最近、我家の裏山の下刈りをしていません。そのため、笹が生え放題です。これから夏に入ってますます笹が生えると思います。これ以上笹が生えないように、下刈りの準備をすることにしました。
雑草に覆われた裏山への登り口 綺麗に雑草を刈り取った登り口
やみくもに下刈りをすると効率が悪くなります。まずは、笹が生い茂った山道を先に刈り取ります。つまり、山を縦横に歩き回れるように、下刈りの下準備として山道を先に刈るのです。そうすれば、草刈機やガソリンなどを補充しやすくなります。また、すばやく山を移動できます。
笹が生い茂った山道 綺麗に刈り取った山道
今回は山を自由に歩き回れるように主要な山道を一本刈り取りました。今後、この山道を中心に、左右上下に刈り広げるつもりです。今回ひもで刈りましたが、笹が太くなっていたため蔓や太い笹が巻き付くなど往生しました。今後は鉄の円盤刃を使って刈ろうと思います。チップソーが一番軽く刈れますが、値段が高い事と研ぐことが難しいのです。これから本格的な夏になります。汗は出るは、蚊は出るは、ダニが出るは・・で困難な下草刈りの連続になると思います。
刈り取りした主要な山道、今後はこの道を中心に下草刈り
来月のウォーキングは、光市の島田駅から島田川沿いに史跡を巡りながら河口に向かって歩きます。まずは本番ウォーキングの予定のとおり、田布施駅9:54発の電車に乗りました。そして、10:03に島田駅に到着しました。島田駅に来たのは数年ぶりのことです。60年位前のことですが、祖母に連れられて島田の温泉によく来ていました。温泉と言うよりも、大きめの銭湯だったように記憶しています。
田布施駅を9:54発 島田駅10:03に到着 旧道をのんびり散策
島田駅から旧道を200m位歩いて、最初の史跡である多賀神社に向かいました。アジサイがとても綺麗な急坂を登りました。最近手入れされていないのか、草だらけの石段を登りました。とても急な坂で、一段一段が高いため息が上がりました。
アジサイがとても綺麗な多賀神社の石段
石段をやっとの思いで登ると、多賀神社の広場に出ました。周りは木が茂っているため展望はありません。その昔は見晴らしが良かったのではないかと思います。ただお社はとても傷んでおり、そもそも板塀が無いのです。これでは大雨の時には雨が吹き込むに違いありません。草が生え放題のことからして、最近放棄されているのではないかと思れます。
草生え放題の多賀神社 神社裏の祠 光市の名木モミノキ
多賀神社裏にはとても由緒がありそうな祠が数基ありました。そして、光市の名木百選の一つモミノキが立っていました。とても太い幹です。200年位以上経っている名木ではないかと思います。その昔は目印になっていたのではないかと思います。
多賀神社から続くお地蔵様群 三体地蔵尊
多賀神社から東側の緩やかな下り坂にお地蔵様が並んでいました。八十八体のお地蔵様が並んでいるのではないかと思います。そのお地蔵様に沿って道を下っていると、三体地蔵尊がありました。三体のお地蔵様が仲良く並んでいました。雨が振り込まないように屋根がありました。
たくさんのお地蔵様が二列に並んでいる眞覚寺
それらのお地蔵様群の小道は比較的よく整備されています。多賀神社は地域の方々が半ば放棄しているようですが、この小道はお寺で程よく整備してるのではないでしょうか。整備された小道をどんどん下っていると突然視界が開けました。そして、たくさんのお地蔵様が二列に並んでいました。眞覚寺に着いたのです。
島田駅から島田川沿いにウォーキングした下見コース
次に火伏地蔵尊に行きました。坐像の地蔵尊が多い中、なかなか立派な立像のお地蔵様でした。このお地蔵様の前で、いかに昔の人は火事が怖かったかお話をしました。そして、そのついでに放火が最も重い罪であったことを説明しました。
