今年も、ビワとスモモの収穫が最盛期を迎えました。ビワは先日袋かけしておきましたので、どの実も虫がついていませんでした。袋を開けると、ビワ特有の臭いが漂います。何個かは、その場で皮を剥いて食べました。今年は、どの実も小さ目です。袋掛けが遅れたか又は摘果が遅れたためではないかと思います。
枝のあちこちに、実がぶら下がる真っ赤なスモモ
スモモは、赤い実が木のあちこちにぶら下がっています。数個の実が地面に落ちていました。熟しすぎて落下したようです。これからはさらに、収穫しきれず落下する実が増えそうです。収穫したてのスモモの赤い薄皮を剥ぎました。熟していると、スルッと皮がむけます。黄色の果肉にかぶりつくと、桃に近い薄味の甘みが口内に広がります。今の時期しか味わえない果物です。
真っ赤なスモモを手捥ぎ 袋を外すと、美味しそうなビワ
そう言えば、ビワは果物屋さんに並んでいますが、スモモが並んでいるのを見たことがありません。実が小さいためか、はたまた桃ほど甘くないので売れないのでしょう。果樹がある家でしか味わえない家庭果だと思います。
今回収穫したビワとスモモ、今後一週間位は毎日収穫可
先日から草刈機の調子が良くありません。数日前から始動する時の音がいつもより変だなと思っていましか。それでも、エンジンがかかりましたので草刈りを続けていました。ところが、今回は始動すらできなくなってしまいました。始動ローブを引っ張ってもピクリともしないのです。無理に引っ張り過ぎるとロープが切れそうです。
始動ロープを引っ張っても、ピクリとも動かない草刈機
始動ロープが固く、ピクリとも動かない故障の一つに、ピストンとシリンダの固着があります。エンジンオイルが無くなった場合、オーバーヒートして起きる故障です。そこで、エンジンオイルを確認しましたが、規定量入っています。このため、オーバーヒートではありません。さっぱり原因が分からないため、草刈機を分解してみることにしました。最初にエンジンカバーを外して、次に始動ロープ部を取り外しました。
エンジンカバーの取り外し 始動ロープ部の取り外し
続いて草刈り刃の延長筒部を取り外してみました。円筒部に小石が入ったり焼き付いたりしていないか確認しましたが正常でした。続いてエンジンのヘッドカバーを取り外しました。この草刈機は4サイクルエンジンのため、吸気バルブと排気バルブがあります。この周辺が一番故障している可能性が高いのです。以前4サイクルエンジンが故障して分解した時も、吸気バルブと排気バルブを動かすカムとタペットが故障してしました。
注意深くエンジンヘッドカバーを取り外し
エンジンヘッドカバーを取り外して調査すると、始動ロープが動かない原因が分かりました。それは、エンジンの回転ギヤ軸に異物が挟まっていたのです。その異物は金属製で、外から入ったものではありません。何かの部品が外れて挟まったようです。そこで、何の部品が外れたのか狭いエンジン内部を調査しました。
エンジン回転部に挟まった部品 調速部が破損している?
すると、エンジンの回転をコントロールする調速部品が脱落して、エンジン回転部のギヤに挟まっていたのです。エンジンがより高速に回転するように調整する部品です。そこで、外れた部品を正常な位置に収めてエンジンを再度組み立てました。すると、始動ローブを引っ張ると、ちゃんとエンジンがかかりました。これで治ったと思って、再度エンジンをかけると再び動かなくなりました。その調速部品が再び外れたようです。よく見ると、この部品を押さえる部品にガタがきていました。
結局、外れた調速部品を取り除いて使うことにしました。高速回転は出来ませんが、今まで通り草刈機として使えます。切れ味は少々悪くなりますが、草は刈ることができます。4サイクルエンジンは2サイクルエンジンに比べて構造が複雑ですので、このような故障発生が時々発生します。回転数を落として今まで通り草刈りしようと思います。
押さえる部品にガタがきたため、脱落してしまう調速部品
先日、田布施町少年少女発明クラブの指導者の一人となりました。このたび、この夏に行われるチャレンジコンテストに参加したいかどうかを、子供達に問いかける試作品を作りました。このコンテストに出るための備品が届いていましたので、この備品を使って簡単な車を作ってみました。この試作車を実際に子供達に見せて、チャレンジしてみたいかどうかその意欲を聞いてみようと思います。
田布施町少年少女発明クラブに届いたチャレンジコンテスト用の備品
届いた備品には、工作するためのギヤ,モーター,タイヤなどが入っていました。まずは、試作車を動かすためのギヤボックスを作ってみました。このような工作は中学生以来のことでしょうか。子供の頃、よくプラモデルを作りました。その懐かしい工作の感触を味わいながら楽しく作ってみました。工作手順書を追いながら、少しずつ組み立てていきました。
プラモデルのような部品群 最初、ギヤの組み合わせ
この備品の対象年齢を見ると、小学高学年から中学生でした。微細な部品があるので、小学低学年には難しいように思いました。時間がかかっても着実に一つ一つ組み立てる必要があるため、むしろ女の子に向いているかも知れません。あせって作業すると、どこかで失敗するリスクがある部品ばかりです。
ギヤボックスが形になる モーターの組み込み
ギヤボックスは2個組み立てる必要があります。とても繊細な作業です。1ミリ位のネジは無くしてしまいそうです。代えの部品はありませんでした。このため、微細な部品を一つとして無くさない冷静さが求められます。組み立てたギヤボックスは、電気を流して動作することを確認しました。このギヤボックスを正確に組み立てることできるかが、子供達の最初の難関だと思います。
組み立てたギヤボックスに電気を流して動作することを確認
