だったはずです。鹿留川に沿ってしばらく歩き、ようやく終点の東桂駅に到着しました。早朝に歩き始めたので、時間を気にせずのんびりと歩くことができました。心地よい疲れのためか、帰りの電車内で寝てしまいました。 おわり
史跡巡りウォーキングした都留市南の低山
12月にしようと思っていた麦畑の草取りと土寄せをしました。私が子供の頃、早朝から畑に出てクワで草を取ったり土寄せしていた農家の姿をよく覚えています。当時はトラクタなどなく、ようやく耕耘機が出回り始めた頃です。まだ、牛で代掻きをしていた家が残っていた時代です。今の私は、東京の農家からいただいたトラクタで広い畑を耕耘したり、やはり農家からいただいた耕耘機が狭い畑で活躍します。今回、その耕耘機で麦の草取りや土寄せをしました。
暖かい日差しの中、耕耘機で除草と土寄せ
麦の除草、他の方はどのようにしているか知りません。私は、麦の畝ぎりぎりを耕耘機のロータリーで地表をかき取るようにして除草しています。ロータリーの回転は速めにしていますので、除草中に跳ね上がった土が麦間に落ちて土寄せの代わりをしています。ただしこの方法は、麦が小さい今しか使えません。麦が大きくなると根を傷めるのです。4月近くになると、麦の背が伸びて風などで倒れやすくなります。これを防ぐため、耕耘機の後ろに培土器を取り付けて土寄せしています。
朝日を浴びて作業 麦の畝ぎりぎりを除草 麦の片側を除草完了
今回除草と土寄せした畑は、冬は小麦、そして夏はサツマイモ,綿,藍,枝豆,小豆などを作っています。言わば二毛作のような使い方をしています。夏はほとんどが草取り作業に追われていますが、冬の今は小麦の除草が主な作業でのんびりと作業できます。特に天気が良く風が無い日は、穏やかに野良仕事できます。一種の癒しでしょうか。仕事に追われていた定年前の日々が嘘のようです。
正面の太陽に向かってひたすら除草 もう少しで除草作業終わり
今月1月のウォーキングは平生町の干拓(開作)に関わる史跡を巡ります。12月に下見を済ませ、散策する干拓地跡,塩田跡地,樋跡,寺院などのコースや昼食休憩地をほぼ決めました。今月19日、JA南すおう平生に10:00に集合してスタートします。平生町の干拓の歴史で忘れてはならない寺院の一つがあります。直指院です。今回、直指院で1年間のウォーキングの安全や健康を祈願をしていただきます。また地蔵浜の干拓に貢献した貫田喜左衛門に関わるお話を、ご住職からお話をしていただく予定になっています。幼児の頃、私は平生町で主に育ちました。祖母に連れられてよく直指院に行きました。映画や芝居を見た平生座など、懐かしい昔の平生町界隈を思い出しながら皆さんを案内しようと思います。
田布施川沿いの人島荒砂神社で小休止
最初に訪れる直指院、江戸時代は直指庵と呼ばれていました。庵とはお寺より格式が低く、尼さんが住んで地域のお世話をしていることがありました。例えば、お葬式などで寺のご住職の補佐をしていたようです。私が幼児の頃、直指院には尼さんがいました。祖母に連れられて直指院に行くと、尼さんに頭を撫でてもらいながら健康成就を祈祷してもらったことを覚えています。この直指院が干拓に関係していた事をだいぶ後になって知りました。
平生湾をのんびり散策 干拓地のお地蔵様 三新化学近くを散策
直指院に行きましたが、ご住職はおられませんでした。そのため、奥様に1月の干拓地ウォーキング時にお寄りすることを伝えておきました。後日ご住職からお電話があり、当日直指院を訪れることを了解いただきました。ありがとうございました。直指院を出ると、平生湾に向かって歩きました。そして、干拓地跡を次々に歩きました。新湊でしょうか、その突端にお地蔵様がありました。花が活けてありましたので、お世話する方がいるのでしょう。
かつて八海に通じる道のお地蔵様 運河跡を平生町人島に向かう
その後、あちこち道を迷うように干拓地跡や塩田跡地を歩きました。下見では灸川河口で昼食をとりましたが、1月の本番ウォーキング時には八海公会堂を使わせていただくことになりました。どんどん歩いて人島地区の荒砂神社で小休止しました。人島は古代においては島でした。干拓が進むにつれて島が削られ、今では島の面影はまったく残っていません。私が子供の頃、人島には島の残存と思われる岩が残っていました。人島を過ぎると、灸川沿いに歩いて竪ヶ浜に向かいました。
平生町の干拓地跡や塩田跡を下見のため歩いたコース
私が東京に住んでいた頃、年明け最初に咲く花はスノードロップや福寿草でした。ところが、両者共に田布施町の気候に合わないのか植えても枯れてしまいます。福寿草は植えてから3年位で消失してしまいました。暖かい地域では育たないようです。今の我家では、1番最初に咲くのは蝋梅と椿です。大晦日頃にはすでに咲いていました。真冬の今は花が少ないシーズンです。畑を歩いていて蝋梅や椿の花を見ると、つい足を止めて見入ってしまいます。
綺麗に咲いた蝋梅の花
