東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町麻郷奥周辺の史跡巡りウォーキングの下見

2024年12月24日 | 歴史探訪他ウォーキング

 来年1月の史跡巡りウォーキングの下見に行ってきました。去年から山を登るような史跡巡りウォーキングを少なくしてきました。参加する方々の年齢が上がり、足腰が悪くなったりする方が増えたためです。そして、容易に歩くことができる平地の史跡巡りを多くしてきました。
 来年も今年同様に、奇数月に本番ウォーキングを偶数月に下見ウォーキングをすることにしています。そのため今回12月は1月ウォーキングの下見です。

         麻郷奈良地区の南平和霊場第六番札所西法寺


 集合したのは交流館で、10:00に奈良の大岩を目指してスタートしました。大岩は何度も来たことがあるのですが思いがけず道を間違えてしまいました。同じ道を何度も行き来しました。そして、地元の方に聞いてようやく大岩への道が分かりました。

  休憩した奈良の大岩   西法寺からの奈良地区   麻郷公民館付近の道
  

 大岩にたどり着くと休憩にしました。スタートした時はパラパラの小雨でしたが、大岩に着いた頃には晴れて、暖かい日差しが当たるようになりました。続いて麻郷公民館を目指して歩きました。公民館に着くとトイレ休憩を取りました。休憩が終わると、スタートした交流館を目指して歩きました。下見に参加された方、お疲れ様でした。

        麻郷奥を中心とした史跡巡りウォーキング下見コース

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平生町竪ヶ浜~田布施川沿い史跡巡りウォーキング(3/3)

2024年12月01日 | 歴史探訪他ウォーキング

 柳井市に入ってしばらく山沿いを歩いていると、灸川に架かっている石橋に着きました。下見時に分かっていましたが、橋脚の一部が傾いており渡ることが禁止になっていました。ですが、見ていると自転車で渡っている方がいました。車だけが渡れないようで、人がすり抜けることができる幅に隙間が設けられていました。
 その石橋を注意深く渡った頃、ちょうどお昼になりました。そのため、灸川の堤防に座って昼食休憩を取りました。

           灸川の堤防に座ってのんびりと昼食休憩


 昼食休憩を終えると、灸川の下流に向かって堤防沿いの道を歩きました。舗装されていないとても歩きやすい小道でした。暑くもなく寒くもないウォーキング日和でした。歩いていると暑くなったため上着を脱ぎました。しばらく歩いていると灸川の河口が見えました。この河口からは田布施川となります。

  橋脚が傾いた石橋   灸川から田布施川に出る   田布施川沿いを歩く
  

 江戸時代後半の幕末期、灸川河口近くの田布施川中洲に刑場がありました。20年位前に田布施川の改修で、その中洲はすっかり無くなりました。
 私が子供の頃まだ中洲がありました。当時潮が満ちてくると中洲が見えなくなりました。今はありませんがこの近くに人島橋が架かっていました。この橋を渡って平生と麻郷を往復していました。

  子供の頃によく散髪した床屋さん     終点の平生Maxvalueに到着
 

  田布施川から別れて人島地区内を歩きました。江戸時代、この周辺が海だった頃に人島は島でした。田布施川を作った時に堤防にするために掘削したため島影が無くなりました。唯一高さ数mの岩が民家の庭石としてなごりをとどめています。
 人島地区から平生町街に入りました。私が子供の頃に通った床屋さん前を通りました。その床屋さんは休みでした。その床屋さんを過ぎると、終点の平生Maxvalueに着きました。参加された方々、お疲れ様でした。

     平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングのコース

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平生町竪ヶ浜~田布施川沿い史跡巡りウォーキング(2/3)

2024年11月27日 | 歴史探訪他ウォーキング

  大歳神社を出ると、知願寺の裏道を通って羊が飼われている三角小屋に向かいました。三角小屋近くに車があり、近くで草刈りの音が聞こえました。草刈りのために車で来た人なのでしょう。
 三角小屋近くにある斜面で飼われている山羊を見た後、道を下りました。下っている途中、暖竹の群生地横を通りました。穂がたくさん出ているため穂を採集しました。穂から採った種子を来春まいてみようと思います。

