ワラのみご取りが終わると、いよいよほぼろを作り始めました。ほぼろを作るために専用の用具が必要です。通常「馬」と呼ばれるものと、「駒」と呼ばれるものです。一人に対して、一つの馬と六個の駒が必要です。これらの用具をあらかじめ私が人数分作っておきました。7人が同時に作ることができます。作りたい人がもっといれば増やそうと思います。まずは、これらの道具を皆さんに配りました。
公会堂広場にブルーシートを広げ、向かい合って座る
次に、ワラを編むための紐を用意しました。ほぼろの大きさに応じて必要な長さの紐を取ります。作りたい大きさのほぼろのサンプルを参考にして、必要な長さの紐を作ってもらいました。ほぼろの円周の四倍位の紐が良いでしょう。昔はワラで細紐を作っていましたが、今回はジュート紐を利用しました。同じ長さのジュート紐を三本を確保すると、その紐の両端に駒を取り付けます。
サンプルのほぼろ参考 紐の両端に駒取り付け 駒に紐を巻き取る
一つの紐の両端に駒を付けると、紐の両側から駒に紐を巻きつけます。そして、紐の中心が20cm位残るように駒に巻きます。巻きつけた後、ぶら下げても落ちないような巻止めをします。このようにして、両側に駒を付けた紐を三組作ります。次に、取っ手にする太目の紐一本を用意します。太めの紐は駒を巻き付けることはしません。これらの準備が終わると、馬の前に座ってほぼろを編んでいきます。
紐の両側に駒を取り付け 馬の前に座り、ほぼろを編む
鳥越の小道を歩いていると、Mさんの家の前を通りました。すると、賑やかな声が聞こえたのかMさんが出てきました。高塔山に急いでいたため、ゆっくりと声を交わす時間がありませんでした。しばらく道なりに歩くと、国道188号線に出ました。信号が青でみんなが横断歩道を渡りました。そして、国道の目の前にある急階段を登りました。この急階段が高塔山への登り道となります。階段を登り終わった所にこつり地蔵尊跡があります。ここには、子供達の風邪を治す言い伝えのお地蔵様が安置されていました。そのお地蔵様の周りには、治ったことのお礼に母親が手作りした前掛けがたくさん掛けられていました。こつり地蔵尊の言い伝えを手短かに話すと、いよいよ高塔山に向かって山道を進みました。
こつり地蔵尊を過ぎると、暗い竹藪の山道を進む
こつり地蔵尊を過ぎると、暗い竹藪に吸い込まれるような山道に入りました。何十年もの間に、すっかり獣道化してしまった山道を進みました。枯れた太い竹を横切りながら、あるいは股ぎながら進みました。子供の頃に何度も往復した私でないと、迷子になってしまうような獣道です。しばらく竹藪の道を難渋しながら歩いていると、山道の十字路に着きました。高塔山頂上はもうすぐです。
鳥越地区の小道 こつり地蔵尊の急階段 暗い竹藪内を歩く
この山道の十字路は、南に行くと高塔山への急な上り坂,西に行くと鳥越方面、北に行くと麻郷神社や吉見山方面に,東に行くと我家の田んぼ方面に降りる道でした。今は、鳥越方面と高塔山への道だけが通じています。今回は、高塔山への急な登り坂を進みました。ゆっくりと一歩一歩進まないと息が切れてしまいます。そのため、真夏は熱中症になってしまうかも知れません。森の中では誰も助けに来ることができません。そのため、真夏の単独での高塔山登山は自殺行為です。今回、やや寒いくらいで人数も多いので安心して高塔山に登ることができました。
高塔山への急坂を登る 高塔山西峰にやっと到着
十字路からの急な上り坂を登りきると、高塔山の西峰に到着しました。今の高塔山は、この西峰だけが展望があります。展望がある理由は、携帯用だと思われる電波塔があるためです。その電波塔を管理するために、頂上が刈りはらわれて眺望が良くなっているのだと思います。電波塔を整備・点検する人が定期的に来ているのでしょう。西峰に着くと、休んだり、水分を補給したり、展望を楽しんだりと自由に休憩しました。
