大晃機械工業(株)傍にある船回し池跡を過ぎると、天満宮横の県道を回りこんで田布施川に向かいました。今回は下見ですので順調に歩けましたが、本番ウォーキングでは時間が足りなさそうです。そのため、熊毛南高校傍を流れる灸川を下流に向かって田布施川に向かうことになると思います。
大晃機械工業(株)をぐるりと回ると熊毛南高校入口の灸川に出ました。そして、今度は灸川の堤防に沿って田布施川に向かいました。放置された田んぼには覆いつくすほどの葦が映えていました。そして、どの葦も穂がたなびいていました。たなびく葦の穂を見ていると秋を感じさせます。また葦原は日本の原風景です。
田布施川脇の灸川河口、〇はかつての堤防を支えていた杭の列
5年位前に灸川を散策したことがあります。当時の灸川は水草が生い茂っていて川底が見えませんでした。そして、たくさんの亀がいました。ほとんどが外来種のミドリガメでしたが、クサガメなどの在来種もいました。ただミドリガメの方が強いのか在来種は追いやられて近くの田んぼにいました。しかし、数年前の灸川改修によって水草が一掃されて堤防が新しくなりました。そのためか、外来種も在来種もぐっと減りました。
赤子山を振り返って 穂が出た葦原 改修後の灸側堤防
灸川と田布施川の合流地点で小休止しました。この場所は、今から150年前の幕末期に脱走した奇兵隊の刑場でした。私の曾祖母が幼児の頃にその刑を見たことがあるとの言い伝えがあります。私の祖母が明治20年頃の生まれなので、祖母の母親が刑場を見たとの話は嘘ではないようです。実際、祖母や曾祖母はこのすぐ近くの人島地区に住んでいました。幕末を身近に感じます。
祖母や曾祖母が住んでいた人島地区 散髪の吉兼理髪室
小休止後、祖母や曾祖母が住んでいた人島地区の道を歩きました。私が幼児の頃、この人島になかば住んでいました。その当時は子供も多く、近くの子達とよく遊んでいました。懐かしい民家や道を思い出しながら歩きました。そして、スタート地点である平生Maxvalue近くにある吉兼理髪店横を通りました。吉兼理髪店は私が幼児の頃、保育園帰りにここでよく散髪していました。椅子の前の棚に「招き猫」の置物が置いてあったことを覚えています。私の髪を切った理髪店の親切なおばさんはもう鬼籍に入っていることでしょう。
今回は私が幼児の頃に歩き回った竪ヶ浜、田布施川、平生町北部の史跡を中心に歩きました。
平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングの下見コース
熊毛南高校をだいぶ過ぎると柳井市に入りました。そして、灸川を上流に向かって歩きました。ところで、今の田布施川は江戸時代初めから江戸時代後期にかけて作られた人工の川です。川が真っすぐであることが人工の川である証拠です。一方、灸川は曲がりくねっています。つまり自然の川の流れです。
昔の田布施川(旧薬師川は大波野の中心を流れていました。田布施中学校の北を通り、大晃機械工業(株)傍を通って灸川に流れ込んでいたのです。今それを知る人はいません。航空写真を見ると昔の田布施川跡がくっきり残っています。
灸川に架かる石橋、傷んでおり車は通行禁止
灸川を上流に向かって歩いていると石橋が架かっています。この橋は平生と田布施を結びます。今の県道が無かった時代、平生~竪ヶ浜~灸川~田布施を結ぶ街道に架かっていました。この橋は今、通行禁止となっていますが歩いての通過はOKのようでした。この橋の近くに泉が湧く場所がありました。以前は屋根がありましたが朽ちて無くなっていました。その昔は貴重な水源だったようです。
灸川傍の水源跡 かつての田布施川の幅 曼殊沙華が道沿いに咲く
石橋を注意しながら渡ると田布施に向かって旧道を歩きました。その道に沿ってかつての田布施川跡が残っています。江戸時代の田布施川はここを流れていたのです。川幅12m位しかなく堤防も無かったようです。そのため氾濫に悩まされていました。その氾濫を避けるため、400年をかけて今の場所に田布施川が作られました。