           立ち寄った荒木神社(荒木地区の郷社)


 しばらく歩いて荒木神社に立ち寄りました。夏に来た時は蚊に悩まされましたが、寒い時期になったため快適に参拝できました。この神社前に熊毛南高校があります。今から400年前はこの神社下に大海原があったはずです。江戸時代の古地図にその様子がうかがえます。

  三角形の作業小屋    斜面にいた山羊二頭     暖竹の群生地
  

 荒木神社を出てしばらく歩いていると、柳井市との境界線が見えてきました。その昔、荒木地区と竪ヶ浜地区は岩国藩であり今の柳井市でした。当時岩国から竪ヶ浜に向かう竪ヶ浜街道がありました。そして、同じ柳井だった余田から竪ヶ浜に移住した人が多かったと聞きます。私の祖父は竪ヶ浜に住んでいましたが親元は余田でした。明治時代に荒木地区と竪ヶ浜地区は平生町に組み込まれ今に至ります。

      平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングのコース


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平生町竪ヶ浜~田布施川沿い史跡巡りウォーキング(1/3)

2024年11月22日 | 歴史探訪他ウォーキング

 いつもの皆さんと史跡巡りウォーキングに行ってきました。この史跡巡りウォーキングの第1回目からもう13年経ちました。去年からは各月の開催となりましたが、一昨年までは10回/年ウォーキングしてきました。そのため、これまで120回以上歩いたことになります。下見も同回数したので、下見を合わせれば240回も歩いたことになります。
 さて今回は平生町竪ヶ浜~田布施波野~田布施川~平生町を巡りました。いつものように神社仏閣を中心に歩きました。風にたなびく葦原のの穂が印象的でした。

         平生町竪ヶ浜の知願寺近くに鎮座する大歳神社


 集合した平生MaxValueを10:00にスタートすると、最初に竪ヶ浜の磯崎に行きました。江戸時代の干拓に使われた土を掘り出した崖跡を見ました。磯崎の名の通り干拓前は磯だったのでしょう。高台にある磯崎公会堂から平生湾を望みました。400年前、この場所から見えたはずの大海原を想像してみました。

  竪ヶ浜の磯崎公会堂     金毘羅社のお社    金毘羅社から見た灯篭
  

 磯崎を過ぎるとかつての平生~田布施を結ぶ旧道を歩きました。この狭い旧道、昭和時代にはバスが走っていたようです。当時は賑わっていたであろう閉店したお店がありました。旧道を歩きながら、金毘羅社や大歳神社を訪れました。

    立派な大歳神社の石鳥居        大歳神社境内で小休止
 

 大歳神社で補水兼小休止しました。この神社は竪ヶ浜の奥まった山裾にあります。この神社が建てられた頃、この神社下まで海岸線があったのかも知れません。
 竪ヶ浜の歴史を調べてみたことがあります。すると、干拓が始まる前までは竪ヶ浜一帯は海岸で各家は船を持っていたようです。その船で漁業を営んでいたのでしょう。その海岸線に沿って旧道があり、その旧道に家々が建ち並んでいたのではないでしょうか。

      平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングのコース

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レクスポ大会 歴史探訪ウォークでお年寄りを史跡案内

2024年11月03日 | 歴史探訪他ウォーキング

 先日お年寄り向けの史跡散歩(アレッチャ・アレーネ・たぶせ)がありました。去年はスポーツセンターがスタートだったのですが、今年は保健センターからスタートしました。もともとは詩情公園がスタートでしたが小雨でしたので急遽保健センター集合となりました。主催は田布施町老人クラブ連合会です。
 時間になると開会式がありました。挨拶後にかるく準備体操をした後に出発です。去年は1グルーブだけでしたが、今年は参加者が増えため2グループでした。私が案内した史跡は、信光寺,吉田雨村顕彰碑,長田聖観世音菩薩堂,田布施川改修碑などです。    


