去年の秋、それまで鈴木牧場の軒下に保管していたディーゼルエンジン耕運機を出して畑で使いました。畑の耕運,脱穀,そしてワラ切りなどに使いました。今回そのディーゼルエンジン耕運機を鈴木牧場の軒下に再び格納しました。
去年の秋、大活躍の古いディーゼルエンジン耕運機
去年中に格納する予定でしたが、燃料である軽油を通す給油管にひび割れが発生してしまいました。このため燃料が漏れてしまう故障になってしまいました。この故障のためしばらくエンジンを動かせない事態になってしまいました。
舗装道を鈴木牧場に向かう 途中の馬頭観音
この燃料パイプの修理などの理由のため耕運機の格納が今年に延びてしまいました。久しぶりに軽油を燃料タンクに入れてエンジンを動かしました。見掛けはさび付いたおんぼろの耕運機ですがバリバリに現役で農作業できます。今年も使い続けたいと思います。
格納した鈴木牧場の軒下
去年東京薬科大学生からいただいたもち米の籾摺りと精米をしました。このもち米は、去年の学園祭以降に脱穀したもので余ったお米とのことです。一昨年の学園祭(東薬祭り)の後も、余ったもち米をいただきました。精米したもち米は、小学校で使ってもらうか仲間で分け合おうと思います。
使用した精米機、右の袋に籾、左の袋に玄米
籾が十分に乾燥されていないと、籾摺機内で詰まったりしてなかなか作業がはかどりません。しかし、ほど良く干されていたため快調に籾摺りできました。大量に排出される籾殻は今回採取しませんでした。少しもったいないのですが。
ほど良く乾燥された籾 排出された玄米
今後籾摺り精米するお米はまだたくさん残っています。古代米とうるち米です。このうち古代米はあまり美味しくありません。パサパサしているので普通のお米に混ぜて赤飯のようにして食べるしか方法がありません。古代米だけでは少々食べにくいです。ただし、精米して糠を取ると白米のように白くなります。また、もち質のため、おもちのようにして食べるとよいかも知れません。
籾を籾摺機の受け口に搬入
籾摺りが終わると、次に精米をしました。精米機の上部にもち米の玄米を入れます。そして、精白度を設定して少しずつ玄米を落とすと、精米された白米が下に落ちます。
精米機、上に玄米を入れると下の袋に白米が落下
今回の精白度は90%にしました。白度が落ちるため真っ白にはなりませんが、胚芽が少し残って栄養が残ると思います。玄米を精米機に入れた後、精白が完了するまで20分程度時間がかかります。
搬入したもち米の玄米 精白される間、周りを散策
使った精米機は家庭のものらしく完了するまで時間がかかります。その間、気分転換に鈴木牧場周りの畑を散策しました。とても天気が良くのんびり散策しました。この畑でかつてサツマイモや小麦などを作ったことがありました。精米が完了すると、家に持って帰って保管しました。
精米されて白くなったもち米は下の紙袋に排出
偶然レンコンの根塊を入手することができたので、その栽培に挑戦してみることにしました。ただ、いつ根塊を植えつけるのか、深さはどれくらいかなど、さっぱり分かりません。そもそも田んぼで栽培できるのかも分かりません。家の中に根塊を置いても仕方がないため、さっそく水はけが悪い田んぼを使って植えてみることにしました。
レンコンの根塊を植えつける
植えると言っても、氷がはるような水面に置くのは明らかに間違いと思われたため泥中深さ10cm位に埋め込みました。まだまだ寒い季節なので、5月頃にならないと芽が出るかどうか分かりません。私が子供の頃に、父親が池でレンコンを作っていたのですがその手伝いをしたことはありません。このため、まったくの知識ゼロからのスタートです。
レンコンの根塊を持つMさん 約10cmの深さに植えつけ
まずは芽が出ることを祈ります。もし出なかったら、栽培方法を研究の上でちゃんとした根塊を買って、来年もう一度挑戦してみようと思います。レンコンの根もおいしいですが、種子も独特の味がとても美味しいものです。あの味をもう一度味わいたいと思います。
根塊の位置が分かるよう棒を差し、水が抜けないように畦を作る
山頂から柳井方面を見て 山頂から田布施町を見て
登るルートにはいくつかありますが、私が子供の頃から一番多く使った田布施の宿井からのルートを使いました。舗装されて車でも登れます。しかし、昔に比べて展望がよくありません。特に竹が茂っていました。山頂に着くと案内図を見ました。
