一年は早いものです。子供の時は、お年玉をもらうのがお正月の一番の楽しみでした。当時、祖母に300円位をお札でもらっていました。そのお金でプラモデルを買ったものでした。私が自由に使えるお金はお年玉くらいしかなく、貯金はしませんでした。当時はとても一年が長かったです。お年玉を使い切ると、なんだかさみしい気持ちになりました。今の年齢の感覚で5年位待たないと、次のお正月にが来なかったからです。
わらを叩いて柔らかく 手すきでみごを取る ワラを三つに分ける
さて、年越しの準備として注連縄を作りました。10年以上前から手作りしています。田布施に帰ってからは、母屋は婆様が購入した注連縄を飾り、倉庫などは私の手作り注連縄を飾っています。うらじろやミカンなどは付けないシンプルな注連縄です。作る前に適当なワラを選んで、編みやすくなるように叩して柔らかくします。
もう少しで出来上がり 出来上がった手作り注連縄
注連縄は普通の縄と編み方が異なります。縄は二本を編み込むので比較的簡単にできます。しかし、注連縄は三本を編み込むので容易にはできません。逆編みですので、さらに大変です。しかし、二個程度作るためそんなに時間はかかりません。注連縄を編み終わると、軽く焼いてワラで磨くと注連縄がつるつるになります。あとはも丸く縛って完成です。大晦日の明日、倉庫などに飾ります。
日向ぼっこしながら小豆を選別
注連縄を完成させると、11月に脱穀した小豆を選別しました。虫の食い跡がある小豆やゴミなどを手で取りました。天気が良いので、日向ぼっこしながらのんびり作業しました。続いて、木箱が緩んでいたため釘を打って直したり、サトウキビを休眠のため籾殻に入れて屋内の部屋に保存しました。約3ヶ月の休眠です。そして、今年のカレンダーを来年のものに張り替えました。
休眠に入るサトウキビ カレンダーを取り替え 太い枯幹を燃やす
夕方近くには、いつものように枯れ枝を燃やしました。今回は、とても太い枯幹を運んだので少しばかり腰を痛めました。山の地面に転がしていたため、湿気を吸っていてとても重かったです。山から降ろす時は、蹴るようにして落としました。しかし、落とした後、紐で引っ張ったり、持ち上げたり、引きずったりと、くたびれました。この太い枯幹で今年の焼却作業はおしまいにしました。来年も暇をみては焼却作業をしようと思います。
太い枝や幹はすぐには燃え尽きないため、暗くなっても燃え続ける
先日から、白菜の収穫・仮漬けをしました。今回、年越し前に本漬けをしました。春までに食べきることができる量です。本漬けには昆布と唐辛子を使いました。いりこなどを使おうかと思いましたが、ほんらいの白菜の美味しさをキープするため使いませんでした。最初、仮漬けした白菜を別の樽に移しました。昆布などを混ぜ込みやすくするためです。
綺麗に洗ったミキサー 刈漬けした白菜を移した樽
さ
毎年昆布は細かくハサミで切って混ぜ込んでいますが、今回はもって細かくするためミキサーを使ってみました。買ってきた昆布と唐辛子をボールに入れて、仮漬けした白菜から染み出た塩水にしばらく浸けました。すると、昆布の一部が溶け出たのでしょう、塩水がとろとろしてきました。あらかじめ綺麗に洗ったミキサーに塩水ごと入れて撹拌しました。1mm四方位に細断されました。
塩水に浸した昆布他 ミキサーに昆布などを移す 細かく撹拌
続いて、別の樽に移していた白菜に、細断した昆布を塩水と一緒に入れました。一度にすべて入れるのではなく、白菜の葉の間に入るように混ぜ込みながら入れました。私は漬物の素人なので、この方法が良いかどうかは分かりません。正月早々食べてみて、ダメならば来年別の方法に切り替えようと思います。10年位毎年漬けていれば美味しい我家の漬物になるのではないかと思います。今年は昆布と唐辛子だけですが、来年はニンニク少々、いりこ少々入れてみてはどうかと考えています。