          長田の聖観音菩薩堂で皆さんに巡礼などの解説


 去年より参加者が多いのは、去年は体操などの他プログラムがあったため参加者が少なかったとのこと。今年は史跡探訪だけになったため、特に女性が多く参加されました。私が案内したのは田布施町庁舎をぐるりと回った3kmぐらいにある史跡です。直接史跡を訪れた以外に、遠目に解説した史跡もあります。例えば真光寺、岸信介と平野捨五郎の墓所などです。説明だけにしたのは急坂だったり舗装されていない道を歩かなければならないからです。

  開会式後に準備体操  スタートした保健センター   山の上の真光寺
  

 史跡ではないのでが数年前に起きた交通事故現場のお話もしました。そして、ほとんどの方が一度も歩いたことがない長田地区内の小道を歩きました。長田地区をすぎると田布施川に出ます。田布施川に出ると田布施川の400年に渡る歴史について解説をしました。

    田布施川袂の改堤記念碑       無事に帰着して解散
 

 田布施川の歴史をお話した後、龍願寺近くの堤防を歩きました。歩いていると、龍願寺内にある田布施幼稚園の児童たちが我々にさかんに手を振っていました。それに対してお年寄りも元気に手を振っていました。
 その後、歩きながら田布施川堤防の桜の由来について説明をしました。そして、田布施町庁舎前にある江良碧松の自由律俳句について最後の解説をしました。みなさん元気にスタート地点である保健センターへに到着しました。参加された方々、お疲れ様でした。

           お年寄りを案内した史跡探訪コース

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平生町竪ヶ浜~田布施川沿い史跡巡りウォーキングの下見(4/4)

2024年10月30日 | 歴史探訪他ウォーキング

 大晃機械工業(株)傍にある船回し池跡を過ぎると、天満宮横の県道を回りこんで田布施川に向かいました。今回は下見ですので順調に歩けましたが、本番ウォーキングでは時間が足りなさそうです。そのため、熊毛南高校傍を流れる灸川を下流に向かって田布施川に向かうことになると思います。
 大晃機械工業(株)をぐるりと回ると熊毛南高校入口の灸川に出ました。そして、今度は灸川の堤防に沿って田布施川に向かいました。放置された田んぼには覆いつくすほどの葦が映えていました。そして、どの葦も穂がたなびいていました。たなびく葦の穂を見ていると秋を感じさせます。また葦原は日本の原風景です。

     田布施川脇の灸川河口、〇はかつての堤防を支えていた杭の列


 5年位前に灸川を散策したことがあります。当時の灸川は水草が生い茂っていて川底が見えませんでした。そして、たくさんの亀がいました。ほとんどが外来種のミドリガメでしたが、クサガメなどの在来種もいました。ただミドリガメの方が強いのか在来種は追いやられて近くの田んぼにいました。しかし、数年前の灸川改修によって水草が一掃されて堤防が新しくなりました。そのためか、外来種も在来種もぐっと減りました。

  赤子山を振り返って     穂が出た葦原     改修後の灸側堤防
  

 灸川と田布施川の合流地点で小休止しました。この場所は、今から150年前の幕末期に脱走した奇兵隊の刑場でした。私の曾祖母が幼児の頃にその刑を見たことがあるとの言い伝えがあります。私の祖母が明治20年頃の生まれなので、祖母の母親が刑場を見たとの話は嘘ではないようです。実際、祖母や曾祖母はこのすぐ近くの人島地区に住んでいました。幕末を身近に感じます。

 祖母や曾祖母が住んでいた人島地区       散髪の吉兼理髪室
 

  小休止後、祖母や曾祖母が住んでいた人島地区の道を歩きました。私が幼児の頃、この人島になかば住んでいました。その当時は子供も多く、近くの子達とよく遊んでいました。懐かしい民家や道を思い出しながら歩きました。そして、スタート地点である平生Maxvalue近くにある吉兼理髪店横を通りました。吉兼理髪店は私が幼児の頃、保育園帰りにここでよく散髪していました。椅子の前の棚に「招き猫」の置物が置いてあったことを覚えています。私の髪を切った理髪店の親切なおばさんはもう鬼籍に入っていることでしょう。
 今回は私が幼児の頃に歩き回った竪ヶ浜、田布施川、平生町北部の史跡を中心に歩きました。

     平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングの下見コース

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平生町竪ヶ浜~田布施川沿い史跡巡りウォーキングの下見(3/4)