なかなか立派な火伏地蔵尊 毘沙門堂を覗き込む
放火の罪は火で刑が実行されます。いわゆる火あぶりの刑です。数ある火あぶりの刑の中で唯一、16歳の娘が火あぶりの刑になった話を皆さんにしました。私はこの乙女の火あぶりの刑を講談か何かで知ったのですが、八百屋お七の話だとは知りませんでした。今と違い江戸時代女性の婚期は16歳だったそうで、そんな16歳の乙女が、運命の恋をして罪を犯して火あぶりになったのです。
土穂石八幡宮に到着、ここで少し休憩
そんな八百屋お七の逸話の一つに、八百屋お七が着ていた振袖があります。あるお寺に遺品として収められているその振袖、何故だかボロ雑巾のようにちぎれているのです。その理由は、八百屋お七の恋にあやかりたいと、恋する乙女達が端切れを次々に千切って持って帰ったからだそうです。恋が成就するようにと。
意外なことにこの八百屋お七が現代にも生きていることを初めて知りました。歌謡曲などで今でも歌われたり、舞踊として踊られているのです。16歳のか弱き乙女の悲恋に、人々は時代を超えて涙するのですね。
ヤマモモの実を採取 実をお土産に 石風呂の解説を受ける
火伏地蔵尊を過ぎると、土穂石川傍の毘沙門堂に行きました。お堂の中には小さなお地蔵様がありました。覗き込むようにして拝みました。続いて、土穂石八幡宮に行きました。新庄小学校の間に土穂石八幡宮の参道があります。左に新庄小学校校舎を、右に運動場を見ながら参道を通りました。この頃になると、さらに日差しが強くなったため境内に少し休憩しました。
今でも使えそうな土穂石川の石風呂を見学
土穂石八幡宮の境内にヤマモモの実が大量に赤く熟していました。私も少し取って食べてみました。甘酸っぱい美味しさが口内に広がりました。土穂石八幡宮からすぐの所に石風呂があります。今は営業していませんが、かつては一種の社交場だったようです。石が積まれたドームのような石風呂内部を見学しました。
土穂石の由来の巨岩 大師堂前に置かれた野菜
下見の時、ウォーキングで石風呂を訪れることをお話ししていました。そのため今回、石風呂について詳しい解説を伺うことができました。石風呂の説明、ありがとうございました。なお、解説していただいた奥様は、今回一緒にウォーキングした二人の高校時代の同級生とのこと。数十年ぶりの再会で、手を取り合うように喜んでいました。石風呂を出ると大師堂を見学後、出発した新庄MaValuに向かって歩きました。参加された方々、お疲れ様でした。来月は光市の島田川に沿って名所や史跡をウォーキングします。
楽しくウォーキングした柳井市新庄の史跡コース
町外への移動は車、町内の移動にはバイクを多用しています。10年前に買い替えたバイクですが、様子がおかしいと気が付いたのは数ヶ月前からです。燃費が悪いことに気が付いたのが始まりです。1回の給油で軽く200km走っていたのに、最近は180km程度しか走らないのです。そして、長い急坂を登れなくなってしまったのです。
最近調子が悪くなっていた150ccのバイク
次に出た症状は前ブレーキです。ブレーキの強弱が効かなくなってしまったのです。つまり、ブレーキを微妙に調節できなくなってしまったのです。さらに、スピードメーターがフラフラ揺れて正確なスピードが分からなくってしまいました。そして、決定打の故障がおきました。後ろのブレーキがかかったままの状態になってしまったのです。押しても引いてもブレーキがかかったままなのです。
やむなく、徳山にあるバイク修理店に持って行きました。取りに来てもらうわけにはいかないので、後ろのブレーキを解除して乗って行きました。
前と後ブレーキの故障 フラフラ揺れるスピードメーター