細かくなった昆布などを、少しずつ仮漬け白菜に混ぜ込む
全ての昆布を混ぜ込み終わると、本漬け用の樽に移しました。この樽は、仮漬けに使っていた樽です。底の方から並べるようにしながら、白菜を移しました。すべての白菜を移し終わると、ビニール袋を閉じて重石を載せました。そして、冷たくて暗い北側の倉庫に置きました。お正月前後に取り出して食べてみようと思います。さて、どんな味でしょうか。楽しみなような、心配なような気がします。
本漬け用の樽に移した白菜 冷たくて暗い北側の倉庫に置く
年末の大掃除の一環として、裏山の下草刈りや伐採をしています。しかし、伐採した木を燃やすことが意外に大変なのです。一番大変なのは、伐採した木を山から降ろすことなのです。枝を細かく切って束ねます。そして、束ねた枝などを背負い、山道を伝うように歩いて降ろすのです。短い山道ですが意外と難渋します。
伐採した木の枝を切って降ろす、これが大変 延焼しないように回りに水をまく
夏に伐採しておいた木は、乾いているため運ぶのは楽です。しかし、一つだけやっかいなことがあります。それは、夏の間に蔓が枝にしっかりと絡みついていることです。蔓を外しながらを枝を切ることは大変なのです。それでも、焦らずに山から降ろして燃やしています。
寒い今の時期だからこそ、燃やしていると体が温まります。今どき、自宅で火を燃やすことができるのは贅沢なのかも知れません。まだまだ燃やす木や枝などがたくさんあります。大晦日まであと1~2回ほど燃やして、伐採した木を少しでも減らそうと思います。
切った枝を燃やしながら、体を温める
だいぶ裏山の下刈りが進んでいます。ですが、チップソーの使い過ぎでしょうか、笹や枝が刈れなくなってきました。チップが摩耗しているのに違いありません。このさい、チップソーを研ぐことにしました。鎌などを研ぐ時に使っている紙状ヤスリ刃のものをチップ研磨専用刃に交換しました。チップ研磨専用刃にはダイヤモンド粉が塗布してあるそうです。
鎌などを研ぐ紙状やすり刃 チップ専用のものに交換 研磨するチップソーを固定
グラインダーの刃を交換すると、さっそくチップを研磨しました。研磨するチップソーを専用の器具に取り付けました。回転はするが、グラグラしないように固定しました。チップソーには40個位のチップが埋め込まれています。そのチップの二面を研磨します。一つは回転方向に平行な角度、もう一ヶ所はチップから回転軸方向の角度です。
チップソーを専用器具に装着後、研磨開始
チップは超合金が使われているらしく、普通の回転砥石ではあまり研磨できません。ダイヤモンド粉が塗布されているからこそ、より良く研磨できるようです。普通の砥石で鉄を磨くとよく火花がでます。ですが、チップを磨いてもあまり火花が出ないのは何故でしょうか。金属の成分に違いがあるからでしょう。こうして数枚のチップソーを研磨しました。ただ、研磨したとはいえ、新品のようにはもちません。
研磨前のチップソー 研磨後のチップ面が光る
先日、12月1日に1月の史跡探訪ウォーキングの下見で龍泉寺を訪問しました。その時のことです。ご住職と奥様と雑談していた時、楼門の向きについて話をしました。楼門がどこを向いているかお聞きしたのですが、分からないとのことでした。私が見るところ、東の方向で木々の間から平生の街並みがかすかに見えるのです。
実は、龍泉寺を訪問する約2ヶ月前の10月5日に般若寺のご住職のFさんをMさんと訪問しました。その時、仁王門の不思議なお話を伺いました。それは、仁王門の東側は大畠瀬戸を向いているとのこと。そして、西側は木が茂っていたが木を伐採すると、夕日が差し込むとのことです。そして、夕日が差し込むその方向を見るとも、田布施と光の境界である千坊山があるのです。龍泉寺がある方向です。
般若寺の仁王門と龍泉寺の楼門を結ぶ直線 ※古代:平生~田布施~柳井は海