船を回転させる池跡 水の流れを制御する装置
しばらく広い田んぼ道を歩いていると、電柵を片付けている方がいました。声をかけるとイノシシ除けの電柵とのこと。田んぼにもイノシシが入るのですね。稲の穂をこさいで食べ、さらに田んぼ内で転げ割るようです。お米を作る農家も大変です。ここ最近、イノシシ,熊,タヌキ,アライグマなどの被害が増えました。なんとかならないものでしょうか。
大晃機械工業(株)の近くに船を回転させる船回しの池跡があります。江戸時代後半から明治にかけて、ここまで船が入港して波野の商品や人を平生湾に運搬していました、その船の舳先の向きを変えるための池だったのです。これまた知る人がいない史跡です。
平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングの下見コース
子供の頃歩き回った思い出深き竪ヶ浜を歩いていると知願寺が見えてきました。そして、左側に竪ヶ浜公会堂が見えてきました。昔は竪ヶ浜の端っこがこの公会堂だったのです。この公会堂から田布施までの間に民家はありませんでした。今は田布施に向かって何処までも家が続いています。
ところで、大歳神社がこの近くにあったのですが場所を忘れてしまいました。そこで道を進んで知願寺のお墓がある高台に行きました。すると、山裾に大歳神社が見えました。知願寺の10m位南側に神社への入口があったのです。
左側に荒木神社の森を、右側に熊毛南高校を見て
神社の拝殿まで距離があったため今回の下見では拝殿までは行きませんでした。続いて、知願寺の高台のお墓を右に見ながらどんどん道を登りました。すると三角小屋が見えてきました。この小屋の近くの山の斜面に山羊がいました。草を食べまくったのかその斜面には草が生えておらず剥げ地になっていました。また、以前小屋の前には竹炭を作るための窯がありましたがありませんでした。今は竹炭を作っていないようでした。
竪ヶ浜端の知願寺 竪ヶ浜公会堂 山裾にある大歳神社
三角屋根の小屋からは道を下りました。以前はちゃんとした田んぼや畑がありましたが今はどれも荒地になっていました。川傍にポツンと一軒だけ家がありました。この山ぎわに何と暖竹がたくさん生えてしかも穂が出ていました。海岸端にしか無いと思っていた暖竹がこんなところにあるとは。
荒木地区に出ると、眼下に熊毛南高校が見えてきました。私が入学した当初は木造校舎でしたが、私が卒業する頃に鉄筋コンクリート製校舎に変わりました。個人的には昭和を思わせる木造校舎が好きです。当時は暖房が達磨ストーブで燃料は石炭でした。
三角屋根の小屋、向こうに山羊 穂が出ていたたくさんの暖竹
熊毛南高校を左手に見ながら荒木地区の道を田布施に向かって歩きました。途中荒木神社のこんもりした森が見えました。今回は行きませんでしたが、本番ウォーキングでは荒木神社を参拝する予定です。ちなみに今回歩いた荒木地区の道は江戸時代は岩国藩の領地でした。つまり吉川氏が治めていました。江戸時代は岩国から続く竪ヶ浜街道でした。それを知る石柱が近くに建っています。
平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングの下見コース
11月のウォーキングの下見に行ってきました。ウォーキングする方々もだんだん高齢化して山などのきつい史跡巡りに行くことができる人が減ってきました。そのため、今年から奇数月だけウォーキングすることに規約を変えました。そのため、偶数月が下見ウォーキングで奇数月が本番ウォーキングです。この10月は下見のウォーキングです。
下見したコースは、平生の竪ヶ浜旧道,田布施川運河,そして田布施川から平生に至るこーすです。まずは平生Maxvalurをスタートして竪ヶ浜の磯崎に行きました。この磯崎には平生町開作時代の遺跡が崖に残っています。
岩国~竪ヶ浜往還旧道の史跡を巡る