修理の結果を聞くと、燃費が悪かったのはブレーキが軽くかかったまま(ブレーキの引きずり)だったことが原因とのこと。根本原因は、ブレーキをコントロールするワイヤーの固着です。また、前輪ブレーキ故障の原因はオイルピストンの固着だとのことです。スピードメーターの振らつきはワイヤーが外れかかっていることが原因とのことです。このさい、エンジンオイルを交換してもらったら、エンジンオイルがほぼ無い状態だったそうです。
なけなしのお金を払って修理しました。お店の話では今後もこのような故障が頻発するのであれば、新規にバイクを購入した方が良いとのことです。修理代を払った後、雨の中を濡れながらバイクに乗って帰りました。トホホの一日でした。このバイク、今まで52,505km走りました。今後同じような故障が再発するか、又はあと数万km走行したら買い替えようかと思います。
ワイヤーが固着(A,B)して引きずり状態だった後ブレーキ(c)
高林寺でお昼休憩をしました。私は門近くの木陰にシートを敷いて、数人と一緒に座って休憩しました。楽しい話題でなごみながら、いつものようにコンビニ弁当を食べました。そのうち、お菓子などのおすそわけが回ってきました。休憩が終わると、次の見学地である岩政次郎右衛門顕彰碑に向かって出発しました。
昼食休憩をした高林寺 岩政次郎右衛門の顕彰碑
岩政次郎右衛門は、江戸時代に新庄の農政改革をした人です。新庄の中心部に土穂石川が流れていますが、その川に向かってどの田んぼも傾斜しています。つまり、土穂石川の水を田んぼに利用できないのです。そこで、今の黒杭ダム近くから新庄まで水を引く水路を建設しました。そのおかげで新庄は豊かになったそうです。その岩政次郎右衛門が顕彰された碑を見学しました。
柳井の名木の一つ、ラクウショウの大木
次に柳井市の名木の一つであるラクウショウの大木を見に行きました。この頃になると、太陽が真上に昇り直射日光が肌に突き刺さりました。女性陣は日傘をさしながらのウォーキングです。ラクウショウの大木はとても高いので目立ちます。この木は民家の庭に生えています。この民家は誰も住んでいないようです。門に愛育園と書かれています。かつて、恵まれない子供達が通っていたのでしょうか。
ラクウショウの気根があちこちに ラクウショウの幹にタッチ
ラクウショウは気根が多く生える樹木のようです。民家の周りに、たくさんの気根が地面から空に上に向かって生えていました。ラクウショウは民家の庭に生えているため入れません。しかし。民家を囲む庭木に隙間があり、その隙間からラクウショウの下に行くことができます。ラクウショウの下はちょっとした木陰になっていました。
涼しい木陰になっているラクウショウの下
続いて、荒神社に行きました。この荒神社、ブロック製小屋で囲まれていました。木造の祠は雨に弱いため、ブロックで囲ったのではないかと思います。荒れて倒壊寸前のお社が少なくない昨今、このようにして祠を守っている地域もあるのですね。
ブロックで囲まれた荒神社 荒神社の説明を聞く 火伏地蔵尊に向かう
荒神社の祠を見終わると、次の目的地である火伏地蔵尊に向かいました。昔の人は火事を非常に畏れました。火事になると家屋敷が無くなります。すると、元のように再建するまでに2世代位かかるそうです。また、隣近所に甚大に被害をもたらすのです。
楽しくウォーキングした柳井市新庄の史跡コース
先日、田布施町で採取した陶土で土器や小物を作りました。ちゃんとした窯で作るには量が少ないため、七輪を使って焼きました。たまたま数年前、ある公民館で不要になった七輪をいただいていました。その七輪を使って、初めて陶芸に挑戦してみました。どうなることやら、不安で仕方ありませんでした。
カセットコンロで炭に着火 ドライヤーで送風 七輪上部から排気
