ようやく涼しい季節になりました。夏に生い茂った畑などの草刈りをし始めました。近年の夏は猛暑が続くため、無理すると熱中症になる恐れがあります。また、蚊が刺すためどうしても長袖を着なければならず、熱が体にこもります。そのため、どうしても夏は草刈りがおっくうになるのです。
最近、秋の今頃に夏に生い茂った草を刈りとります。そして、畑を本来の姿に戻しています。今回は、サツマイモ畑の草刈りをして芋掘りできるようにしました。3年前にイノシシにサツマイモ畑を荒らされて以来、電柵で囲んでイノシシから防いでいます。その電柵を仕舞った上で草刈りし、サツマイモの葉を片付けました。
黒マルチを剥がしているサツマイモ畑
サツマイモ畑で芋掘りできるようにするため、次の四つの順に作業しました。①電柵周りの草刈り。②電柵の引き抜き。③サツマイモの葉を撤去。④黒マルチ剥がし。です。意外に面倒だったのは電柵の引き抜きです。電柵の電線に草や蔓などが絡みついていたことです。そのため、電線を最初に解こうとしましたが草が絡みついてできません。そのため、電線が付いたまま電柵を引き抜きました。電線を解くのは後日としました。続いて、サツマイモの葉の撤去ですが、最初に草刈機で葉を刈りました。その後、根元を鎌で切って長い蔓や葉を別の場所に引きずりました。
生い茂ったサツマイモの葉と蔓 草刈機でサツマイモの葉を刈る
最後に黒マルチを剥がしました。これまた草の根などが黒マルチを絡みついていました。クワで黒マルチの裾を剥がすようにして撤去しました。ゴミとなった黒マルチは、後日ゴミ袋に入れて捨てようと思います。このサツマイモ畑に後日、子供達がやって来て芋掘りする予定です。
ようやく黒マルチを剥がすだけとなったサツマイモ畑
先日、発明クラブで巣箱作りの2回目がありました。1回目で巣箱を完成できなかった子は今回で完成させました。
工作する子供達を見ているといろいろな個性があることに気が付きます。とにかく皆よりも早く作りたい子、遅くても丁寧に作りたい子、木の切り方がとても綺麗な子、手伝われることを嫌がり自分だけで作りたい子、釘の打ち方が上手な子、間違えてもすぐに修正できる子、遅れている子を手伝う子、友達どうしで見せ合いながら作る子・・・・金子みすゞの詩「みんな違って、みんないい。」を実感します。子供達が将来どんな大人になるか楽しみです。
完成した巣箱を手に持ってお披露目
前回来れなかった子が二人いました。その2人は低学年生と高学年生でした。この二人を見ていて面白いことに気が付きました。高学年生は簡単なデザインの巣箱を選び、低学年生は作ることが難しいデザインの巣箱を選びました。二人にその理由を聞いてみました。すると、高学年生は簡単なデザインを選ばないと今回だけでは完成しないからとのこと。低学年生は、このデザインかっこいいからとのこと。
高学年生は自分で作ることができる時間を計算できていたようです。一方で低学年生はその計算ができなかったようで、指導員が手伝わざるを得ませんでした。たかだか数年の違いですが、子供は日々成長しているのですね。
線引きから始める子 屋根を打ち付ける子 指導員に教わる子
今月製作した巣箱ですが、子供達にその掛け方を教えておきました。数年前のことです。巣箱をどのように掛けたか聞いたことがあります。すると、巣作りを見たい思いで、玄関,門,軒下など目にふれる場所に置く子が少なくありませんでした。そのような場所では親鳥が警戒して巣にしません。静かな林の中で、手が届かないような高さの樹の幹が良いです。しかし、巣箱を掛けたことがない親が多いので難しいようです。ざっとみて、10人に1人ぐらいから、巣作りしたとの報告が後から入ります。今回は何羽巣作りするでしょうか。
指導員に教わり巣箱に釘を打つ こちらも指導員に教わり巣箱作り