蝋梅の花を見ていると、枝のあちこちに去年咲いた花の実が付いています。とてももろく、簡単に取ることができます。その実を手でつぶすと、スイカの種位の大きさの種が数個出てきます。この種が地上に落ちて芽が出るようです。しかし、芽を見ることはありません。何らかの条件が整わないと発芽しないのでしょう。
一斉に咲いた蝋梅の花 去年咲いた花の実と種子
我家にある椿はほとんど八重です。花期を過ぎると、花弁がはがれるように落ちて地面に散らばります。その昔、小学校の帰り道に椿の花(1重の花)を次々に取ってはチューチューと吸ったものです。そして、そのわずかな甘みを楽しんだものです。今の子供達は、そのような密かな楽しみを知らないのではないかと思います。
我家の周りで賑やかに咲く八重椿
お正月2日目は野良仕事をしました。3日目の今日は、依頼されている昭和30年代のトランジスタラジオ(カーラジオ)の修理をすることにしました。故障個所はまだはっきりとは分かっていませんが、ほぼ高周波増幅回路か周波数変換回路部であることが分かっています。下図の赤枠のコンデンサが特に傷んでいます。中には割れているコンデンサもあります。
このコンデンサを交換する前に高周波関連回路の部品の値を調査することにしました。古いラジオですので、回路図がありません。実物の回路基板を見ながら回路図を復元するしかありません。いわゆるリバースエンジニアリングでしょうか。虫眼鏡で回路部品を調査したり基板の配線図を見ながらの、とても気が遠くなる面倒な作業です。
高周波部を構成する各部品の値、赤枠は交換要の傷んだ部品、?は値不明
回路図を復元するために虫眼鏡は欠かせません。虫眼鏡を使って、部品に書かれた文字を読みます。部品は基板上に隙間なく配置されているため、ピンセットでわずかに部品を傾けて読みます。隙間はとても狭いため周りの部品の陰になってとても読みずらいです。また、基板裏の配線を見ながら部品間の配線を想定します。一種のパズルだと思います。このパズルを解いて初めて電子回路を復元できます。リバースエンジニアリングの醍醐味でしょうか。
虫眼鏡で電子部品を覗き込む 部品の配線を図に再現
カーラジオは通常のラジオより特殊な構造になっています。特に雑音対策です。車はエンジン内で数万ボルトでスパークをしており、それだけで大変な雑音発生源なのです。雑音だらけの車に装着するカーラジオは、それだけに雑音対策が必須です。その対策のため、カーラジオは鉄板の箱内に納められアース対策もしっかりされています。
さて、ある程度回路を復元すると、交換する部品を探しました。私が高校生の頃からストックを始めたコンデンサをはじめとする受動部品、そしてトランジスタをはじめとする能動部品があります。その中から交換に必要な部品を探しました。
修理用にストックしたコンデンサ類 修理用にストックしたトランジスタ類
コンデンサ類はほぼありました。しかし、トランジスタは2SA353はありましたが、2SA354と2SA355はありませんでした。トランジスタが故障していて交換が必要な場合は、互換性のあるトランジスタを探すか通販や秋葉原内を探すしかありません。どうしても手に入らなければ、交換トランジスタ(例えば2SA103)に合わせて抵抗値を最適に変更します。最後の手段として、同じカーラジオを中古で購入して部品を抜くしかありません。気の長い修理になりそうです。
交換用の電解コンデンサ 交換用のMPコンデンサ ストックしていた2SA353
元旦、たくさんの神社に初詣しました。2日目の今日は静かに我家の掃除をしたり、晩秋に種をまいたり球根を植え付けた花壇の草取りや植え替えなどの世話をしました。ひなげし(ポピー),花菱草,ビオラ,デージー,アネモネ,ラナンキュラスなどです。天気が良かったため、日向ぼっこしながらの野良仕事でした。また、種繰り器を使って、今年の春に蒔く各種綿の種を取りもしました。風もなく穏やかな一日でした。明日は最後の休日、ラジオの修理でもしようかな。
日向ぼっこしながら、のんびりと花壇の世話
さて、晩秋に種をまいた種のうち一番心配だったのはひなげし(ポピー)でした。極小の種をばらまいて薄く土を被せておきました。今日その場所に来て、雑草しか生えていないように見えました。そっと剥ぐように雑草を取り除くと、ちゃんと芽が出て小さな葉が出ていました。でも、葉まで成長したのは1割位でしょうか。園芸品種の中で種まきが難しい花の一つだと思います。移植を嫌うのも難しい理由の一つです。春には綺麗な薄紙のような花が咲くはずです。大好きな春の花の一つです。
花菱草の草取り ひなげし(ポピー) 小さなビオラ
花壇にはたくさんの雑草が生えていました。種を蒔く前に鶏糞などを混ぜ込んでいたため、雑草が元気に生えたのだと思います。1,2月の今が雑草を取るには一番最適な季節です。3月になると気温が緩んだり日が長くなるので、さらに雑草が成長します。気が付いたら雑草に覆われて花が枯れてしまうことがあります。しまつに負えないのは、3月の雑草はしっかりと根が張ります。雑草を抜くと花も一緒に抜けてしまうことがあります。今の時期の雑草対策は欠かせません。
雑草に囲まれて育つ花菱草 雑草を取った花菱草、すっきり!