炭火の熱が逃げないように、七輪2個を合わせるようにしました。炭火はカセットコンロで着火し、着火した炭火を七輪の底に置きました。そして、その上に新たに炭を詰めました。さらにその上に、作った土器などの土製品を置きました。空気取り入れ口にはドライヤーを置いて送風しました。しかし、1度目の初挑戦はみごとに失敗しました。
七輪窯の全容、中に着火した炭と土器
私は焼き物などこれまで一度も経験したことがない全くの素人です。1度目は温度上昇が早すぎたようです。おそらく10分程度で一気に1000度位に上昇したのではないかと思います。温度が上がっている時に七輪窯の中で何度が破裂音がしました。土器内に残ったわずかな水分が一気に蒸発して爆発したのでしょう。または、土器内の空気小胞が一気に膨張したのでしょう。また、土器が木炭に接触していたのか、どの土器も表面が黒く変色していました。
今回の七輪窯陶芸に参加した方々
1度目の失敗を反省して、2度目は次のようにしました。①温度上昇時間を長くする。30分かけて1000度位に上昇するようにしました。そのため、七輪の空気取り入れ口の開け閉めやドライヤ―の送風量を工夫しました。②土器が直接木炭に接触しないで焼くようにしました。これが大成功でした。2度目は全く破裂音がしませんでした。つまり、焼いている途中で壊れる土器がまったくありませんでした。
七輪上部から吹き出る炎 1度目の失敗した土器の数々
一部の土器は木炭に接触したようで黒くなっていましたが、ほとんどは黒くなっていませんでした。焼く前とほとんど同じ色のままでした。そして、焼けたかどうかを確認するため、土器を叩いてみると金属音のような音が響きました。特に、下画像のAとBは鉄琴のような素晴らしい音が出ました。今後はこれらの土器に釉を塗って完成しようとと思います。たかが焼く作業ですが、奥深いことを初めて知りました。
2度目に成功した焼物、叩いてみると特にAとBは鉄琴のような音
先日、刈取り,脱穀,そして風選した小麦粒。日光消毒する前に小麦粒を箱に広げて、風選では取り除くことができなかったゴミを手で摘みながら取り出しました。収穫が遅れた年は、小麦粒にコクゾウムシなどの害虫が繁殖することがあります。今年は梅雨前に収穫できたため、それらの害虫はまったく見当たりませんでした。
手で摘みながらゴミを取り出す 害虫が入っていない小麦粒
収穫直後からしばらく雨が降ったため、日光消毒することができませんでした。その後、薄日が差した時にベランダにブルーシートを敷いて、その上に小麦を広げて日光消毒しました。日光消毒後、ビニール袋に入れて乾燥材、そしてホカロンを入れました。ホカロンは酸素を吸収するため脱酸素剤として使います。これらの小麦粒、製粉してバンにして食べます。
ブルーシートの上に小麦を広げて日光消毒
4月から、種をまいて各種綿を栽培しています。一番元気なのは緑綿です。次に和綿です。洋綿は畑が良くなかったのかあまり育っていません。それぞれを育てて、いろいろな違いに気が付きました。まず、緑綿は展開する前の葉はやや赤みを帯びています。葉が展開し終わると緑の葉になります。洋綿は緑綿に似ています。和綿は展開する前も後も赤みはありません。
展開前の小さな葉が、やや赤みをおびている緑綿
どの綿も害虫に食べられていないのは幸いです。ところで、綿は成長が遅いのでしょうか、今のところ高くても40cm位です。人の背の高さ位に育つそうですが、8月頃にその高さになるのでしょうか。また、7月頃に花が咲くそうですが、花のつぼみの気配さえありません。今年は試作なので来年のためよく観察しようと思います。
雨で少し倒れた和綿 畑が悪いのか成長が遅い洋綿