10月初めに最後の秋冬野菜の種まきをしました。その後、発芽して株元が密になりました。そのため、それぞれの野菜を間引きしました。間引きしないと、野菜どうしが窮屈になって互いに成長しません。2本/1株になるように間引きしました。一番育っていたのは葉大根で、間引きした葉を野菜炒めなどにして食べようと思います。間引いた野菜は、来月中旬には逐次収穫できると思います。
10月上旬に種まきした野菜を間引き
間引いた野菜は、チンゲンサイ,ホウレンソウ,小松菜,水菜,葉大根,かつお菜の6種類です。どれもよく育っていました。二人しかいない我家には十分な量の野菜ではないかと思います。10月下旬の今、冬の寒さで路地ではもう種まきはできません。小松菜がかろうじて種まきできますが、以降はビニールハウスやマルチをしないと育ちにくいです。
間引きする前のチンゲンサイ 2本に間引いた後のチンゲンサイ
9月中旬に種まきしたチンゲンサイと小松菜は収穫期に入りました。今朝の食事は、収穫したてのチンゲンサイを使った肉野菜炒めと食パンでした。畑が我家前にあるため、朝起きてすぐに食べたい野菜を選ぶことができます。採れたての野菜は独特の香りがします。その香りが抜けないうちに調理して食べました。今のところ、野菜だけは自給自足できる我家です。
間引きが終わった6種類の野菜
去年の春、田布施町川西地区の真殿から呉麓山を経由して西山に至る史跡巡りウォーキングを計画しました。ところが、本番ウォーキングが天候不順で中止になりました。さらに延期後のウォーキングも雨天となり、やむなく中止としました。
再チャレンジとして今回、去年と同じコースの逆方向を下見ウォーキングしました。去年の下見で、とても荒れているコースであることが分かっていました。そのため、1年半後の今回はさらに荒れていると予想しました。その結果、予想どおりさらに荒れたコースになっていました。樹,枝,そしてイバラを切り開くために山鎌を振り回し、ノコギリを何度も使いました。
呉麓山を通る中村林道で、思わぬ栗拾い
集合したのは西田布施の国木小学校跡です。この小学校は元宰相岸信介や佐藤栄作が通った学校で、当時国木尋常小学校でした。その小学校跡地に車を置いて、最初真殿方面に向かって歩きました。途中観音堂があったので山道の無事を祈願しました。去年はそのまま真殿に向かいましたが、今回は道を変えて川西の西山に向かいました。
国木小学校跡地 県道傍の観音堂 守田農場に到着
真殿から西山に向かう道を歩きました。30分位歩いていると前西山の隠寮が見えてきました。そして、その手前で道を左に変えて後西山に向かいました。さらに妙見神社に向かう道をどんどん歩いていると、予定より早くお昼休憩をする守田農場に到着しました。偶然ですが、到着したとほぼ同時刻にM君が守田農場に到着しました。
中村林道に鎮座する妙見神社 妙見神社後ろに安置された祠
守田農場で昼食休憩をとりながら1時間半位談笑したでしょうか。続いて、重い腰をあげて中村林道に入りました。この林道は妙見神社まで舗装道路が続いていますので楽々に歩くことができました。しばらく歩いて妙見神社に着きました。なかなか立派な神社です。お社前に大きな鬼瓦が置いてありました。昔はさらに立派な神社だったに違いありません。本殿うしろに祠が安置されていました。少し休憩して中村林道を歩きました。
西山~呉麓山~真殿周辺の史跡巡りウォーキングの下見コース
私としては珍しくご高齢の方々を引率しました。田布施スポーツセンター(TAIKOスポーツセンター田布施)から3km程度の史跡巡りウォーキングです。今回に備えて歩くコースの選定のため二度も下見しました。引率したのは老人クラブの方々ですが、古希を迎える私も立派なお仲間でしょうね。一緒に歩いた方々の中に知っている方がおられました。そのため、個人的にも楽しいウォーキングでした。そして、秋の日差しと涼風を浴びながらのんびり歩きました。