平生特産センター前を通り、最初に磯崎の崖に行きました。磯崎の名の通り江戸時代初期は海岸でした。今ここに残る崖は平生の干拓時代に海をせき止めるために掘られました。大野~野島~久賀島~磯崎の間に堤防を作って海をせきあるのです。磯崎の突端には磯崎公民館があり隣に祠があります。地元の方々が守りながら信仰しているのでしょう。
平生特産センター 磯崎の崖 磯崎公民館
続いて竪ヶ浜の中心部に行きました。そして、金毘羅社に行く川筋に建つ灯篭に来ました。この灯篭付近には平生保育園時代の思い出があります。当時友達だった弘田君と二人でよく帰っていました。この灯篭前で二人は分かれていました。分かれた後、私は田んぼの畦道をたった一人で歩いて帰りました。当時竪ヶ浜には広大な田んぼが広がっていました。十人位の女性たちが一列に並んで、腰をかがめて賑やかに田植えをしている光景を覚えています。
この灯篭の川向かうに金毘羅社 灯篭の反対側、幼児の私はここで一人帰る
10年位前に弘田君を訪問したことがあります。史跡巡りウォーキングのお誘いで訪れたのです。彼と奥様とお話をしました。今回10年ぶりに彼に会おうと思っていました。
彼の家の近くにたまたまおられた近所の方に彼が元気かどうか聞きました。そして驚きました。去年亡くなったとのこと。近所の方によるとよくお酒を飲んでいたそうです。幼児時代の懐かしい話などをしようと思っていたのにとても残念でした。古希を過ぎると少しずつ仲間が減っていきます。心に寂しさが浸みた下見ウォーキングでした。
平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングの下見コース
昨日子供達と一緒に藍の葉を収穫しましたが、夕方になり乾燥中のブルーシートに影がかかりました。そのため、完全な乾燥には至りませんでした。
次の日が郷土館出勤でしかも快晴でした。そのため、一日中日が当たる郷土館の裏側にブルーシートを広げました。秋とは言え強烈な日差しでした。そのため、乾燥途中だった藍の葉が紺色にカラカラに乾燥しました。この乾燥した藍の葉、来年の成器塾 「手芸と草木染め」クラスで藍染めに使おうと思います。
強い日差しでカラカラに乾いた紺色の藍葉
来年も藍を栽培しようと思います。しかし、葉を収穫する適期は7月か8月です。その時期は日差しも強烈ですのですぐに乾燥します。熱中症に注意しながら収穫するしかなさそうです。ですが、体力を考えれば来年も今年と同様に10月が良さそうです。仲間がたくさん集まれば、葉の品質も良くしかも短時間で収穫できる真夏が良いのは明らかなのですが。
乾燥始め、まだ緑が残る藍の葉 カラカラに乾いて葉が紺色に
クラフト小屋を少しずつ改造していますが、一番の改造は薪ストーブの設置です。もともとは一年前にクラフト小屋を作った時に設置することになっていました。しかし、設置をお願いしたOさんの仕事が忙しくてこの秋になってしまいました。それまでの間、もらった古い石油ストーブで我慢していました。
Oさんによると、薪ストーブ設置時に一番苦労するのは煙突だそうです。いろいろな形状や傾きなどが屋根によってみな違います。ちなみにクラフト小屋は傾斜がゆるい波トタン屋根です。雨が入らないように煙突を取り付けるのにはブリキ加工などの専門技術が必要だと思います。
取り付け中の薪ストーブの煙突、トタン屋根を貫く
早朝Oさんが軽トラに薪ストーブを載せてやってきました。昔の山小屋や作業小屋などでよく使われているブリキ製の時計型薪ストーブです。ステンレス製で黒い皮膜ですので、大事に使えば10年位は使えるはずです。年内には火を入れようと思います。ただ、クラフト小屋は隙間だらけですし、屋根は波トタン屋根ですので火を消せばすぐに寒くなると思います。そのため石油ストーブとの併用になると思います。
友達が来たりして長い間クラフト小屋にいる時は薪ストーブを使い。クラフト小屋を1時間未満の短時間使う時は石油ストーブを使おうと思っています。今後、薪ストーブ使用のため薪割りや薪の貯蔵がかかせなくなります。昔、我家で使っていた薪で炊くかまどや薪で沸かす五右衛門風呂を思い出します。