綿と同じ頃に種を蒔いた紅花、つぼみが付き始めました。私が東京にいた頃、町田市の施設で見た紅花はもっと大きかったように思います。畑が悪いのか肥料が少ないためか、あまり背が高くなりません。もっと早い時期に種まきすれば良かったかも知れません。それとも、花期が秋にもあるので、それまでに大きくなるのでしようか。紅花も今年は試作ですので、綿と同様によく観察しようと思います。
小さなつぼみが付いた紅花
ようやく梅雨らしい季節になりました。昨日の夜から雨が降り出しました。朝起きると、それまでカラカラに乾いていた畑がしっとりと濡れていました。綿,紅花,藍,朝顔,マクワウリ,トウモロコシ,サトウキビ,ヒエ,小松菜,里芋など、春に種を蒔いたり苗を植えた作物が元気に育つことでしょう。また、柿、桃、スモモなどの果樹も元気になることでしょう。
梅雨の雨で、一段と綺麗に咲いたアジサイ
今回いつもの仲間たちと平生町で飲食するため、久しぶりに歩いて平生町に行きました。高塔山,八海橋,新中川橋を越え、亡き祖母が開墾していた思い出の場所を眺めながら、とある喫茶店に向かいました。歩いた道は、私が幼児の頃に何度も歩いた場所です。昭和30年代初期、塩田や海苔の養殖場があった光景を今でも思い出します。
新中川橋を渡って 祖母の開墾場所 平生の喫茶店
喫茶店に着くと、いつもの仲間達とお酒を飲んだり美味しい料理に舌鼓を打ちながら楽しく歓談しました。この年齢になって、再び同級生などと集まるようになるとは小中高校時代にも思いもよりませんでした。ありがたいことです。昔の思い出、ウォーキングの話、恩師の話,料理の話などで盛り上がりました。いつまでも集まりたいものです。今後ともよろしくお願いいたします。
楽しく盛り上がった、いつもの仲間たち
真っ赤に塗られた鉄桁の海門橋はとても長い橋です。歩いて渡り終えるのに10分位はかかったでしょうか。また、海門橋はとても高度のある橋です。眼下数十m下に那珂川の水面が見えました。海と川の境界は一番下流の橋です。そのため、海門橋より下流は海で上流が那珂川となります。橋の下流側に見える砂浜が海に向かって延々と続いていました。この海門橋を渡りきって、ようやくひたちなか市に入りました。
真っ赤に塗られた鉄桁の海門橋 砂浜が延々と続く海門橋下流
那珂川を渡ってひたちなか市に着くと、進む方向に悩みました。手に入れた地図が大ざっぱなため、反射炉への道が分かりにくいのです。反射炉の位置だけはその地図に書かれていました。そのため、とにかくその方向に向かって進むことにしました。最初に見つけたのは大師堂を思わせる建物でした。その建物の前や後に回って見ましたが、由来や名前が書かれた板が壊れていました。建物も傷んでいるため、廃されたお堂ではないかと思います。そのお堂に横に上に登る小道がありました。実は、探している道がこの小道だと分かったのは、反射炉に着いてからです。
由来が分からないお堂 岩穴を祀るお社 西滝山不動明王
小道を戻って大きな舗装道路を進んでいると那珂川に出ました。その那珂川の堤防道を進んでいると、岩穴を祀ったお社がありました。そして、さらに進んでいると西滝山不動明王の建物がありましたが、時間が無かったため見学しませんでした。那珂川の上流に向かって歩いていると、ようやく目的地である反射炉への案内板を見つけることができました。
山上門、この上に反射炉 やや傷んでいた無縁堂
少し歩くと、遠くに無縁堂が見えてきました。反射炉はこの上にあります。無縁堂を回り込んで、いったん山上門の前に出ました。山上門前には駐車場があり1台の車が停まっていました。山上門をくぐって石段を登っていると、反射炉の上部が見えてきました。石段をさらに登ると、反射炉の全容が見えてきました。やっと来ました。水戸藩の反射炉です。この反射炉は、幕末に起きた反乱で壊され、昭和12年に復元されたものだそうです。長州藩萩の反射炉は耐火レンガがむき出しですが、この反射炉は綺麗に手入れされています。と言うよりも、白く塗られて綺麗過ぎのようにも感じます。