2024年10月27日 | 歴史探訪他ウォーキング

 熊毛南高校をだいぶ過ぎると柳井市に入りました。そして、灸川を上流に向かって歩きました。ところで、今の田布施川は江戸時代初めから江戸時代後期にかけて作られた人工の川です。川が真っすぐであることが人工の川である証拠です。一方、灸川は曲がりくねっています。つまり自然の川の流れです。
 昔の田布施川(旧薬師川は大波野の中心を流れていました。田布施中学校の北を通り、大晃機械工業(株)傍を通って灸川に流れ込んでいたのです。今それを知る人はいません。航空写真を見ると昔の田布施川跡がくっきり残っています。

          灸川に架かる石橋、傷んでおり車は通行禁止


 灸川を上流に向かって歩いていると石橋が架かっています。この橋は平生と田布施を結びます。今の県道が無かった時代、平生~竪ヶ浜~灸川~田布施を結ぶ街道に架かっていました。この橋は今、通行禁止となっていますが歩いての通過はOKのようでした。この橋の近くに泉が湧く場所がありました。以前は屋根がありましたが朽ちて無くなっていました。その昔は貴重な水源だったようです。

   灸川傍の水源跡    かつての田布施川の幅   曼殊沙華が道沿いに咲く
  

 石橋を注意しながら渡ると田布施に向かって旧道を歩きました。その道に沿ってかつての田布施川跡が残っています。江戸時代の田布施川はここを流れていたのです。川幅12m位しかなく堤防も無かったようです。そのため氾濫に悩まされていました。その氾濫を避けるため、400年をかけて今の場所に田布施川が作られました。

     船を回転させる池跡        水の流れを制御する装置
 

  しばらく広い田んぼ道を歩いていると、電柵を片付けている方がいました。声をかけるとイノシシ除けの電柵とのこと。田んぼにもイノシシが入るのですね。稲の穂をこさいで食べ、さらに田んぼ内で転げ割るようです。お米を作る農家も大変です。ここ最近、イノシシ,熊,タヌキ,アライグマなどの被害が増えました。なんとかならないものでしょうか。
 大晃機械工業(株)の近くに船を回転させる船回しの池跡があります。江戸時代後半から明治にかけて、ここまで船が入港して波野の商品や人を平生湾に運搬していました、その船の舳先の向きを変えるための池だったのです。これまた知る人がいない史跡です。

     平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングの下見コース

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平生町竪ヶ浜~田布施川沿い史跡巡りウォーキングの下見(2/4)

2024年10月23日 | 歴史探訪他ウォーキング

 子供の頃歩き回った思い出深き竪ヶ浜を歩いていると知願寺が見えてきました。そして、左側に竪ヶ浜公会堂が見えてきました。昔は竪ヶ浜の端っこがこの公会堂だったのです。この公会堂から田布施までの間に民家はありませんでした。今は田布施に向かって何処までも家が続いています。
 ところで、大歳神社がこの近くにあったのですが場所を忘れてしまいました。そこで道を進んで知願寺のお墓がある高台に行きました。すると、山裾に大歳神社が見えました。知願寺の10m位南側に神社への入口があったのです。

          左側に荒木神社の森を、右側に熊毛南高校を見て


 神社の拝殿まで距離があったため今回の下見では拝殿までは行きませんでした。続いて、知願寺の高台のお墓を右に見ながらどんどん道を登りました。すると三角小屋が見えてきました。この小屋の近くの山の斜面に山羊がいました。草を食べまくったのかその斜面には草が生えておらず剥げ地になっていました。また、以前小屋の前には竹炭を作るための窯がありましたがありませんでした。今は竹炭を作っていないようでした。

  竪ヶ浜端の知願寺      竪ヶ浜公会堂     山裾にある大歳神社
  

 三角屋根の小屋からは道を下りました。以前はちゃんとした田んぼや畑がありましたが今はどれも荒地になっていました。川傍にポツンと一軒だけ家がありました。この山ぎわに何と暖竹がたくさん生えてしかも穂が出ていました。海岸端にしか無いと思っていた暖竹がこんなところにあるとは。
 荒木地区に出ると、眼下に熊毛南高校が見えてきました。私が入学した当初は木造校舎でしたが、私が卒業する頃に鉄筋コンクリート製校舎に変わりました。個人的には昭和を思わせる木造校舎が好きです。当時は暖房が達磨ストーブで燃料は石炭でした。