実踏しながら詳細に解説した吉見家跡,高塔山,八海周辺
紡いだ毛糸の山野草染色の一つに紅花を使っています。紅花の種は、色は白で形はヒマワリに形が似ています。先月、この夏に採種した種子を種まきしました。その紅花が発芽しました。発芽率は60%位でしょうか。発芽した芽をよく見ると、すでに小さな子葉が出ていました。小麦と同じように、冬を越して春になって開花します。その花びらを収穫して染色に使います。紅花の花には黄色と赤色の二つの色があります。面白いことに、前者は水に溶けて後者は水に溶けません。その違いを使いわけて二つの色に染め分けます。
綺麗に発芽、小さな子葉も出ている紅花の芽
これまで毎年のように紅花を栽培していますが、まだ完璧な栽培方法に至っていません。春に種まきするより、秋に種まきする方がよく開花することは分かっています。それに秋まきの方が除草が少ないため管理が楽です。一番よく分からないのが、次年のための種の取り方です。染色に使う花弁を千切るように取ると、根本にできる種子が実らないことがあるのです。紅花の花粉を媒介する昆虫の種類が少ないのでしょうか。または授粉しない前に花びらを取るといけないのかも知れません。そのため、種を取るための株だけは花弁を取らない方が良いようです。単に、暖かい山口県では紅花は栽培しにくいだけなのか知れませんが。
発芽した紅花周りの除草 除草した紅花の周り
どこの山を見ても、また公園を歩いてもモミジの紅葉が見事です。我家のモミジも、少ないながら見事な紅葉に染まりました。日が当たると、そのきらめきに目が止まります。秋が終わる直前の一瞬の華やかさです。数枚の葉を手に取って、押し花にしようと思います。今後は、次々に落葉して樹の下に積もっていきます。その落葉の上を歩くと、カサカサと心地良い音が聞こえます。
日差しが当たると、いっそう輝くモミジの紅葉
気温が低くなると、モミジの葉でアントシアニンが作られて赤く染まるそうです。さらに、葉の根元が分離しやすく変化するそうです。落葉は一種の葉の老化だそうです。老化する過程で、樹木の老廃物を葉に蓄積するそうです。葉が散ることによって、その老廃物が捨てられるとのこと。その老廃物である落葉を微生物が食べて分解し、再び樹木の栄養になるそうです。つまり、葉を通して栄養が循環しているのですね。
綺麗に染まったモミジの葉 日が照りいっそう見事に
モミジのように落葉する樹木と、シイのように落葉しない樹木があります。一般的に寒い地域には前者が多く生えるようです。そのため、熱帯では落葉する樹木はほとんどないようです。日本は温帯性気候のため落葉樹と常緑樹が混在しています。そして、春,夏,秋,そして冬の四季が明確に繰り返えされます。夏は川や海で泳ぐことができ、冬はスキーを楽しむことができます。いろいろな季節が巡って来る日本は恵まれていると思います。
来週には落葉して枝だけになる紅葉
今年の初春、田布施町のわら細工民具である「ほぼろ」を制作する講習会を、郷土館で開催する予定でした。ところが、コロナ惨禍のため中止せざるを得ませんでした。今月になってコロナがやや収まりました。そのため、できなかった「ほぼろ」製作の講習会をしました。サンプルとして、大,中,小,極小の四種類の大きさのほぼろを用意しました。
正式には来春に広報などに載せて製作希望者を募ろうと思っています。今回は、来春の本番に向けてのノウハウを得る講習会です。第一弾「ほぼろ」の試作に続く、第二弾「ほぼろ」のお試し講習会です。当初は私の麦畑で行う予定でしたが、曇り空で寒かったため近くの公会堂広場で行いました。ほぼろの由来などをお話した後、いよいよほぼろ作りに入りました。
水で濡らしたワラを、足で強く踏んで柔らかくする