山頂を囲む古代城壁を示す案内図
最初に行った城壁は南水門です。子供の頃には立派な水門が存在していましたが、土砂ですっかり埋まってしまいました。建設されてから千数百年以上も経っているため崩れていくのは仕方がないのかも知れません。ちゃんと保存活動をしないと数十年後にはすっかり埋まって城壁の跡さえ分からなくなると思います。
土砂ですっかり埋まってしまった南水門
続いて、戊辰戦争の頃に活躍した騎兵隊の駐屯地跡を抜けて山の西側に向かいました。そして、城壁に沿うハイキングコースを歩きました。この城壁は歴史上全く知られておらず、九州のある地域の同じような古代城壁を神籠石と呼んでいたのをそのまま使って神籠石と呼ぶようになったそうです。あまりに古い建築物のため、昔の人が神と結びつけたのでしょう。
山頂西側の城壁跡 山頂から光市方面を見て
この山頂は光市(以前は大和村)に含まれているようです。二年前に神籠石サミットが行われたとの碑が立っていました。昔も今も古代のロマンを探す人達がいるのですね。
三段構造の城壁の跡、西水門
この山頂から見下ろす田布施方面は、古代には海が広がっており朝鮮半島と大和を結ぶ海の要所だったようです。古墳もたくさん残っています。女性が葬られた古墳が有名です。万葉集にも歌われていて古代には重要な地域だったのでしょう。
北水門がある城壁跡
南、西、北、東とそれぞれ水門と呼ばれる立派な石組みが見られます。しかし、それは現代人がそう呼んでいるだけで、何の目的でこのような構造になっているのかは知られていません。この古代山城自体が十分に目的を達成しないうちに廃されてしまったからでしょう。
立派な石組みの北水門
この古代山城が作られたのは、古代朝鮮で高句麗,新羅,百済との間で抗争が繰り返されていた時代のようです。私の歴史感では、特に白村江の戦いで倭が敗れた直後が可能性として高いと思われます。九州地域に防衛としての山城がたくさん築かれたようですので。当時は唐から攻められる可能性があったのでしょうから。
長辺約1.5mの長方形の石 北水門から延々と続く石積み
城壁の石積みの方法や東西南北に水門があるなど、城壁の作り方が古代朝鮮との共通性があるとのことです。そもそも古代においてはまだ、国家と呼ばれるような概念がなく朝鮮と自由な交流があったようです。朝鮮から移り住むことさえ、今の概念では移民ですが当時は単に移住だったのでしょう。今で、九州から北海道に移り住むような感覚ではなかったかと思います。
埋まってしまった城壁の上にある北門の跡
今からでは想像するしかありませんが、延々と続く石積みの上には版築と呼ばれる土木方法で土で積み上げられていたそうです。中国の万里の長城も同じ方法で作られているとのことで、古代中国の工法が朝鮮を経て伝わったのでしょう。どんな人が作ったのかと思います。当時の支配階級の人たちは文字も使えたでしょうから、この古代山城のどこかに文字を残してくれたら今の私達に役立ったのにと思います。
北門から延々と続く石積み きれいに並んだ白い石積み
北門をさらに進むと、東水門とそれを囲む城壁跡に着きます。この古代山城跡では一番大規模な城壁跡です。古代人達がどんな思いで作ったのかと思います。付近にたくさんある岩から城壁に使う石を選び,運び,積み上げる。たいした道具もない時代に大変な苦労があったはずです。
精密に積み上げられた石 城壁中心直下に東水門の穴
子供の頃、今では土砂で埋まってしまった南水門の中に入ったことがあります。暗く2,3m入っただけで怖くなり引き返しました。南水門が一番大きかったように思いますが、埋まってしまった今では確かめようがありません。東水門はやや小ぶりの水門です。水門と言いながら水は出ていません。城壁はだいたい谷に作られているので、単に水抜き穴だったのかも知れません。
水が流れていない東水門、大きな石で構築
東水門を抜けるとぱったりと石積みが無くなります。本当に無いのか、埋まったままになって発見されていないのかよく分かりません。案内図では東門があるようですが、まだ発掘されていないのでしょう。文献が全く無いので、この古代山城が何のために作られたのか、どんな人が作ったのか今では全くの謎です。建築途中で廃棄になったのかも知れません。当時この地域の人たちには相当の負担だったことでしょう。