田布施川の土手をのんびり歩きながら浮島神社に向かう
今回の催しは第1回レクスポ大会(めざせ健康長寿)です。三つの部門に分かれて軽いスポーツをします。一つ目は私が引率した歴史探訪ウォーク約3km、二つ目はレクリエーション&ちょうどええ体操、そして三つ目は健康ウォーク約4.5kmです。私が担当した歴史探訪ウォークでは17人の方が歩きました。そして、近隣の史跡を巡りながら解説しました。
会場のスポーツセンター 三部門の受付 会長、町長さんの挨拶
歴史探訪ウォークで歩いたのは主に新川地区です。訪れた史跡は、①山崎原遺跡、②恵比寿神社③新川と古川、④新川寮、そして⑤浮島神社です。それぞれ5分程度の解説をしました。そして、1時間位歩いてスタートしたスポーツセンターに戻りました。
ご高齢の方が多いので、なるべくなごやかに笑いが絶えないような面白いお話を選んで解説しました。例えば、浮島神社での、今ではセクハラとなるお尻をつねる奇習を面白くおかしくお話しました。「この神社の前でお尻をつねってもらえば、良い伴侶が見つかり結婚間違いなし」・・などなど。
訪れた庄山の恵比寿神社 ひねきりの奇習があった浮島神社
銭壺山頂上を降りると、瀬戸内海を望むことができる東屋に向かいました。少しばかり眺望を楽しむと、東屋に腰かけて昼食休憩に入りました。下見時には車が数台駐車していましたが、今回は日曜日にも関わらず一台もいませんでした。30分位休憩したでしょうか、再度眺望を楽しむと下山することにしました。その前に、日積に降りるコースの入口を確認しました。下見時には草木が生い茂っていましたが、今回は草刈機で綺麗に刈り払ってありました。今でも日積と行き来する方がいるからでしょう。この冬に日積~銭壺山を歩いてみようと思っています。
銭壺山から下山中に鑑賞したコスモス畑
銭壺山からの下山は楽でした。障害物が何もない舗装道路を足の進むままに降りました。途中、綺麗に咲いたコスモスが乱れ咲いている場所がありました。しばし足を止めて鑑賞しました。このコスモス畑を知っている方がいるようで、車を止めて鑑賞していました。どんどん道を降りていると、JR神代駅に降りるコースに入りました。
日積へ降りるコース JR神代駅への道 神東小前の天神社
JR神代駅に向かう道をどんどん降りていると、しばらくして神東小学校が見えてきました。そして、そのすぐ手前の天神社も見えてきました。大きな岩が御神体のようです。神東小学校に着くと、その脇にお地蔵様が安置してありました。この小学校に通う子供達を昔から見守ってきたのでしょう。
神東小学校脇のお地蔵様 比較的小ぶりな神東小学校
下っている途中、JR神代駅で乗る電車の時刻が危ういことが分かりました。乗り遅れると1時間以上次の電車を待たなければなりません。急いで道を下ることにしました。そのため、周りの景色や民家をのんびり見る時間がありませんでした。時間はたっぷりあったので、乗る電車を1時間遅らせてでものんびり下った方が良かったかも知れません。電車やバスを利用した史跡巡りウォーキングは、今回のように急ぎ足になってしまうことが少なくありません。参加された方々、お疲れさまでした。
銭壺山に至る史跡巡りウォーキングのコース
毎年小豆を栽培しているのですが、無農薬のためか去年はカメムシの大発生で全滅しました。今年もカメムシが発生していたため小豆を諦めていました。そこで、小豆を刈ろうと草刈機を持って小豆畑にやってきました。すると、わずかに小豆が実っているではありませんか。貴重な小豆、小学校の放課後学習 成器塾で子供達とお汁粉を作ろうと思います。