ギヤボックスを二つ組み立て、それぞれが動作することを確認しました。そして、試作車を組み立てました。今回試作したのは簡単な猫形モデルですが、これでも左進,右進,前進,後退,回転と自由に動かすことができます。
この猫型モデルを子供達にお披露目します。はたして、これを見て工作にチャレンジしたいと思う子供が現れるでしょうか。3人いれば1グループ作れるのですが。なお、コンテストに出るならば車の機構,デザイン,そしてからくりなどは子供達が考えなければなりません。ところで、田布施町少年少女発明クラブは過去、東京本大会まで出場したことがあるとのこと。
ギヤボックスを台車に取り付け 猫顔を取り付けて、仮完成
先日、初代八海橋や渡し船を調査していて、「カニもりさん」と「うじもりさん」のお話をお聞きしました。カニもりさんは蟹のことなのですが、うじもりさんに虫なのか,氏なのか,はたまた蛆なのか地元の方も分からないとのことでした。他の地域では蛆もりさんと言って、田んぼのウンカなどの害虫を指しているようです。八海は田んぼが少ないので、ウンカとは考えにくいように思います。蟹と同じように海岸に多い船虫のことでしょうか。それとも牛もり様が訛ったものでしょうか。今、それを知るお年寄りはいません。うじもりさんは現在、開作明神と呼ばれているそうです。
八海地区の裏山頂上で、田布施川を見下ろす蟹もりさんの祠
ちなみに、蟹もりさんは八海地区の裏山の頂上にありますが、うじもりさんは堤防に沿う身近な場所にあります。年に一度酒盛りなどのお祝いをするそうです。蟹もりさんも昔はお祝いをしたとのことですが、そのお祭りは今は絶えています。
ついでに、八海地区にある八海天神様のことをお聞きしました。今はお年寄りが石階段を上がることができず、高松八幡宮の宮司さんだけがお社にお詣りした後、お祭りは八海公会堂でするそうです。なお、田布施の天神から来たのか、防府の天神様からきたのか由来を知る人はもういません。昔話を知っているお年寄りがどんどん減ることは、ふるさとの文化が減ることでもあります。さびしいことです。
海岸の堤防沿いに建てられた、うじもりさんの祠
昨日はせっかくの晴天にもかかわらず私の勤務日でしたので、ひかり観音の光を観測することができませんでした。そして今日25日も快晴、絶好のひかり観音観測日です。一昨日に続き観測しました。
宿井団地石城窯のIさんの家付近が絶好の観測地点と分かっていました。このため、今回は私,Eさん,Naさん,そしてNtの4人が石城窯のIさんの家前に集まりました。駐車をさせていただいた石城窯のIさん、ありがとうございました。
石城窯のIさん前に駐車 Eさんは座ってiPadで観測
ひかり観音を観測していると、ぼんやりと明るかったのが8時47分頃から急に光が強くなりました。そして約3分間もの間、強い光が輝き続きました。48分頃に光の中心点が通過したようです。
これまでひかり観音の岩に行って、岩の傾斜角や方角などを計測したり鏡を使っての実験をしました。そして、天文学の知識を元に計算して、光が見える場所や時間をおよそ特定しました。今回、その計算結果がほぼ正しかったことが分かりとても嬉しく感じました。
田布施町宿井団地から見た、ひかり観音の光
下画像地図の地点Aは、今日6/25に強い光が見えたポイントです。今後、ひかり観音の光が見えるポイントはだんだん北にずれます。7月20日時点では、下図の橙色の線上で見えるはずですが、ひかり観音近くの樹木によって遮られ見えなくなります。そして、来年5月頃に再び見ることができるようになります。
今後は、ひかり観音の岩に付いた苔やゴミなどを取り除いて磨くと、鏡を取り付けなくても光が見えるようになるはずです。この光こそが、古代の田布施に住んでいた人々が見た光ではないかと思います。
6月25日8時48分時点の太陽高度43.6°方位88.5°
上赤線は6/25,上橙線は7/20に、強い光が見える線上、横緑線はひかり観音の真東線
久しぶりの晴天です。仕事から帰って麦畑に行くと、オート麦がだいぶ茶色になっていました。そろそろ刈り取りの時期です。スズメや鳩が群がっていましたので、彼らの恰好の食事場所になっているようです。オート麦はオートミールとも言い、裸性の燕麦です。どのように調理するのかよく知らないのですが、今年は去年よりは多く収穫できそうです。
茶色に色づいてきたオート麦、そろそろ刈り取り時期
どの程度成熟しているか、麦穂を取って調べてみました。すると、麦特有の筋が入った実が出てきました。少しばかり柔らかいようですが、十分刈り取りできるほど成熟しています。明日あたり小麦を刈り取りしたように、稲刈機を使って刈り取りしようと思います。
小麦と穂形が違う、オート麦の麦穂 穂から取り出したオート麦の実
上の動画は、田布施町木地で撮影したひかり観音からの弱い光です。宿井の石城窯さん宅では強い光が観測されましたが、残念ながら撮影できませんでした。古代において、このような感じで呉麓山麓のひかり観音が光っていたのでしょう。
さて、先日ひかり観音の屏風岩に特性鏡を取り付けしました。その後、私の勤務日で観測できなかったり、天候に恵まれず観測できない日が続きました。23日早朝は久しぶりの晴れでしたので、観測に出かけました。私とNさんの二人で観測しました。
私が観測した木地、観測できるも光は弱い
観測したポイントは二つです。私は行者山のふもとの木地で観測し、Nさんは宿井団地の石城窯さんの家前で観測しました。木地では8時半からだんだん光が明るくなりましたが強い光はありませんでした。
ところが、8時42分にNさんから電話がありました。とても強く光っているとのこと。急いで宿井の石城窯さんの家に行きましたが、光は弱くなっていました。光の中心点が通過した後に私が着いたからだと思います。
木地から見た弱い光 宿井から見た、弱くなっていた光