龍泉寺は江戸初期の1615年に建立され、今年は建立400年記念が執り行われました。龍泉寺がある千坊山(千峯山,仙峯山とも。※般若寺は神峰山)一帯にはその昔、「千坊」の名のとおり多くの寺や僧坊があったとの言い伝えがあります。実際に発掘すると、当時と思われる列石や瓦が多く出土します(田布施地方史研究会誌第23号 千坊山探訪記参照)。その寺や僧坊群があった千坊山から西を望むと九州が一望できます。千坊山にあった寺や僧坊の名残を引き継ぐ庵か敷地跡か平地に、龍泉寺が創建されたのではないでしょうか。
般若寺の仁王門 仁王門からみた大畠瀬戸
ところで、般若寺パンフレットに、仁王門が向く方向の直線が書かれています。この直線の西側の方向に龍泉寺があるのです。龍泉寺がある千坊山にかつてあったお寺群は、もしかして般若寺とセットだったのかもしれません。般若寺が大畠瀬戸を見守るように、千坊山のお寺群は今の田布施~柳井を結ぶ唐戸瀬戸(田布施地方史研究会誌第25号 八幡山遺跡参照)を見守っていたのかも知れません。さらに、熊毛王国または古周防国の繁栄や鎮護の役割を担っていたかも知れません。
龍泉寺の楼門 千坊山からみた般若寺方面
ところで、田布施町周辺の遺跡は九州との結びつきが大きいようです。石器は大分県姫島の黒曜石が多く使われています。姫島産黒曜石が田布施町郷土館に展示されています。土器についても、関西方面よりも九州や四国に関わるものが多いのです。
また、田布施と平生には吹越遺跡を代表とする高地性集落跡が多くあります。古代に戦乱があったのではないでしょうか。魏志倭人伝に記されている倭国大乱(2世紀後半)、はたまた記紀に記されている東遷に関わるような戦乱が古代にあったようです。戦乱と関わりがあるかどうか分かりませんが、山口県で一番古いとされている国森古墳(田布施町、4世紀)から中国製(漢の時代)銅鏡に加え多くの鉄製の武器が発掘されています(郷土館常設展示)。
般若寺のバンフレットより抜粋
面白いことに、般若寺と龍泉寺を結ぶ線を伸ばすと、偶然かもしれませんが、東に奈良、西に北九州を指します。古代史の最大の謎は、邪馬台国が奈良にあったのか北九州にあったのかです。この直線は、熊毛王国または古周防国が古代において邪馬台国と何らかの関わりをあったことを示唆しているようにも思います。
6~7世紀頃になっても、田布施周辺にはそれなりの勢力があったようです。その証拠に、石城山の古代朝鮮式山城遺跡(7世紀)があります。また、田布施の後井古墳(山口県で最大の石室、郷土館に1/2縮尺石室模型を常設),柳井の茶臼山古墳(発掘された銅鏡は日本で2番目に直径が大きく重量日本一)、平生の白鳥古墳(山口県で最大の墳丘長120m)があります。
姫島産黒曜石 国森古墳の鉄製武器 後井古墳の石室内
(田布施町郷土館) (田布施町郷土館) (田布施町城南)
日本の歴史上、古墳時代以後は寺院がさかんに作られるようになります。熊毛王国または古周防国もまた、古墳や山城を作ることから寺院を作ることに切り替っていったはずです。古代において山上にあった占祭祀施設,狼煙施設,または古墳のようなものが、千坊山のお寺群や般若寺(用明元年586建立と言い伝え)に建て変わっていったのはないでしょうか。千坊山の寺院遺跡を丹念に調査すれば、その創建時期や衰退時期(10世紀の戦乱による大火災による焼失との言い伝え)が分かるはずです。
ところが、唐戸瀬戸が埋まり始めたと思われる10世紀頃から、熊毛王国又は古周防国は次第に勢力が衰えたようです。勢力の中心が、防府など周防灘方面に移っていきます。海が埋まると共に、熊毛王国又は古周防国は歴史から消えてしまったのです。千坊山のお寺群を再建する余力はすでに無かったと思います。
古代において、田布施平生柳井がどんな小国家だったのか、そして日本の歴史にどんな役割をしたのか興味は尽きません。
般若寺と龍泉寺を結ぶ線を伸ばすと、偶然でしょうが奈良と北九州を指す