今回、一昨年と同じように田布施コットンクラブの方々にお願いして、少ないながらも小豆の鞘を収穫していただくことになりました。ありがとうございました。豆ではなく鞘を収穫した理由は、子供達に小豆のことを知ってもらいたいからです。そのために、成器塾で子供達に鞘から小豆を取り出してもらおうと思っています。そして、去年できなかったお汁粉か又は水羊羹を作ってもらおうと考えています。
小豆の鞘を収穫しているコットンクラブの方々
小豆畑で小豆の鞘を探しました。すると、鞘がついている小豆と、そうでない小豆がありました。カメムシなどの害虫が発生した小豆は鞘が実っていません。それどころか小豆自体が茶色く枯れかかっていました。小豆畑の隅っこはかろうじて鞘が付いていました。カメムシが発生するしないは何が原因なのでしょう。風の向き、小豆自体の害虫に対する強さ、土壌の違い、カメムシが嫌がる虫の存在など、自然のからくりは不思議です。
私が八王子市に住んでいた頃、無農薬にもかかわらず小豆がよくできていました。田布施より気候が寒いからでしょうか。その頃は昔の道具を使用して小豆を収穫していました。
鞘の中に納まる小豆 どんぐりを拾う どんぐり帽子
小豆の鞘を収穫していると、どんぐりが落ちているのを見つけた方がいました。そして、たくさんのどんぐり帽子も。どんぐり帽子はどんぐりのへたの部分です。どんぐりやどんぐり帽子はドライフラワーの材料になるそうです。
さて、収穫した小豆の鞘をこれから天日干しします。カラカラに乾燥すると、鞘が二つに割れやすくなります。次回の放課後学習は、最後の刺し子コースター作りです。作り終えた子供に、この鞘を割って小豆を取り出してもらおうかと思っています。
天日乾燥中の小豆の鞘、虫に食われて鞘の色がいまいち
水路・水車遺跡を過ぎると、銭壺山方面に向かう坂道を登りました。舗装されているため歩きやすい坂道です。低山に登っている時、棚田の跡を見かけることが少なくありません。私の家の南側にある高塔山麓の森の中にも棚田の跡があります。私が子供の頃にはすでに廃田になっていました。山裾を北側に向いた棚田でしたので、日当たりは良くなかったはずです。しかし、戦後の食糧難の時代にやむなく切り開かれたようです。
今の日本は先進国で一番食料自給率が悪いとのことです。将来何かあった時、いくらお金を積んでも買えないことがありえます。大丈夫なのかと心配になります。
秋晴れの中、海岸線から歩いて銭壺山の頂上に到着
さて、銭壺山頂上に向かって舗装道路を延々と登り続けました。車から降りて咲いたコスモスを鑑賞する人や景色を堪能する人達とすれ違いました。由宇歴史民俗資料館のある海岸線から、歩いて頂上まで登る人は今やまれのようです。かつては神代から銭壺山頂上に歩いて登り、反対側の日積の八朔踊りのお祭りに行く人々が多かったと聞きます。今の人は、昔に比べて足腰が弱いように思えます。
途中で放牧牛を見学 黄幡神社の石鳥居 ふれあいパークを横切る
大畑を過ぎて海側を見下ろしていると、下見時にはいなかった放牧牛10頭以上が群れていました。棚田跡を利用して放牧しているようです。棚田が自然の柵になっているのではないかと思います。さらに登っていると、黄幡神社が見えてきました。この付近は大幡地区と言うそうですが、かつては春と秋にお祭りが行われていたそうです。昔、社殿が焼けてしまって再建されなかったようです。
広島や岩国方面を見下ろす 眼下に日積を見下ろす
黄幡神社で小休止後、さらに道を登り続けました。汗ばみながらしばらく歩くと、右手にふれあいパークが見えてきました。ここは由宇青少年の家も兼ねた県の施設のようです。宿泊することもでき、陶芸などの研修を受けることもできます。ここまで来ると、もうすぐ銭壺山頂上です。ふれあいパーマから30分位歩いて、ようやく銭壺山に到着しました。ここからは、岩国,広島,周防大島,日積,そしてかすかに四国を遠望することができます。