以上の観測結果から、朝8時42分に下画像地図の地点2(石城窯さんの家)を光の中心点が通ったようです。私が観測した木地の地点1では、強い光は観測できませんでした。このため光の中心点は、8時35分頃にA地点付近で地表に降り、42分頃に地点2(石城窯さん宅)を通過し、その後B地点方面に移動したと思われます。
なお、下赤線は太陽から来た光の方向で、上赤線はひかり観音に設置した特製鏡が反射した太陽光の方向です。黄線は鏡が向いている方角、つまり屏風岩の向いている方角です。緑線はひかり観音の真東の方角です。青線より北方面は、ひかり観音に生えている木が邪魔をして光はあまり見えません。
今後はより正確に観測して、光が見える場所,日付,そして時間帯の予報が出せればと思っています。さらに来年は鏡を取り外して、ひかり観音の屏風岩の苔を取るなどして綺麗に磨けば、古代に光っていたのと同じ光を見ることができると思います。
6月23日8時42分時点の太陽高度42.5°方位87.7°
黄〇は弱いながらも光が見えるおよその地域
毎週土曜日の夕方は、盆踊りの太鼓の練習です。いつものように麻郷公民館に集まりました。大人は、先に来て太鼓の練習です。私は少し遅れて参加したので、あまり練習できませんでした。子供たちが集まると、賑やかな子供達の声と太鼓の音が響きます。最初に麻郷嵯峨音頭の練習をし、次に田布施音頭の練習をしました。
麻郷嵯峨音頭の太鼓指導 田布施音頭の太鼓指導
麻郷嵯峨音頭を一通り練習すると、田布施音頭の練習です。田布施を冠している音頭です。田布施のどこの公民館でも太鼓を叩いていると思っていましたが、実際に叩くのは少ないようです。他の公民館ではスピーカーで曲を流すところがあるとのこと。少子化でなかなか子供達が集まらないのか、指導者が少ないのでしょう。
子供達の歌声に合わせて、子供達が太鼓を叩く田布施音頭
太鼓が初めての子供達は1階で練習です。見ていると、見よう見まねで叩いていました。私よりもすぐに上手に叩けるようになるはずです。太鼓の練習が一通り終わると、最後に、2階で田布施音頭の練習をしました。仲良し女の子3人組が歌って、残りの子供達が太鼓を叩きました。太鼓,リズム,歌などがまだまだ合っていませんが、本番前には上手になると思います。
太鼓が初めての子は、1階で練習 最後に田布施音頭をみんなで
ところで夜、半分開けていた窓から大きな虫が飛んできました。最初、雌のカブトムシかなと思って捕まえてみるとクワガタでした。捕まえると、威嚇するように牙を大きく開きました。一昨年の夏にもクワガタが飛来しましたが、その時よりも大きく立派なクワガタでした。砂糖水を吸わせて、逃がしてやりました。
我家二階の窓に飛び込んできたクワガタ
7月に、平生町の山間部をウォーキングする予定です。その下見に3人で行ってきました。この時期は季節的にだいぶ暑いため、なるべく平生町でも涼しいと思われるルートを探しました。そのルートは登り降りが少なく平均高度120mで、しかもこんもりと木々に覆われています。一番高い場所は神護寺で約200mです。去年の8月に調査したルートとほぼ重なり、2月に調査したルートとほぼ同じです。
平生スポーツレクリエーション公園近くから見えた瀬戸内海
スタート地点は、曽根と佐賀の境近くにある平生スポーツレクリエーション公園です。平日でしたので誰もいませんでした。大星山へ行く道と反対側の道を歩きました。少し歩くと、瀬戸内海が見え始めました。佐合島,馬島,祝島,そして牛島が見えました。こうしてみると、先日ウォーキングした祝島は、意外と大きく山が高いことが分かります。
平均高度120mの景色良好の小道 曽根の平原地区からみた平生湾
しばらく歩いて、曽根の板碑を見学しました。室町時代頃の墓地のようです。普通の石碑とは違う雰囲気の石碑です。梵語がいくつか刻んであったためでしょうか。次に、景色が良い曽根の平原地区を通りました。平生湾や麻郷を見下ろすことができます。
平原からしばらく歩いて、木村(こむら)のお地蔵さんに行きました。つい数年前までは、ここでお祭りが行われていました。一昨年の10月に訪れた時に「今年からお祭りは廃止」とお聞きして、とてもがっかりしたことがあります。このお祭りを主催する家が、2軒までに減っては仕方がありません。伝統的なお祭りが消えるのはさびしいことです。
静かなたたずまいの木村のお地蔵様 竹林のような小道をもくもくと
どんどん歩いていると、神護寺の入口に着きました。道を分かれて箕山方面に登りました。15分位登ると、神護寺に着きました。このお寺は、もともと石城山にありました。しかし、明治2年頃の廃仏毀釈政策によって石城山の神護寺は廃棄されました。惜しいことです。いつしか、この場所に移転したとのこと。梵鐘の近くに植えられた、アジサイがとても綺麗でした。
アジサイがとても綺麗な、神護寺の梵鐘
神護寺でおトイレをお借りして、付近をあちこち散策しました。この神護寺から大星山へと続くウォーキングルートがあります。しかしながら、手入れがあまりされていないようで、ひざの高さ位の雑草が生い茂っていました。かつて、このルートは車も通ったようです。落ち葉の下は、固いコンクリート製でしたので。平生の町並みを見下ろしながら神護寺を下って、元歩いていた道に戻りました。
日向平の棚田に到着 日向平棚田の一角にある神社
この付近の道はかつて、だいぶ人や車が通ったようです。道の左右に石垣の跡があったり、その石垣跡にかつては水路だったと思われる箇所がいくつかありました。しかし、木村のお地蔵さんのお祭りが消えて行ったように、近年平生の山間部には人が住まなくなったようです。