この古い松下製トランジスタラジオ AT-110の修理履歴です。それぞれをクリックしてください。
修理(1/6) 修理(2/6) 修理(3/6) 修理(4/6)
修理(5/6) 修理(6/6)
数日前雨で農作業ができなかったため、久しぶりに古いラジオの修理をすることにしました。今回直すラジオは、松下製トランジスタラジオAT-110で、今から60年位前(昭和33年頃)に製造されたとても古いものです。少し傷んでいます。ラジオの修理は、一種知的なゲームです。このお正月をかけて、のんびりと直してみようかと思います。
故障した松下製トランジスタラジオ 中波ラジオ モデル名:AT-110
さて、このラジオは電池を入れてもさっぱり音が出ないのです。雑音さえ出ません。電源スイッチのON/OFFを繰り替えしてもクリック音さえも出ません。何らかの原因で電源が入らないのでしょう。また、このラジオは落下損傷したようです。外観がずいぶんと傷んでいます。特に側面にひどいヒビが入っていました。音が出ない原因を探す前に、損傷を直すことから始めました。
バーアンテナのフェライトコアが破損してスピーカーの磁石に付いている
損傷の範囲を見極めるため、ラジオの筐体を開いてみました。すると、筐体側面以外にもバーアンテナのフェライトコアも損傷していました。バーアンテナの破片がスピーカーに付いていました。また、電池ボックスも錆びて緑青が出ていました。これら、損傷を最初に直すことから始めました。
破損したバーアンテナ 緑青が出た電池ボックス 破損した筐体側面
損傷したバーアンテナは欠けた破片を接着剤で固定しました。以前直した日立製トランジスタラジオWH-901を修理した時にもバーアンテナが破損していました。その時は、フェライト棒がポキンと折れていました。その時も接着剤で直しました。このような古いラジオのバーアンテナは当然のことながら販売中止となっています。不完全ながらでも接着剤で繋げるしかないのです。
接着剤をバーアンテナに付ける フェライト片をバーアンテナに取り付け
パーアンテナを直すと、筐体側面の破損を直しました。やはり、接着剤を使って接続しました。今回取り付けることができなかった細かな破片は、今回の接着が固まってから取り付けます。真空管ラジオは大きいため落下による損傷は少ないのですが、トランジスタラジオは手に取って運びやすいだけに落下損傷が少なくありません。ハード的な修理が終われば、次に電子回路の修理に入ります。このお正月、コタツにでも足を入れてのんびりとこのラジオを修理しようかな、と思っています。
損傷部分に接着剤を塗布 外れた部分を取り付けて固定
れ
8年位前、それまで3台続けて乗り継いでいた250ccFreewayを150ccバイクのSUZUKI Vecstar150に買い替えしました。Freewayの製造中止のためです。Freewayはよく乗りました。関越自動車道を走った時、とても寒かったことを覚えています。この時、バイクで走っていたのは私だけでした。また東北を一人でツーリングしたこともあります。この時、東北自動車道でFreewayが故障してしまい大事故寸前でした。
Freewayから乗り換えたSUZUKI Vecstar150の前後タイヤが、今回ツルツルに減ってきました。このままでは、スリップするなどとても危険です。そのため、この際タイヤ交換と全面的な点検・修理をしました。タイヤ交換は、前輪2度目後輪3度目です。なお、ブレーキパッド摩耗時は自分で交換しています。
久しぶりの岩徳線 周防花岡駅で下車 修理を依頼したレッドバロン
東京に住んでいた頃は、近所にあったレッドバロンに保守・点検などを頼んでいました。田布施町にはSUZUKIのお店がないため、周南市にあるレッドバロンに頼むことにしました。そのため、田布施町からバイクに載って届け、修理が終わったら載って帰りました。