朝鮮半島が新羅によって統一されると、それまでのように朝鮮半島との自由な交流が途絶えます。以降、朝鮮半島と交流が深かった九州やこの地域を含む中国地方もだんだんと大和の中央集権に取り込まれてしまい地盤沈下していったのではないかと私的に思っています。
唯一、舗装道路と交差する石積み
田舎に帰ってから三日目、今日は久しぶりに千坊山にバイクで行ってみました。田布施の麻里府方面からバイクで上りました。この山はその昔、山頂にお坊さんが住む寺や宿坊がたくさんあったそうです。火事で焼けてから再建されず、今のような荒れ果てた山になったそうです。
麻里府方面から千坊山に向かう尾根道
千坊山は高校時代にハイキングで、西田布施の国木あたりから歩いて登ったことがあります。そのころは、道も整備されされておらず一部獣道のような道を歩きました。しかし、山頂に登って見た周防灘は絶景でした。
東側に見える田布施,柳井方面、古代は海が入り込んでいた
数年ぶりに千坊山に登ってみましたが、木々が茂って以前のようには展望はよくありませんでした。東を向くとわずかに田布施や柳井方面が見下ろせました。
千坊山の山頂には特に何もなく、のどかな草地のみ
西方面を向くと眼下に広い瀬戸内海と、その中に突き出すように光市の象鼻ヶ崎が見下ろせました。さらにその向こうには、祝島などが見え、さらにその向こうには九州の国東半島がかすかに見えました。この海域は、古代に朝鮮半島と大和を結ぶ重要な通商交易路だったとのこと。
展望台から光市の象鼻ヶ崎を見下ろして
東に見える田布施町と、光市の境界には神籠石で囲まれた岩城山(古代山城)があります。また、田布施や平生付近にはたくさんの古墳があります。古代においては重要な地域だったと思われます。万葉集にもこの地域を通ったときに読んだ歌があるようです。
千坊山直下の海水浴場の波打ち際
田舎に帰って二日目の16日、今回は小学校同窓会の打ち合わせに平生ジョイフルに集まりました。会場を田布施の商工会議所に決めたり、同窓生の住所の確認などをしました。その後、昔過ごした平生や田布施の周りをバイクで散策して家に帰りました。帰ると父親が、秋にもらってきた籾殻で燻炭を作っていました。
燻炭を作っている父親
燻炭を作るとき、最初に間を空けた二枚のレンガの上に土管を立てます。そして、二枚のレンガの間に火をおこします。火が燃え上がると火を覆うように土管の周りに籾殻を積み上げます。燻炭を作るうえで難しいのは、空気を入れすぎると炭ではなく灰になってしまいます。今では専用の燻炭をつくる器具を売っているようですが、父親は昔ながらの方法で燻炭作りをしています。出来上がった燻炭は野菜などの苗作りなどに重宝します。
出来上がった燻炭の熱をさましてかき集める
蝋梅(ロウバイ)が満開です。梅の花が咲くにはまだ早い時期ですが、蝋梅が黄色の花を咲かせています。今の時期、他には花が咲いていないためとても目立ちます。この花が咲くと、次に福寿草が咲いて、その次には梅が咲いて・・・等、どんどん春が近づいてきます。
満開の蝋梅(ロウバイ)の花々
新幹線車窓から富士山と丹沢山を 降り立ったJR田布施駅
田布施駅を降りると駅から300m位先にあるコンビニに寄って、明日の同窓会打ち合わせで使う資料を人数分コピーしました。コンビニに入って、流れる音楽や品揃えなど東京のコンビニとまったく同じです。社会のグローバル化はいやがおうでも、都会と田舎の差をなくすようです。故郷色がないのはちょっぴり悲しいことです。ただ、店員や客がかわす方言が懐かしく感じます。毎回のことではありますが、この方言を聞いていると故郷に帰った気持ちがします。
関戸橋から下流に見える大星山を見て
しばらく歩くと田布施川のたもとに着きます。関戸橋から下流を見ると大星山が見えました。山頂や尾根に7基の発電用大型風車を見ることができました。家に着くと一休みして、チェーンソーを片手に父親と山にでかけました。そして、しいたけの原木作りをしました。去年もしいたけの原木作りをしました。2本のクヌギの幹を約1mごとに切って10本くらいの原木を作りました。原木を作った後、帰省の疲れをいやすため寝ました。
クヌギの幹を約1mごとに切ったしいたけの原木