それでも日向平の棚田だけはなんとか維持されています。日向平の棚田で農作業している方にお聞きすると、日向平の西にある陰平の田んぼはもう耕作されていないとのことです。今はなんとか維持されている日向平の田んぼも、管理しているのはお年寄りばかりのようです。十年後二十年後、この棚田を受け継ぐ若者はいるのでしょうか。
綺麗に管理されている日向平の棚田
見事な日向平の棚田を過ぎると、長谷に向かいました。長谷からは平生の町並みに向かって下り坂をどんどん降りました。今回一緒に歩いたEさんは、この坂道が懐かしいようでした。幼児の頃、この坂を祖母に連れられて何度か昇り降りしたそうです。山向こうの伊保庄福井畑に祖母の実家があったとのこと。実は、私の母親もこの坂道を登り降りして、山向こうにある伊保庄山近の実家を行き来したそうです。今、その道は木々や雑草に覆われて通ることができません。
長谷のお地蔵様横を過ぎてどんどん道を下り、終点のJR南すおう平生支所に着きました。歩いた距離は約10kmでした。
大野と伊保庄を結ぶかつての県道 長谷の地蔵様横を過ぎる
下図は、今回下見したウォーキングルートです。おおむね高度120mの小道ばかりを歩きます。道の左右はほとんど木に覆われているため日差しが届かず、それほど暑くありません。来月20日を予定していますが、その頃は梅雨明けしているでしょうか、それとも梅雨真っ盛りでしょうか。当日の天候が気になります。
スポーツレクリエーション公園~平原~日向平~長谷方面ウォーキングルート
明治時代に国木田独歩が書いた小説帰去来に出てくる、田布路木から高塔までの道のりを調査したことがあります。その後、かつてあった渡し舟や初代八海橋などについてさらに知ることができました。
さて、今の八海橋が三代目の橋であることを知っている人は、麻郷の方でもわずかになりました。今、この三代目の八海橋の上流に、半分朽ち落ちた二代目八海橋があります。三代目八海橋の下流にさらに古い石橋(初代八海橋)があります。そして、さらにその昔、その初代八海橋が無かった頃(江戸時代と明治時代初期)に対岸を結ぶ渡船場がありました。
二代目八海橋、後ろは高塔山 昭和30年頃
その渡船の仕事をしていた家の屋号は「わたしば」と言い、その渡し船を生業にしていた家(現加藤家)がありました。加藤家の曾祖母の時代に渡し船と駄菓子屋を営んでいたそうです。そして、渡し船は伝馬船で、渡りたい人が来ると舟を出していたそうです。架橋された後もしばらく、船が流れないようにロープを結びつけておく棒が建っていたとのことです。
この初代八海橋(石橋)の写真が八海公会堂に展示されています。この初代八海橋はキジヤ台風(1950)とルース台風(1951)で倒壊したとのことです。その頃すでに二代目八海橋ができていたため、初代八海橋は修復されず廃棄されます。この倒壊した初代八海橋の残骸の一部が今、八海地区の方々の庭石の一部として使われているとのことです。なお、初代八海橋を渡った三新化学側はバラス置き場となっていて、近くに一本松と呼ばれる大きな松が生えていたとのことです。この松の幹には穴が開いており、ふくろうの巣があったそうです。当時この松の下にほいとが住んでいて、子供達は怖がっていたそうです。
昭和13年頃のことです。平生女学校(今の熊毛南高等学校)に通っていた鳥越の井上やすこ(又はやすえ)さんが、この初代八海橋を渡り終えた直後に、ドーンと言う大きな音がして橋の一部が倒壊したそうです。その女学生(存命ならば91歳とのこと)が無事だったので、みんな安堵したそうです。
初代八海橋と一本松 八海公会堂前のお地蔵様
ところで、この初代八海橋の袂に一体のお地蔵様が安置されていました。最初は八海橋袂の下流側にあったそうですが、いつしか上流側に置かれたとのことです。そして、今から10年ほど前、高潮対策のための堤防工事時に今の八海公会堂前に置かれ今に至っています。
なお、このお地蔵様の右隣に小さなお地蔵様が置かれています。この小さなお地蔵様は、明治時代八海地区に住んでいた早川龍之介と呼ばれる子供が初代八海橋袂で泳いでいたところ、足に固いものが当たったそうです。その固いものを掘り上げたらこの小さなお地蔵様だったそうです。
このお地蔵様を観察すると、割れたお地蔵様の上部のように見えます。なぜ割れたのか、なぜ初代八海橋の袂に捨てられた(落ちた)のか不思議です。下部がまだ八海の底に眠っていると思われます。もしかして、今のお地蔵様が元々置かれていた初代八海橋袂に置かれていて、それが誤って海に落ちたものではないでしょうか、謎です。
毎年8月裏盆に、八海地区でこのお地蔵様を祀る催しがあります。参加されていた方に聞くと、天保8年(1837年)にお地蔵様が初代八海袂に置かれたと代々言い伝えられているとのことです。天保8年に石橋が作られたとは思えないので、渡し船が開かれた頃に作られたようにも思われますが不明です。石橋の前に木造の橋があったのかなど、知っている方はもういません。なお、このお地蔵様を祀っている方は千坊山光福寺の住職です。
お地蔵様を祀っている千坊山光福寺のご住職
なお、初代八海橋から上流500m位の場所に、今は無き人島橋がありました。その橋は、架橋年代が分かっています。この橋は、最初文化9年1812年に架橋され、昭和2年に再架橋されました。それぞれ石碑が立っています。なお、昭和30年に改修されたとのことです。昭和30年に改修工事で、それまでの人島橋に比べて橋脚がだいぶ高く立派な橋になったそうです。しかし、10年後には壊れて渡れなくなりました。
人島橋、右上は石城山 昭和40年頃
江戸時代、人島橋付近が西浜などより先行して開作されたたたため、人島橋が架橋されたのではないでしょうか。続いて平生の西浜付近が開作され、さらに新市に町ができた頃に、八海に渡し船ができたのではないでしょうか。その後交通量が増えて、渡し船でさばききれなくなり、初代八海橋が架橋されたのではないかと思われます。