バイクを取りに伺う時、久しぶりに岩徳線に乗りました。なんと、ワンマンカーならぬ、ワンマン電車でした。危うく切符を出さないで駅のホームに降りるところでした。こんなひなびた電車があるんですねえ。うれしくなりました。
タイヤ交換、エンジンオイル交換、ベルト交換などの修理が完了したバイク
い
修理した個所は、前後タイヤ交換,エンジンオイル交換,オイルフィルター交換,ブレーキオイル交換,ベルト交換,ブレーキ調整などです。49,000km走っているため、妥当な修理のようです。これからも、このバイクには頑張ってもらわなけれでなりません。ちょっとした出費ですが、妥当な支出だと思います。普通自動車と同じ速度で走るならば,二人乗りするならば,そして高速道路を走るならば、SUZUKI Vecstar150が最小クラスのバイクです。
〇:49,000km 交換した前輪 交換した後輪
: 年末のキャンドルナイトカフェに行ってきました。昼間の大雨のためか去年のキャンドルナイトカフェよりも参加者がやや少ないように思いました。ですが、いつもの友達や知人と楽しく過ごしました。テント内は暖かく、フラダンスなどを鑑賞しました。
テント内でフラダンスを鑑賞しながら楽しく談笑
この日の昼間ずっと雨だったのですが、私は郷土館にいました。調査中の史跡について文書化したり、資料を読んだりしていました。平日の郷土館はお客さんの接待や説明などでなかなか自分の時間がとれません。今回は静かに自分の仕事?をすることができました。史跡を巡ったり調査することは比較的容易なのですが、それを文書化して検証し、記録として残すことはとても面倒です。遅々として進まないので気がせきます。
和ロウソクの実演 美味しそうなビザ タルトなども美味しそう
ところで、テント内では和ロウソクの実演がありました。この実演は、夏のはぜの実ロウソク祭りでもありました。溶けたロウに手を入れて、ロウソクの形状になるように丁寧に手で塗りつけるのです。溶けたロウは熱くないのでしょうか。感心します。その他、ピザ、タルト、コーヒー、そして豚汁なども販売していました。私は、体を温めるため最初に豚汁を食べました。
最後に珈琲をいただく Mさんと、片付けありがとうね愛息さん
豚汁の次に、ビザをいただきました。いつものピンク豚ビザ焼き器でビザが焼かれます。そのビザをいただきながらいつもの仲間と談笑しました。キャンドルナイトカフェが終わったのは19:30頃でしたでしょうか。誰かれとなく椅子が片づけられ始めたので少し手伝いました。そして、暗い中をバイクで我家に戻りました。帰ると、我家の玄関近くのリンの家からリンちゃんがのそりと出てきました。そして、ニャーニャー(お帰りなさい!)と鳴きながらすり寄ってきました。
キャンドルナイトカフェが終わり、片付けが進行中の大テント
一昨日、収穫して軽く干した白菜を仮漬けすることにしました。ところが、去年まで使っていた漬物樽の縁にヒビが入っていました。樽を洗っていて気が付きました。毎年漬物石として重い石臼を乗せていたので無理がたたったのでしょうか。それとも、経年劣化なのでしょうか。大きなヒビではないのですが、重石を載せた後に漬物樽が壊れたら大変です。このさい、新しい漬物樽20型を白菜漬け用とたくあん用に2個購入することにしました。698円/樽1個でした。
縁にヒビが入った漬物樽 新しく購入した漬物樽 ビニール袋を樽に挿入
新しい樽にビニール袋を入れると、白菜を計量しました。塩分は標準では4%ですが、私は毎年薄めの3%にしています。そのため、白菜の重量の3%の食塩を白菜漬けに使用しています。計りで白菜を計量すると、白菜2個分の重量は5.68kgでした。すると、必要な食塩は170gとなります。薄めの3%のため、春までに食べきらなければなりません。春以降は保存できません。
白菜2個分重量5.68kgに対する食塩の必要量