   三角屋根の小屋、向こうに山羊    穂が出ていたたくさんの暖竹
 

  熊毛南高校を左手に見ながら荒木地区の道を田布施に向かって歩きました。途中荒木神社のこんもりした森が見えました。今回は行きませんでしたが、本番ウォーキングでは荒木神社を参拝する予定です。ちなみに今回歩いた荒木地区の道は江戸時代は岩国藩の領地でした。つまり吉川氏が治めていました。江戸時代は岩国から続く竪ヶ浜街道でした。それを知る石柱が近くに建っています。

     平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングの下見コース

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平生町竪ヶ浜~田布施川沿い史跡巡りウォーキングの下見(1/4)

2024年10月17日 | 歴史探訪他ウォーキング

 11月のウォーキングの下見に行ってきました。ウォーキングする方々もだんだん高齢化して山などのきつい史跡巡りに行くことができる人が減ってきました。そのため、今年から奇数月だけウォーキングすることに規約を変えました。そのため、偶数月が下見ウォーキングで奇数月が本番ウォーキングです。この10月は下見のウォーキングです。
 下見したコースは、平生の竪ヶ浜旧道,田布施川運河,そして田布施川から平生に至るこーすです。まずは平生Maxvalurをスタートして竪ヶ浜の磯崎に行きました。この磯崎には平生町開作時代の遺跡が崖に残っています。

             岩国~竪ヶ浜往還旧道の史跡を巡る


 平生特産センター前を通り、最初に磯崎の崖に行きました。磯崎の名の通り江戸時代初期は海岸でした。今ここに残る崖は平生の干拓時代に海をせき止めるために掘られました。大野~野島~久賀島~磯崎の間に堤防を作って海をせきあるのです。磯崎の突端には磯崎公民館があり隣に祠があります。地元の方々が守りながら信仰しているのでしょう。

  平生特産センター       磯崎の崖       磯崎公民館
  

 続いて竪ヶ浜の中心部に行きました。そして、金毘羅社に行く川筋に建つ灯篭に来ました。この灯篭付近には平生保育園時代の思い出があります。当時友達だった弘田君と二人でよく帰っていました。この灯篭前で二人は分かれていました。分かれた後、私は田んぼの畦道をたった一人で歩いて帰りました。当時竪ヶ浜には広大な田んぼが広がっていました。十人位の女性たちが一列に並んで、腰をかがめて賑やかに田植えをしている光景を覚えています。

  この灯篭の川向かうに金毘羅社    灯篭の反対側、幼児の私はここで一人帰る
 

 10年位前に弘田君を訪問したことがあります。史跡巡りウォーキングのお誘いで訪れたのです。彼と奥様とお話をしました。今回10年ぶりに彼に会おうと思っていました。
 彼の家の近くにたまたまおられた近所の方に彼が元気かどうか聞きました。そして驚きました。去年亡くなったとのこと。近所の方によるとよくお酒を飲んでいたそうです。幼児時代の懐かしい話などをしようと思っていたのにとても残念でした。古希を過ぎると少しずつ仲間が減っていきます。心に寂しさが浸みた下見ウォーキングでした。

     平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングの下見コース

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藍の葉を収穫、すぐに天日乾燥(2/2)

2024年10月16日 | 歴史探訪他ウォーキング

 昨日子供達と一緒に藍の葉を収穫しましたが、夕方になり乾燥中のブルーシートに影がかかりました。そのため、完全な乾燥には至りませんでした。
 次の日が郷土館出勤でしかも快晴でした。そのため、一日中日が当たる郷土館の裏側にブルーシートを広げました。秋とは言え強烈な日差しでした。そのため、乾燥途中だった藍の葉が紺色にカラカラに乾燥しました。この乾燥した藍の葉、来年の成器塾 「手芸と草木染め」クラスで藍染めに使おうと思います。