銭壺山に至る史跡巡りウォーキングのコース
今年もタマネギの種まきをして育苗していますが、台風などの被害で苗の数がだいぶ減りそうです。そのため、園芸店に並んでいたタマネギの苗を購入しました。購入したのは、赤タマネギと早生タマネギです。それぞれ50個ほどです。家に帰ると、すぐに畑を耕して黒マルチをするなどしてタマネギ畑を作りました。そして、購入したタマネギの苗を植え付けしました。後日、育苗中のタマネギの苗を近くに植え付けます。
タマネギ用の畝を作った後、購入した苗を植え付け
今年はタマネギ畑を一番日当たりが良い場所に変更しました。我家の畑は東側,南側,そして西側が木々に囲まれています。そのため、太陽が低い冬はどうしても日当たりが悪くなります。そのため、10分でも日当たりが多い場所にしました。来春その成果が出るでしょうか。
耕運機で畑を耕す 畝を鞍型に整形 黒マルチを被覆
タマネギを育てる上で一番苦労するのは収穫する時です。よく茎が黄色くなり倒れたら収穫時期との説明がよくあります。しかし、私は茎の先端が黄色くなったら収穫します。倒れた頃に収穫すると、乾燥が進まず吊るしている間に腐ってしまうことがあるのです。また、扇風機を使ってでも強制乾燥させた方が良い時もあります。。農法は気候,日当たり,天候,肥料分,畑の場所などによって変わるのです。教科書はあくまで参考で、自分なりに工夫することが肝要だと思っています。
黒マルチの端を固定 タマネギの苗を植え付け完
JR神代駅からバスで10分くらい揺られていると、由宇歴史民俗資料館に着きました。下見の時と同じように、入場料を払って入館しました。この資料館は下見で見学しているため、それほど長居することなく外に出ました。この資料館は船の形をしています。造船所など船に関わる会社が多くあったため船の形にしたのかも知れません。ちなみに田布施町郷土館はNTTに建物を借りています。そのため毎年家賃を払っています。しかし、由宇歴史民俗資料館の建物は由宇町(今は岩国市)が所有しているのだと思います。
山陽本線を跨いで、水路の取水口側に向かう
さて、由宇歴史民俗資料館を出ると、国道188号線を渡り山陽本線の海側沿いを水路・水車史跡に向かって歩きました。この周辺は山陽本線がほぼ直線に走っています。10分位山陽本線沿いに歩くと、水路・水車史跡に到着しました。この史跡は、山陽本線の海側からいったん水路の水が線路下に約4m降りて、再び線路から水が4m上昇します。そして、山陽本線の海側の田んぼに流れ出す仕組みになっています。いわゆるサイホンの原理を使って水路の水が下降と上昇します。水車はありませんが、水路は今でも田植えのシーズンに使われています。昭和30年代にあった水車は粉ひきなどに使われていたそうです。
由宇歴史民俗資料館 造船に関わる資料 山陽本線沿いに歩く
水路・水車史跡を見終わると、銭壺山方面から流れ落ちる急な川に沿って道を登りました。川の両サイドには棚田跡がたくさんありました。昭和30年頃まではどの棚田でも稲を作っていたのではないかと思います。当時の農作業の賑やかな様子が目に浮かびます。昭和30年代、子供だった私も田植えや稲刈りを手伝っていました。稲刈りした稲束を、小さな手で掴めませんでした。そのため、歯がゆい思いをしたことを覚えています。
線路下から上昇した水の出口 線路下に水が下降する水路の入口
さらに川沿いの道を登っていると、サツマイモを掘っている方々や草刈りをしている方々がいました。健康のため、運動のため、癒しのため、美味しい空気を吸うため、ここで野良仕事を楽しんでいる方々のようでした。仕事としての農業は過酷ですが、今は息抜きとして農業をしている方が多いようです。私もその一人で、自分で作った作物や果物を食べる幸せを満喫しています。
銭壺山に至る史跡巡りウォーキングのコース