計りで白菜2個の重さを計量 白菜漬けに必要な食塩170gを計量
必要な食塩170gを計量すると漬物樽に白菜を詰め込んでいきました。最後の塩振り用に、食塩を一掴み残しておきます。そして、白菜片に食塩をまぶしながら樽の底に押し付けるようにして、2個分の白菜を詰め込みました。白菜をすべて詰め込むと、別に取っていた塩振り用食塩を全体的にまぶしました。
塩をまぶしながら、白菜を樽の底に詰め込む
この樽には白菜が4個入るようですが、2個で樽から少しはみ出る程度に収まりました。重石を載せると、樽の半分程度に縮むと思います。大晦日か正月過ぎた頃に、本漬けをしようと思います。具材として、昆布、唐辛子を入れることは決めているのですが、さらにいりこか鰹節など何を入れようか思案しています。あんちょこに白菜漬けの素を入れても良いかも知れませんが。
樽から少しはみ出る程度に詰める 重石を載せて2時間程度で少し縮む
あと10日ほどで年が変わります。去年と同様に、職場である田布施町郷土館の年末大掃除をしました。最初、各展示室の点灯しない蛍光灯の蛍光管を取り替えました。天井や展示ケース内の故障蛍光管は、脚立を使って二人一組で交換しました。それが終わると、展示物が納められている展示ケースのガラスなどを綺麗に磨きました。展示ケースは来館者が触ることがあるため、指紋などの汚れが付いています。その汚れやくすみなどを綺麗にしました。空拭き雑巾にどんどん汚れが付きました。
交換用の蛍光管 展示ケース内に入る私 展示物の位置を整頓
壊れて点灯しない蛍光管を交換する時に困ったことがありました。今では使われていないソケットのため、蛍光管を外すのに力がいることです。今の蛍光管はひねるだけで外れます。しかし、郷土館の蛍光管は強く押して外す方式のため力がいるのです。また。掲示板をぶら下げているのは専用の押しピンにも困りました。代えが無い特殊なピンのため、落ちたピンを探して取り付けました。
押しながら交換する蛍光管 碧松関連句集を整頓 展示室ケースのガラス拭き
掃除が終わったのは昼頃でした。その後、私はMさんから頼まれていた宿題をしました。その宿題は、海岸線や川筋が気候変動や干拓などによってどう変動し移動したかの資料です。その資料、郷土館にやって来たMさんに渡しました。この資料を元ネタにして、子供達に理解できる文章にしていただけると思います。
明日からしばらく、我家や裏山の掃除,漬物,年賀状書きなどで忙しくなりそうです。伐採などで出た小枝などはたき火で燃やそうと思います。
蛍光管を代え展示物を整えた、江良碧松の展示ケースを確認中
今年も白菜漬けとたくあんを作ることにしました。最初白菜を収穫しました。9月初めに種まきをし、11月始めには食べられるほどに成長しました。農薬を使っていないので、いくつかの白菜は穴だらけになっていました。穴だらけになっていない白菜2個選んで漬けることにしました。収穫した白菜は包丁で切れ目を入れた後、手で二つに引き裂きました。そして、2日程度干すことにしました。2日後頃に仮漬けをします。仮漬けだけでも美味しいのですが、1~2週間後本漬けをします。
白菜を収穫 包丁で切れ目を入れる 手で二つに引きり裂く
白菜漬け、年々作る量が減ってきました。一昨年は食べる量以上の白菜漬けを作ってしまったため、春先にだいぶ捨ててしまいました。漬物は、家によって、個人の好みによって、美味しさが違います。自分で食べる分には、仮に美味しくなくても食べることができます。しかし、差し上げるには勇気がいります。そのため、我家でだけ食べきる量に落ち着いてきました。
白菜2個を二つに引き裂き、根元に切れ目を入れた白菜
続いて、たくあん漬けのための大根を収穫しました。大根も白菜との同じ9月初めに種まきをしました。今年は細めの大根なので、片手で引き抜けました。抜いた後、葉を切り落としました。そして、水を出しながら泥を落としました。すると、ほれぼれするような真っ白い大根が現れました。煮付けにしても美味しそうです。