          強い日差しでカラカラに乾いた紺色の藍葉


 来年も藍を栽培しようと思います。しかし、葉を収穫する適期は7月か8月です。その時期は日差しも強烈ですのですぐに乾燥します。熱中症に注意しながら収穫するしかなさそうです。ですが、体力を考えれば来年も今年と同様に10月が良さそうです。仲間がたくさん集まれば、葉の品質も良くしかも短時間で収穫できる真夏が良いのは明らかなのですが。

  乾燥始め、まだ緑が残る藍の葉      カラカラに乾いて葉が紺色に
 

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クラフト小屋内の改造(2/x)

2024年10月13日 | 歴史探訪他ウォーキング

 クラフト小屋を少しずつ改造していますが、一番の改造は薪ストーブの設置です。もともとは一年前にクラフト小屋を作った時に設置することになっていました。しかし、設置をお願いしたOさんの仕事が忙しくてこの秋になってしまいました。それまでの間、もらった古い石油ストーブで我慢していました。
 Oさんによると、薪ストーブ設置時に一番苦労するのは煙突だそうです。いろいろな形状や傾きなどが屋根によってみな違います。ちなみにクラフト小屋は傾斜がゆるい波トタン屋根です。雨が入らないように煙突を取り付けるのにはブリキ加工などの専門技術が必要だと思います。

        取り付け中の薪ストーブの煙突、トタン屋根を貫く


 早朝Oさんが軽トラに薪ストーブを載せてやってきました。昔の山小屋や作業小屋などでよく使われているブリキ製の時計型薪ストーブです。ステンレス製で黒い皮膜ですので、大事に使えば10年位は使えるはずです。年内には火を入れようと思います。ただ、クラフト小屋は隙間だらけですし、屋根は波トタン屋根ですので火を消せばすぐに寒くなると思います。そのため石油ストーブとの併用になると思います。
 友達が来たりして長い間クラフト小屋にいる時は薪ストーブを使い。クラフト小屋を1時間未満の短時間使う時は石油ストーブを使おうと思っています。今後、薪ストーブ使用のため薪割りや薪の貯蔵がかかせなくなります。昔、我家で使っていた薪で炊くかまどや薪で沸かす五右衛門風呂を思い出します。

  薪ストーブ持ち込み   ブリキ製薪ストーブ    屋根の煙突支え部
   

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放課後学習 成器塾 「手芸と染め」藍の叩き初め(2/2)

2024年10月12日 | 歴史探訪他ウォーキング

 今年の叩き染め、去年と違うのは藍だけでなく、インド藍,ヘナ,紫根,そして紅花も使って染めていることです。ヘナは茶色に、紫根は紫色に、紅花は黄色に染まります。染ったシルクは青、紺、黄、茶、紫の色がちりばめられています。来年は紅花の朱色も加えて染めてみたいと思います。
 今回染めたシルクは11月の成器塾で額縁織りにします。ついでに、シルクに年月日名前を書いてもらいます。今回の染めは子供達の一生の思い出になればと思っています。そして、大人になってからも飾るか使ってもらえたらと思っています。

         青、紺、黄、茶、紫に草木染めされたシルク


  さて、シルクの下に敷いて叩いた藍,インド藍,そしてヘナの葉。それらの葉汁かシルクに滲んでそれぞれ、青、紺、茶に染まりました。水洗いする前に、藍葉をミキサーにかけてドロドロした液をシルクの空いた箇所に塗りました。続いて、紅花をすり鉢で粉々にしたものに水を溶かしたものをやはりシルクに塗りました。最後に紫根をアルコールで溶かした液をシルクに塗りました。

 葉汁でシルクを染める   藍をミキサーにかける   染めあがったシルク
  

 シルクが染まったことを確認後、葉の残渣などを水で綺麗に流しました。水で洗いながらごしごし擦ると染まったシルクだけになります。新聞紙やタオルにくるんで水分を落とした後、アイロンで温めてシルクを乾燥しました。これでシルクが綺麗に草木染めされました。
 次回は紅花による草木染めをします。普通のハンカチを黄色と朱色に染めます。保護者も見学に来るそうなので、子供達と一緒に楽しく染めてもらおうと思っています。