綺麗に手入れされた水戸藩の反射炉
反射炉前には、この反射炉で作ったのでしょうか一門大砲が置かれていました。幕末、水戸藩はいろいろな西洋式武器を作っていました。この大砲を代表に、例えば水戸東照宮に置かれた日本初の戦車、ペリーから贈られた小銃を精密にコピーすることができる技術があるなど、自前で西洋式武器を作ることができました。
反射炉前の大砲 反射炉近くの登り窯 海浜鉄道湊線の那珂湊駅
反射炉の近くに登り窯の跡がありました。武器とは別に瀬戸物などの実用品も作ることができたようです。ところで、これだけ科学技術が発達していながら、幕末明治維新では水戸藩の出番はあまりありませんでした。尊皇攘夷の精神的支柱にはなりましたが、貴重な人材を内紛に次ぐ内紛で失ったのが一番の原因ではないかと思います。
反射炉近くに巡りたかった史跡が他にもありましたが、夕方になってきました。時間切れです。仕方なく那珂湊駅に向かって歩きました。田んぼの中をトコトコと走る田舎電車に揺られながら、車内の賑やかな女子高生達の初々しい化粧が印象的でした。
歩いたひたちなか市海門橋~反射炉コース
春に苗を植え付けたキャベツが収穫真っ盛りです。今年は害虫被害もなく、どれも美味しそうに育ちました。虫よけの寒冷紗を外すと、緑が新鮮なキャベツが現れました。キャベツの根元に鉈を打ち込んで収穫しました。
寒冷紗に覆われたキャベツ 寒冷紗を外したキャベツ 鉈でキャベツを収穫
我家では二人しかキャベツを食べないので、いくつかは友達に差し上げています。私は朝必ず野菜を食べています。これまでは小松菜,大根葉,チンゲンサイなどが多かったのですが、これからしばらくは毎日キャベツです。キャベツを食べ終わる頃には、モロッコインゲンなどが収穫できるようになります。
収穫したキャベツ三つ
梅雨に入ったはずなのに雨が降りません。花や野菜を栽培している方々にとっては早く雨が降って欲しいところでしょうが、ウォーキングにとっては幸いです。今回も楽しく柳井市の新庄方面をウォーキングすることができました。朝10時に新庄MaxValuに集合しました。6月の暑い季節になりましたので15人来れば良いと思っていましたが、23人もの参加者でした。
新庄MaxValuを10時出発 佐藤継信・忠信供養塔 浄土真宗正念寺
最初に行ったのは、坂の上にある佐藤継信と佐藤忠信の供養塔です。平安時代末期の源平合戦時に源義経に付き従って柳井にやってきた東北の武者です。続いて、少し離れた場所にある源義経供養塔に行きました。源義経,佐藤継信,佐藤忠信、彼らは共に鎌倉幕府創世期に悲惨な最後を向かえています。しかし、悲劇のヒーローとして今だ庶民の賞賛を浴び続けています。
源義経供養塔 延命地蔵尊 延命地蔵尊を見る方々
源義経供養塔の次は、道を見下ろすように置かれた延命地蔵尊です。次に多々野古墳に行きました。江戸時代に発見されて調査されましたが、発掘技術が未熟だったため記録が散在しています。わずかに正念寺に遺物が残されているそうです。多々野古墳から少し歩くと、立派なN邸が見えてきます。下見時にご挨拶したとおり、敷地内にある人丸社を見学させていただきました。
人丸社の変遷などについて解説 荒神社・明神社の祠
続いて、N邸の裏山にある荒神社・明神社の祠に行きました。そして、その裏手に回って、人丸社が元々あったとされる跡を見ました。今ではすっかり竹藪になっおり、残された古い石垣だけが往時を偲ばせます。この地区は今ではひなびた地区になっていますが、その昔、鎌倉・足利時代は人々が多く住んでいたに違いありません。
荒神社・明神社の祠前にて、今回ウォーキングの参加者