さて、この初代八海橋の橋脚構造を写真で見る限り、柳井の伊保庄に残っている旭橋にとてもよく似ています。旭橋は平成24年時点で歩いてだけは渡ることができました。しかし今、平成25年には通行不可となり倒壊するのを待つだけです。
初代八海橋に構造がとても似ている柳井伊保庄の旭橋、現在通行不可
ところで、初代八海橋と対になるように三新化学側に「こくぼ橋」(漢字で小久保か小窪かは不明、ここでは小久保とする)がまだ残っています。初代八海橋が倒壊後何十年も誰も渡らなかったため、橋かどうかわからないほど雑草で覆われています。その草をかき分けると、低い橋の手すりがあります。なお、小久保橋近くに中川橋があったそうですが、壊されたのか埋められているようです。今となっては分かりません。初代八海橋を渡った人は、小久保橋を渡り、中川橋を渡って平生方面に行ったとのことです。
草に覆われた小久保橋 小久保橋袂そばの御旅所
その小久保橋の袂近くに、御旅所(おたびしょ)があります。この御旅所には、沼八幡宮からやって来たおみこしが置かれるとのことです。この御旅所は、この付近が開作された頃に置かれたのでしょうか、又は塩田に関係していたものでしょうか。この御旅所の周りは石台で囲まれており、端の四か所に窪みがあります。柱状の物が建っていたか、お祓い用の縄を張った竹竿を立てたようです。かつては屋根があったのかも知れません。
なお去年訪れた時、この御旅所を囲むように先端を縄でつながれた朽ちた竹竿2本が倒れていました。お祓いか何かがあったような形跡である。今でもおみこしか何かがこの御旅所に来るようです。
御旅所から10m位平生側に行った所に、お地蔵様があります。お地蔵様の横に文字が刻まれていますので、その文字を読み取れば御旅所との関係が分かるかも知れません。なお、ブロックに囲まれているためその文字を読むことができません。なお昭和の初め、八海地区の子供達は肝試しのため真夜中に初代八海橋を渡ってこのお地蔵様まで行ったそうです。このお地蔵様のゆうれいが出るとのうわさがあったそうです。
御旅所近くの地蔵様
なお、このお地蔵様は、今は八海公会堂前に置かれている初代八海橋袂のお地蔵様に大きさなどがよく似ています。何か関連があるのかも知れません。この付近が開作された頃に八海の渡船場に一つ、小久保橋に一つお地蔵様が作られたのではないかと思われます。
下図は、八海地区の昭和50年頃の航空写真です。
1:二代目八海橋 2:三代目八海橋 3:初代八海橋と渡し船 4:八海公会堂
5:お地蔵様6:小久保橋 7:中川橋 8:御旅所 9:お地蔵様
10:八海天神 11:かつての高塔山の峠 12:高塔山 13:一本松
2月にひかり観音から手鏡程度で十分光が見えることを確認しました。今回は、ひかり観音からの反射光を遮る樹木を伐採し、さらに屏風岩に特製の鏡をセットしました。午前中に行く予定でしたが、雨が降っていたため午後にしました。しかし、それでも霧雨が降っていました。そのため、長靴に雨合羽を着て行きました。とても蒸し暑い中での作業となりました。
なお、ひかり観音の屏風岩に取り付ける特製の鏡は、弱く広く太陽光を反射する素材、そして狭く強く光を反射する素材を組み合わせて作りました。このように、弱い光がだんだん強い光になるように工夫してみました。果たしてこの工夫が生きるでしょうか。
屏風岩に取り付ける鏡を制作中 太い樹木に切れ込みを入れるNさん
木の伐採が進むにつれて、行者山や宿井方面などの下界が良く見えるようになりました。つまり、ひかり観音からの反射光の届く範囲がぐんと広がりました。チェーンソーを2台持っていったのですが、私のチェーンソーが故障してしまい、Nさんのチェーンソーだけで伐採作業を続けました。
行者山や宿井団地方面の見晴らしが良くなる
木を伐採していると、チェーンソーのガソリンが無くなってしまいました。このため、他二人に林道までガソリンを取りにいっていただきました。小雨の中、ありがとうございました。
そこで、ガソリンが届くまでの間、特製の鏡を設置することにしました。最初杭を打って取り付けようと思いましたが、杭が深く入りませんでした。このため、屏風岩の表面にピタリとつくように、紐で縛ることにしました。そして、大風で揺れないように石を重りとして取り付けました。
屏風岩への鏡の取り付け作業中 届いたガソリンをチェーンソーに充填
ガソリンが届くと、Nさんは樹木の伐採を続行し、私は屏風岩へ特製の鏡を取り付ける作業を続けました。取り付けた鏡から少し離れた場所に杭を打ち込んで、「科学的調査のため鏡を取り付けます。郷土館」と書いておきました。これで、次の日からひかり観音伝承の科学的検証をすることができます。
丸内は、ひかり観音の屏風岩に取り付けた特製の鏡
鏡を設置した次の日から検証できますが、晴天でないと検証できません。今は梅雨の時期ですので検証にはむかないい季節です。晴れた日の8時半頃、下図の丸の個所に待機しておいて光が見えるかどうか確認するつもりです。計算上では、下図の下赤線から朝日が入り、上赤線の方向に反射します。明日から、晴天をみては検証に入ろうと思います。もし、光が確認できるようならば、その範囲や動きを特定しようと思います。さて、伝承どおり光が確認できるでしょうか。
計算上では6/20 8:30頃に、下図の下赤線から朝日が入り、上赤線の方向に反射
緑線はひかり観音の真東方向、黄線はひかり観音が向いている方角
常楽寺での昼食休憩が終わると、ウォーキングの後半です。麻郷幼稚園を少し眺めてから、階段を下って高松八幡宮方面に向かって歩きました。途中、道路改良記念の石碑を見学しました。このような道路改良や河川改良の記念碑が田布施のあちこちにあります。
子供達は常楽寺の軒下で休憩 高松八幡宮に向かってLet's Go!