大根を畑から引き抜く 葉をカットして取る 水で洗うと、まあ白いこと
洗った大根は。縄に挟んで吊るしました。乾いて曲がりやすくなるまで、2週間程度天日干しします。去年は巨大な大根だったため、干してもなかなか細くなりませんでした。今年は細めに育つ品種(新八洲)にして良かったです。
たくあん漬けは、白菜漬けと同様に一昨年作り過ぎて食べきれませんでした。そのため、春先にだいぶ捨ててしまいました。今年は、食べきることがでるように大根4本分のたくあんを作ることにしました。この位の量が我家には良いようです。
洗った大根を縄に挟む 2週間位、大根を吊るして天日干し
年末の倉庫掃除をしていると、懐かしいクリスマスツリーセットの丸筒を見つけました。その筒には購入日付が書いてありました。1994年12月24日です。確かクリスマス当日に聖蹟桜ヶ丘のデパートに買いに行きました。デパート内はとても混んでいたことを覚えています。娘(小学5か6年生頃)と一緒に買いに行ったはずなのですが、娘に問い合わせると覚えていないとのこと。娘は別のプレゼントか何かに夢中だったので覚えていないのでしょう。このクリスマスツリーはその後、あまり飾られることはなく不遇でした。
ツリーセットが入った丸筒 丸筒からツリーを取り出す H氏と一緒に組み立て
このクリスマスツリー、丸筒に納められてから何年経ったでしょう。せっかくなので、郷土館に飾っててみることにしました。たまたま、紙芝居原稿の添削会議に来ていたH氏と一緒に組み立てました。豆電球はもう光らないだろうと思っていました。電源を入れてしばらくすると、光った上に点滅し始めました。このクリスマスツリーを飾った星や人形などは無くなっていましたが、とにかく光ったので嬉しくなりました。断捨離しなくて良かったと思います。明日100円ショップにでも行って、飾りに使えるものを買おうと思います。
クリスマスの雰囲気が出ているかな?クリスマスツリー
16日麻郷浜城のお地蔵様の法要が執り行われました。私は用事があったため出席できませんでした。そのため、数人の仲間に参加していただきました。Eさんには写真撮影や映像を撮っていただきました。ありがとうございました。法要を執り行ったのは平生町の直指院のご住職様です。私が幼児の頃、直指院には尼さんがいました。その尼さんに、利口になるようにとよく頭をさすってもらっていました。
見守られながら法要開始 法要をするための仏具 磨かれた立派なお地蔵様
ただ、このお地蔵様の法要、地元の方の参加がとても少なかったそうです。私がこの法要のことを知らせて参加した方が3名、地元の方が3名、それにご住職様です。近くにある八海地区のお地蔵様の法要には20人位来ていたでしょうか。最近、お地蔵様が撤去されることが少なくありません。少子高齢化の時代、お地蔵様のお世話をする方がめっきり減りました。放置されたお地蔵様もあります。この時勢、お地蔵様も減らざるをえないのでしょう。さびしいことではありますが。
お地蔵様の法要を執り行っておられる直指院のご住職様
この前、横浜で私がかつて勤めていた職場から同窓会パーティー開催の招待がありました。その職場は、13年位前まで所属していた日立のコンピューター開発のある部署です。その部署はコンピューターの操作説明書を専門に書く部隊でした。その部署が立ち上がる時から私は所属していたことになります。
その部隊に配属される直前、私は通産省が関わるICOT(第五世代コンピューター開発機構)に派遣されていました。その派遣から戻って、一時的にDC部(データコミュニケーション部)にいました。これから何の仕事をしようかなと思っていた時、このマニュアル開発専門部隊の立ち上げに巡り合いました。
横浜関内のGRACE BALI 席についた招待者の方々 美味しい料理も楽しむ