最初、必要量のワラを並べてジョロで水を掛けました。大きなバケツやベビーバスのような手洗があれば、そこに水を溜めておきます。そして、必要量のワラを次々に浸します。ワラが湿ったことを確認すると、通常は木槌で叩いて柔らかくします。今回はたまたま会場が綺麗なコンクリート広場でしたので、湿ったワラを足で強く踏みならしました。なお、使うワラは近所でいただいたものです。
ワラが柔らかくなったことを確認すると、みご取りと呼ばれる作業をしました。これは、ワラの芯を選んで、芯の周りのわら屑を取り除く作業です。たくさんのワラ屑が出るので、最後はそのわら屑を掃除をしました。そのわら屑は私の麦畑にばらまきました。
必要量のワラに水まき ワラのみご取り作業 わら屑を綺麗に掃除
次に、ほぼろ製作に必要な長さの紐を計測しました。自分が作りたい大きさに合わせて、二種類の紐の長さを決めます。まずは、作りたいほぼろの大きさの円周の四倍の長さの麻紐(今回はジュート紐)を三本取ります。続いて、そのほぼろの円周の約二倍の太めの紐を取ります。この太めの紐は、ほぼろの取っ手になります。
作りたい大きさのほぼろを選ぶ ほぼろの円周の長さを計測
行者堂からやっとのことで獣道のような山道を下りました。そして、元来た舗装道路に戻りました。次に、金毘羅社に向かうことにしましたが、これまたどこにあるのか、その入り口が分かりませんでした。そこで、手当たりしだい山へ入る入口に入ってみました。ある入口を入ると、民家を左手に見て、右手に入る獣道がありました。その獣道の先に何かありそうでした。胸や頭の高さに枝が当たるのもかまわずに登り続けました。すると、石垣跡らしい場所に出ました。さらに枝をかき分けて進むと、石の階段が現れました。どうもここが金毘羅社跡のようです。
この傷み具合だと、数十年間放置されたらしい金毘羅社跡
数段の石階段を進むと、左右に狛犬が安置されていました。その狛犬の間を進むと、ちょっとした広場になっていました。そして、正面に形だけの小さな石階段があり、その上に祠がありました。これが金毘羅社と思われます。あたりを見渡すと、右下に小さな祠が落葉に半ば埋まるようにありました。さらに周りに目を凝らすと瓦の破片がありました。広場と思われる場所に、かつては瓦屋根のお社があったようです。
野積みの石垣 睨むような狛犬 小さな石段と祠
広場の左側に立派な石碑が建っており、文字がたくさん刻まれていました。この金毘羅社跡の由来が刻まれているのかと期待しましたが、寄進者名と寄進額でした。そして、この石碑が明治三十五年に建てられたことが刻まれていました。回りを見渡しましたが、由来が分かるような石碑はどこにもありませんでした。
寄進者名簿と寄進額の石碑 珍しい胚状石が安置
金毘羅社はこの周辺、例えば光市の室積,田布施町の大波野,平生の水場,柳井市の田布路木,柳井市の宮本など数えきれないほど多くあります。金毘羅社は、元々はインドの神様クンビーラを祀ります。クンビーラは海や川に住んでいるワニのことです。その昔、仏教と同じように日本に伝わってきた宗教なのです。しかし、今やそのことを知っている日本人は少ないと思います。この金毘羅社は明治年間に四国の金毘羅社をお参りした方が柳井の伊保庄に伝えたのではないでしょうか。しかし、それを受け継ぐ人がいなくなり今に至っているのではないでしょうか。続いて、疫神社に向かいました。
柳井市伊保庄の山間部の史跡調査をしたルート
我家のイチジク(ドーフィン)は、夏に実る夏果と秋に実る秋果を収穫できます。今回は夏果に続いて秋果を収穫しました。秋果は夏果に比べてやや小ぶりです。ですが、小さいだけで甘みはそれほど変わりません。獣や野鳥に食べられる前に一つ収穫しました。気が付いたのですが、実がぱっくり割れる時に食べられてしまいます。割れると甘い匂いか周りに漂います。その匂いに獣や野鳥が誘発されるようです。他にも色づき始めた実がたくさんあります。獣や野鳥に食べられないように、今後も早めに収穫しようと思います。
イチジクの実、割れる前に収穫。美味しい!