今回のウォーキングでは何ヵ所か史跡をスキップしました。そのためか、時間がだいぶ余ってしまいました。時間稼ぎにいつになく饒舌に話をしてしまいました。田んぼを見下ろしながら、田んぼに住むホウネンエビなどの生き物の話をしました。そして、私が子供の頃にタニシを食べた話をしました。さらに、タニシ内に潜む寄生虫などの話を面白おかしく話しました。今回のウォーキングでは、史跡以外の無駄話をつい多く話してしまいました。
田んぼ沿いの小川 昼前に高林寺に到着
田んぼ沿いの小川を見下ろしながら、次の目的地である高林寺に向かいました。しかしながら、ちょっとした手違いと法事の関係で本堂内の見学ができませんでした。しかし、高林寺境内で食事休憩することは了解いただきました。ありがとうございました。各自日陰に入って食事をしながら楽しく談笑しました。
楽しくウォーキングした柳井市新庄の史跡コース
大洗水族館(アクアワールド)を出て、しばらく歩いていると海門橋が見えてきました。とても大きく長い橋です。この橋を渡るとひたちなか市です。橋の袂まで行くと、石碑のようなものが見えてきました。その石碑前に立ち止まって見ると「茨城船甚句の碑」と書かれていました。
茨城船甚句の石碑 海門橋近くの天妃神社へ石段
石碑に書かれた内容からすると、人が船をこぐ時代に歌い継がれてきた船唄の記念碑のようでした。機械船になってからは歌われなくなったそうです。農業に関してもそうですが、かつて全国にはいろいろな田植え唄がありました。しかし、農業の機械化に伴なって歌われなくなった歴史と相通じるものを感じます。
誰もいない静かな天妃神社
海門橋をすぐに渡らないで、周辺の名所旧跡を見ることにしました。最初に行ったのは天妃神社です。いたって普通の神社です。少し高台になっており、石段が上に向かって続いていました。お社にお参りすると、山裾をなだらかに降りる山道があったので、その道を降りました。
願入寺の山門 願入寺の本堂 かんぽの宿 大洗
天妃神社を出ると、しばらく歩いて願入寺に行きました。山門をくぐると立派な本堂がありました。ただ工事中のようで中に入れませんでした。このお寺の宗派は真宗のようで、インドから仏教が伝わってからの歴代ご住職の系譜が書かれていました。本堂に入れないため、境内を少し見てから山門の外に出ました。山門から「かんぽの宿 大洗」の建物が見えました。
那珂川を左手に見ながら、海門橋までの小道を散策
「かんぽの宿 大洗」を通り過ぎた時、史跡の一つを見逃してしまいました。巌船の夕照の碑です。ここからの景色は茨城県名勝の一つだそうです。道を探していて、うっかり忘れてしまったのです。海門橋を渡っている時に気が付きました。あーあ残念!赤色に塗られた海門橋を渡ってひたちなか市に入りました。
歩いた大洗町アクアワールド~海門橋周辺コース
春に小麦を伐採して綿畑にしました。残った小麦を綺麗に刈り取って脱穀しました。毎年発動機を使って脱穀するのですが、少量の小麦ですので今回は足踏み脱穀機を使って脱穀しました。足踏み脱穀機を最後に使ったのは6年も前の事です。田んぼで子供達に使わせたのが最後だったと思います。まずは、脱穀する小麦を稲刈機で刈り取りしました。少量の小麦のためすぐに刈り取り終了となりました。
脱穀機や唐箕を畑に運搬 稲刈機で小麦を刈り取り
麦を刈り取ると、いよいよ脱穀です。しかし、久しぶりの足踏み脱穀機です。トラブル続出で困りました。一つ目のトラブルは、麦粒が飛び散らないようにする布製幌です。取り付けるアルミ製竿が短か過ぎたのです。脱穀中に巻き付いて壊れてしまいました。二つ目のトラブルは、Eさんに応急処置用の洗濯バサミなどを取りに帰っていただいている間に発生しました。江戸や明治時代に脱穀用に使われていたくるり棒を使って脱穀していると、その先端が折れてしまったのです。くるり棒は小豆などの脱穀などに使っています。やれやれ!