当時、説明書を書くのはコンピューターの設計者でした。そのため、分かりやすい説明書を書く余裕や工夫は望むべきもありませんでした。そこで、マニュアル開発専門部隊はユーザーの立場に立って説明書を書くわけですが、そのためにはコンピューターの仕様書をある程度は理解できる知識も必要でした。当初、ワープロさえない時代でしたので、紙に原稿を書いて写真などのレイアウトも手書きでした。
私はワープロが出始めてからブラインドタッチを覚えました。今でも、その時覚えたひらがな入力をしています。私は予算獲得の仕事も兼ねていましたので、年度初め前にコンピューター設計部署を訪ねては予算獲得交渉などをしました。今では懐かしい仕事の思い出です。そのころ、私は同僚達を誘っては、自分の子供達を連れてよくハイキングに行ったものでした。富士山,尾瀬,三浦半島などです。
マニュアル開発部30周年同窓会開催の挨拶
今回のパーティーで嬉しかったことの一つが、一緒に働いていた女性達がそれぞれ立派な母親になっていたことでした。高校生,大学生,または社会人に立派に育てあげているようでした。
当時、私は仕事がそれほどできる方ではなかったこともあり、又上司から残業が少ないなど揶揄されることもあるなど辛い時もありました。会社を早期退職制度で辞めた後、私は180度違う病院の仕事に就くことにしました。早期退職を予感して夜間学校に通っていたことが、この時役に立ちました。今となってはその病院の同僚との交流も思い出です。
定年を過ぎた今、昔を思い出すことがよくあります。入社した時はテレビジョン関連の開発や販売、続いてソフトウェア開発,ICOT(第五世代コンピューター開発機構),マニュアル開発,そして病院勤務の時代、それぞれが我が身になったと思います。仕事と並行して神奈川山岳連盟やボーイスカウトなどに所属し、地域の子供達や青年に自然の大切さを教えたり,田んぼで米作り体験をする活動をしたりしました。
テーブルごとに演台へ 招待者の思い出話など 同窓者の話を拝聴
定年後の今、縁あって郷土館でふるさとの民俗を研究調査したり史跡の紹介や案内する仕事、あるいは地域の子供達の工作指導などをしています。また、ウォーキングの団体を立ち上げ、会長として毎月史跡を巡る健康ウォーキングを主催してます。
今も昔も、それぞれ良い仲間達に出会っているように思います。ありがたい事です。
マニュアル開発部30周年同窓会に集まった、懐かしい方々
今年は暖かい日が続いていますが、すぐに厳冬期がやって来ます。寒さでサトウキビが枯れてしまわないうちに、今年もサトウキビの冬越し作業をしました。作業と言っても、茎を切って暖かい場所に保存するだけなのですが。まずは、収穫しなかった残りのサトウキビの茎を伐採することから始めました。時々茎をかじっては甘い汁を楽しみながらの伐採です。
冬越しのため伐採したサトウキビ
次に、伐採したサトウキビの茎を一ヶ所に集めました。そして、押し切りで根本に近い茎をばしばし切断しました。なお、節が3本残るように切りました。節を2本以上残すことが重要なポイントです。節と節の間が生きて冬越しするのです。そして、来年の春に節から芽や根が出るのです。
伐採したサトウキビ 押し切りで茎を切断 節を2本以上付けて切断
沖縄のような暖かい場所では冬越し作業は必要ないようです。しかし、少なくとも山口県では冬の間サツマイモを保存するような冬越し作業が絶対欠かせません。サツマイモは温度と湿度が一定な芋穴に保存しますが、私はサトウキビを芋穴ではなく室内の暖かい場所に保管します。もちろん、保温と保湿が欠かせません。そして、私だけと思いますが、切り口に消毒剤を塗っています。数年前の冬越し時に切れ口から腐り始めたためです。その予防のためなのです。消毒剤を塗った切断面を乾燥させた後、特製保存箱に入れて冬越しするのです。
切り口に消毒剤を塗布 消毒剤塗布後、切り口を乾燥