夏の間、イチジクはカミキリムシに入られて枯れる寸前でした。穴に針金を入れてぐりぐりしたり、枯れないように癒着材を塗布したりしました。一部の枝は葉が全て落ちてしまい枯れるのではないかと思いました。しかし、カミキリムシ退治の成果があったのか、どの枝も葉が回復してきました。冬の間は一度すべての葉が落ちますが、来春には元気に葉が出ると思います。そして、来夏にはまた美味しい大きな夏果を収穫できると思います。
全体的に回復したイチジクの樹 近々収穫予定の実、美味しそう
國木田独歩に関わる田布施町麻郷周辺の史跡巡りの最後となりました。今回は、國木田独歩が仮寓した麻郷吉見家周辺や高塔山周辺を重点的に実踏しました。吉見家近くには、登りやすく展望がとても良い高塔山や吉見山があります。特に高塔山頂上から眼下を見ると、田布施川、平生湾、塩田,そして田園などが見渡せました。そして遠くに目を移すと、瀬戸内海に浮かぶ島々,大星山,赤子山,そして琴石山などが見えました。今回は、独歩が見たであろう景色や史跡を辿ってみました。そして、独歩が歩いたであろう街道や山道も歩いてみました。歩きながら、塩田跡,お地蔵様,祠,神社,そしてお堂などの史跡についてもお話をしました。
國木田独歩が歩いた田布施川や平生湾沿いの街道や史跡を巡る
平生町のMaxValueを10:00に皆さんと一緒に歩き始めました。途中、独歩が目にしたたくさんの塩田跡のお話をしました。その後、15分程度歩くと新八海橋に来ました。この新八海橋の袂で、独歩が釣りをしたであろう場所や魚の種類などを紹介しました。この橋は川と海の境になっており様々な魚を釣ることができます。たとえば、ボラ、ウナギ,サヨリなどです。また、エビや食用のカニも、そしてシジミやアサリなどの貝も豊富でした。
ところで、昭和30年頃までこの八海地区には海苔農家がありました。私が子供の頃、冷たい海に入って海苔を採る姿や、砕いて湯がいて四角の海苔の形に伸ばして干していました。独歩もこれらの海産物を堪能したはずです。その後、初代八海橋袂に行き、独歩と初代八海橋の話をしたり、近くの山にあるカニ守様の話などをしました。
新八海橋袂で 初代八海橋袂にあった 「非凡なる凡人」の
海産物のお話 お地蔵様 桂糺家跡
カニ守様やムシ守様などの話を済ませると、「非凡なる凡人」に出てくる桂正治の実在モデルとなった桂糺(かつらただす)が住んでいた家跡に行きました。独歩は桂糺の家をよく訪問したようで、桂糺が東京に来た時も会っていたようです。独歩は彼の貧しくとも着実な生き方に感心したようです。その生き方に感銘したからこそ、「非凡なる凡人」のような小説が生まれたのだと思います。この小説は戦後の教科書に採用されたとのこと。
遊郭があった水場を遠望 〇は遊郭があった場所
続いて、最も平生湾を見渡せる場所に皆さんを案内しました。そして、「少年の悲哀」に出てくる遊郭の跡を指さしました。この小説では、少年は八海から水場の遊郭まで船で行きました。その場所が、この八海であり私が指さした方向にかつてあった遊郭跡です。ちなみに遊郭は二軒ありました。
この遊郭は幕末の記録にも出てきます。それは、石城山に駐屯していた奇兵隊の兵士が、休暇を利用してこの遊郭に遊びに行ったとの記録です。また、遊郭に派遣する芸者を養成する遊楼が、田布施の波野にあったようです。当時遊郭で働く芸者さんは、遊楼から派遣されて働いていたようです。今その遊楼は三味線を教える教室となっています。
実踏しながら詳細に解説した吉見家跡,高塔山,八海周辺
だんだん秋深くなって朝夕が寒くなってきました。我家の周りの木々もだんだん秋の色が濃くなってきました。そして、色づいた葉がちらちら落ちるようになりました。それにつれて、葉が落ちて裸になって木々が増えてきました。木々の下から見上げると青い空を見通すことができるようになりました。
その情景は昔、10月下旬だったように思いますが、最近は2週間ほどずれて11月中旬になってきたように感じます。この時期は次々に紅葉した葉が落ちるので、掃除がたいへんです。掃除しても掃除しても葉の山です。昔はその山に火をつけて焼き芋をしていました。あちこちから立ち上がるその煙は秋の風物だったように思います。
紅葉しながら次々落葉し始めたアメリカフウ