先日、Yさんが3糸式ロックミシンを持って郷土館に来られました。100Vの電源を入れても動かないそうです。修理した私の2糸式ロックミシンを郷土館に置いていました。そのロックミシンと電源コードを相互に繋ぎ変えたりして故障かどうか判別しました。すると、3糸式ロックミシンの電源コードは異常がないことが分かりました。つまり3糸式ロックミシン本体の故障であることが分かりました。
そのため、私の2糸式ロックミシンをYさんにお貸しして、その間故障した3糸式ロックミシンを修理することにしました。モーターが故障しているようでした。モーターで一番多い故障はブラシの摩耗です。それを念頭にモーターを分解してみました。
分解したモーターの電極とブラシ、すごい摩耗
故障したモーターを分解するため、モーターをロックミシン本体から取り外しました。最初に、モーターに電気を繋ぐソケットを取り外しました。次に、モーターを本体に固定しているネギ2個を外しました。すると、ポロリとモーターが外れました。故障の原因で一番多いブラシ二個を取り外してみました。すると、ブラシがかなり摩耗しているように見えました。でも、まだぎりぎり使えるようにも見えました。
ソケットを取り外す 取り付けネジを外す ブラシを取り外し
次にモーター自身を分解してみました。すると、回転子の電極が醜い事。ブラシの摩耗片で黒く汚れていました。また、電極に段付きがありました。このロックミシンはだいぶ長い間使われたようです。電極が摩耗して段付きができていました。後日、細かい紙やすりで電極の汚れを取ることにしました。そうすれば、電気の流れが良くなりモーターが生き返ると思います。
段付きし黒く汚れた回転子の電極 修理中の3糸式ロックミシン
下見で訪れた銭壺山周辺の史跡に行ってきました。舗装道路を延々と単調に登るためか、参加人数がいつもより少ない史跡巡りウォーキングでした。それでも、好天に恵まれしかも涼しい風に恵まれて楽しいウォーキングとなりました。まずは、JR神代駅に到着すると、登り側ホームにある歌碑を訪れました。しかしながら、草が下見時よりもさらに茂っていたため詩を読むことができませんでした。草が枯れる冬に訪れることができれば読むことができると思います。ところで、改札を出ると参加者の一人が待っていました。一つ前の電車でJR神代駅に到着したとのことでした。
我々以外は誰も降りなかった無人駅のJR神代駅
JR神代駅は、昭和のひなびた駅舎です。こじんまりとした駅舎内は、だいぶ前から無人駅だったそうです。そもそも、明治時代に山陽本線が開通した時はまだ駅が無かったそうです。そのため、JR大畠駅の次はJR由宇駅だったのでしょう。その後の辛抱強い陳情によって、昭和になってから駅ができたそうです。
JR神代駅で降車 草に埋もれた歌碑 高架より南側を見て
JR神代駅でバスに乗りますが、だいぶ待たなければなりません。待つ間、近くの史跡を散策しました。それは石に刻まれたお地蔵様と祠と思える石です。また、石の欠片も集められていました。近所に誰もいなかったため、このお地蔵様などの由来を聞くことができませんでした。
お地蔵様や石の欠片の数々 しばらく待ってバスに乗る
何故だか分かりませんが、私が子供の頃よく神代にきました。亡き父親のバイクに乗って来ていました。砂浜にある造船所によく行きました。その造船所で作った船の進水式を今でも覚えています。父親の友達が神代に住んでいたのでしょう。面白いことに、我家に今ある牛小屋は神代にあった造船所を移築(昭和30年代後半)したものです。
昭和30年代初期、父親は先進的な機械化農業を推進していました。その様子が新聞などに紹介されていました。そのため、機械化農業を学ぶため遠くは岐阜県から高校生が研修に来ていました。そして、神代からも高校生が我家に習いに来ていました。