   藍などの残渣を水で洗い流す     アイロンで水分を飛ばし乾かす
 

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柳井市 柳東地区の史跡巡りウォーキング(4/4)

2024年10月02日 | 歴史探訪他ウォーキング

 荒神山を降りると正行院に向かいました。院と寺の違いをよく知らないのですが、院は仏教を学んだり修行する場所のようです。寺は仏教を広める場所のようです。そのため院で学んだご住職がお寺を創建して教えを広めるのでしょう。田布施の龍泉寺の発祥は光市の渓月院で、龍泉寺が元になり曹洞宗のお寺が田布施に広まったようです。
 今回訪れた正行院が発祥のお寺が多くあるに違いありません。コンクリート製の近代的な本堂です。忙しそうでしたので挨拶だけにしました。白い本堂に青く晴れた空が映えていました。

          ウォーキングの途中にお参りした代田八幡宮


 正行院の門を出ると祇園社跡に行きました。正行院から祇園社跡に行きましたが、雑木が生えていてとても歩けない山道を進みました。崩れた小屋や倒れた石塔がありました。その昔はお社があったに違いありません。絶えてから何年も経って見事に自然に同化していました。どこからともなく蚊の大群が襲ってきました。落葉が積もる石の階段をおりました。降りた場所に立派な鳥居がありました。この鳥居だけがかつて祇園社があったことを伝えています。

  ご挨拶した正行院    自然に帰った祇園社跡     火伏地蔵尊
  

 鳥居には明治三十年代の日付が掘られていました。かつては賑やかだったのでしょう。正式な石階段とお年寄りが登れる緩い石階段がありました。蚊を振り払うようにして祇園社跡から立ち去りました。続いて火伏地蔵尊に立ち寄りました。今の時代らしくLEDロウソクが燈っていました。また花が活けてありました。この地蔵さんは今でも地元の方々に愛されているようでした。

   代田八幡宮傍の宮本大師堂       國木田独歩の三角餅藤坂屋跡
 

 続いて宮本大師堂に行きました。この付近は宮本と名のつく地区です。この大師堂がこの地区全体を取りまとめるお堂のようです。今はお参りする方も少ないようですが、江戸時代にお寺の説教師が来て教えを説いた場所なのではないかと思います。
 次に代田八幡宮に行きました。ここまで来ると少し疲れで出てきたため、本殿にお参りした後に水分補給兼休憩を取りました。休憩が終わると、最後の史跡である國木田独歩の小説に出て来る三角餅の藤坂屋跡に寄りました。三角餅以外の多角経営に失敗したため倒産したそうです。藤坂屋跡を過ぎるとスタート地点に戻りました。参加された方々お疲れ様でした。

       柳井東方面の史跡巡りをしたウォーキングルート

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柳井市 柳東地区の史跡巡りウォーキング(3/4)

2024年09月28日 | 歴史探訪他ウォーキング

 茶臼山古墳で昼食休憩を済ませると、大屋団地に行きました。10年以上前でしょうか、この団地では子供の声が聞こえたり、ベランダで洗濯物を干す姿が見えました。しかし、今回団地周辺を歩いて子供の声はしないし、どの団地も空き家ではないかと思うほど静かでした。
 続いて、荒神山に行きました。大屋団地から直接荒神山に行けたのですが道がふさがっていました。今は古い住宅を経由して行くしかありません。その住宅は長屋で町営か県営ではないかと思います。まだ数家族が住んでいるようです。その住宅のすぐ上に荒神山があります。その荒神山入口には鳥居があるため、かつては神社があったのにちがいありません。今は小さな祠だけがあります。

            荒神山の奥に鎮座する小さな祠


 荒神山入口の石階段を登り鳥居をくぐると草地が広がっていました。平らで結構な広さです。かつては荒神様のお社がありその参道だったのではないでしょうか。その参道には草木が生えていて何年も手入れされていないようです。住宅に住む人が少なくなり管理できなくなったのではないでしょうか。鳥居には明治三十年代の年号が彫られていました。明治から大正にかけてとても賑やかだった神社のようです。手水石が残るなど当時の面影を残しています。