球根のアネモネとラナンキュラスは雑草より背が高く育っています。ただし、クロッカスは芽がちょこんと出たばかりで、最初どこに芽が出ているのか分からず雑草の間を探しました。今回、種まきで失敗したのはデージーとビオラでした。両者ともに3株程度しか育っていませんでした。春になって苗が売り出されたら購入して植えようと思います。種まきの時期が遅かったのか、雨などで畑が湿って枯死したのではないかと思います。あるいは、花壇にイノシシ,キツネ,タヌキなどの獣の足跡がたくさんあり、また花の名称を書いた板が獣に噛まれり抜かれたりしました。踏み荒らしたのが原因かもしれません。困ったことです。
ラナンキュラスの草取り クロッカスの芽 茂ったアネモネの葉
毎年のお正月のとおり、田布施町各地域の神社を初詣しました。今年は、去年初詣した神社を逆回りに初詣してみました。最初に行ったのは隣の川添地区に鎮座する浮島神社です。この神社、なぜ浮島と呼ぶのか分かりません。同じ名前の神社が全国にもあります。由来で多いのは、島や半島に鎮座しているため遠くから見ると水に浮かんでいるように見えることです。川添の浮島神社、古代においては島でした。江戸時代に干拓されて半島になり、最後には今のように陸続きになっています。平生町の竪ヶ浜などから遠望すると、かつては水に浮いて見えたのではないかと思います。続いて菅原神社に行きました。
去年は最初に今年は最後に、初詣した高松八幡宮
菅原神社は、去年の菅原天神祭の子供神輿と一緒に街内を歩いて回りました。このお祭り、今から60年前私が幼児の頃はもっと賑やかでした。牛車が練り歩いたり、道では市場が開かれていました。お正月の今日、初詣していたのは私とある母娘だけでした。お互い見知らぬままに新年のご挨拶をしました。次に八和田八幡宮に向かいました。少し人が多くなり、ざっと見て10人位が初詣に来ていました。
静かな浮島神社 下田布施 菅原神社 大波野 八和田八幡宮
続いて、田布施町飛地の小行司にある多賀神社に行きました。飛地であるため、途中光市を通って向かいました。この神社はふだんは訪れる人が少ないのに、お正月はいつもたくさんの人が初詣にきています。車が何台も並んで駐車していました。この神社にだけはお店(しゃっぽ焼き)が開いているのです。私は五つ買いました。一つはその場で食べて、残りはお土産に持って帰りました。ここから遠望すると、馬島,佐合島,長島,祝島などの島々がよく見えました。
小行司の多賀神社 石城山麓の石ノ口八幡宮
小行司から戻ると石城山麓にある城南宿井地区の石ノ口八幡宮に行きました。去年はそれなりに人が多かったのですが、初詣する時間帯が悪かったのか総代さん以外誰もいませんでした。しかし、本殿前に供えられた門松は一番立派だったように思います。続いて、城南西山地区の妙見神社に向かいました。呉麓山麓の曲がりくねる林道をしばらく行くと本殿が見えました。誰もいない静かな本殿でした。妙見神社の日溜まりで体を温めてから八尋石八幡宮に向かいました。
城南西山 妙見神社 上田布施 八尋石八幡宮 麻里府 住吉神社
八尋石八幡宮を出ると、田布施町郷土館元館長のN氏宅を訪れました。ちょうどご在宅中でしたので1時間ばかり談笑しました。コーヒー等ありがとうございました。今年もよろしくお願い致します。その後、麻里府の住吉神社に行きました。その昔、神社の麓近くが海岸でした。当時は、海岸にたくさんの船が舳先を連ねてお祓いを受けたそうです。そして、暴れ神輿が練り歩いたとのこと。続いて、最後に高松八幡宮に初詣しました。さすがに、この神社は数えきれない参拝者で溢れていました。交通安全のお札を買った後、本殿に向かい拝礼しました。今年の初詣はこれで無事終了しました。明日からは、掃除や簡単な野良仕事でもしようかと思います。
初詣に訪れた田布施町各地の神社