薪ストーブ持ち込み ブリキ製薪ストーブ 屋根の煙突支え部
今年の叩き染め、去年と違うのは藍だけでなく、インド藍,ヘナ,紫根,そして紅花も使って染めていることです。ヘナは茶色に、紫根は紫色に、紅花は黄色に染まります。染ったシルクは青、紺、黄、茶、紫の色がちりばめられています。来年は紅花の朱色も加えて染めてみたいと思います。
今回染めたシルクは11月の成器塾で額縁織りにします。ついでに、シルクに年月日名前を書いてもらいます。今回の染めは子供達の一生の思い出になればと思っています。そして、大人になってからも飾るか使ってもらえたらと思っています。
青、紺、黄、茶、紫に草木染めされたシルク
さて、シルクの下に敷いて叩いた藍,インド藍,そしてヘナの葉。それらの葉汁かシルクに滲んでそれぞれ、青、紺、茶に染まりました。水洗いする前に、藍葉をミキサーにかけてドロドロした液をシルクの空いた箇所に塗りました。続いて、紅花をすり鉢で粉々にしたものに水を溶かしたものをやはりシルクに塗りました。最後に紫根をアルコールで溶かした液をシルクに塗りました。
葉汁でシルクを染める 藍をミキサーにかける 染めあがったシルク
シルクが染まったことを確認後、葉の残渣などを水で綺麗に流しました。水で洗いながらごしごし擦ると染まったシルクだけになります。新聞紙やタオルにくるんで水分を落とした後、アイロンで温めてシルクを乾燥しました。これでシルクが綺麗に草木染めされました。
次回は紅花による草木染めをします。普通のハンカチを黄色と朱色に染めます。保護者も見学に来るそうなので、子供達と一緒に楽しく染めてもらおうと思っています。
藍などの残渣を水で洗い流す アイロンで水分を飛ばし乾かす
荒神山を降りると正行院に向かいました。院と寺の違いをよく知らないのですが、院は仏教を学んだり修行する場所のようです。寺は仏教を広める場所のようです。そのため院で学んだご住職がお寺を創建して教えを広めるのでしょう。田布施の龍泉寺の発祥は光市の渓月院で、龍泉寺が元になり曹洞宗のお寺が田布施に広まったようです。
今回訪れた正行院が発祥のお寺が多くあるに違いありません。コンクリート製の近代的な本堂です。忙しそうでしたので挨拶だけにしました。白い本堂に青く晴れた空が映えていました。
ウォーキングの途中にお参りした代田八幡宮
正行院の門を出ると祇園社跡に行きました。正行院から祇園社跡に行きましたが、雑木が生えていてとても歩けない山道を進みました。崩れた小屋や倒れた石塔がありました。その昔はお社があったに違いありません。絶えてから何年も経って見事に自然に同化していました。どこからともなく蚊の大群が襲ってきました。落葉が積もる石の階段をおりました。降りた場所に立派な鳥居がありました。この鳥居だけがかつて祇園社があったことを伝えています。
ご挨拶した正行院 自然に帰った祇園社跡 火伏地蔵尊
鳥居には明治三十年代の日付が掘られていました。かつては賑やかだったのでしょう。正式な石階段とお年寄りが登れる緩い石階段がありました。蚊を振り払うようにして祇園社跡から立ち去りました。続いて火伏地蔵尊に立ち寄りました。今の時代らしくLEDロウソクが燈っていました。また花が活けてありました。この地蔵さんは今でも地元の方々に愛されているようでした。
代田八幡宮傍の宮本大師堂 國木田独歩の三角餅藤坂屋跡
続いて宮本大師堂に行きました。この付近は宮本と名のつく地区です。この大師堂がこの地区全体を取りまとめるお堂のようです。今はお参りする方も少ないようですが、江戸時代にお寺の説教師が来て教えを説いた場所なのではないかと思います。
次に代田八幡宮に行きました。ここまで来ると少し疲れで出てきたため、本殿にお参りした後に水分補給兼休憩を取りました。休憩が終わると、最後の史跡である國木田独歩の小説に出て来る三角餅の藤坂屋跡に寄りました。三角餅以外の多角経営に失敗したため倒産したそうです。藤坂屋跡を過ぎるとスタート地点に戻りました。参加された方々お疲れ様でした。