我家の玄関に生えるアメリカフウはその紅葉の見事さに私が7年位前に植樹したものです。大木になるとは聞いていましたが、もう我家の2階を越える高さに育ちました。あまりに育ったため、今年は枝打ちしてみようかと思います。毎年見事な赤い葉になるのですが、今年はあまり赤くなりません。猛暑の夏だったなど、今年は毎年の気候と違ったからでしょうか。
紅葉した柿の葉 黄色になった栗の葉 下から黄色になるグミ
その他、紅葉し始めた樹は柿、栗、こなら、モミジ、カエデなどです。面白いのはグミの葉です。葉の下から徐々に黄色に変色します。全体が黄色に染まると落葉するのです。一番赤いのはモミジです。赤色が消えてくると次々に落葉して、道がモミジの絨毯になります。落葉が終わり樹木が裸になると、いよいよ冬の季節の到来です。我家の周りの木々の色の変化を見ていると、一年周期で季節が次々に移っていくことが分かります。
赤色が冴えるモミジの葉 紅葉した砂糖カエデ
今年の史跡巡りウォーキングは11月で終わりです。そろそろ来年の史跡巡りの計画を立てなければなりません。そこで、まだ史跡巡りをしていない柳井市伊保庄の山間部を調査ウォーキングしてみました。参考にしたのは柳井市が出している「柳井にっぽん晴れ街道」です。その伊保庄の頁を参考にしました。スタートしたのは伊保庄にあるセブンイレブンです。そこをスタートすると、新しい舗装道路をどんどん歩いて南下しました。
この新しい道はまだ開通しておらず、一部の方しか通らないようです。たまに車が通ります。右側の崖に注意しながら歩きました。その崖を這い上がるように作られている細い坂道があると、その坂道を登っては山に入りました。山にあるはずの行者堂を探すためです。最初に登った坂の上にはありませんでした。探索失敗です。再び舗装道路に降りて、次の坂道を登りました。坂道の最上部から山の中を徘徊するように探しまわると、やっと目的の行者堂跡を見つけることができました。
山の中を徘徊するように探しまわり、やっと見つけた行者堂跡
行者堂跡の周りを見渡すと、石垣跡があったり礎石と思われる石がありました。しかし、何十年も放置されたのでしょうか、それらの石はばらばらに置かれていました。唯一ちゃんとしていたのは祠です。その祠は、雨風が当たらないように石の屋根で覆われていました。まるで、古墳の石室の入口のようにみえました。
行けども行けども獣道 壁状の大きな岩 半ば崩れた石垣
かつてはお社があったようです。お社の柱を支える礎石と思われる石が転がっていました。瓦の破片が無いところをみると、茅葺屋根のお社があったと思われます。お社が建っていたらしい場所には石垣の跡がありました。石垣跡には草が無造作に生えていました。
礎石の思われる石 山から見下ろした柳井湾
この行者堂はだいぶ昔に廃されたように見えます。参道跡と思われる道は獣道化していますし、たくさんの倒木が山道をふさいでいます。山道は行者堂跡からさらに山奥に続いていました。その山道を行けば石柱か何かの史跡があるかも知れません。また、平生に通じる山道が残存しているのかも知れません。しかし、これ以上進むと道に迷う恐れがあります。そのため、今回はこの行者堂跡だけにしました。次に、金毘羅社跡に向かいました。
柳井市伊保庄の山間部の史跡調査をしたルート
仕事が空いた時や気分転換に、毛糸を紡いだり,玉巻きしたり,織ったりなどしています。紡ぐための羊毛が少なくなってきたため、かいたファームさんで飼われている羊(コリデール種のきなこちゃん)の原毛を洗浄することにしました。大きな手洗を持っていない私は、洗面器などで洗っています。また、温水器もないので、ポットでお湯を沸かし冷まして使っています。紡いでいて羊毛が減ってくると、そのつど原毛を洗浄しているのです。
風通しの良い樹木の日陰で、洗った原毛を乾燥
私の原毛洗浄手順は、だいたい次のようにしています。他の方とそう違いはないと思います。
①原毛の汚れの少ない箇所を選びます。羊の背中部分の毛が比較的汚れが少ないようです。
②ポットでお湯を沸くまでの間に手洗を用意して、水を溜めておきます。
③ポットにお湯が沸くと、そのお湯を手洗に入れます。
④手洗内のお湯の温度は熱めのお風呂位にします。続いて石鹸を入れます。これを洗浄液とします。一年ほど前までは固形石鹸(モノゲン)を包丁で削って粉にして溶かしていましたが、今は液体石鹸を入れています。もちろん、芳香剤などを使っていない無添加の石鹸に限ります。