道路改良記念碑を見学し終わると、田布施町の名木の一つであるクロガネモチの大木を見学しましした。根本近くに行くと、見上げるような高さです。首が痛くなります。全体像をカメラに納めようとすると、たいぶ後ずさりしないと撮影できません。
首が痛くなるほど見上げないと、全体が見えないクロガネモチの大木
クロガネモチの大木を見終わった後、広大な田んぼを見ながら歩きました。歩いている途中、とても貴重な生き物を発見しました。豊年エビです。小さな薄緑色の綺麗な生き物です。脅かすと跳ねるように水中を移動します。10年位前に稲城市の田んぼで見たことがあります。田布施でもこの豊年エビが復活しているとは驚きです。名前のとおり、このエビが大量に発生する年はお米が豊作との言い伝えがあります。
50年位前に田んぼで農薬を使い始めたころ、いっせいに姿が見えなくなりました。自然が豊かに復活している証拠の生き物です。田布施の各地を調査してみたいものです。この豊年エビの他に、カブトエビや貝エビなどの貴重な生き物も生息しているのではないかと思います。豊年エビ数匹を飼ってみようと思います。
麻郷の田んぼに生息していた豊年エビ、丸は卵塊
貴重な生き物である豊年エビを見終わると、田んぼを見ながら高松八幡宮に行きました。途中、お地蔵様を見たり、江良碧松の生家を訪ねてイチョウの大木を見ました。この生家は数年前までは、茅葺き屋根でした。維持できなくなってトタンで覆った屋根になりました。もしかして、麻郷最後の茅葺き屋根ではなかったかと思います。
広々とした田んぼ風景 江良碧松の生家を訪問
江良碧松の生家を訪ねた後、江良碧松の石碑を訪ねました。この地区の方々が、あすなろの花壇を管理するついでに、石碑を綺麗に管理しているのではないかと思います。なお、先日新川浮島神社に行きました。残念ながら、江良碧松の石碑は雑草に覆われていました。なかなか石碑の管理まで手が回らないのでしょう。
高松八幡宮へ行く道すがら、江良碧松の石碑を見学
江良碧松の石碑を見学すると、長福寺と高松八幡宮に行きました。高松八幡宮の大きな石鳥居の下をくぐって、うっそうとした大木の森の中を本殿に向かいました。石段を上ると本殿です。参拝した後、休憩しつつ大木の種類を確認するなどしました。これだけ大木がある神社はこの付近にはそうありません。木の大きさもさることながら、種類も豊富です。不思議なことに松だけはありません。
長福寺に到着 森に囲まれた、高松八幡宮本殿を参拝
高松八幡宮を出ると、次に西円寺に向かいました。軽い下り坂ですので、快適に歩きました。この付近は、耕作されていない田んぼが数多くあります。耕作されていた昭和30年代は、とても素敵な里山風景が広がっていたに違いありません。もう1つ残念なことは、私が子供の頃にみえた城山がすっかり変貌していたことです。山は削られ頂上付近は一部禿山になっていることが分かります。
西円寺のご住職様に、お寺の由来や仏様などについて丁寧に教えていただく
西円寺に着くと、お寺内に招かれました。お寺の中は涼しい風が吹いていました。汗ばんだ体にはとても心地よい風でした。拝んでいると、ご丁寧にお茶をいただきました。さらに子供達には特別の仏様ドロップをいただきました。西円寺ご住職様のご配慮に感謝いたします。ありがとうございました。
蓮輪の千手山千光寺に到着 小高い山上の金毘羅さんで一休み
西円寺を過ぎると、千手山千光寺に向かいました。時間が迫っていたため稲荷大明神はスキップしました。千光寺に着くと、すぐに裏山の金毘羅さんに行きました。石段がだいぶ乱れているため登りにくい山でした。この石段の左右はかつては墓所だったようです。誰もお参りしない半ば打ち捨てられたお墓がいくつかありました。頂上広場に着くと、金毘羅さんの扉を開けて、中を拝見させていただきました。そして、わずかな時間の休憩後、山の下に降り再び千光寺に出ました。そこで、しばしの休憩をしました。
金毘羅さんから降りて、千光寺でしばしの休憩
続いて、蓮輪の光泉寺に向かいました。最後の訪問箇所です。時間が迫っていたため、調査や下見時に行った、浜城のお地蔵様,江戸時代の漢学者亘理南山碑,上関宰判勘場跡碑,米出の恵比寿様,そして、塩谷天王社などははスキップしました。光泉寺に着くと、お寺の庭など境内を見学させていただきました。なお、数十分後に法要があるとのことで、長い時間は滞在できませんた。見学させていただきありがとうございました。
最後に訪問した光泉寺 終点の麻郷公民館に到着
光泉寺の次は、終点の麻郷公民館です。暑い湿った6月ですので、みなさんの体調がとても心配でした。しかし、子供達も含めて全員が元気に終点に到着しました。歩いた総距離は、10.4kmでした。みなさんお疲れ様でした。