柳井東方面の史跡巡りをしたウォーキングルート
茶臼山古墳で昼食休憩を済ませると、大屋団地に行きました。10年以上前でしょうか、この団地では子供の声が聞こえたり、ベランダで洗濯物を干す姿が見えました。しかし、今回団地周辺を歩いて子供の声はしないし、どの団地も空き家ではないかと思うほど静かでした。
続いて、荒神山に行きました。大屋団地から直接荒神山に行けたのですが道がふさがっていました。今は古い住宅を経由して行くしかありません。その住宅は長屋で町営か県営ではないかと思います。まだ数家族が住んでいるようです。その住宅のすぐ上に荒神山があります。その荒神山入口には鳥居があるため、かつては神社があったのにちがいありません。今は小さな祠だけがあります。
荒神山の奥に鎮座する小さな祠
荒神山入口の石階段を登り鳥居をくぐると草地が広がっていました。平らで結構な広さです。かつては荒神様のお社がありその参道だったのではないでしょうか。その参道には草木が生えていて何年も手入れされていないようです。住宅に住む人が少なくなり管理できなくなったのではないでしょうか。鳥居には明治三十年代の年号が彫られていました。明治から大正にかけてとても賑やかだった神社のようです。手水石が残るなど当時の面影を残しています。
静かな大屋団地 県営か市営の長屋 草木が生える参道
荒神山から柳井市街を見下ろすことができます。明治時代には市街から離れた場所にあった住宅だと思われます。長屋住宅が手狭になり昭和の時代に大屋団地が作られたのではないでしょうか。ところで、大屋団地は茶臼山古墳に行く時にしか通りません。平生町で大屋団地終点のバスをたまに見かけることがあります。そのバスを見るたびに大屋団地や茶臼山古墳を思い出します。
石段を登り荒神山入口の鳥居をくぐる 荒神山から見下ろした柳井市街
ところで、県営か市営の長屋を見るととても懐かしくなりました。私が結婚した最初の住居が長屋だったからです。青梅市営の二階長屋でした。近くに地方裁判所があり、その裁判所の脇を通りながら出勤したものです。
当時は青梅駅始発の電車に乗って一時間半位かけて東京田町にある第五世代コンピュータ開発機構ICOTに勤務していました。今で言うAIの仕事をしていました。40年前にすでに日本はAIの研究に着手していたのです。まだマウスもなく、Windowもなく、パソコンも無い時代でした。しかし研究着手が早すぎました。ハードウェアが追いつかなかったのです。
そのICOTのWGメンバーの一人に国産OSのTRONを開発した坂村氏がいました。今TRONは産業OSの標準規格になっているそうですが、当時米国の圧力により流布が頓挫してしまいました。その結果Windowsが世界に普及してしまいました。TRONがオープンソースだったことが圧力原因だったのかもしれません。アメリカ企業であるMicrosoftのWindowsを伸ばすためアメリカは圧力をかけたのでしょう。今もそうですが、日本は米国の圧力に本当に弱いです。アメリカの属国と言われるゆえんですね。
柳井東方面の史跡巡りをしたウォーキングルート
暗い茶臼山トンネルを出ると、50m位歩いた後にT字路を渡りました。そして、恵愛会運動公園に沿う道を下りました。暑いためか恵愛会運動公園には誰もいませんでした。200m位道を下ると、今度は十字路を左側に曲がりました。その道の終点はは茶臼山古墳です。
この古墳は前方後円墳です。その前方部に回ってその角から古墳に登りました。簡易な石階段を登りました。ところで、古代において前方部で儀式をしていたそうです。皆が並べるように前方部は平になっています。古代、どんな装束をして儀式をしていたのでしようか。埴輪を見ると今とは全く違う装束や髪型だったようです。
冷房の効いた茶臼山古墳資料館内で昼食休憩をとる