⑤手洗の中に原毛を入れて、優しく押し洗いします。擦ったり揉んだりすることは厳禁です。
汚れの少ない原毛 石鹸をお湯に溶かす 原毛を押し洗い
⑥30分位浸しておきます。
⑦原毛をザルに取り上げて、汚れた洗浄液を落とします。
⑧原毛に残る洗浄液を、手洗に入れた水で洗い流します。三回程度水洗いします。
⑨もう一度、洗浄液を作って洗います。同じように押し洗いします。
⑩三回程度水洗いして、洗浄液が原毛に残らないように洗い流します。
⑪原毛を網に入れて、その網を風通しの良い樹木の枝にかけて自然乾燥します。
⑫最初は水がしたたり落ちます。その後、何度か原毛の上下を入れ替えながら均等に乾くようにします。
これで原毛の洗浄は終わりです。乾燥後、大きめの藁屑やゴミを指やピンセットで取り除きます。最後にカーディングしながら、より小さなゴミを取り除きます。カーディングが終わると、いよいよ紡ぎに入ることができます。
汚れた洗浄液を取り除くため水洗い 二回目の洗浄中、だいぶ白くなる
絹さやエンドウ豆、グリーンピース、タマネギなどの春野菜の種まきや植え付けはほぼ終わりました。今回は最後に残っていたソラマメの種まきをしました。ところで、私は子供の頃ソラマメが嫌いでした。私の祖母は、カラカラに乾いた鞘からソラマメを収穫していました。祖母は日がな一日その硬いソラマメを炒っては食べていました。当然子供だった私にもおやつ代わりにくれていました。炒ったソラマメは、とても硬いため何度も噛まないと飲み込むことができませんでした。甘くもなく美味しくもないおやつでした。思えば、今の私に虫歯はありませんし入歯もありません。硬いソラマメを毎日のように噛んでいたため、歯が丈夫になったのでしょうか。
ソラマメの種を一粒ずつ、浅く堀った穴にまく
今年購入したソラマメは緑色にコーティングされていました。殺菌剤なのでしょうか。発芽中に病気になったり虫に食われないためでしょう。絹さやエンドウ豆はすでに発芽しています。ソラマメは12月上旬には発芽するのではないかと思います。なお、空いた窪みに砂糖大根の種もまいておきました。来夏砂糖大根をたくさん収穫して、少量でもかまわないので砂糖を生成できないかと考えています。
耕運機で畑を耕す ソラマメ用の畝 コーティングされたソラマメ
9月に種をまいて育苗していたタマネギ苗を本畑に移植しました。育苗畑は日当たりが良くなかったためか、苗はやや小ぶりに育ちました。しかし、今後ちゃんと世話すれば、初夏には美味しいタマネギを収穫できると思います。育苗畑から100本ほどの苗を掘り上げて本畑に持っていきました。そして、一本一本丁寧に植え付けました。来春は、今回植え付けた晩生タマネギ,先日植え付けた極早生タマネギ,そして赤タマネギの三種類のタマネギを収穫できると思います。
育苗した晩生タマネギの苗を本畑に植え付け中
今回タマネギ苗を植え付けた畑で一つ失敗をしてしまいました。タマネギは酸性の畑を嫌うようです。その対策のため、去年は畑を作る前に石灰をまきました。ところが、今年はそれを忘れてしまったのです。あまり気にする必要がないのかも知れませんが、タマネギの成長に影響があるかどうか気になります。さて、ソラマメを除くほとんどの冬春野菜の種をまき終わりましたが、花壇の種まきや球根の植え付けをまでしていません。今後は花壇作りにせいを出そうと思います。
やや小ぶりなタマネギ苗 根が付いたまま植え付け
毎年のことですが、4~10月の間はは田布施西小学校の工作室でアイデア工作や木工工作をします。そして、11月は田布施中学校の理科室で科学実験を二回します。一回目の今回は、葉の葉脈を観察する科学実験をしました。取り出した葉脈を、じっくりと観察しやすいようにラミネート加工しました。葉を溶かすための劇薬は、中学校の先生方に準備及びセットしていただきました。ありがとうございました。ほとんどの子供達にとって初めての科学実験でした。とても楽しかったのではないかと思います。
中学校の理科室で、葉脈を取り出す科学実験