夕方から仕事のため、昼間に畑に行って耕運しました。快晴にもかかわらず風が冷たく寒さに震えながらの作業でした。今回耕運した場所は去年のらぼう菜を移植するために耕運した場所です。去年は12月始めの耕運でしたので、のらぼう菜を移植できました。今回は真冬のため、春になってから種を蒔くか移植する予定です。
コバルトブルーの青空の下、寒風にさらされた耕運作業
眼下に田んぼを見下ろしながらの耕運作業です。田んぼから吹き上げる寒風が強くて何度も転びそうになりながら作業しました。耕運した場所に何を植えるかはまだ決めていません。真冬の今は種を蒔いても発芽しないので、春になったら考えようと思います。
眼下は水を浸した冬水田んぼ
久しぶりの休みを利用して畑の一角を整理しました。整理した箇所は以前から堆肥を作る場所として使っていました。8年前に堆肥場を作り、それ以降落ち葉を集めて、その落ち葉と牛糞などを混ぜるなどして堆肥を作りました。途中カブトムシの幼虫が発生したこともありました。しかしながら、年数が経つうちに堆肥を囲む板が腐ってしまいました。このため、堆肥場の境目が分からなくなるにつれて、収穫物の残渣を捨てる場所になってしまいました。この残渣捨て場を今回整理してあらたな畑にしました。
溜まった野菜や麦などの残渣を熊手でかき集める
溜まった残渣は半分腐った状態になっていました。この残渣類を集めて田んぼに蒔く予定です。腐った残渣類は水が貯まった田んぼでさらに腐らせて肥料代わりにします。代かきをする6月頃には腐ってとろとろ状になります。
残渣類を積み上げ 残渣類を出した後、さらに除草
残渣類を持ち出した後、草や笹が生えている箇所を何箇所かありました。その箇所を草刈機できれいに刈りました。草を刈ると一面が平らになります。次に耕運機で耕しました。もともと堆肥場にしていたためか、耕した土はふかふかしています。春夏野菜を植えるには最適です。
耕運機で耕すと一面ふかふかの土
耕運機で耕すと笹の根や茎が少し出てきました。その茎や根を手で取り除くと畝の出来上がりです。まだ寒いので種は蒔けません。葉物野菜の種を蒔こうか、かぼちゃなどの実物野菜の種を蒔こうか、考えるだけで楽しくなります。暖かい日差しに囲まれて軽く汗を流した一日でした。
春先にどんな野菜の種を蒔こうか、考えるだけで楽しみな新畑
昨日は高幡不動尊に初詣に行きましたが、今日は昼から今年初めての農作業を軽くしました。最初、農作業小屋に行って着替えました。そして、去年活躍した何台かの耕運機の調子を見ました。燃料コックをひねって残っているガソリンを少しばかり出して始動してみました。農機具は使っていない期間にも時々動かす必要があります。農機具の点検後は11月末に種蒔きした麦を踏みました。
静かな畑でのんびりと麦ふみ
子供の頃、冬の風物詩は麦ふみです。霜がおりて凍った麦畑を、白い息を出しながら麦ふみをしている人がたくさんいました。私が小学生の頃、毎日のように麦ふみの光景を見ながら通学していました。当時は、二毛作が中心でしたので、同じ田んぼで夏は稲作を、冬は麦作またはソラマメ作りをしている人が多かったように思います。
足を踏み鳴らしながら麦を踏む 麦は順調に生育
ほぼ毎年、お正月は山口県の実家で過ごしてきました。しかしながら、今年は元旦が仕事だったため帰省がずれることになりました。帰省は15日です。今日は仕事が休みのため数年ぶりに高幡不動尊に初詣しました。さすがに今日は混んでいました。参拝客の渦が境内にできていました。
境内の中は、人の渦で身動きとれず
高幡不動尊は歴史がとても古く、江戸時代末期には新撰組の隊士達も参拝したとのこと。新撰組隊士のほとんどは、この高幡不動尊がある日野市出身です。境内には新撰組の像も立っています。
ふだんは静かな五重塔の下 出店が立ち並び喧騒
せっかくお参りに来たので、お賽銭を入れようとしましたが、人の渦でなかなかできません。それでも辛抱強く並んでいると、だんだんに人に押されて賽銭箱前にきました。すかさず賽銭を投げ入れてお祈りをしました。今年はどんな年になるやら。
賽銭箱近くから後ろを振り返って、参拝客の渦
お祈りを済ませた後、裏山のハイキングコースを歩いてみました。ここまで来ると人々の喧騒も静かになります。八十八箇所巡りの一部を、木漏れ日をあびながらのんびりと歩いてみました。やや汗ばみながら、整備された山道を上り下りしました。
喧騒の高幡不動尊を下に見て 最後の八十八箇所目