飛鳥時代に防府が周防国の国衙に指定されました。つまり、それ以前の周防国の中心は防府ではなかったことになります。私見ですが、防府以前の周防国の中心は田布施の城南付近ではなかったかと思います。その証拠の一つとして、山口県内で古墳の数が一二位を争うほど多い事です。二つ目の証拠として、石城山神籠石(朝鮮式山城)の存在があります。古代において周防国の中心であった場所を守るため又は逃げ込む城が石城山ではなかったかと思うのです。
恵愛会運動公園 茶臼山古墳前方部 茶臼山古墳後円部
古代において柳井,田布施,平生は海でつながっていました。つまり海峡でした。その証拠が遺跡などから分かっています。古代地中海などではこのような地形にポリスが築かれました。当時の物流は陸路よりも海路が主でしたので。主に海伝いに人々が行き来していました。平安時代、清少納言は海伝いに父親の任地である防府に赴きました。柳井,田布施,平生を通って船で赴いたに違いありません。
後円部に置かれた数々の埴輪 後円部から見下ろした前方部
茶臼山古墳に登って埴輪を見たり周りを遠望してから資料館に行きました。下見時は休館でしたが今回は開館していました。涼しい館内で銅鏡などの遺物を見学しました。そして、涼しい館内でお昼休憩をとりました。休憩しながら、古代はどんなだったのかタイムマシンがあれば千年の時を越えて訪れてみたいと思いました。願わくばこの時代に生まれ変わってみたいものです。
柳井東方面の史跡巡りをしたウォーキングルート
先日、柳井東方面の史跡巡りウォーキングに行ってきました。まだまだ暑かったのですが、のんびり楽しく歩くことができました。集合はスーパートライアルです。出発時間になると旧国道188号線を跨いで最初のお地蔵様に行きました。線路端に建っているため昔何かの事故があったのでしょうか。立派な立像のお地蔵さまでした。ただ、砂岩かコンクリート製のためか背中にかけてひび割れていました。花崗岩のような硬い石を使うと良かったのですが。立派な顔立ちのお地蔵様だけに残念です。
茶臼山古墳に行く直前、茶臼山トンネル内を歩く
線路を跨いで次に中国電力の社宅前に出ました。そして、社宅所有の思われる小さな公園に行きました。手入れがあまりされておらず除草剤がまかれているようでした。寂しげなシーソーと祠が印象的でした。次にその公園傍を流れる川を上流に向かって歩きました。
スーパートライアル 線路端のお地蔵様 小さな公園内の祠
幅10m位の小さな川でしたが、意外に水は綺麗で小さな魚がたくさん泳いでいました。私が子供の頃の昭和30年代であれば、このような川は子供達の遊び場だったはずです。しかし、今は川から子供達の姿が消えてしまいました。川での遊びは楽しかったものでした。泳いだり、堰き止めたり、貝や魚を取ったり、石を投げたりなど、いろんな遊びを川でしたものでした。
草が生い茂る小さな川 棚田が広がる琴石山の麓
しばらく歩いて川から外れ琴石山の麓をめざして歩きました。古い団地を過ぎると棚田が見えてきました。もう少しすれば稲刈りできそうなほど穂が垂れていました。棚田の間をのんびり歩いた後、日陰で給水休憩をとりました。その後、柳井~大畠の山側ルートの舗装道路に出ました。時々車がすれ違
っては走り去りました。その後、暗い茶臼山トンネル内を通り茶臼山古墳に向かいました。
柳井東方面の史跡巡りをしたウォーキングルート
二泊した城崎温泉から我家に帰る日がやってきました。予定では新神戸から新幹線に乗って帰る予定でしたが、息子の予定変更により私は大阪空港から帰ることになりました。初めての大阪空港にモノレール,千里,そして50年ぶりの新大阪でした。そのことで、とんでもないドタバタ劇となりました。
さて、城崎温泉を出ると大阪空港に行く前に出石に寄りました。出石では桂小五郎が潜んでいた家を訪れた後に皿ソバと呼ばれるソバを食べました。初めてのソバでした。椀子ソバのようなたくさんの小さなお皿にそばが盛ってありました。次々に食べて、もう一人前追加注文しました。まだまだ食べられそうでしたが、時間がないため30分位した後に席をたちました。