今回、銀木犀の葉から葉脈を取り出しました。銀木犀などのような硬い葉は、葉脈を取り出しやすいとのことです、キャベツなどの柔らかい葉からは綺麗な葉脈は取り出せないようです。子供達は一人につき二~三枚の銀木犀の葉を切り取りました。そして、劇薬(水酸化ナトリウム)液か入っているビーカーの中に浸しました。そして、下からバーナーであぶりました。液が次第に濃い緑色になるため、葉が溶けている様子が目で見て分かります。
銀木犀の葉を切り取り 劇薬の中に葉を浸す 溶け始めた葉
葉が溶ける間、子供達は小さな紙切れに自分の言葉を書き込みました。「ありがとう〇〇」などと書きました。そして、自分の名前や好きな絵なども書きました。子供達が描いている間に、どんどん葉が溶けていきました。溶け終わると、先生が劇薬から葉脈だけになった葉を取り出しました。そして、危険が無いように葉脈を水で洗いました。これで触っても危険はありません。
紙切れに好きな字や絵を描く 溶けて葉脈だけ残った葉
次に、子供達は葉脈を取り出して、綿棒で葉脈を優しく擦りました。すると、残っている葉の残渣が取れて葉脈だけになりました。次にその葉脈から水分を取ります。新聞紙に挟んで水分をあらかた取り除き、次にドライヤー完全に乾かしました。そして、自分が好きな文字や絵を書いた紙の裏に葉脈を挟み込みました。最後に一人二枚ラミネート加工しました。子供達にとって、楽しい科学実験だったと思います。次回二回目の科学実験は楽しい望遠鏡作りです。
綿棒で葉脈を擦る ドライヤーで乾燥 熱でラミネート加工
第一回の國木田独歩関連史跡巡りウォーキングは麻里府と麻郷を回りました。第二回の今回は、JR田布施駅周辺の関連史跡を巡りました。第一回と比べて距離が短いため、巡るだけでは時間が余ります。そのため、最初に田布施郷土館で開催中の國木田独歩生誕150年記念展示会を見ていただきました。私の方から、独歩が生誕してから亡くなるまでの独歩の住所,関わった人物,出かけた山や海などの場所,田布施に関わる小説などについて詳しくお話をしました。1時間程お話をしたでしょうか。お話が終わると、独歩に関わる史跡を案内しました。そして、史跡に着くたびに解説をしました。なお、コロナ対策のため第一回目もこの第二回も参加者を二十名に絞らせていただきました。
田布施町郷土館に集合、史跡巡りする前に開催の挨拶
郷土館を出ると、JR田布施傍の陸橋を渡り山陽本線の北側の長合地区に行きました。ちなみに独歩が田布施にいた頃はまだ山陽本線はありませんでした。独歩が去って数年後に開通しました。波野英学塾跡石碑に到着すると、今の東田布施小学校の長合分校跡であったことや、なぜ独歩がここで英学塾を開いたか、この塾がなぜ長続きしなかったなどについて解説をしました。
波野英学塾跡石碑 上ゲ地区を歩く 富永有隣の定基塾跡
波野英学塾跡を出て歩いていると、かつてあった山陽本線の遮断機跡に着きました。遮断機跡前でいったん止まって、独歩がいた頃はここに街道をあったことを説明しまた。独歩はこの街道を歩いて麻郷から波野英学塾跡に通っていたのです。山陽本線が開通したことによって、この街道は遮断されてしまい今に至ります。
続いて、牛や馬が水を飲んだ場所と言われるお地蔵様に行きました。そのお地蔵様前で灸川の由来と牛との関わりや「さばらい」についてお話をしました。そのお地蔵様を過ぎて、少し歩くと富永有隣の定基期跡です。
石崎ためが嫁いだ専福寺 全員無事に史跡巡りを終える
定基塾跡では、富永有隣、東久治、そして独歩の関係についてお話をしました。そして、小説「富岡先生」と富永有隣の関係についてお話をしました。お話が終わると、専福寺に向かいました。専福寺に到着すると、独歩が家庭教師をしていた石崎ため(独歩が求婚した石埼とみの妹)のお話をしました。石崎ためは専福寺に嫁ぎ、幼稚園を開園して数百人の園児の教育をしました。その功績をたたえる追悼碑が専福寺に建っています。
石崎ためのお話が終わると、戊辰戦争と専福寺の関係についてお話をしました。第二次長州征伐で幕府軍とたたかった第二奇兵隊は当時この専福寺に駐屯していました。戊辰戦争では東北などを転戦しました。専福寺に残された第二奇兵隊の史跡を解説しました。その解説が終わると史跡巡りは終わりです。みなさんと一緒に、来た道を通って田布施町郷土館まで帰りました。参加された方々、お疲れさまでした。
JR田布施駅周辺の國木田独歩に関わる史跡巡りコース