昼食休憩した常楽寺から、終点の麻郷公民館までのコース
==========健康ウォーキングクラブ==========
日曜日、田布施交流館から麻郷公民館までウォーキングしました。朝10時に交流館をスタートして、最初は下田布施を歩いて麻郷の奈良方面に向かいました。最初、先日このウォーキングのルートを調査中に偶然にお会いした田布施まるごと公園化計画のTさんのブルーベリー農園 花夢果夢に行きました。この農園でお手伝いしているYさんに同行していただき、農園のご説明をいただきました。ありがとうございました。
交流館から奈良方面へ、Let's Go! ブルーベリー農園 花夢果夢に到着
Yさんのお話では、ブルーベリーの収穫はなかなか大変とのことでした。ブドウなどはハサミで房の根本を切って収穫できますが、ブルーベリーは一粒一粒を手で摘まんで収穫しなければならないそうです。そのためコストがかかり、なかなか安価にならないとのこと。確かに、小さな実を一つ一つ摘まんで収穫するので機械化はとても無理そうです。
ブルーベリーの収穫方法や品種などについて、Yさんに教わる
ブリーベリー畑を見学すると、Tさんの家に向かいました。途中、道下にみえるラベンダー畑を見ました。雑草が生えていて、草取りなどの世話が大変な事が分かります。
Tさんの家に着くと、木彫りの猫ちゃん「猫の宿」が迎えてくれました。Tさんはフィリピン取材に同行しているとのことで、しばらくは日本に帰ることがありません。このため、猫ちゃん達のための餌がたくさん置いてありました。Tさん、見学させていただき感謝します。
迎えてくれた、木彫りの猫 ハゼの実ろうそくのお話を聞く
Tさんの家にハゼ工房の看板が張ってあります。この家で、ハゼの実からろうそくを作る体験をすることができます。それらの話をYさんから説明していただきました。江戸時代、田布施の城南地区ではハゼをたくさん栽培していました。そして、そのハゼから実を取って和ロウソクを作っていました。城南では、江戸時代に栽培された和ロウソク用のハゼの大木1本が残されています。この大木は、田布施の名木の一つとして今でも大切にされています。
ハゼ工房(Tさん宅)で、ハゼの実から和ろうそくを作る工程を見学
和ろうそくは防長四白の一つと言われていました。四白とはお米,塩,和紙,そして和ろうそくのことです。これら四品目の生産を奨励したことにより、長州藩は戊辰戦争を戦い抜く大藩に成長しました。田布施の和ろうそくは、間接的に明治維新に貢献したことになります。
城南小学校の子供達は、このハゼ工房で和ろうそくを作る体験を毎年しているとのことです。城南小学校以外でも体験又は見学すると良いと思います。
ハゼの実からロウを抽出する絞り機 近くの山で、早生ブルーベリーを試食
ハゼ工房を見学すると、Yさんに連れられて隣りの山に行きました。ここには、早生のブルーベリーが植えてあるとのことでした。細い山道を登って行くと、紫色に実ったブルーベリーがたくさん植えてありました。主に子供達に試食させていただきました。ありがとうございました。ついでに、早生ブルーべりーの上の畑に、養蜂されているミツバチを見学しました。秋には、甘い蜜が採ることができるようです。自然がいっぱいのTさん宅です。
ぶんぶん飛び回るミツバチを見学 麻郷奈良の大岩に向かう
ところで、私が小学生一年生になった時、Tさんのお父さんが校長先生として麻郷小学校に赴任してきました。6年生のある時、女の子達だけが早く下校することになりました。そのことに数人の男の子が怒って校長先生であるTさんのお父さんに抗議したことがありました。男の子だけが帰ることが許されず、差別されたように感じたのでしょう。その時、笑いながら校長室に招かれて諭されたことを覚えています。その時、村祭りの稚児さんの練習をするために、女の子だけが早く下校したように聞きました。
Tさんのお父さんは、私が卒業する時に定年を迎えました。卒業式の時、自分も定年で辞めることの話をされていました。少し寂しげな最後の挨拶を覚えています。
麻郷奈良の大岩の前で、とても巨大な卵型の岩
Tさんの家を出ると、麻郷の奈良地区に入りました。草地の小道を歩いて、次の目的地である大岩に向かいました。この岩は不思議がいっぱいです。どうしてここにこんな丸い大岩あるのでしょうか。
数万年前に氷河が運んできた?古代ここは海辺でしたので津波が運んできた?タマネギ状溶岩として浸食されず丸く残った?もともとは大きな岩盤だったのが海岸の砂で丸く削れた?鬼か山姥が蹴った(笑)。たくさんの不思議が詰まった大岩です。大岩の下を少し掘ってみると、謎に少しは迫ることができると思います。
田んぼ脇をのんびりウォーキング 草がびっしり生えた一番の難所?