椀子ソバのような出石の皿ソバを美味しく食べる
出石は京都から城崎温泉に向かう街道の途中にある街です。江戸時代5万石の領地で街から見上げるような山上に城がありました。ちなみに出石名物の皿ソバは、信州から領地替えでやってきた殿さまがソバを持ち込んだことが由来とのことです。信州ソバを出石向きにしたのが皿ソバなんですね。
城崎温泉の朝食 二泊した旅館 夜に入った温泉
出石を出て2時間後頃に大阪空港に到着しました。息子達は飛行機で東京に戻りましたが、私は一人で田布施の我家に戻ることにしました。ところが、初めての大阪空港モノレールで慌てました。モノレール大阪空港駅は終点兼始発であることを知らずに数台モノレールを見逃してしました。また、モノレールに乗ったものの降りた千里中央駅から北大阪急行の駅への移動が分からず時間を潰しました。さらに、知らない駅名ばかりで上り下りのどちらに乗れば良いのかすぐに分かりませんでした。
出石で皿ソバを食べたお店 大阪空港までの途中に寄った出石街
やっとのことで新大阪駅に着いたのですが、約50年ぶりの新大阪駅の変わりように驚きました。10分後に出る新幹線の指定席券を購入したのですが、構内のあまりの広さに新幹線改札口が分からず走り回りました。おまけに新神戸までの乗車券が無いため改札で止められました。やっと改札に入ると今度はホームの番号が分からず困りました。切符にそれが書いてあるのでしょうが、あいにくメガネが無くて読めません。発車時間のその時、ドアが閉まりかけた新幹線に慌てて飛び乗りました。ところが、その新幹線はなんと上りでした。
がっくりして、しばらくうなだれてしまいました。でもなんとか気を取り直して京都から折り返して帰りました。プレゼントされた敬老旅行でしたが、最後はとんでもないドタバタ劇で終わりました。ですが、今思い出すと楽しい敬老旅行でした。
城崎温泉から大阪空港までのルート 大阪空港でモノレールに乗り換え
城崎温泉街を離れて10km位でしょうか、丸山川傍の玄武洞ミュージアムに到着しました。駐車場に車を置いてから、ガイドさんに先導されて玄武洞に行きました。玄武洞に着くと、地学などの教科書に出てくる柱状節理の岩肌が目の前に迫りました。教科書に小さく載っている写真と違って、本物の岩肌は迫るものがあります。六角形のチューブのように岩が筋状に伸びています。面白いことにその岩自身がレンガのように20cm位ごとにひびが入っているのです。昔は、その岩を運んでレンガを積むようにして石垣にしていたそうです。柱状節理の岩で作られた石垣も展示されていました。
筋のように伸びている柱状節理、玄武洞公園の青龍堂
城崎温泉近くの柱状節理を、江戸時代の儒学者が玄武洞と名付けたそうです。玄武,青龍,朱雀,そして白虎にちなんだ柱状節理が玄武公園にあります。よく耳にする「玄武岩」はこの玄武洞の岩から来ているとのこと。玄武洞と名付けた儒学者に感謝すべきでしょうね。ガイドさんが岩に磁石を近づけるとくっつきます。つまり玄武岩には鉄の成分が含まれているのです。
玄武岩の磁極の向きを調べることによって、溶岩が固まる何万年も前の地球の磁極の位置が分かるそうです。今の地球は北極と南極が磁極ですが、何万年も前は南北に磁極がない時期があったとか。例えば日本がN極でブラジルがS極の時代があったかも知れません。
玄武洞ミュージアム玄関 玄武洞の岩肌 朱雀堂の岩肌
ガイドさんから丸山川と平野の成り立ちなどにも教えていただきました。その後、玄武洞ミュージアムに戻って小さな石を二つほど購入しました。その一つは蛍石で紫外線を当てると青く光ります。11月になると思いますが、麻郷小学校で奈良地区にある大岩の由来や伝説についてお話をします。その時に玄武洞や蛍石などの石や岩についても話そうと思っています。