銭壺山に至る史跡巡りウォーキングのコース
遠心クラッチが固着した草刈機をしばらくぶりに修理しています。今回は、問題のある遠心クラッチを取り出してみました。取り出すためには、遠心クラッチを固定している二個のネジを取り外さなければなりません。ところが、一個は何とか取り外すことができましたが、もう一個のネジは完全に固着してネジを緩めることができません。やむなく、工具箱からインパクトドライバーを取り出して緩めることにしました。効果抜群でネジを緩めることができました。しかし、緩める時に遠心クラッチが暴れて指を怪我してしまいました。
インパクトドライバーを使ってようやく取り外した遠心クラッチ
取り外したネジを観察すると、長年の草刈機使用によってネジの潤滑性が失われていました。遠心クラッチのパッド屑が付着したうえに焼き付いて固着したのではないかと思います。新品のネジを交換すると費用がかさみます。ネジを紙やすりで磨いて径を小さくしようと思います。
シャフト類を取り外す インパクトドライバー 〇:固着したネジ
取り外した遠心クラッチをよく観察しました。特にパッドが摩耗していないか観察しました。すると、ギリギリ1mmは残っているため問題ないようです。それ以上摩耗していれば、新品の遠心クラッチを購入せざるをえません。遠心クラッチはそのまま使うことにしました。気の長い修理となりそうです。
ぎりぎり1mm残ったパッド 片方もぎりぎり1mm残ったパッド
採石場からしばらくして鹿野に着きました。当初、漢陽寺や水車などを見学する予定でした。しかし、ふれあいプラザ須金やかいたファームで楽しく過ごしたため、あまり時間が残っていませんでした。漢陽寺などは何度か来たため、農家レストランたぬきに行くことにしました。初めて行く農家レストランです。
昼までに予約しておけば和食を頼めましたが、午後予約したためお蕎麦だけとなりました。室内はログハウス風で、レストランの周りにはたくさんの木々やハーブなどが植えてありました。巣箱が一つ樹にかけてありました。秋を感じながら落ち着いて食事することができました。
落ち着いた自然に囲まれた農家レストランたぬき
初めて訪れた農家レストランたぬき、農作業小屋を古民家風に改造してレストランにしたとのことです。レストランの周りにある畑で栽培した野菜、お茶の葉を採取して作った紅茶など、季節の感じさせる自家製和食が自慢のようです。少人数が、落ち着いた雰囲気で食事することができるレストランでした。あらかじめ予約した方が良いでしょう。ところで、調理をする方の体調不良で、開店記念日の2006年11月3日に合わせ、15年後の今年11月3日にお店を閉じるそうです。残念ですが仕方ありません。閉店前に行けて良かったです。
落ち着いた雰囲気 お蕎麦をいただく 展示の鹿野ほぼろ
席に座って周りを見ていると、農機具がいくつか壁に飾ってあることに気が付きました。牛が引く鋤,背負い籠,石油ランプなど懐かしい物ばかりです。それらの中で、目が点になった農具がありました。それはほぼろです。ほぼろとは、この春に私が講習会を開いて作り方を教えたワラ細工の籠のことです。鹿野のほぼろは紐に特徴がありました。背中に背負えるように工夫されていました。早速ですが同じものを作ってみようと思います。この農家レストランを訪れて、私の一番の収穫でした。
美味しそうな各種創作パン 二階は猫ちゃんの写真館
食事が終わると外に出て秋の風情を楽しみました。クルミを拾ったり、秋の花を愛でたりしました。そして、近くにある古民家風の子たぬきのパンのお店に寄りました。お店の奥にはピザ窯のようなパンを焼く窯がありました。山口産の小麦、鹿野の食材、そして山口県の薪を使って焼いているそうです。いろいろな形にアレンジした創作パンが並んでいました。さっそく購入しました。ところで、二階には猫の写真集が展示されていました。鹿野を楽しむと一路田布施に帰りました。参加された方々、お疲れさまでした。