壊れたくるり棒 一時棒で叩いて脱穀 時々ジャガイモ収穫
Eさんが戻って来ると、アルミ製竿をU字支柱で急遽代用して、洗濯バサミを使って布製幌ををU字支柱に固定しました。以降は順調に脱穀ができました。久しぶりに使う農機具は、あらかじめ動作するか確認しておくべきだだったと思いました。足踏み脱穀機は郷土館に展示してあるものと全く同じです。まだまだ使える農機具です。
脱穀するA君、脱穀された麦粒を集めるEさん
脱穀された小麦粒は殻などが混じっています。手回し式の唐箕を使って殻を取りました。何度か唐箕を通していると、麦粒だけを選別することができました。後日、今回脱穀した麦粒をベランダにでも広げて、日光消毒しようと思います。そして、パンとして食べることができるように製粉します。そして、残りはこの秋の種まきに使う予定です。脱穀を手伝っていただいたA君とEさんには、早朝に収穫したキャベツと掘ったジャガイモ(3月に植えたメークイン)をもらっていただきました。脱穀の手伝いありがとうございました。
足踏み脱穀するEさん 麦粒を集める 網を使ってゴミ取り
火伏地蔵尊を見終わると、次に岩政信比古(さねひこ 1790~1856年)邸宅跡に行きました。読売新聞だったでしょうか、先日この邸宅発掘ニュースが掲載されていました。私は行けなかったのですが、現地説明会がありました。柳井市に住んでいた国学者で月性との交流があった人です。ちなみに田布施町の漢学者亘理南山とほぼ同世代です。両者共に幕末直前に亡くなっています。
国学者岩政信比古の邸宅跡
岩政信比古邸宅跡の隅に信比古碑が建っています。比較するわけではありませんが、亘理南山の方が立派な石碑です。亘理南山の石碑には功績や称える文章が刻まれています。しかし、岩政信比古の石碑には名前が刻まれているだけです。また、亘理南山の屋敷は平生町大野に移築されて今に伝えられています。岩政信比古邸宅はどうして残らなかったのでしょうか。継ぐ人がいなかったのでしょうか。
簡素な岩政信比古の石碑 線路を超えて毘沙門堂に
続いて、山陽本線を超えて次の史跡である毘沙門堂に行きました。土穂石川沿いにある小さなお堂です。このお堂は地元の方に守られているのでしょう、花が活けられていました。続いて石風呂に行きました。前回は誰もいなかったため、外からしか見学することができませんでした。今回、奥様がおられたため石風呂を見学することができました。石風呂の内部などを見させていただき、ありがとうございました。
見させていただいた石風呂営業時の絵図
石風呂は、石でできたとても大きなドームです。中に8人位は十分に入ることができます。石風呂の右隣に火を焚くことができる口がありました。この口に木を入れて燃やすのだと思います。なお、石風呂の手前に藻を置いた箱がありました。石風呂に入る時にその藻を使うそうです。
営業当時の石風呂写真 藻を見せていただく 石風呂入室時の衣服
石風呂で使う藻はアマモと呼ばれる海草です。ワカメや昆布などは胞子で増えますが、アマモは種で増えます。種子植物なのです。そのため、海面上に花が咲いて、花粉はヨットように海面を漂うとても変わった海草です。石風呂の営業開始前にこの海草を刈り取っておくのでしょう。その海草(アマモ)は、土穂石付近では見られませんが、伊保庄の海岸では今でもたくさん生えています。
石風呂の次に大師堂 Oさんの家に寄らせていただく
石風呂を見学し終わると、大師堂に行きました。そして、出発した新庄Mavaluに戻りました。新庄Mavaluに到着すると、車(私はバイクで)でOさんの家に向かいました。家に着くと、Oさんが待っていました。玄関隣の一室で楽しく談笑しました。子供の頃の話、小中高校時代の話などで盛り上がりました。飲物などご馳走様でした。
今月のウォーキングは、蒸し暑い夏でもあり8km程度としました。
史跡巡りウォーキングの下見をした柳井市新庄方面ルート