城崎温泉に戻るとしばらく休憩しました。そして、夕食をとってから温泉に繰り出しました。そして、城崎温泉の中心を流れる川沿いに歩きました。夜遅くまで店が開いており、たくさんの家族連れ,子供,若者,カップル,そして外国人が歩いていました。この温泉街は繁盛しているようです。
城崎温泉の中心を流れる川 玄武洞と城崎温泉のルート
城崎温泉街を見下ろせるロープウェイから降りると、今度は新鮮な魚介類を食べるため海鮮丼で有名と言われるお店にいきました。温泉街の外れにあることと、その後に玄武洞に行くため車で行くことにしました。ロープウェイ駅のすぐ近くにある旅館指定の駐車場に向かいました。その駐車場は一台一台に屋根が付いている小屋風な駐車場です。その駐車場前には極楽禅寺があり、蓮の池がありました。本堂と楼門を見学してから車に乗りました。
川の傍に建っている玄武洞ミュージアム
城崎温泉街の中心道路を通ってJR城崎温泉駅に行き、すぐ傍にある市営駐車場に車を置きました。そして、海鮮料理で有名な海中苑まで歩いて行きました。海中苑は二階にあり一階は魚屋さんになっています。つまり、魚屋さんと海鮮料理がセットになっているお店のようです。一階にはひっきりなしに魚介類を積んだトラックが行き来していました。
極楽禅寺の本堂 極楽禅寺の楼門 城崎温泉の中心道路
二階への階段を登って海中苑に行きました。土日祝日は予約しないとすぐには席に座ることができないとのこと。しかし、平日でしたので空いた席がありました。でもすぐに席が埋まってしまいました。後に来たお客さんは待たされることになりました。早く来て良かったです。
注文したのは看板メニューの海鮮丼御前です。日本海の漁港が近い城崎温泉ならではの料理です。とても美味しかったです。
一階は魚屋、二階は海鮮料理の海中苑 新鮮な魚介類を使った海鮮丼御前
海中苑で美味しい海鮮丼御前を食べると、城崎温泉から少し離れた場所にある玄武洞に向かいました。玄武洞は社会の教科書に乗っていたので知っていました。溶岩が固まる時に柱状節理となった岩です。確か萩市の海岸近くにもこれに似た柱状節理となった岩があったように記憶しています。
玄武岩ミュージアムに到着すると、お願いしていたガイドさんに案内されて玄武洞に向かいました。
ロープウェイなど、城崎温泉街を行き来したルート
兵庫県の日本海側にある城崎温泉周辺の史跡巡りに行ってきました。主催は息子で、数日後が敬老の日だからとのこと。やれやれ、私も敬老される年になったようです。関西に住んでいた息子によると、大阪・京都では温泉と言えば城崎温泉だそうです。関東の箱根温泉、山口の湯本温泉のようなものでしょうか。
城崎温泉は幕末に桂小五郎が潜んでいたので名前だけは知っていました。その桂小五郎が潜んでいたその宿に泊まりました。桂小五郎自筆の書や幕末の写真がたくさん展示されていました。幕末の歴史が好きな人の密かな宿のようです。まさか敬老で行くことになろうとは思いませんでした。歴史、温泉、神社仏閣、海鮮料理などを楽しみました。
ロープウエイの頂上から見下ろした城崎温泉街、向こうに日本海が見える
前日、新神戸駅で落ち合いました。息子と家内は羽田空港から大阪空港経由で新神戸に来ました。新神戸に着いた私と合流して城崎温泉に向かいました。瀬戸内海が見える新神戸を後にして、中国地方を横断して日本海側に向かいました。今は高速道路が縦横無尽に走っているため、容易に日本海に出ることができます。
宿の朝食メニュー 温泉寺前のお地蔵様 太田垣士郎翁資料館
桂小五郎が潜伏していた宿に着いた次の日、城崎温泉郷を中心に史跡を回りました。最初に黒部ダムを作った元関西電力社長太田石垣士郎資料館を訪れました。次に城崎温泉郷を見下ろせるロープウェイに乗りました。このロープウェイは中間地点に温泉寺駅がありました。頂上に到着すると温泉郷を見下ろしました。遠くに日本海が見えました。頂上にある喫茶で、下界を見ながらしばらくくつろぎました。
ロープウェイ中間地点の温泉寺駅 新神戸から城崎温泉への移動ルート