訪れた須金フルーツランドや鹿野周辺
時期遅れの10月中旬、須金フルーツランドと鹿野方面の散策に行ってきました。ブドウなどの果物はもう買えないだろうと思っていました。ですが、ふれあいプラザ須金にかいたファームコーナーがありピオーネが置いてありました。即刻購入しました。
須金フルーツランドに来た理由は、かいたファームさんの羊に一年ぶりに会うためです。10月上旬に閉園とのことでしたが、たまたまご主人が草刈りをしておられました。ご厚意により羊さんに会うことができました。ありがとうございました。ところが、つい一週間ほど前に羊さんに悲しいことがあり、今はきなこ一頭だけとのこと。仔細を聞いて悲しくなりました。かいたファームを去る時、きなこがべーべーと悲しそうに鳴いていたのが耳に残ります。
一頭だけになった羊のきなこちゃんを見つめて
実は、かいたファームさんには誰もいないのではないかと思っていました。そのため、羊さんを遠目に見るだけにしようと思っていました。ところが、ご主人がおられた上にご厚意もあり、ブドウ園の扉を開けていただき羊さんを一年ぶりに見ました。その扉は新しくなっており、上に電線が通っていました。お聞きすると猿除けとのこと。猿は柵に登って侵入してきますから。また、一部に自動の草刈機を導入したそうです。家庭用のルンバのような機械なのでしょう。省力化のための機械のようです。
ふれあいプラザ須金 かいたファームコーナー 果物外の商品も物色
羊のきなこちゃんを見ながら、ご主人にブドウ園の経営などについてお聞きしました。その時、私が子供の頃に家が酪農を経営していたことをお話しました。父親が乳牛1頭から始めた酪農は、最後30頭位にまでに規模を拡大しました。当時、子供の私はいやいやながらも乳牛の世話をしていました。
ところが、経営拡大すると人を雇ったり機械化したりせざるを得ず、経費が収入を恒常的に上回るようになりました。そこで、酪農を続けるか止めるかで家族内で葛藤がありました。経営を続けるために農協に出資依頼した人もいたようですが、酪農失敗で財産を全て取られた人がいたと聞きました。我家は早めに酪農から撤退しました。傷口が広がらなくて良かったと思います。
かいたファームに到着 一人ぼっちのきなこちゃん
お米や牛乳は、どうあがいても単価(米価や乳価)を上げることが難しいのです。そのため、規模を拡大しないと経営がなりたちません。ところが、牛乳でも単価が高いジャージー種に転換した上で、より単価が高いアイスクリームに転換した牧場主に成功した方がいます。須金フルーツランドは、先人の苦労の上でブドウや梨などの品種改良したりブランド化したことで、単価向上を図り生き残ることができたのではないかと思います。
これらのことは日本全体に言えると思います。単価引き下げだけでは必ず大手企業に負けてしまいます。スイスの時計やフランスのワインのように、ブランド化が生き残る方法の一つだと思います。例えば、時計の機能だけならば100円ショップの腕時計で十分です。しかし、30万円の腕時計はもはやブランドの塊で宝石です。
鹿野に行く途中、採石場を見学 ダンプの動きや砕石を見学
かいたファームさんを出ると、鹿野方面に向かいました。舗装されているものの狭い山道を通りました。採石場から出入りする大型トラックと時々すれ違いヒヤヒヤしました。その採石場で車を止めて、巨大な働く車を見学しました。専用の巨大なダンプが200m位の高さの山頂まで急坂を登っていました。その他に、シャベルカーなどの車がせわしなく行き来していました。その後、両側の山が迫るような山道をしばらく走っていると鹿野に着きました。
訪れた須金フルーツランドや鹿野周辺