奈良の大岩の大きさを体現するため、岩の周りをぐるりと回ってみました。そして、少しの休憩をとりました。休憩が終わると、次に尾迫に向かいました。広々とした田んぼを左右に見ながら歩きました。途中、日本のサッカーが負けたことが分かったらしく、子供も大人も残念そうに話しながら歩いていました。
しばらくすると、今回のウォーキング一番の難所?です。下見の時はそうでもなかったのですが、道に雑草がびっしり生えていました。伸びた草を倒しながら歩きました。しばらくすると稲荷神社に到着しました。
桜の木に囲まれた稲荷神社 昔は巡礼他の一つだった観音堂
稲荷神社に着くと立ったまま休憩をしました。この神社は、鳥居がある参道側の道が途中で切れています。今は使われない参道ではないかと思います。代わりに神社脇に作られた団地の人がお詣りするようで、団地からの脇道がひらけていました。
稲荷神社を参拝し終わると、近くの観音堂に行きました。この観音堂の脇には古い五輪石がいくつかあります。江戸時代初期に遡ることができるお堂ではないかと思います。実際、昔は巡礼場所として知られていたと記録にあります。また、旅の僧が住んでいたとの記録もあります。
常楽寺への長い石階段を登る お昼休憩を取る常楽寺に到着
観音堂に着いた時刻は、ほぼ正午でした。このため、お昼休憩をとる予定の常楽寺に急いで向かいました。15分位急ぎ足で歩くと、常楽寺併設の麻郷幼稚園が見えてきました。そして、長い石階段が道傍に見えてきました。その階段を登ると常楽寺です。
お寺内の広い畳のお部屋で、お昼休憩
下見時にこのお寺でお昼休憩するとお伝えしてはいたのですが、今回ご住職のお計らいで、なんとお寺内に案内されました。そして、広い畳のお部屋でお昼をとることができました。本当にありがとうございます。常楽寺の方のお心使いに感謝いたします。
スタートした田布施交流館からお昼休憩した常楽寺までのコース
==========健康ウォーキングクラブ==========
6月上旬に東京に行っていたため、小麦の刈り取りが遅れてしまいました。山口県に帰った後に小麦畑に行ってみると、予想どおりたくさんのスズメや鳩が群れていました。
鳥達が麦を食べる様子を見ていると、食べ方に感心します。最初に麦穂に止まります。すると、鳥の体の重みで穂がポキンと折れて地表に倒れます。そして、地表に倒れた麦穂をつついて食べるのです。ただし、茎の途中で折れた麦穂は地表に倒れません。そのような場合、鳥達は何度も麦穂を折っては、地表に倒れた麦穂だけを食べるようです。こうして、麦畑は折れた麦穂ばかりになります。
丸はスズメ達が折った麦穂 刈り取った小麦を次々と干す
すべての麦穂をスズメや鳩に食べられる前に収穫しなければなりません。稲刈機のキャブレター修理で刈り取りが一日伸びてしまいましたが、今回すべての麦を刈り取りました。そして、横に渡した竹棒に麦束を架けて天日干ししました。去年より畝間隔を広げたたため、収穫量が今年は少なくなりそうです。でもパン位は十分焼ける量は刈り取りすることができました。
スズメや鳩に食べられた小麦を、次々に刈り取り
今の時期は、梅雨と重なるため刈り取りにとても神経を使います。一番大切なことは、スズメや鳩に食べられることではありません。食べられても、わずかなものです。一番大切なことは、長雨に麦穂を当てないことです。穂が雨で湿ったままだと、穂のまま発芽してしまうことなのです。穂発芽すると、麦として価値が無くなってしまいますので。
すべての小麦を刈り取り 刈り取った小麦は天日干し
天日干し中も、雨に濡れて穂発芽しないように注意します。そのため、干した小麦束全体にビニールシートで覆います。刈り取り後、1,2週間天日干ししてから脱穀機で脱穀します。脱穀してしまえば、好きな時に好きな量を製粉して食べることができます。
雨が当たらないように、麦束全体をビニールシートで覆う
今年の夏も、麻郷ふるさとの会による盆踊り練習が始まりました。6月7日に説明会があったのですが、私は東京に行っていたため出席できませんでした。14日の練習から参加です。8月9日の盆踊り本番で、練習した麻郷嵯峨音頭や田布施音頭を披露します。
練習を始めるにあたっての挨拶 さっそく子供達は太鼓の練習
私は去年、太鼓の練習をしたものの結局ものにできませんでした。子供達を見ていると、一年以上経っているにもかかわらず太鼓のリズムを覚えているようです。慣れたようにすぐに叩き始めました。やはり、鉄は熱いうちに打つ必要があるようです。子供の頃に覚えた自転車がいつまで経っても乗れるように、太鼓も子供のうちに覚えておくと良いようです。
今年初めて太鼓を打つ子供を交えて、太鼓の練習開始
私が子供の頃は、麻郷の各地区で盆踊りが行われていました。私が住む高塔地区でも独自に盆踊りをしていました。場所は広い畑か工場の敷地内でした。ただし、太鼓は一つだけだったように覚えてます。敷地の中心に簡単なやぐらを組んでの盆踊りでした。こじんまりした盆踊りでしたので、夜店などはありませんでした。近くのお店から購入した、かき氷やジュースを配っていたように思います。
子供達の太鼓練習を見る大人達 練習の合間にお菓子や飲み物
就職後、私は会社の寮のお祭りに関わったことがありました。盆踊りとクリスマスが、寮の二大祭りでした。その日だけは女子寮から女の子達が大勢来たため、みんな張り切っていたように覚えています。かき氷店のような仮設店もいくつか作りました。
休憩後、歌い手を変えて太鼓練習を再開
結婚してからは、都心の盆踊りによく参加しました。ある年、私は団地のレクリエーション担当になりました。レク担当は、その年の盆踊りの責任者でもありました。
4月頃から計画を立てました。例えば、盆踊り練習のための日程を決めたり,踊りを教える先生を訪ねたり,会場をキープしたり,夜店の配置を考えたり,安全対策として消防署や警察に届けたり,やぐらや仮設トイレを設置したり,景品を考えたり,地域通貨を作ったり,招待する老人施設にあいさつに行ったりと、忙しく立ち回りしました。今では、懐かしい思い出です。
去年太鼓を叩いた子供達も 初めて太鼓を叩く子供達も
私は、高校卒業後40年間近く都会に住んでいました。このため、付き合いと言えば会社関係が中心でした。寮の盆踊りやクリスマス、会社の運動会や謝恩会などのレクリエーション、そして会社の組合が企画するキャンプやダンスパーティーなどがほとんどでした。その他、ボーイスカウト,山岳部,保育園,学童保育でのイベントにも参加しました。また介護の仕事の関係で、病院のレクリエーションに関わったこともありました。このため、地域に密着したイベントにはそれほど参加する機会がありませんでした。40年ぶりですが、少しずつでも麻郷の活動に関われればと思っています。
子供達の太鼓練習を見ている地域の方々やお母さん方