  静かな大屋団地      県営か市営の長屋    草木が生える参道
  

 荒神山から柳井市街を見下ろすことができます。明治時代には市街から離れた場所にあった住宅だと思われます。長屋住宅が手狭になり昭和の時代に大屋団地が作られたのではないでしょうか。ところで、大屋団地は茶臼山古墳に行く時にしか通りません。平生町で大屋団地終点のバスをたまに見かけることがあります。そのバスを見るたびに大屋団地や茶臼山古墳を思い出します。

石段を登り荒神山入口の鳥居をくぐる     荒神山から見下ろした柳井市街
 

 ところで、県営か市営の長屋を見るととても懐かしくなりました。私が結婚した最初の住居が長屋だったからです。青梅市営の二階長屋でした。近くに地方裁判所があり、その裁判所の脇を通りながら出勤したものです。
 当時は青梅駅始発の電車に乗って一時間半位かけて東京田町にある第五世代コンピュータ開発機構ICOTに勤務していました。今で言うAIの仕事をしていました。40年前にすでに日本はAIの研究に着手していたのです。まだマウスもなく、Windowもなく、パソコンも無い時代でした。しかし研究着手が早すぎました。ハードウェアが追いつかなかったのです。
 そのICOTのWGメンバーの一人に国産OSのTRONを開発した坂村氏がいました。今TRONは産業OSの標準規格になっているそうですが、当時米国の圧力により流布が頓挫してしまいました。その結果Windowsが世界に普及してしまいました。TRONがオープンソースだったことが圧力原因だったのかもしれません。アメリカ企業であるMicrosoftのWindowsを伸ばすためアメリカは圧力をかけたのでしょう。今もそうですが、日本は米国の圧力に本当に弱いです。アメリカの属国と言われるゆえんですね。

        柳井東方面の史跡巡りをしたウォーキングルート

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柳井市 柳東地区の史跡巡りウォーキング(2/4)

2024年09月26日 | 歴史探訪他ウォーキング

 暗い茶臼山トンネルを出ると、50m位歩いた後にT字路を渡りました。そして、恵愛会運動公園に沿う道を下りました。暑いためか恵愛会運動公園には誰もいませんでした。200m位道を下ると、今度は十字路を左側に曲がりました。その道の終点はは茶臼山古墳です。
 この古墳は前方後円墳です。その前方部に回ってその角から古墳に登りました。簡易な石階段を登りました。ところで、古代において前方部で儀式をしていたそうです。皆が並べるように前方部は平になっています。古代、どんな装束をして儀式をしていたのでしようか。埴輪を見ると今とは全く違う装束や髪型だったようです。

        冷房の効いた茶臼山古墳資料館内で昼食休憩をとる


 飛鳥時代に防府が周防国の国衙に指定されました。つまり、それ以前の周防国の中心は防府ではなかったことになります。私見ですが、防府以前の周防国の中心は田布施の城南付近ではなかったかと思います。その証拠の一つとして、山口県内で古墳の数が一二位を争うほど多い事です。二つ目の証拠として、石城山神籠石(朝鮮式山城)の存在があります。古代において周防国の中心であった場所を守るため又は逃げ込む城が石城山ではなかったかと思うのです。

   恵愛会運動公園     茶臼山古墳前方部    茶臼山古墳後円部
  

 古代において柳井,田布施,平生は海でつながっていました。つまり海峡でした。その証拠が遺跡などから分かっています。古代地中海などではこのような地形にポリスが築かれました。当時の物流は陸路よりも海路が主でしたので。主に海伝いに人々が行き来していました。平安時代、清少納言は海伝いに父親の任地である防府に赴きました。柳井,田布施,平生を通って船で赴いたに違いありません。

   後円部に置かれた数々の埴輪     後円部から見下ろした前方部
 

  茶臼山古墳に登って埴輪を見たり周りを遠望してから資料館に行きました。下見時は休館でしたが今回は開館していました。涼しい館内で銅鏡などの遺物を見学しました。そして、涼しい館内でお昼休憩をとりました。休憩しながら、古代はどんなだったのかタイムマシンがあれば千年の時を越えて訪れてみたいと思いました。願わくばこの時代に生まれ変わってみたいものです。

        柳井東方面の史跡巡りをしたウォーキングルート

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